青面金剛進化論 通説               石仏論考目次へ
日本の石仏誌第1報〜第5報に掲載した青面金剛進化論の要約である。
当時全部のことが分かっていて5回に分けて連載したのではなく、書いているうちに少しづつ分かってきたことが多いので、多少の勇み足や重複もあり、その後の細かい点の修正もあるので、通説として簡潔にまとめた。
A.青面金剛の原型マハーカーラ −−病魔青面金剛
儀軌4手青面金剛の原型はインドのマハーカーラの姿である。マハーカーラについては、古来から基本的な誤解があり、別項で詳述したのでそちらを参照して頂きたい。

本来、マハーカーラと青面金剛は教義上何の関連もない
インドのマハーカーラの絵姿が説明抜きに一人歩きして中国に伝わり、ヘビやドクロで飾られた怖ろしい姿から、「病気を流行らせる病魔/死神」と誤解されて、「病気を流行らせる悪鬼−青面金剛」になったものである。
  

青面金剛の絵姿は病気逃散の祈祷に使われた。病魔青面金剛の絵姿の前で高僧や修験者がゴマを焚いて祈祷し病魔と念力較べをする。祈祷が勝てば、病魔が退散して病気が治るが、病魔が勝てば、祈祷者は脂汗を流しついには泡を吹いて失神して数ヶ月間正気に戻らないようなことも起きる。

危険なので修行を積んだ専門家以外の素人は扱うことが出来ず、不断は鍵の掛かる部屋に厳重保管しておくなど「毒劇物」のような扱いであったろう。
B.青面金剛善神 東大寺木像
伝染病が流行り始めると、神仏に祈り神仏の力で病魔を追い払ってもらうことが切実な願いになるが、仏教には意外にそういう仏様がいない。お医者様の役としては薬師如来があるが、病人をやさしくなでて慰めてくれるタイプであり、力づくで病魔を追い払ってくれるタイプではない。
素人が拝むことが出来、病魔を力づくで追い払ってもらえる、これまでとは違った青面金剛が求められるようになり、平安末期、東大寺で日本初の青面金剛木像が作られた。
仏教の説話を集めた渓嵐拾葉集によると「青面金剛は病を流行らす悪鬼だったが、改心して病を駆逐する善神になった」とされる。

「専門家だけしか扱えない凶暴な青面金剛ではなく、誰がが拝んでも良い穏やかな青面金剛善神」というのが、仏師への注文であった。
青面金剛はもともと鬼であるから「夜叉」である。仏教の神様は「明王」だから、新しく作られる神様の名前は「青面金剛夜叉明王」ということになる。仏師はこれを「正面金剛夜叉明王」と読みかえ、五大明王の一つ「金剛夜叉明王」をベースにデザインを考えた。

」とは「ノーマル」のことであり、「正」の反対語は「」(アブノーマル)である。「正観音(聖観音)」は「一面二手」の観音のことで、多面多手の「異形観音」に対する言葉である。
東大寺青面金剛木像は次のようにデザインされている。
まづ「正面」とは「顔がノーマル」という意味になるから、三面五眼の金剛夜叉明王を「一面」に変更する。
次に「穏やかな神様」という注文に応じて、刀を振り上げて怒っている「」の金剛夜叉明王から、刀を腰まで下ろし、鈴の音に聞き入っている「」の姿に変更する。
            
     五大明王の一つ 金剛夜叉明王           東大寺 青面金剛木像

重要文化財なので、正面から撮った写真は入手できるが、それ以外の写真は入手できない。上の写真では、目を開けているのか閉じているのかさえよく分からない。実物※で確認したところ、「鈴の音に聞きいっているため、目は開けているが何も見ていない」虚ろな目であることが分かった。電車の中でイヤホーンの音楽に聴き入っている若者の目と同じである。

