川柳(武玉川)の保土ヶ谷                       まとめ目次へ
旅を取り上げた川柳の秀句は多いが、不思議なことに程ヶ谷を詠んだ江戸川柳はほとんどない。江戸川柳で東海道を辿ろうとした岡田 甫「川柳東海道」(昭 読売新聞社)の「程ヶ谷」の章には川柳でなく、東海道中膝栗毛の留女の狂歌が載せてあるだけである。保土ヶ谷の項で、留め女の川柳が数句紹介されているが、保土ヶ谷の地名は入っていない。

私自身も、柳多留の2万5千句を探してみたが、「戸塚だと思った晩にとつかまり
(程ヶ谷の地名が入っていないが、間違いなく程ヶ谷の句であろう。)を除いて、程ヶ谷の句は見つからなかった。
ところが広い意味で川柳の仲間である「武玉川」の1万5千句を探査したところ、次のように程ヶ谷の句がいくつも出てきた。
程ヶ谷は戸塚の夢を抱きとめる
    「戸塚だと思った晩にとつかまり(前出)」と同じく、留め女の句であろう。

初泊りにはぬるい程ヶ谷
昼は見られぬ程ヶ谷の顔
供は向こうへ回る程ヶ谷
四貫からげで活る程ヶ谷

あとの四句は難解で、これまで誰も解いていない。四句の意味を徹底的に探るのが本稿の目的である。
四つの句は、いずれも「四貫からげ」を詠んだものと思われるが、この言葉は江戸語事典や時代考証の本を見てもまったく出ていない。武玉川にはほかに次の「四貫からげ」の句があり、唯一のヒントである。
   (参考)○藪入りで四貫からげが泡と消え (藪入りは江戸サラリーマンの唯一の連休。連休のおかげで四貫からげが無駄になった。)
 
その前に 武玉川とは
「川柳」が前句付けの中から前句がなくても意味の通じるものを選んだのに対して、「武玉川」は俳諧(連歌)の中から独立でも意味の分かるものを選んだ句集である。
川柳「柳多留」の出版より15年前の寛延三年( )に第1編、以後20年にわたって第18編まで出版された。
川柳と通じるところが多く、川柳成立のきっかけになったとも言われている。
川柳の兄弟分と言われ、また川柳より先に生まれたことから川柳の兄貴分とも言われる。
川柳の笑いと較べて、上品な洒落とユーモアに特徴があり、また五七五の句よりも七七の句が多いのも特徴である。

七七の武玉川は、世界で最小の詩と言われる俳句の十七字よりも更に短い十四字である。いきおい説明が不十分となるため、読者の方が想像で補って鑑賞することになる。その余韻が何とも楽しいということで、最近になって「武玉川」鑑賞の愛好者が増えてきている。   大岡 信「折々の歌」にも武玉川が時々出てくる。

七七の句には親しみがないと思うので、武玉川から七七の秀句をいくつか紹介する。
   ○辞世のてには直す本復
   ○歯が抜けてから顔の靜けさ
   ○互いに笑うそもそもの文
   ○転んだあとの青い淡雪
   ○しゃぼんの玉の門を出て行く
旅の句 ○巡礼の背に宿からの蝿
      ○旅と思わず飛脚出て行く

○裸で入る清盛の医者(武玉川の七七の句)
△清盛の医者は裸で脈を取り(柳多留の五七五の句 )
 
以下は、武玉川から抽出した「程ヶ谷」の句の意味の探索である。

 ○初泊まりにはぬるい程ヶ谷  
「ぬるい」は「なまぬるい」の意味。日本橋を朝立って、最初の泊まり が程ヶ谷というのは、大の男の旅としては少々なまぬるいという意味には違いないが、それだけでは、ガイドブックの内容にすぎず、川柳の世界には馴染まない。川柳には「人情」「人事」「うがち=邪推」が必要なのである。
    「戸塚まで行けるはずなのに、保土ヶ谷に泊まるのは怪しい。保土ヶ谷に彼女でもいるのではないか」

 ○昼は見られぬ程ヶ谷の顔
(1)「化粧が剥げた昼間の顔への幻滅」と解するのが普通だろうが、だとすると何故「程ヶ谷」なのか分からない。
「昼は見られぬ吉原の顔」「昼は見られぬ品川の顔」の方が、川柳として分かりやすい。
(2)「昼は野良仕事で泥だらけ、夜だけ化粧して出てくる田舎芸者」という例句があるが、川柳では軽井沢がその代表。
「程ヶ谷」よりもっと田舎の宿場がいくらでもあり、田舎の代表に「程ヶ谷」を出すことは考えられない。
(1)でも(2)でもない、これまでの知識では分からない「程ヶ谷の女性」がいる。

