庚申塔とその様式                                                まとめ目次へ
庚申塔
一回(普通3年)の庚申講が無事終了した事を記念して建てる供養塔が庚申塔である。
関東では石塔を建てるが、近畿地方にはほとんど残ってない。石塔という規定はないので、木製の塔婆で済ませたのかも知れない。

庚申塔の形式は規定されていない。六角塔、尖塔などの変わった形式もありもあり、塔を建てる代わりに橋を造ったり神社の階段を修理したりする例もある。
庚申塔の主尊
庚申の神様である青面金剛が圧倒的に多い(後述)が、それ以外の神仏を彫ったものも多い。
地蔵庚申、阿弥陀庚申、正観音庚申が多い。やや珍しいものに不動明王、大日如来、帝釈天などがある。
神道系の庚申では「猿田彦大神」。
ほかに「庚申塔」「青面金剛」など文字塔、自然石庚申塔も多い。
三猿(猿)と鶏
庚申塔に三猿を彫る目的は、庚申塔であることが一目で分かるためであろう。たまに猿のない庚申塔に出会うことがあるが、その場合、碑文から「庚申供養・・」のような文字を探す必要がある。
江戸時代、漢字の読めない人の比率はずっと高かったから、一目で分かる「庚申の記号」として猿を彫っておくのが親切であろう。
普通のお地蔵様は、これから礼拝するために建てる。
一方地蔵庚申は、庚申の勤めが無事に終わったことの記念碑であり、建てた時点で役割が終わっている。
同じように見えてもおのずから扱いが異なる訳であり、識別のための記号が必要である。

初期の庚申塔 1猿と鶏
なぜ「庚申=猿」なのか   複数の説があり、まだ決まっていない。

1)「三猿=三尸虫」「見ざる聞かざる言わざる」のように「三猿」に結びつけた説は、多分「こじつけ」である。
初期の庚申塔は、三猿よりも二猿や一猿が多く、三猿である必要はない事がはっきりしているからである。

2) 「庚申は申の日の行事だから猿を彫る」というのが、もっとも単純明快な説明。

庚申塔には猿の他にを彫ったものも多く、「庚申は申から酉の日にかけての行事だから、猿と鶏を彫る」ということでまとめて説明出来る。
柳田国男もそう言っており、大畠もこの説で十分と思っているが、余りにも明快すぎるためか、次の山王説を支持する研究者が意外に多い。

3)「山王の猿」説
庚申の普及以前に山王信仰(日枝神社)があり、山王の使いが猿であった。庚申信仰と山王信仰には密接な関係があり、庚申の猿は山王の猿から来たという説である。

関東の庚申塔に「奉 山王二十一社」「奉 山王大権現」と彫られたものがかなりの数発見されており、山王と庚申信仰との関係を示す根拠とされている。烏帽子をかぶったり、御幣を担いだりする猿は山王猿のデザインである。
この説では「」も山王神社と関係があると説明されるが、説得力に乏しく、「鶏」についてはこじつけのような気がする。
青面金剛の形と持ち物

1)初期の青面金剛

江戸最古の青面金剛は寛文元年(1661)
初期の青面金剛の姿や持ち物は様々で、石工たちが青面金剛デザインの工夫を楽しんでいたようにさえ見える。

<石工の間のルールを想像すると>
青面金剛の姿は規定されていないので、自由に工夫してよい。ただし次の原則に従うこと。
○夜叉(鬼=褌)ではなく明王像 ○4手でなく6手(4手は悪鬼の時の姿) ○三面ではなく一面(正面=青面)


6手青面金剛の主な持ち物:
三叉戟と宝輪(シヴァ、マハーカーラ、儀軌)、弓と矢(日本の明王)、剣と羂索(不動明王)、金剛鈷/金剛鈴(金剛印)、合掌(印)、剣とショケラ(剣人型=お札や掛け軸)、ヘビ(儀軌、マハーカーラ)、棒(儀軌、シヴァのリンガ)・・・
などから自由に選んで組み合わせる。
2)標準型6手像
元禄頃から青面金剛のデザインが2種類の標準型に固定してくる。
  ○標準6手合掌型 
  ○標準6手剣人型
六手剣人型は、庚申の掛け軸やお札と同じデザインで、石仏以前から関西で普及していた。


ショケラ(髪を吊された半裸の女性)
ショケラは、三尸虫のことであり、髪を吊された女性は、青面金剛が三尸虫を征伐する姿を表現したもの。
●仏教の将軍マハーカーラが、ヒンズー教のシヴァ神(別名:商羯羅天)を征伐する姿を借りたものである。
●青面金剛の姿の原型はマハーカーラである。(詳細は別項。・・大畠:青面金剛進化論)
青面金剛像の成立(青面金剛進化論)
青面金剛=マハーカーラ説(大正)
蒙古のラマ僧が来日し、護国寺境内で青面金剛を見て、ラマ教のマハーカーラであると断じて譲らなかった。
この大正時代のエピソードの記録から、青面金剛=マハーカーラ説が存在していたが、研究フォローはされていない。蒙古のマハーカーラ図を取り寄せようとした人も居ないのは驚きである。
チベットのマハーカーラと「儀軌の青面金剛」の酷似
20年前から、チベットに旅行者が入れるようになり、チベット寺院(チベット仏教=ラマ教)の仏像が日本にも紹介されるようになった。