この仏像の6手の持ち物は、宝輪以外はすべて失われている。残りの四手のうちは確実だが、金剛鈴金剛鈷は推定である。左下手は指をゆるめて三本指で握っている。武器なら五本の指でしっかり握るであろう。
一方鈴であれば、かたく握ってしまうと鳴らすことが出来ない。以上から金剛鈴と推定した。
「金剛夜叉明王の持ち物の位置を変えた」だけというのも推理であるが、そう考えることですべてが説明出来る。
※東大寺青面金剛木像の実物を見るには
ある石仏研究者からお手紙を頂いた。この木像を見るために2回も奈良東大寺の宝物館を訪ねたが、係りの僧侶に聞いても、そんな仏像があるのかどうかさえ要領を得ず、結局見ることが出来なかったという。
私は上野の東京国立博物館で偶然2回も見ている。2回とも何かの特別展を見た帰りに何気なく寄ってみたら、常設展の一番良い場所に展示されており、まわりに誰もいない静かな環境で、後へ廻ったり真下から見上げたり、いろいろな角度でじっくり観察できた。
他にも、「以前に東京国立博物館で見た」という人の話を聞いたことがある。


この仏像は国の重文であるが、東大寺には国宝級の仏像が山ほどあるので、重文程度の仏像には関心がない。
この仏像は東京国立博物館に預け放しになっており、2年に1回くらいの周期で展示されるのではないかと思う。
東京国立博物館の展示予定はホームページで詳しく出ているので、調べて見てください。
 
C.改良型青面金剛
東大寺の六手青面金剛木像は不評で一体作られただけだった。不評の理由は二つ。

(1)「凶暴でなく穏やかな神様」という注文が効きすぎたのか、表情が優しすぎた。
鈴の音に聞き惚れて目が虚ろと言うのは行き過ぎで、これでは凶暴な病魔に太刀打ち出来そうもない。

(2)モデルの金剛夜叉明王は、金剛鈷と金剛鈴の二つの道具を使った金剛印という印を結んでいる。
青面金剛が金剛印の道具をバラバラに持ち替えて、鈷を振り上げ、鈴を鳴らして聞き惚れているというのは、仏像専門家の立場から見れば常識外れである。

この二点を改良した六手青面金剛の掛け軸が四天王寺にあり、多分現存する最古の青面金剛画像と思われる。
この掛け軸は剥落がひどく見えにくいが、町田青面金剛展カタログの表紙に掲載された深大寺の青面金剛木像はこの最古の画像をベースに作られたものである。
 
   
    四天王寺最古の掛け軸          深大寺青面金剛木像(江戸時代)              (参考)新しい童子の衣装
この木像が「最古の画像を元に比較的新しい時代に作られたもの」であることは、厨子の両扉に描かれた二童子の衣装の違いからも分かる。左扉の箱形の香炉を持ちズボンがはっきり見えるのが古い時代の童子の衣装、右扉の柄の付いた香炉を持ちズボンが見えないのが江戸時代以降の童子の衣装であり、左右に新旧の童子が居る。

この改良型六手青面金剛はの持ち物は、@A金剛鈴と金剛鈷による金剛印、BC弓矢、D宝輪E三叉戟
六手標準型まであと一歩である。
これをベースにして、六手剣人型と六手合掌型が生まれる。 →F
 
D.儀軌四手青面金剛の流れ
当時の石屋仲間には「青面金剛の姿にははっきりした規定はないから自由に作ってよい。ただし四手青面金剛は悪鬼のときの姿だから作ってはいけない。改心して善神になった後の姿であるからは六手像でつくるべきである。」というルールがあったようである。
ただしこのルールが守られているのは関東地方だけであり、関東でも初期の青面金剛には四手が多い。

関西: とくに四手像を嫌うという風習は見られない。
●大津絵は一貫して儀軌の四手像である。
●奈良金輪院の本尊掛け軸は儀軌四手像で、金輪院のお札は本尊掛け軸と同じ四手像 ・・・で後述。
●九州国東半島: 四手像と六手像がちょうど半々くらいである。

関東地方の初期青面金剛 
儀軌4手像 古い物は四手像が多い
●栃木市片柳 万治2年(1659)は儀軌4手像
●茅ヶ崎〜平塚に点在する7基の大曲型青面金剛(承応3年(1954)〜) ほぼ儀軌4手

