保土ヶ谷の地名                      まとめ目次へ
地名の変遷
保土ヶ谷の地名は、江戸初期、江戸時代、明治、昭和15年の地名変更で大きく変わっている。
現在の地名で江戸時代の文献を読むと大変なミスが起きる。とくに帷子、神戸、星川、岩間、元町・・・・については注意が必要である。
(1)神明社の移転
江戸始めに神明社が桜ケ丘から現在地に移転。移転に伴って神戸の地名が移動。それまでは神戸は現在位置にはなかったから、吉田博士の「神戸=郡家説」はそれだけで破綻している。
(2)新町の形成
東海道新道沿いに4つの町が集まって新町を形成。
ただし各旧村部分の村名は、そのまま継続。武蔵国風土記稿の村毎に記述が旧村部分について欠けており、不自然である。
10年後、権太坂完成による元町の再移動。)
(3)明治の地名整理
帷子川北岸の旧帷子町は峰岡町に改訂。
(4)昭和15年の地名変更
桜ケ丘が独立。(旧上神戸+星川の半分)
このうち、「帷子」の地名については磯貝長吉「土に探す」で注意されており、知る人が多いが、その他についてはほとんどの人が知らない。

地名の大改訂が、保土ヶ谷区郷土史(S13)の発行直後の昭和15年に行われたことは不幸だった。昭和15年地名改定の記事が、保土ヶ谷郷土史のどこにも書いてないため、気が付かないのである。
昭和15年の地名改訂までは、江戸時代の地名がほぼそのまま伝わっている。江戸時代の文献を読むには、少なくとも昭和初期の地名を知っておく必要がある。
      →詳細を知りたい場合は、かながわ資料室で「土地宝典」(昭和初期の土地台帳)を調査すること。

江戸時代の町村図(保土ヶ谷区史)           昭和15年の地名改訂直前(保土ヶ谷ものがたり)
江戸時代の地名は、昭和15年の地名改訂直前まで、ほとんどそのまま引き継がれている。

昭和15年の地名改訂で、「桜ケ丘」が生まれた。その結果、「上神戸」がなくなり、「星川」が極端に小さくなった。
武蔵国風土記稿「下星川村記事: 村の (ひつじさる=南西)の方、仏向及び神戸町の境に一条の往還あり、相州へ行く間道なれば土人相州道と呼ぶ。道幅は二間余なり
●この記事を江戸時代地名で読めば、相州道は桜ケ丘のバス道になる。(上左図)
●間違えて現在の地名(上右図)で読むと、(神戸も星川も山の上にはないので、)相州道は帷子川の南岸あたりの道ということになってしまう。
大門通りから神明社脇の道に立っている「相州道」道しるべは、この読み違いから始まったものである。
横浜市教育委員会「横浜の古道」が間違いの元。

実際の著者は磯子区の人で、保土ヶ谷付近の地名変遷を知らなかったらしい。

     ・・・・・次項(相州道)へ続く

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