石仏の受難                             まとめ目次へ
文明開化と廃仏棄却
明治の文明開化の時代、石仏は文明開化の正反対古い時代の「迷信」の代表として迫害された。当時の書生たちは高下駄で石仏を蹴飛ばして歩いたと言われる。
元町の権太坂上り口付近にある青面金剛は、ロケーションが良いのでよく写真に撮られるが、顔が摩滅して表情が分からなくなっている。よく見ると、顔以外の細かい模様や飾りははっきり残っており、雨風による浸食ではない。(とくに、三猿のバックに梨肌が残っている。梨肌は短期間でも雨ざらしにされると摩滅して消えてしまう。梨肌が残っているのは、この石仏が制作以来、ずっと屋内にあったことを示している。)
顔の摩滅は、恐らく蹴飛ばされた跡なのであろう。

(元町の青面金剛は、橘樹神社境内の青面金剛と同じ石工による同じ時期の作品で、較べると当時の表情が分かる。)
 

  元町 権太坂上り       天王町 橘樹神社 
明治の廃仏棄却
仏教寺院の中でも、特に修験道(山岳宗教)が目の敵にされた。相模大山や立山(富山)の仏教施設は、ずいぶん乱暴な目に合っている。
明治5年の修験廃止令で、外川神社の祭神が外川仙人から日本武尊に変わるという出来事があり、その際境内にあった羽黒三山の供養塔が外へ追い出されている(元町歩道橋)。

外川神社
明治9年の布令
路傍の石祠石仏を神社や寺院に集めるようにという布令が出た。
現在多くの石仏が神社寺院で見られるのはそのためである。この布令は石仏保存のために良かったかも知れぬ。
昭和10年頃、「神国日本」という雰囲気の中で、神聖な神社の境内から不浄な石仏を排除しようと言う運動が各地で起きたらしい。
現在でも、神社の敷地の一部をわざわざ塀で分割して石仏を置いてあるところがあり、当時の運動の名残であろう。橘樹神社の神田不動と庚申塔もこのとき別な場所に移転させられ、昭和44年になってようやく旧地に戻された。
戦後の土地開発
昭和30年代にブルトーザーを使った大規模開発が進み、多くの石仏が失われた。その後の大開発では、無雑作に捨てられるケースは少ないと思うが、工事関係者がどこと相談して良いか分からないケースもあるであろう。
また、どこかに保存されていても、石仏移転先や問合わせ先を登録するシステムがないため、事実上行方不明になり、失われたに等しいケースもある。

●清水ヶ丘の高速道路の建設で、弘明寺道の下り口を示す「供養塔」石碑を、道路工事完了後まで追跡確認してあったのだが、その後の第二次工事(マンション建設)で、結局行方不明になった。

●移設によって、石仏の風化が急速に進むケースがある。300年間屋外で何事もなく保ってきた石仏が、ほんの少し環境が変わっただけでたった10年でボロボロになってしまうことがある。
酸性雨/日当たりが良すぎる/苔で碑面が覆われる/
そのほか様々な要因があるようで、「石仏保存」の科学的研究はまったく進んでいない。

●石仏研究グループ、市町村の教育委員会などで石仏調査し一覧表を作る作業はよく行われる。文化財保護が目的だが、調査後のフォローは十分とは言えない。
昭和52年(1977)の横浜市教育委員会の調査で、橘樹神社の庚申塔が「横浜最古の青面金剛」であること旨の調査報告書が作られていた。ところが、16年後の平成5年(1993)時点で、管理者である橘樹神社の宮司はそのことをまったく聞かされていなかった。

●石名坂地蔵堂の石仏群は、数年前、雨で山の崖が押し出して石仏を押し倒し、ひどい状況になっていた。このように本格的な土木工事が必要な場合、一般には管理者が分からず、復旧予算の出所もなく、荒れるにまかせるしかない。(このケースでは、地主さんのご尽力で本格的な土止め工事をして頂き幸いだった。)


●「道しるべ」石碑は古道研究の重要な資料だが、場所が移動すると価値が激減する。少なくとも旧位置が正確に記録されていないと無意味になる。(鎌倉古道を示す道しるべが二三、最近行方不明になっている。)

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