4手像→6手像
●神奈川最古の6手像  無理に4手を6手に変えたように見える
●儀軌4手に弓矢を追加して6手にしたもの
●儀軌4手に合掌を追加して6手にしたもの

以上のような儀軌4手の流れは、関東地方では主流にはならず消滅した。
 
E.ショケラの導入
ショケラが三尸虫を意味することについては、研究者の意見は一致している。「髪を吊された女性」の名称がショケラかどうかについて小花波氏の強い反対があり混乱しているが、ほかに適当な呼び名がないため、便宜上「いわゆるショケラ」として通用している。
各地の教育委員会の説明板には「ショケラ」を避けて「赤子」「餓鬼」などと書いてあることがあるが、「ショケラ」以上に何の根拠もなく間違いである。(吊されている女性の姿は明らかに成人女子であり、赤子ではない。)

ショケラの名称(語源)/意味/時期について、大畠は完全に解明できたと思っており、別項でまとめて議論している。 →H

この章では「ショケラを下げた青面金剛」の図柄についてだけ論じる。

大和郡山金輪院(小泉庚申堂)の本尊掛け軸がショケラを描いた最古の図である。さらにはショケラの姿を考案したのは金輪院の僧侶と思われる。

この本尊掛け軸は秘仏で、60年に一回しか公開されない。別に江戸時代に作られた複製品(リプリカ)があり、町田の青面金剛展に出品されて、同カタログに掲載されている。本尊は儀軌四手像だが、四夜叉の一人である黒鬼がショケラを吊り下げている。同じカタログに小泉庚申堂のお札(明治の版木)が掲載されており、リプリカと同じ図柄で夜叉がショケラを下げている。

秘仏の本尊掛け軸については、窪徳忠「庚申の研究」(S36)に写真が掲載されているが白黒なので、細かいことは何も分からない。カラー写真が「大和路かくれ寺かくれ仏」(S57)に掲載されているが、原図の変色が進んでいるため、肝心のショケラ部分が黒くて見えない。
本尊掛け軸のカラー写真をデジカメやスキャナーでパソコンに取り込み、明度を調整して見たところ、意外にもリプリカのショケラと同じ場所に、ショケラの姿がはっきり浮かび出た。赤い腰巻きをした半裸の女性像で合掌している。
ショケラは最初から現在通りの姿の女性像だったのである。
     
 本尊掛軸のショケラ(黒鬼の握り拳の下)  リプリカのショケラ       お札(明治)のショケラ
   
金輪院(小泉庚申堂)本尊掛け軸(秘仏)      江戸時代のリプリカ           明治のお札      
本尊掛け軸の経歴はよく分かっている。
秀吉の家臣だった片桐貞昌(片桐旦元の弟)の持ち物で、貞昌が戦場のお守りとして持ち歩いていた。貞昌の初陣は三木城攻めで本能寺の変(1582)の少し前。以後秀吉の天下統一の戦いに数年間旗本として参加している(秀吉最後の戦い朝鮮出兵(1592、1598)に貞昌が参戦しているかどうかは不明)。この絵が描かれたのは1580年頃であり、江戸最初の青面金剛石像(寛文元年1661)の80年も前のことである。
  ○夜叉や童子の衣装の違いから江戸以前の古いものであることが分かる。
  ○「大和かくれ寺かくれ仏」には、奈良国立博物館美術室の「室町時代?の絵・・」という解説が出ている。


豊臣滅亡の直前、片桐貞昌は兄の旦元と行動をともにして大阪側から徳川側へ移り、片桐家は江戸時代を生き抜き明治になって男爵になっている。(兄の旦元系は後継者がなく断絶)
二代目藩主貞隆のとき、家老の藤林宗源が小泉庚申堂を建て、先代藩主貞昌の持ち物だった掛軸を譲り受けて本尊とした。小泉庚申堂建立の正確な年は不明だが、関係者の事歴などを総合して1645頃と思われる。関西の他の庚申堂に較べてやや遅いが、以上のような事情から、本尊掛け軸は小泉庚申堂よりずっと古いのである。
 
