大津絵と石仏(庚申塔)との関係 大津絵の絶対年代             石仏論考目次へ  
大津絵の起源についての情報は非常に乏しい。(年表参照)
元禄初めに大津絵が売られていたことは確かであるが、それ以前のことはほとんど分からない。
さらに大津絵の中でも大津絵青面金剛の起源を示す資料は皆無であった。
芭蕉の句「大津絵の筆の初めは何仏」について、「大津絵の起源は何仏だったのかな」という意味に解されていたが、そうではなく「今年の大津絵は何仏から描き始めるのかな」という意味らしい。前者では季節を示す季語が見当たらないが、後者なら書き初めと同じで正月の句になる。
大津絵青面金剛をそっくりコピーした寛文9年の庚申塔が発見された。元禄より30年以上前の寛文時代に大津絵がすでに大量に売られていたことが明白になり、大津絵研究にとってもきわめて重要な情報である。
青面金剛石仏と関係がある大津絵は、右の2種類である。

大津絵A手書きで丁寧に描かれた大判で、駒場の日本民芸館所蔵。日本に1枚しかない。
(柳宗悦はオランダのカタログでもう1枚見たと書いている。)

大津絵Bは、柳宗悦全集に白黒写真収載。全身虎の毛皮を着ている。
石仏に例がないので省略。

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大津絵C群は、土産物用に大量に作られた商品で、本尊の体や猿など大部分を紙版(合羽刷り)で作り、光輪/日月/鶏は木版をスタンプのように押し、ごく一部だけを手書きで仕上げている。
日本民芸館に数点所蔵、大津氏歴史博物館に10点ほど所蔵、町田の青面金剛展カタログにも2点収載されている。

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柳宗悦は、大津絵Aが初期のもので、だんだん手抜きされて大津絵Cに落ち着いたとし、それが定説になっている。

この定説は疑問AとCの順序が逆と思われる。
Aは一枚しかないところから考えて、後になってから、何かの目的で描かれた特注品ではないだろうか。(後述

大津絵A

大津絵C群

 

大津絵C
まづ話が簡単な大津絵Cについて述べる。

★大津絵C群は、紙版木版を一部併用した大量生産品である。
絵姿として@儀軌の4手像で持ち物は輪、三叉戟、索、蛇 A蛇の巻き付いた棒ではなく生蛇を持つ B足元に向かい合った2匹の立ち猿 C炎の後光輪 D二童子、四夜叉、邪鬼を持たない(一部例外)。などの特徴が共通である。
大津絵以外(掛け軸、お札など)にはこれに近い絵姿の絵図はない。

とくに二匹の立ち猿は防水紙に猿の形を切り抜いて泥絵の具を塗りつける紙版(合羽刷り)のために、鋏で切り抜きやすい姿として選ばれたもので、他の絵図や石仏には見られない猿の形である。(例えば紙に三猿の形の穴を切り抜くのは大変難しい。)

この大津絵青面金剛の姿が、茨城県取手市小堀水神社の寛文9年(1669)庚申塔にそっくり写されている。
大津絵C群は寛文9年以前から大量に売られていたことが始めて立証された。


寛文9年 取手市小堀水神社
 
土産物として大量に売られたはずの大津絵Cだが、関東七県の石仏には、この形式はこの一体しかない。
また寛文9年は関東でやっと青面金剛信仰は普及し始めた程度で、土産物として大量に売れるという時期ではない。

★青面金剛信仰は、関東より関西が数十年先行していた。それが、このことからも分かる。

 

大津絵A
次に大津絵Aと石仏の関係について述べる。

寛文の初め、板橋の石工(石工を大勢集めた工房)が作った青面金剛庚申塔の連作がある。(Z1、Z2、Z3、Z4)
とくに、Z1,Z2は江戸最古の青面金剛なので、江戸青面金剛の起源を探る上で重要な研究対象とされている。
 (Z3は、やや小型だが、Z2と同じデザイン。Z3の説明は省略。)
Z1 寛文1 板橋 Z2 寛文2 板橋 Z3 寛文3 所沢   Z4 寛文4 浦和
 
剣人型
すでに関西のお札や掛軸に
描かれていた6手標準型
本尊は三面。巨大な邪鬼。
四夜叉は大津絵Aの
漫画風の鬼を写す
同左 本尊は儀軌四手。
 本尊/四夜叉とも
 金輪院掛軸の写し
Z1、Z2、Z4は一基毎にデザインが異なり、同じ石工の連作なのに何故デザインを次々に変えたのかも謎である。

