まとめ 江漢五十三次の成立 江漢五十三次はどのようにして作られたか   
                                            
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江漢画集について「これまでの江漢作品と画風が違う」と言うのが、ニセモノ説の根拠のすべてである。

しかし画風以外のすべての証拠は、江漢の作品としか考えられないことを示している。
晩年の江漢は、果たして画風を変えたのだろうか。

おおざっぱな年表を示す。
江漢は生涯次々に画風を変えたことで知られている。

とくに1799〜1813の間に注目して、,隠退直前直後(1812-1815)に何が起きたのか追求してみよう。

江漢の西洋画と銅版画の最盛期は1780−1800。
最後の銅版画は1803。
油絵は1800をピークに少なくなり、1807退隠書画会。
以後は淡彩や洋風日本画が多くなる。
1813隠退し、1818死去

1799の西洋画談では「写真」(真を写す)という言葉は出てくるが、写真鏡の話は出ない。

1805の和蘭通舶および1811の春波楼筆記になると、真の風景を写すための道具「写真鏡(ドンケルカーモル)」の話が登場する。
主馬あて書簡の時点では、「是非入手したいが、まだ入手のめどが立っていない」らしいことが分かる。

隠退直後の1813年書簡によると、京都の出版元との間で、西洋の道具や機械類を図解した本「和蘭奇巧」の中に、道具を使った描いた風景画を入れる話が進んでいた。
江漢は「蘭法の写真の法」、「我が国始まりて無き画法なり」と表現しており、以上の経過や前後の事情から考えて、「写真鏡による風景画」のことと思われる。

「和蘭技巧」の出版話は、江漢の突然の引退で流れてしまう。そのために用意されていた「写真鏡による風景画」が転用され、江漢五十三次が作られたと推定される。
写真鏡による取材は1812年京都からの帰途、洋画に描き直したのは1813年6月の引退以降。「日本橋」に「相州於鎌倉七里ヶ浜」とあるが、江漢が鎌倉に在住したのは1813年6月から同年秋までである。写真鏡取材は二十枚程度しかなく、死去までの5年間暇つぶしに絵を追加して五十三次に仕立てたことが考えられ、画集の絵に出来/不出来があるのはそのためであろう。

我が国始まりて無き画法」という実験的な手法による作品であるから、従来の作品群と画風が違っても不思議はないのである。
§1 江漢の西洋画論  関連文献資料
1.西洋画談(1799 )寛政11年 
西洋画は・・俗にに油絵という。・・日本にても往々模製するものありといえども、その真を得ざる者多し。西洋画をただ浮画と心得たるもの多し、抱腹に耐えざることと云うべし。絵は写真にあらざれば妙とするの足らず。また絵とするに足らず。その写真というは、山水、花鳥、牛羊、木石、昆虫の類を描くに見る度に新たにして画中の品物ことごとく飛動するが如し・・・
ここでは写真の語が度々出てくるが写真鏡は出てこない。西洋画法としては遠近法と陰影法(立体感)が強調されている。