 ○供は向こうへ廻る程ヶ谷
主人のお供で旅をしている江戸サラリーマン。主人(上役)を宿に泊めたあと、自分だけは失礼して「向こう」に回るというのである。「向こう」とは何かのお楽しみ事だろうが、これまでの我々の知識に、程ヶ谷にしかない「夜のお楽しみ」があっただろうか。
それよりも、その「お楽しみ」に何故主人も連れていかないのか。主人を連れていけないのは、プライベートなお楽しみすなわち彼女とのデートだからである。このサラリーマンは保土ヶ谷に彼女を囲っていたことになる。

 ○四貫からげに活る程ヶ谷 (活る=いきる)
言葉の意味は明らかで、「四貫からげのおかげで程ヶ谷宿が活性化する/繁盛する」ということである。
四貫からげ」が分からなければ絶対意味の分からない句である。

風俗習慣が変わったため、長年の研究にもかかわらず未だに意味が分からない句が柳多留にも武玉川にも沢山ある。
四貫からげ」の意味などその最たるもののように思われる。
四貫からげの解釈
●四貫は重さではなく、お金の単位である。
1両が約6貫文だから、2/3両。当時の若手サラリーマンの給料を月1両2分(9貫文)とすると、その1/2弱に相当する。参考として、当時のお妾さんのお手当の相場は、ランクによって、月3両、5両、10両だった。

●「からげ」は「十把一からげ」から分かるように、「コミコミ」(サービス料込み、税金込み)の意味。
お妾さんの月3両・・・は直接お手当として渡す金額であり、それ以外に「粋な黒塀見越しの松」の妾宅の家賃、飯炊き婆さんの賃金などの費用がかかり、たまにはせがまれて、着物や帯も買ってやらねばならないから3両では済まない。
「四貫からげ」は何もかも含めて「四貫文ぽっきり」の月極契約のことである。

●「四貫からげ」は、江戸時代の「援助交際」である。江戸では女性の相場が高いので、江戸から離れた保土ヶ谷の農家の娘と月極の援助交際契約を結んでいた。
江戸商家の手代番頭にも内勤が多い仕事と出張の多い仕事があったであろう。月に3回出張があるとする。行きと帰りに保土ヶ谷に泊まると、月に6回はデート出来る。
宿に泊まらず彼女の家に泊まるから、出張手当のうち宿泊費200文×6回=1200文が浮く。
飯盛り女の相場が500文として、500文×6=3000文。 4000文は損のない契約である。

●保土ヶ谷だから、うまく行く仕組である。戸塚泊まりの代わりに保土ヶ谷泊まりになるよう旨く日程を組むことが出来る。
初泊まりにはぬるい保土ヶ谷 」はそのことを詠んだものである。
武玉川の仲間には「保土ヶ谷といえば四貫からげ」という連想が出来上がっており、それがこの四句につながっている。

●相手の女性は、農家の娘で嫁入り前の小遣い稼ぎ。親も承知のことであろう。
日頃は野良仕事を手伝っており、田植えの時など顔が泥だらけ。「昼は見られぬ保土ヶ谷の顔」ということになる。

●出張を利用してのデートであるから、藪入り(連休)の時は、旨く行かない。
藪入りで四貫からげが泡と消え」ることになる。
参考
お妾さんの相場について次の資料がある。
「三田村鳶魚:江戸生活事典」(稲垣編)による。
安政6年町触れ: 
市中住居の女は囲者とか唱へ、月々金三両より五六両まで手当取り候者は、その囲主1人にて古来有之の処、近来安囲と唱へ、或は3分、1両位の手当受け候囲者は囲主三四人づつも有之、売女同等の所業に及候。


「お妾さんのお手当ては、月3両から5、6両が相場であるが、最近「安囲い」といって月1両から 3/4両の手当のものが流行っている。お妾さんは古来、旦那1人のはずであるが、「安囲い」はそれでは暮らせないので、複数の旦那を取るのが暗黙の了解となり、不特定多数相手の普通の売春と大差がないような場合もある。」というのである。

○御宿「かわせみ」シリーズの「一両二分の女」という短編では、相場三両の1/2の一両二分で複数の旦那を持つ安囲いの女性が引き起こす事件を描いている。
追記
「川柳柳多留」は研究し尽くされている感があるが、「武玉川」の研究はまだこれからである。
岩波文庫に四冊シリーズがあるが、長く絶版だった。数年前に一度再版されたが、書店には並んでおらず在庫があるかどうか不明。
岩波文庫版にはアイウエオ順の索引が付いているが、何の役にも立たない。例えば「程ヶ谷」の句がホ・・から始まるとは限らないからである。40−50年前の初期研究では、1句毎にパンチカードを作ったらしいが、大変な作業の割には、あまり役に立たなかったであろう。
上記の研究に当たり、武玉川15,000句をパソコンのデータベースに入れてあります。例えば「程ヶ谷」と入力すると「程ヶ谷」の文字列を含む句が全部抽出されて出てきます。(手作業でやるには文庫本をめくって探すしかなく、一度めくるのに4−5時間はかかる。) これから「武玉川」を研究したい方にデータベースを提供できます。

    連絡先: 〒240-0011 横浜市保土ヶ谷区桜ケ丘1-10-13 大畠洋一   tel 045-332-1922

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