江戸で初めて青面金剛を作るに当たって、関西の青面金剛のモデルを収集したが、多様なモデルが集まったため、部品をモンタージュして組み合わせ、様々な青面金剛をデザインしたらしい。
大津絵Aとの酷似1 
Z4の本尊は大津絵Aの本尊の裏返し。四夜叉は金輪院掛軸(右)より
大津絵Aとの酷似2 
Z2は大津絵Aの漫画風な四夜叉ギョロ目、ガニ股。 

頭を掻く赤鬼が、Z2左上に描かれている。
どちらも虎皮パンツの上にフンドシを重ねる。
★大津絵Aは丁寧に手書きされた大津絵で、日本に一枚しか存在しないことから土産物として大量に売られた大津絵ではない。
柳宗悦氏は大津絵Aが初期作品と考えているが疑わしい。何かの目的で描かれた手書きの特別注文品であろう。

日本にたった一枚しかない特注品が、やがて持ち主の手を離れ、回りまわって板橋の石工の手に入り、寛文2−4年の庚申塔に写されたという偶然は考えにくいし、それでは時間的にも寛文2年には間に合わない。
大津絵Aは、板橋の石工のために特別に作られたものと考える。
★例えば次のような経過があったのであろう。
板橋の石工が、江戸で初めて青面金剛を作るに当たり、土産物として青面金剛大津絵を描いていた大津絵画家に、関西地方の青面金剛の資料調査を依頼し、多様の資料を入手した。
謝礼を送ったところ、謝礼の返礼に手描きの青面金剛大津絵(大津絵A)を作成して送ってきたので、それも有効に活用した。

Z1〜Z4は江戸最古なので、その成立事情が分かれば、江戸青面金剛の起源の謎が解けるのではないかと考えられていた。
しかし残念ながら、この四基の成立には、上記のように、江戸の青面金剛の主流とは別な特殊事情が絡んでいるようである。
●大津絵Aの四夜叉には、四天王寺系のお札や掛軸が参照されている。
虎皮パンツの上にフンドシを締めるのは、庚申のお札や掛け軸の特徴。二番目の鬼だけがそっぽを向くのは四天王寺系の掛け軸の特徴である。大津絵Aは、それを見て描いており、あまり古くないことが分かる。
大津絵Aの本尊のモデルは大和郡山市金輪院の掛け軸(庚申堂本尊)の儀軌四手青面金剛である。
大津絵Aは@金輪院の本尊掛け軸とA四天王寺掛け軸を元に、B大津絵の特徴である漫画風を加えて描かれたものである。

●青面金剛Z4の四夜叉は、大和郡山市金輪院の掛け軸の写しである。(下図)
   
大津絵の話から少し脱線するが、関連が深いので書いておく。
@の金輪院掛け軸は庚申堂の本尊。当然「門外不出(現在は秘仏)」であり、簡単には写生も観察も出来ないはずなのに、大津絵A(さらには遠く離れた浦和の青面金剛Z4にまで、)に正確に写されているのが不思議である。

本尊掛け軸の図柄
を元にした金輪院のお札が出回っていたものと考えられる。
四夜叉のポーズの微妙な違い(下図)からも、そう考えた方が分かりやすい。
(青面金剛展カタログに金輪院掛け軸と良く似た図柄の金輪院お札が載っている。ただし明治時代の版木なので、寛文のお札と図柄が同じとは言えない。)
金輪院お札(明治) Z4(寛文4浦和) 金輪院掛け軸(庚申堂本尊) 秘仏

とくに左下の鬼(バッターの構え)に注目
掛け軸にないが、お札にはあるポーズ。

 Z4になし  捧げ銃と索   二本槍   ショケラ持ち
古い時代(掛け軸)の四夜叉はゆったりした布を腰に巻いているが、江戸中期以降(お札)ではふんどし/虎皮のパンツに変わる。
Z4の四夜叉は古い時代の衣装である。(Z4のモデルにされた)寛文の金輪院お札は古い時代の衣装だったことになる。
 
柳宗悦全集13 民画 大津絵展カタログなどより抜粋
「大津絵に関する零細な文献を追うと、ほぼその発足を推定することが出来る。的確に遡りうるもっとも古い年代は寛文年間であるから、大津絵の始創を寛永まで遡らせても無謀ではあるまい。」