西洋画談(1799)に添付された出版予告 
春波楼画譜(次のような三部作になる構想であったが、結局刊行されずに終わる。)
(1)西洋画伝部(画法の解説書 ここでは、槻矩(きく)術−−コンパスと定規を使った遠近法が強調されている。)
槻矩術を持って山水遠近の法、楼閣屋舎の図・・写生に図を作て・・日本の山水および和蘭の山水の図をあらわし。木版と銅販とに刻す。
(2)和蘭奇巧部(西洋の道具類の図解) 
天文測量の道具・・・その外、押す法、水をめぐらす法、万力、すべて彼国にて作る奇器、国益になる水車の類、ことごとく図に顕わして秘伝を示す。
(3)天文地理部(天文図、地理風俗図)  
天文地理・・略・・ことごとく図形を以て示す。
2.和蘭通舶(1805)文化2年 の中の章 「西洋画法」
西洋画談(前出)を要約しただけと言わるが、技法として新たに写真鏡の話が入ってくる。
○・・絵を作るの器あり。名を写真鏡と云、和蘭これを「ドンケルカーモル」と呼ぶ。絵を作るの術は後日画譜にて著し示す。
      注) ドンケルカーモルは「暗箱」の意味
3.日付なし(1805-〜1811か) 山領主馬あて書簡(写真鏡の試作を計画中。)
写真鏡は絵を描く上でなくてはならない物なので試作する積もりと書いてある。この時点ではまだ着手はしていないらしい。
○オルコル未だ出来かね、出来次第さし上げ可候・・・
ドンケルカーモル  是は画を御習之御方なくてはならぬ者故、製し候て上げ申すつもりにて候、貴公様へも作り上げ可申候
エレキテルも随分近日中出来仕候
(※山領主馬は文化8年に地方へ移住。主馬が江戸にいた時期の書簡としか分からない。主馬との江戸での交友は1805-1811ではないかとされている。)
4.春波楼筆記(1811)文化8年  
写真論、冨士論、写真鏡の話が再出する。西洋画は写生であり見たこともないものを描くことはないという。
○画の妙とする処は、見ざるものを直に見る事にて、画はそのものを真に写さざれば,画の妙用とする処なし。富士山は他国になき山なり。これを見んとするに画にあらざれば、見る事能わず。・・ただ筆意筆法のみにて冨士に似ざれば、画の妙とする事なし。
之を写真するの法は蘭画なり。蘭画というは、吾日本唐画の如く、筆法、筆意、筆勢という事なし。ただそのものを真に写し、山水はその地を踏むが如くする法にて・・
写真鏡という器有り、之をもって万物を写す、故にかって不見物を描く法なし。唐画の如く、無名の山水を写す事なし。
5.文化8年(1811) 八月二十七日 海保青陵あて (引退前年。銅版画はかっての弟子田善に追い越され、油絵も模倣者が増え、遠近法は北斎ら浮世絵画家が見よう見まねで使い始めており、西洋画創始者の影が薄くなり始めているが、江漢はなお強気である。)
○・・西洋画、小子創草之事なるに世俗偽作して利之為に市中に売るもの多く候故、毎月画会之催して世人に施く事をいたし申候、・・・(いい加減なエセ西洋画が出回っている。真の西洋画を世間に知らしめるのが自分の責務である。)
1812年2月〜吉野紀行から京都滞在 京都人の求めに応じて富士山をたくさん描く。
1812年 江戸に変事が起き、呼び戻される。11月21日京都発−−年内に江戸に戻る。
1813年6月 何もかもいやになったとして隠退し、鎌倉で仏門に入る。 ・・・江漢の隠退事情は別項参照
1813年8月 ニセの死亡通知を出し、行方をくらます。
6.1813年6月12日 山領主馬あて書簡
一.京にては富士山を見たる者少なし、故に小子富士を多く描き残し候。去冬帰りに富士山よく見候て、誠に一点の雲もなく、全体をよく見候,駿府を出てより終始見え申候、是を写し申候。

一.この度和蘭奇巧の書を京都三条通りの小路西に入、吉田新兵衛板元にて出来申し候、その中へ日本勝景色富士皆蘭法の写真の法にて描き申し候、日本始まりて無き画法なり。
 
以上文献資料と年表からの推定−−江漢53次の成立事情

文化9(1812)京都滞在中、和蘭奇巧(西洋の機械道具類の図解。)の出版を京都の版元と打ち合わせている中で、道具(写真鏡)を使って描いた風景画をその中に入れることが決まる。
写真鏡は出来てはいたが、江漢自身もまだほとんど使ったことがなかったので、京都からの帰路、写真鏡を使って始めて各地風景の取り込みを始める。
「日本勝景色富士皆蘭法の写真の法にて描き申し候、日本始まりて無き画法なり。」
「日本始まりて無き画法」は江漢自身もまだ使っていなかった技法であることを示す。

普通なら13日の旅を1ヶ月以上かけたのは道草を食いながらの旅だったため。
江漢画集には、宿場や東海道筋からはずれた場所のスケッチが多く、時間を掛けての取材旅だったことが分かる。
京都からの帰路の日程や記録は残っていないが、山領主馬あて書簡から、快晴続きの冨士に恵まれたことが分かる。
江漢画集には快晴の冨士がいくつも正確に描かれている。

江漢は西洋画の創始者として自負しており、当初は、銅版画 、油絵、遠近法、陰影法 が売り文句だった。
しかし1800以降になると、銅版画は田善に追い越され、油絵も模倣者が続出、遠近法も見よう見まねで北斎ら浮世絵画家も使い始めるなど、創始者江漢の影が薄れてくる。
この頃から江漢は、写実のための道具「写真鏡」を強調するようになる。
     ・・絵を作るの器あり。名を写真鏡と云、和蘭これを「ドンケルカーモル」と呼ぶ。
1812京都からの帰路から、江漢は始めてこの写真鏡を使い始めるのである。

