紀行文 清河八郎: 西遊草 まとめ目次へ |
1855年、清河八郎は、6ヶ月に及ぶ全国旅行の終わりに、保土ヶ谷宿を素通りして通過している。 前後の宿の評判に較べて、保土ヶ谷宿が見事に無視されている。 第四話−1の「保土ヶ谷の茶屋本陣疑義」では、「保土ヶ谷に茶屋本陣を作っても、休憩する大名行列はなかった」という傍証として引用した。 |
「・・戸塚に至る。・・米屋なる家にやどる。 戸塚もながき宿にて、随分よろしき所なりしに、昨年火いでて、近所の旅籠屋残らず焼失・・・ 境の茶屋に至る。相武の境にて、名物のぼた餅あり。・・「先年、和州郡山の城主休まれたるとき・・ (休憩した大名が茶代を惜しんで恥をかいたというエピソードを紹介・・・)」 保土ヶ谷に至る。格別よろしからぬ宿なり。(たった半行だけの記事) 神奈川宿となる。是は至ってよろしき長き宿なり。 宿外れに「台の茶屋」とて至って山海の見晴らしよろしき所あり。金沢(八景)よりはるかよき所なり。・・・ 神奈川を越え一里半ばかりにて、立場の茶屋にて午食をなす。・・ 川崎宿に至る。至ってよろしき所にて、六郷川の上がりに、万年屋、新田屋などとて、なかなか賑わしき茶店あり。相応の料理ありて群集いたすこと四時なり。よく世に名を広めたるものなり。」 |
西遊草について 山形県出身の勤王の志士清河八郎は、すでに数回東海道を旅した旅のヴェテランであった。 25才の八郎は母親孝行のため、母親を連れて、6ヶ月に及ぶ全国観光旅行をし、毎日旅籠に着くと、すぐその日の出来事を母親の後日の思い出のために書き残した。 帰国後、手を入れて清書するつもりだったようだが、時勢の変化で結局その暇がなく、初原稿のまま清河家に残っていたものが、後日発見されて研究/出版された。 東海道の旅というと「弥次喜多道中」のような飲まず食わずの貧乏旅を思ってしまうが、清河八郎の家は裕福だったようで、金に糸目を付けない優雅な観光旅行が江戸時代にもあったことが分かる。 |
通常の観光旅行―寺社詣り/名勝探索だけでなく ○名物料理を楽しむグルメの旅 ○名産品を買い込むショッピングの旅 ○大阪/江戸に長期滞在しての観劇の旅 などが、各地で組み込まれている。 |
○旅先で買い込んだ土産は指定先まで送らせる。(宅急便の利用) ○瀬戸内海では、現地で舟をチャーターして効率よく観光する。 (現地タクシーのチャーター) ○現金を持ち歩く危険を避けて小切手を利用。(トラベラーチケット) など、高度な旅のテクニックが江戸時代にもすでに使われていたことが分かる。 |
さらに、 ○「抜け詣り」少年の援助や、女性に厳しい荒井関所を避けての「関所越え」(関所破り)も体験している。 「姫街道という言葉が江戸時代の文献に見られないので、後世の名称か?」という記事が東海道研究書にあるが、西遊草には「姫様街道」という表現があり、江戸時代からの言葉であることが分かる。 |
岩波文庫「西遊草」: 長い間絶版だったが、2000年に重版。 書店には並んでいないが、注文すれば在庫はあるのではないか。保土ヶ谷図書館ほか。 別に口語訳版が東洋文庫にある。 |