「幸いにも青面金剛については三輪善之助氏の好著(S9)があって、その歴史を詳しくすることが出来る。庚申待ちの本尊に青面金剛が現れ出したのが寛永で、それが一般に流行したのは寛文延宝頃の由であって、とくに初期仏画のうち大版のもの(大津絵A)はその時代の求めに応じた物に違いない。大版は儀軌に忠実で、大津絵として原始のものであることを告げている。」
「民族的信仰に応じて、民衆に仏画を提供しようとした信仰的民画が大津絵である。民画であることが、誰でも買える安い絵であること、沢山描ける絵であること、簡略化された略画であることの特徴を与えた。値を切り詰めるため表具代を省いた描表装」

「大津絵A:大版:四薬叉、二童子、棒に巻き付いた蛇 民芸館蔵一枚のほかオランダのカタログで一度見た。教典に近い。
大津絵B:二枚継 梅原龍三郎所蔵 二童子 棒でなく剣
大津絵C:四薬叉、二童子省略。蛇を持つ。二匹の立ち猿。十数枚目撃、日本民芸館で五枚所蔵 Cは寛文元禄頃、Aは寛永寛文頃と推定」
大畠の意見
●柳宗悦は、大津絵Aと板橋/浦和の青面金剛の酷似などの情報を知って書いているわけではなく、三輪善之助本の「青面金剛の出現時期」に合わせて言っているだけらしい。寛永について徳忠氏も異論を唱えているが、昭和9年当時の不十分な石仏調査をもとにした柳説に対する議論は今となっては無駄であろう。
私は大津絵Aは初期のものではなく、大津絵Cよりもずっと新しいと見ている。

●初期の庚申/青面金剛研究は、関東の石仏を中心に行われた。関東の青面金剛信仰を基準に関西大津絵の歴史を推定するのは、無謀である。
近畿地方には庚申塔がほとんどないが、掛け軸やお札の形で関東より数十年先行している。年表に庚申堂再建の記事が並ぶ1610-1630)が関西の庚申信仰の隆盛時期を示していると思われるので、大津絵Cの起源を寛永(1624-1643)まで遡っても差し支えないと思う。

●金輪院本尊掛け軸の由緒は細かく伝えられており、秀吉時代の1580頃に描かれたものらしい。
大津絵資料
大津絵青面金剛の実物あるいは写真を見るのは意外に難しい。
石仏関係の本によく大津絵のことが書いてあるが、筆者は写真や実物を見たことがないケースが多いであろう。
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東京駒場の日本民芸館
大津絵A・・収蔵    大津絵C・・数点収蔵  
  ただし数年に一度しか展示されずなかなか見られない。「民画」特別展でさえ展示されていなかった。
  収蔵品の絵葉書にも青面金剛はない。
  収蔵品を紹介する月刊雑誌の「大津絵特集号」バックナンバーにも青面金剛は出ていない。
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書籍 下記以外ないのではないか
 
民芸大鑑(日本民芸館収蔵品写真集)
    大津絵AとC(一点)のカラー写真
柳宗悦全集13 民画 大津絵展カタログの宗悦の大津絵論
    記事の他、C数点の白黒写真
街道の民画−大津絵」大津市歴史博物館カタログ
    弁慶/藤娘などの大津絵170点うち青面金剛カラー6点、単色3点
  
追記
大津絵Cが寛文9年の石仏に写されている
ことは明白な事実で、大津絵の起源や年代を推定する上で、最重要情報である。

数年前に日本民芸館と大津市歴史博物館に、その資料を送ったが、どちらかもなしのつぶてで、受け取ったという礼状も来なかった。
関心がないのだろうか。礼儀を知らないだけなのか、それとも謎解きへの情熱や情報に対する感度が鈍いのか、今でも不思議に思っている。

 

 四夜叉の特長    板橋Z1は、四天王寺系標準剣人型のお札

四天王寺系の掛軸の特徴
●二番目の鬼がそっぽを向く
●虎皮パンツの上にフンドシ

大津絵Aは、これをモデルの一部として参照している。
最古の大津絵青面金剛ではなく、寛文元年頃のものである。
   
   標準型のお札(剣人型)    板橋Z1(寛文1)
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