F.6手標準型の成立

四天王寺最古の掛け軸(C.で述べた改良型青面金剛)がベースになって、6手合掌型と6手剣人型が作られた。流れを図解すると次のようになる。
        
   
     四天王寺 最古の掛け軸             @                   A

@六手合掌型
改良型の中二手は金剛鈷と金剛鈴を使った金剛印であるが、絵図では剥離して何を持っているかよく分からない。金剛印はとくに石仏では表現しにくく、何を持っているのか分からなくなることが多い。
この金剛印は最初のモデルの金剛夜叉明王から来たものである。金剛夜叉明王は金剛印と決まっているが、青面金剛はこれを参考にしただけであり、金剛印にこだわる必要はなく、他の印でもいいだろうという考えも成り立つ。
金剛印をもっとも簡単な合掌印に変えると標準六手合掌型になる。
 ●石仏では細かい細工が出来ないので合掌印の方が分かりやすい。
  六手合掌型が図像には少なく石仏に多いのはそのためだろうか。

A六手剣人型
改良型の中二手は何も持っていないようにも見える。金輪院系の「夜叉の持つショケラ」と剣を本尊の空いた二手に持たせると標準六手剣人型になる。
★六手剣人型は四天王寺系庚申堂のお札や掛け軸として全国に普及し、青面金剛像の主流になった。

四天王寺と金輪院は親しかったことを示す資料がいろいろある。(例えば小泉庚申堂竣工の儀式は四天王寺の僧侶が呼ばれて取仕切っている。)金輪院系のショケラが四天王寺系と合流するのはごく自然な成り行きである。
                                                 →6手標準型の普及(グラフ)   
G.江戸の初期青面金剛
江戸最古の青面金剛は、板橋宿東光寺(寛文元年)であるが、これに引き続いて同じ石工(工房)の連作と思われる3基があり、これらの成立のいきさつを調べることが青面金剛の謎の解明につながると期待されている。
  Z1   板橋宿 東光寺 寛文元年 六手剣人型 
  Z2  板橋宿 観明寺 寛文2年 三面青面金剛 漫画風の四夜叉に特長
  Z3  所沢  庚申堂  寛文3年 やや小型だが、Z2と同じ図柄
  Z4  浦和市広ヶ谷戸 寛文4年 儀軌四手像 夜叉の一人がショケラを下げる
       
        Z1            Z2             Z3            Z4
図柄を細かく比較検討
することで、Z1〜Z4成立の謎が完全に解明出来たと思うので、まとめて報告する

これらの図柄には、次の図像が深く関連している。
 ◎金輪院(小泉庚申堂)本尊掛け軸 
      または 本尊掛け軸と同じ図柄の小泉庚申堂のお札
     儀軌四手像 四夜叉の一人がショケラを下げる。
 ◎大津絵A 日本に1枚しかない手描きの大津絵青面金剛  儀軌四手像 漫画風の四夜叉
       柳宗悦の収集品  日本民芸館蔵 柳宗悦は著作や展覧会カタログなどでしばしば言及している。

   
 金輪院お札(ただし明治)          Z4(浦和)          大津絵A          Z2の夜叉

図柄を細かく比較すると
★Z1 標準六手剣人型 童子の持ち物などから四天王寺系のお札のコピーである。
★Z2 三面青面金剛 
    大津絵Aの漫画風の四夜叉がそっくりコピーされている。
★Z3 Z2と同じ、よく見ると四夜叉の一人がショケラを下げていることが分かる。
★Z4 儀軌四手像、本尊のポーズ(腕の曲がり角度まで)が金輪院とそっくり同じである。
     夜叉の一人がショケラを下げる図柄も金輪院と同じ。
★大津絵Aの本尊のポーズも金輪院と同じ。

浦和路傍の青面金剛が、遠く離れた奈良金輪院の門外不出の本尊掛け軸と同じ図柄であることが最大の謎であり、同時に謎を解く鍵でもある。
以上から、Z1〜Z4の成立事情を次のように推定した。

☆板橋には石工を大勢集めた石屋の工房(一種の会社)があり、周辺の石屋の仕事を一手に引き受けていた。
☆江戸で初めて青面金剛を制作するに当たり、完璧を期するため、関西ですでに流通している青面金剛の図像を収集することにし、その仕事を大津の大津絵画家に依頼した。

