まとめ 広重東海道五十三次の成立 広重五十三次はどのようにして作られたか
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広重五十三次の序文四方滝水)
広重ぬし其宿々はさらなり。名高う聞えたる家々、あるいは海山野川草木、旅ゆく人の様など、何くれとなく、残る隈なく写し取られたるが、目のあたり、そこに行きたる心地せられて・・・

←広重五十三次55枚セット袋のデザイン「真景東海道五十三駅続画」。
東海道五十三次の企画と出版は、版元である保永堂の主導で進められた。
商品の基本的な思想は「真景」(=実際の風景、写実)であった。

保永堂にはこの商品について「人々の旅への憧れを満たすための画集であり、そのためには写実(真景)でなければならない」というはっきりしたコンセプトがあった。

保永堂は「江漢図は全国を旅して歩いた江漢の現地の忠実なスケッチのはずであり、その通りに描くのが写実である」と信じていた。
ただし江漢の時代からすでに20年経っており、当時の風景が変わってしまっているかも知れないという心配があったため、江戸の近くだけでも現地チェックして確認しておくということになって、広重は少なくとも、平塚/大磯付近まで確認のために東海道を旅しているらしい。

広重が江漢図を手に江戸近くだけ一応現地チェックの旅をしたのは、「真景」を売り物にした商品について「現地風景とまるで違う」という評判が立ってしまうと、売れ行きが激減することを恐れての行動であった。

東海道五十三次(55枚シリーズ)は保永堂の資金力を越えた無理な仕事であり、最初は保永堂ー仙鶴堂の共同出版としてスタートしたが、何かの理由で途中で仙鶴堂が下りて、保永堂の単独事業になった。もし悪評が立って売れないような事態が起きれば破産必至という背景があり、保永堂は必要以上に神経質になって「真景」にこだわったらしい。

東海道五十三次は「広重の芸術作品」はなく、「保永堂の商品」であったから、広重は図柄やデザインを勝手に決めることは出来ず、まして発売した後になって、芸術的な好みだけで金と手間をかけて再刻版に改訂するなど出来るはずがなかった。
再刻版を作る権限があるのは版元の保永堂だけであり、「真景を売り物にしようとする商品について実際の風景とは違うという評判が立ってしまうと売れなくなる」という商売上の理由だけがその動機である。

広重は「江漢画集を参考にして五十三次を描く」のではなく、「江漢画集を版画風に描き直す」仕事を請け負っていただけである。これまで広重東海道五十三次の謎がこれまでどうしても解けなかったのは、「広重は世界的な巨匠」的なイメージから抜けられなかったためである。

 

広重東海道五十三次の基本原則と実際
広重五十三次は次のような基本原則に従って作成された。
 

1)江漢図は現地の忠実な写生のはずであるから、原則として江漢図通りに描く。
2)江漢から20年経過しているので、江漢図が明らかに違っているという現地情報が得られた場合は修正する。

東海道五十三次55枚の実際の作成作業をやる中で、次のような様々なケースが生じた。 

以下、原画の江漢図が出現して始めて分かった広重五十三次の成立事情である。        詳細は各論を参照
1)現地調査の情報を追加

江漢図(1813頃)〜広重図(1833)の20年間に、現地風景が変わっていたので修正したケース。

神奈川(岡野新田工事着工
戸塚−初l刻で見落とし?広重の居眠り説?−−再刻版で修正 (茶屋の板壁など)

一方で、広重の現地取材がうまく行かなかったケースもある。藤沢−遊行寺の大火で焼け跡。 
神奈川ー岡野新田干拓工事用の小舟の列
戸塚再刻版ー茶屋の板壁と格子窓
2)写生場所の変更
江漢は、当初は「富士、日本勝景」を描くつもりで取材しており、東海道五十三次を描くつもりではなかった。
したがって東海道や宿場を大きくはずれた場所で写生したものがかなり含まれる。
広重は出来るだけ五十三次の宿場付近の風景に近付けようと努力している。 例:大磯、二川。 
 
3)広重の山の形?
一般には広重の山の形は江漢図より大きく崩れている。
ところが、広重図にも意外に正確な山の形が描かれているケースがあることが、カシミールにより分かった。
江漢図のコピーでは描けない正確な広重図の山   −−府中平塚、二川、石部
しかし広重本人が東海道全部歩いたわけではなさそうである。
遠方の山の正確な形を広重がどうやって入手したのか、カシミールにより出てきた新たな謎である。
府中カシミール図−広重図は朝霧で山麓が隠されている?

背景の尾根は二川付近だが、柏餅店は猿ヶ馬場。
江漢図の山が違っていたことに後から気が付いて修正した特殊ケースもある。小田原の再刻版(江漢図は箱根山ではなく大山の絵だった。)
4)江漢図のフィクションを修正
江漢図には実際にはあり得ない故意のフィクションが含まれている。広重五十三次では「真景」に差し障りがないように修正した。
  日本橋の南蛮服の武士→覆面の武士。                 大津の牛飼い少年→お河童髪の幼女。
 
5)広重の考証(ここでは広重は画家と言うより、マスコミ(記者)の立場で取材している。)
「関」で本陣作法を取材し直している。広重は本陣作法についてまったく知らなかったはずで、直接本陣関係者に江漢図を見せて意見を求めたらしい。江漢図と広重図は時代考証上、かなり相違点がある※にもかかわらず、両者とも100%正しいのが不思議である。

※門の幕−白麻、紫縮緬。門の提灯−定紋の有無。宿札−「泊」と「宿」。裃姿の本陣当主−帯刀の有無。etc
 
6)東海道名所図会モデル
江漢図の一部には東海道名所図会がモデルに使われている。広重はそのまま使っているが、東海道名所図会が原本であることは分かっている場合、茶屋の人物などを直接参照した部分もある。    −−大津の走水茶屋も同じ
江漢図−草津−無人の茶屋
広重図−草津の茶店の人物(東海道名所図会から直接コピー)

7)「江漢図通りに描く」原則の徹底
「真景=江漢図通り」の原則であっても、「江漢図そっくり」に描くのか、「江漢図をベースに工夫を加えるのか」解釈のニュアンスに幅がある。
広重の工夫し過ぎが保永堂の気に入らず、「江漢図通り」にこだわって描き直しさせたケースが見られる。

とくに家並みの屋根の形が気になったらしい例が多い。(切り妻→寄せ棟)
  神奈川再刻版や川崎再刻版が代表例で、白抜きの冨士や船頭のポーズなど真景とは無関係なところまで江漢図通りに描き直している。
川崎再刻版

 
大津、池鯉鮒の異刷りの山も「江漢図通り」にこだわったケースである。江漢図と同じ位置に山を追加。
 
8)保永堂のアイディアによる改変
「江漢図通り」の原則を押しつけているにも関わらず、一方では、保永堂のアイディアで、江漢図とは違う場面に改変したケースが見られる。 
沼津(荷物持ちの若者→白装束の行者に修正)


 ★ほかに再刻版日本橋の謎の人物群(インドネシア人→住吉踊り)など
江漢図は三人一組の旅。裕福な商家の母娘。
後ろは荷物持ちの若者で、多分自分の店の使用人。
夜道を行く女二人連れ。背後から行者が足早に追い抜こうとしている。
女二人が背後の足音を気にすしている様子が見られないのは何故。

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