大畠は、チベット仏像の中でもっともポピュラーなマハーカーラ像が、「儀軌の青面金剛」の姿とそっくりであることを発見し、一連の青面金剛研究のきっかけとなった。
もちろん、マハーカーラと青面金剛の間には何のつながりもない。絵図だけが一人歩きして、中国に伝えられ、その外観から病を流行らせる悪鬼の姿と誤認されて「病気退散」の祈祷用に使われたものであろう。
(1)儀軌の青面金剛: 「儀軌」とは、仏像の礼拝の仕方を示すマニュアル。仏像の姿/形も記述してある。
陀羅尼集経九「大青面金剛呪法」という経典に青面金剛の姿が詳しく書かれている。(奈良時代に日本に移入)
「一身四手。左辺上手把三股叉。下手把棒。
右辺上手掌拈一輪。下手拈羂索。
其身青色。
面大張口。狗牙上出。眼赤如血。而有三眼。
頂戴髑髏。頭髪聳堅如火焔色。頂纏大蛇。
両膊各有倒懸一龍。龍頭相向。其像腰纏二大赤蛇。
両脚腕上亦大赤蛇。
所把棒上亦纏大蛇。虎皮縵胯。髑髏瓔珞。

像両脚下安各一鬼。
其像左右両辺各当作一青衣童子。髪髻両角手執香炉。
其像右辺作二薬叉。一赤一黄執刀執索。
其像左辺作二薬叉。一白一黒執銷執叉。
形像並皆甚可怖畏。手足並作薬叉手足其爪長利。
この青面金剛は、祈祷に使われた鬼の姿で、修行を積んだ高僧かプロの修験者しか扱えない「危険物」だった。
儀軌通りに作られた四手青面金剛(石仏)は少ないのが謎の一つとされているが、「病を流行らせる悪鬼」の姿と解釈されたためであろう。
(2)最古の青面金剛木像 平安時代 東大寺重文
<東大寺には国宝級の仏像が多く、重文程度の仏像は関心が薄い。わざわざ東大寺まで訪ねたのに、案内人も存在を知らず、結局見せてもらえなかったという人が多い。実は上野の国立博物館が常時預かっているらしく、時々展示される。筆者はこれまで偶然に二回見学出来た。
儀軌の青面金剛はプロの修験僧や行者しか扱うことが出来ない危険物である。素人が病魔退散を祈願できる穏やかな青面金剛(善神)が欲しいという需要に応えて仏師が工夫して作ったものが、この木像である。
(持ち物の大部分が失われており、復元が必要)
この時期、病を駆逐する明王で、まだ庚申とは無関係。
大畠説:五大明王の一つである金剛夜叉明王(三面五眼六手)<A>をベースに工夫した正面金剛夜叉明王(一面三眼六手)<B>
<A>:(剣、宝輪、弓と矢、金剛鈷と金剛鈴)剣を大きく振り上げて威嚇する動の像
<B>:(剣、宝輪、弓と矢、金剛鈷と金剛鈴)剣を下げ、鈴の音に聞き入る静の像
この像は一体だけでその後作られることがなかった。
「穏やかな青面金剛」という注文が優先したため、凶悪な病魔と対決するには穏やかすぎるなどの批判があり、改良され、更に合掌型に発展したものと思われる。
体に巻き付いたヘビは、青面金剛の特長だが、軍茶利明王の姿の一部から転用されている。
(3)最古の青面金剛掛け軸(四天王寺蔵)
<C:>(三叉戟、宝輪、弓と矢、金剛鈷と金剛鈴)
金剛鈷と金剛鈴は持ち物というよりも、道具を使った印(金剛印)である。これを石像にしやすい単純な合掌印に変えると標準合掌型が出来上がる。
(4)最古のショケラ掛け軸(奈良金輪院本尊)
本尊は儀軌に準ずるが、四夜叉のうち黒鬼がショケラを下げている。<C>と組み合わせて剣人型に変わったものと思われる。


マハーカーラについて
マハーカーラは、「大黒天」と訳されて,胎蔵界曼陀羅でも最外枠の「天部」に描かれるが、仏像研究の基本的な間違いである。(唐時代、密教が中国に入った当時からすでに間違っていたらしい。)

マハーカーラはヒンズー教のシヴァに対抗して作られた仏教の神(大将軍)であり、マハーカーラが発展して不動明王などの明王になったもので、明王の原型である。むしろ明王と呼んだ方がしっくりする。
そもそもの間違いは、中国で「白牛」を「山羊」と見誤った事から始まっている。
マハーカーラは宿敵ヒンズー教シヴァ神(大自在天)を打ち倒し、シヴァと白牛を両手に吊り下げている。。
シヴァは丸裸にされ、シヴァを示す物は何もないように見えるが、インドでは「シヴァ=白牛」の関係は常識なので、シヴァであることが一目瞭然である。
ところが中国では牛は黒いものと決まっているので、まず白牛を山羊と誤り、シヴァを餓鬼(墓場荒らしの鬼)とした結果、「仏教の大将軍」であるはずのマハーカーラが、「墓場のガードマン」扱いにされてしまった。
大畠説の根拠
●京都醍醐寺の降三世明王とマハーカーラの酷似
●大黒天の謎(謎解き)
  戦いの神が福の神に変わったのは何時/何故?
●大黒尊→大黒神→大黒天


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