☆最初に送られたのが四天王寺のお札で、これをコピーして寛文元年のZ1が作られた。

☆大津絵画家は図像収集に興味を持ち、その後も青面金剛図像を次々に送ってきた。
        「三面青面金剛」  「金輪院(小泉庚申堂)のお札」
☆大津絵画家に謝礼金を送ったところ、謝礼の返礼として自分で描いた大津絵Aが送られてきた。
     (大津絵Aには、金輪院のお札と四天王寺お札 が一部参考にされている。)
☆板橋石工は送られてきた図像をすべて無駄なく使うため、部品を組み合わせる形で、Z2、Z3、Z4を作成した。

利用された図像について
「三面青面金剛」 
板橋石工が参照した図像は不明だが、青面金剛展カタログ93,94の岐阜県下野庚申堂のお札が「三面」「巨大な邪鬼」などよく似ている。これに似た図像が送られ来たのであろう。

「金輪院(小泉庚申堂)お札」
青面金剛展カタログに掲載されている明治のお札は、江戸時代に作られたレプリカに似ている。
寛文当時はまだリプリカはなかったから、利用された当時のお札は、明治のお札と金輪院本尊掛け軸との中間の図柄だったと思われる。
夜叉の衣装(虎皮パンツや褌ではなく広い布を腰に巻く)と野球のバッターのように構える三番目の夜叉のポーズが鍵である。

  
    小泉庚申堂 本尊掛け軸      (推定)寛文のお札 ヘビなし、夜叉の衣装    Z4(腕の角度など左図と一致)
 ★寛文のお札は、本尊掛け軸と明治のお札の中間のデザインだったと思われる。それがZ4にコピーされた。
   腕を突っ張る二鬼、風にたなびく夜叉の衣の裾(パンツや褌ではない)、3番目夜叉のバッターの構え・・・
                                               →Z1〜Z4に利用された図像まとめ
H.ショケラの語源と意味
ショケラの歌(庚申の夜の呪文)・・・庚申の夜、徹夜をさぼって寝てしまうとき唱える呪文
 ●平安時代 袋草紙   しやむしや いねや去りねやわが床に  寝れど寝ざるぞ 寝たれど寝ぬぞ
 ●後世の庚申縁起   
しやけらや いねや去りねやわが床に  寝れど寝ざるぞ 寝たれど寝ぬぞ
「オレは寝ているように見えても、実は寝ていないのだぞ」と三尸虫をだます呪文である。
窪徳忠「庚申の研究」 p153の要約: 
ショケラの歌のショケラは三尸虫のことである。福井では女人をショケラと呼び、ショケラが病気その他の悪いことをするので庚申様が髪を掴んで押さえ込んでいるという伝承が残っている。

以上からショケラの意味は明らかだが・・・@何故三尸虫をショケラと呼んだのか A何故ショケラを半裸女人の姿で表現したのか(何時頃そうなったのか)は不明である。

窪氏が解き明かせなかったショケラの謎 @A もすべて解けたと思うのでまとめておく。

(1)ショケラの語源
シャムシの歌、ショケラの歌を較べると、シャムシもショケラも三尸虫であることは明らかで研究者の間に異論はないが、シャムシがショケラに変わったのは何故か誰も説明できなかった。シャムシの発音が訛ってもショケラにはならないのである。

発音の変化ではなく、「くずし文字の読み違い」 というのが私の説である。

郷土史の研究で、古い検地帳の「とみ境」という地名で行き詰まっていた時、「今井境」の誤読であることを発見して研究が進んだ経験がある。発音の訛りで説明できないときは、くずし文字の誤読を疑ってみる必要がある。

実は「シャムシ→ショケラ」の謎ではなく、「シャムシ→ショケラ」の謎であった。

岩波版「古典文学大系29 袋草紙」によると、現存する写本十数種のうち、群書類従本以外はすべて「シャムシ」となっており、1〜2文字分の空白がある。
この問題は□の中に何が入っていたかということに置き換えられる。
     
     岩波書店「日本古典体系29 袋草紙」より              「」のくずし字  「具」

□の中は「」だったというのが、大畠説である。
明治以前の日本語では「」のくずし字には「」と「」の二種があった。「久」と「具」の使い分けはとくにない。
」のくずし字が現在の「」だが、「」のくずし字は上図のようになり、「けら」と誤読されやすい。

