青面金剛のデザイン                       まとめ目次へ
日本における青面金剛の歴史
●儀軌の青面金剛は、病を追い払う祈祷用の掛け軸に描かれた病魔の姿。(唐代→奈良時代) ―悪鬼
 −専門の行者/高僧しか扱えない「毒劇物」なみ
  <毒劇物取扱主任者−鍵のかかる倉庫>
●誰でも拝める穏やかな姿の青面金剛(病を駆逐する善神)が求められて、東大寺木像を作成(平安時代)。 
         ―善神青面金剛の始まり
※五大明王の一つ「金剛夜叉明王」(3面)を「正面金剛夜叉明王」として(1面)に直したもの。
○青面金剛はもと「病を流行らせる悪鬼」だが、改心して「病を駆逐する善神」に変わったとされる。
              (渓嵐拾葉集−南北朝時代)
○やがて庚申信仰が盛んになり、「三尸虫を封じ込める」→「力づくで病魔を駆逐してくれる神様」として、庚申の主尊に採用された。            (戦国時代〜)
青面金剛のデザイン(4手と6手) 

青面金剛のデザインは、時代が経つにつれて、元禄頃から6手合掌と6手剣人の二つの標準型(右図)に落ち着く.。

しかしそれ以前の初期段階では、非常にバリエーションが多い。
石工一人一人が、デザインを工夫していたように見える。
青面金剛の基本モデル
 @儀軌の4手青面金剛(唐代−奈良時代)
 A日本最古木像6手(平安時代後期 東大寺)とその改良型(金剛印、ショケラ)
石工たちは、このモデルの詳細をよく知っており部分的に取り入れてはいるが、モデル通りに作られたものはほとんどないのが不思議である。


青面金剛の基本ルール
初期の作品から推定して、石工の間に次のようなルールがあったらしいことが分かる。(青面金剛の細かいデザインは、施工主ではなく、石工の一存に委されていた。)
.青面金剛の様式は決まっていないので、上記二つのモデルA、Bを参考にして、自由にデザインしてよい。
.ただし、「青面金剛夜叉明王」のイメージで作る。デザインは自由だが、次のルールを守ること
  (1)夜叉(鬼)ではなく、明王(善神)の衣装とすること。
  (2)4手は悪鬼なので作らないこと。6手像とすること。
  (3)「青面=正面」なので、3面は作らないこと
以下実例でルールを確認
1.片手サル石工
延宝8年、湯河原出身のある石工が鎌倉付近に移住し、多くの青面金剛を作成した。三猿のデザインに特長があり、それを手がかりに全作品の一覧を作成した。初期の作品のデザインを順番に並べると、
 @      4手夜叉 延宝8年1月 (鬼のパンツ)
 ABCD 4手明王 延宝8年8月〜12月 (明王の衣装)
 EF    6手(放射状の手)明王 延宝9年〜 
 G以降   6手合掌型(標準) 翌々年〜 
田舎から出てきて、何も知らなかった石工が、少しづつ上記のルールの情報を入手していることが分かる。
2.神奈川の初期青面金剛一覧
一人の石工が短期間にまとめて4手像を作ったケースがいくつかある。それを除くとほとんどが6手である。
<神奈川の青面金剛一覧>
●三面像は2体あるだけ。(右図)

●橘樹神社(寛文9)より古い6手像が、相模原市田名町石神社に1基あるが、お粗末な像である。(左図)

◆本格的な6手像としては橘樹神社が神奈川最古と言ってよいだろう。
3.関東7県の初期青面金剛一覧 (資料略)
神奈川と同じ傾向が見られ、上記の6手ルールが、時代とともに浸透していく様子が分かる。
関東以外については、地方により、時代により石工のルールの普及に違いが見られる。

4.近畿地方(掛け軸、お札、大津絵)
本山の天王寺系が早くから6手像なので6手像が普及しているが、大津絵は一貫して儀軌の4手像である。
「4手はダメ」というルールはなかったのではないか。
5.国東半島(大分県)の青面金剛(インターネット) 4手と6手がほぼ同数。
 
以上から、4手青面金剛を避けるのは、関東地方だけのルールではないかと思われる。

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