慣用句と違って、地名のような固有名詞や「しょけら」のような専門用語の場合は、前後関係から判定できないため、写本に当たって空白のまま残されたり、空白が詰められたり、「けら」と読まれたりして「シャ□ムシ」「シャムシ」「シャケラ」・・・の異本が生じるのである。

「三尸虫」とは三種の「尸虫」のことである。「尸虫」の訓読みは「シャクタレムシ」というのが大畠説である。
「病」のタレが「ヤマイダレ」、「麻」のタレが「マダレ」、「雁」のタレが「ガンダレ」である。
「尺」のタレである「尸」は「シャクタレ」と読むべきである。(「尺」以外に「尸」の代表的な漢字がない。尼ダレ、屁タレ、尿タレ、尻ダレ・・・は全部失格である。)
袋草紙のショケラの呪文の原文は「シャタレや・・」または「シャムシや・・」だったのである。

山崎闇斎(神道系の庚申)の著作では、ショケラの歌が「シャタレ・・」になっており、これも謎だったが、上のシャクタレムシ説でこれも説明できた。

(2)ショケラを半裸の女人で表現した理由
ショケラの姿を考案したのは、金輪院の僧侶と思われる。
普通の庚申縁起では「庚申の教えを守れば三尸虫の害から逃れられる」と書いてあるだけだが、金輪院の庚申縁起では「青面金剛が眷属を引き連れて三尸虫を征伐する」と具体的な情景が書かれている。
金輪院掛け軸では、「青面金剛による三尸虫征伐」の場面を図像化したかったのであろう。

そもそも人間生まるる時、三鬼ありて、人ともに誕生す。それを三尸と号く。・・・(以下三尸の害を具体的/詳細に記述)・・・
庚申の日、
鬼となって障害を人に成す。大学匠/善知識
(大学者/高僧)もこの鬼の祟りは遁れず。
庚申の日・・青面金剛薬叉明王は・・大憤怒の形を現し、・・無数億の眷属を具して・・人間の身を煩わす霊魂鬼神のたぐいを、ことごとく滅ぼし平らげ微細に降伏せしめ給う。(金輪院庚申縁起)


 

新纂仏像図鑑
商喝羅といい、大自在天といい、魔醯首羅天というも、之れことごとく、同体異名なり。故に大疏第三に曰く「商羯羅是れ魔醯首羅の別名」と。また因明大疏には「商羯羅天、これ魔醯首羅天、一切世界に於て大勢力あり」と。
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三尸虫=ショケラである。仏典でショケラを探すと,商羯羅天/商羯羅天妃がすぐ見つかる。商羯羅天はヒンズー教のシヴァの別名で、仏教図像集には、踏んだり/吊したりしてシヴァを征伐する姿があちこちに出ている。
ショケラ=商羯羅天だから商羯羅征伐の図はショケラ征伐図につながる。こうして金輪院の夜叉に吊されたショケラの図柄が出来たものと思われる。金輪院掛け軸は本能寺の変(1582)前後に作られたもので、ショケラもその頃生まれた。
★商羯羅天でなく、商羯羅天妃(女性)にした理由はよく分からない。日本で最も古い図像集「諸説不同記」には、商羯羅天がなく商羯羅天妃だけが載っており(単なるミス?)それが理由かも知れない。
福井の特殊性
何故、福井にだけ、ショケラの名前とショケラの意味が正しく伝わり、今でも残って居るのか
青面金剛進化論のまとめ
1.マハーカーラ(大黒天)という神様がいる。すべての仏典/仏像解説書には「シヴァ神の分身あるいは眷属」ということになっているが、仏像学最大の大間違いである。
マハーカーラは、ヒンズー教の最強神シヴァに対抗するために、仏教が創った仏教の戦闘神(大将軍)である。シヴァをモデルに創られたのでシヴァそっくりの形であるが、シヴァなどヒンズー教の神を踏みつける(征伐する)姿にすることで、仏教の神であることを表現/区別している。(→マハーカーラ、大黒天を参照)
2.このマハーカーラの姿が一人歩きして中国に伝わり、ヘビとドクロに飾られた怖ろしい姿から、病を流行らす悪鬼と誤認されて儀軌の青面金剛が生まれた。儀軌の青面金剛は、チベット寺院のマハーカーラと酷似している。
大正時代に来日した蒙古のラマ僧が、護国寺境内で青面金剛を見て、これはマハーカーラであると主張して譲らなかったというエピソードが残っているが、追跡調査した研究者はいなかった。
3.青面金剛図は病気退散の祈祷に使われたのであろう。青面金剛の掛け軸の前で高僧や修験者がゴマを焚いて病魔退散を祈祷する。祈祷者の力が弱ければ病気が平癒するどころか病魔が暴れ出して手の着けようがなくなる。
修行を積んだ専門家しか扱えず、素人が祈るなどとんでもない危険物だった。
4.流行病が広まると、神仏にすがって伝染病から逃れたくなるのが人情である。日本には力で病を駆逐してくれるような神仏がいないため、力づくで病を駆逐してくれる青面金剛善神(儀軌の青面金剛のように凶暴でなく、素人が祈ってもよい穏やかな神様)が要望され、平安後期に東大寺の青面金剛木像が創られた。

東大寺「青面金剛夜叉明王」は、五大明王の一つである三面五眼の「金剛夜叉明王」をベースにデザインされた六手像。「青面=正面」だから、三面でなく一面(正はノーマル。「正面」の反対語は「異面」でアブノーマル)。振り上げた刀を下ろし、鈴の音に聞き入る「穏やかな姿」である。

仏教の説話を集めた「渓嵐拾葉集」に「青面金剛は病を流行らす悪鬼だったが・・後に改心して病を駆逐する善神になった。」とあるのはこのことの反映であろう。四手像は悪鬼時代の姿、六手像は改心して善神に変わったあとの姿という解釈も生まれ、関東地方の石仏青面金剛では原則として六手像しか作られない。
5.東大寺青面金剛は不評で一体しか作られなかった。四天王寺の最古の青面金剛掛け軸はこれを修正した六手像で、持ち物は三叉劇、宝輪、弓矢、中2手は金剛鈴と金剛鈷を組み合わせた金剛印である。
町田の青面金剛展カタログの表紙「深代寺青面金剛木像」は比較的新しいものだが、四天王寺最古の掛け軸を元に作られたものである。
6.金剛印を簡単な合掌印に変えたものが「標準六手合掌型」である。掛け軸やお札ではあまり見かけず、石仏に多いことから石工の間で普及したデザインと思われる。
7.最古のショケラは、大和郡山金輪院小泉庚申堂の本尊掛け軸の「ショケラを下げた夜叉」である。この掛け軸の由来/経歴ははっきりしており、秀吉時代(1580頃)描かれたもの。

金輪院の庚申縁起には「青面金剛が三尸虫を征伐してくれる」ことが明記されており、ショケラは「青面金剛による三尸虫退治」を表現したものと思われる。「ショケラの歌」から ショケラ=三尸虫である。ショケラは仏典の商羯羅天に通じることから商羯羅天征伐で三尸虫征伐を表したもので、考案したのは金輪院の僧侶であろう。
8.四天王寺最古掛け軸の六手像と金輪院のショケラの組み合わせで、「標準六手剣人型」が生まれ、四天王寺系庚申堂の掛け軸/お札として全国に普及した。
9.ショケラの語源:三尸虫とは三種の尸虫。尸虫の訓読みは「シャクタレ虫」。
袋草紙のシャ□ムシの歌の空白は「く」で、「しゃくむし」。「く=具」の仮名くずし字が「けら」と誤読されて、庚申縁起の「しゃけら」に変わった。
10.江戸最古の青面金剛(板橋石工による寛文1〜4年の連作Z1、Z2、Z3、Z4)
江戸で初めて青面金剛を作成するに当たり、関西で流通していた青面金剛図像を収集し、資料の組み合わせでZ1〜Z4を作成した。
収集依頼を受けたのは大津絵画家で、謝礼金の返礼として肉筆大津絵青面金剛(大津絵A)を板橋石工に贈呈し、これもモデルの一つとされた。

Z1は四天王寺系お札のコピー、Z2/Z3は、三面青面金剛+大津絵Aの漫画風四夜叉+金輪院のショケラを下げた夜叉、Z4は金輪院のお札の正確なコピーである。

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