 

§2  江漢と広重の写生場所
江漢は五十三次の宿場にこだわっていない。
また東海道筋から大きくはずれた場所も描いており、道草を食いながらの取材旅だったことが分かる。
広重は出来るだけ宿場の付近にもどそうと努力している。

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§3 カシミールからの 検討  絵の内容からの推定 1)風景が精密すぎる 2)風景は精密だが点景がいい加減
(1) 江漢図の山をカシミールあるいは現地風景と較べると、非常に細かい点まで精密に描写されていることに驚かされる。
普通の風景画では、いくら正確に写生すると言ってもここまで精密には描かないはずであり、異常である。
常識以上に精密すぎることから、特別の意図、特別な実験的な手法によるものであることが窺われる。
左の入り江は興津潟。江戸時代は海だったが今は埋め立てて陸地。 興津山の真後ろにサッタ山が稜線上に見える地点。
(2) 手前の絵を正確に丁寧に描き、遠景や山は適当に手抜きして描くのが普通の絵の描き方である。
ところがカシミールを使っての検討した結果、江漢図の多くは、遠景の風景や全体的な地形を非常に正確/精密に描き、手前の人物や近景をいい加減にあるいはウソを混じえて描いてあることが分かった。
写真鏡を使って風景を取り込み、それを持ち帰って書斎で絵を仕上げた場合、こういう形の仕上がりになるのではないだろうか。
蒲原の例(上図)  家の高さと比較して、Aの丘の高さは7−8mにしか見えないが、実は70−90mの丘である。地形は正確だが、点景とのサイズの対比がちぐはぐなのである。
興津の例
岩山を回り込んで海に注ぐ興津川は正確な現地風景。手前の人物(相撲取りの川渡り)は東海道名所図会からの借り物。岩山は人物との対比で7−8mの岩にしか見えないが、実際は70mの山である。
吉原の例
冨士の形や遠景の右上がりの地形(愛鷹山のすそ野)は正確で現地通り。
しかし近景の東海道のこの付近は、広重図の通りの水田の中の縄手道が正しい。吉原−原の間は大部分が海岸の松林の砂道なのでその印象を描いたらしい。すなわち遠景は正しく、近景はいい加減なのである。

       手前は平坦な低湿地帯(水田)
大正の写真は広重図通り
 
(3)小型カメラの視野−−由井の例
江漢はオランダの絵の本を独学で読んで、「オランダ式遠近法」というものをマスターしていたと言われていた。現在使われいる1点消失法、2点消失法よりも複雑なもので、「多点消失法」と言われる。江漢図「由井」の風景は、正面に富士山、右足元の眼下に波打ち際を見下ろす魚眼レンズに近い超広角レンズの視野で、オランダ遠近法を知らないと絶対描けないと思い込んでいた。

今回、薩垂峠越えハイキングに挑戦、トンネルの真上辺り(山がぎりぎりまで海に迫っている地点)で普通の小型カメラ(35mmレンズ)で撮影したところ、左図のように江漢図と同じ風景が1枚の画面にちゃんと収まっていた。

特殊なオランダ遠近法を使わなくても「写真鏡」を使えば由井のこの絵は描けることが分かったのである。

オランダ式遠近法については、これまでも気になる点がいくつかあった。

@江漢画集55枚中、オランダ遠近法を使ったらしい絵が由井の1枚だけであること。
引き合いに出される「平塚」の道程度なら子供でも描ける。

A西洋名画の中に、特殊な遠近法を使ったらしい絵が皆無であること。
唯一の例外がベルギーの画家ブリューゲル。超広角レンズの視野で描いた絵が何枚かある。一番極端な広角画面は軍隊のアルプス越えを描いた「聖パウロの改宗」だが、右上部に遠近法の破綻が見られる。技法が確立し教科書に書かれていればあり得ないミスであり、ブリューゲルは自己流で描いていただけではないのか。

B当時のオランダには、遠近法を生かした立派な風景画が多い。しかし使われている遠近法は単純な1点消失法、2点消失法だけである。

C「多点消失法」のヨーロッパでの作例は横地氏の著作にも示されていない。

オランダ式遠近法(多点消失法)という技法が、本当にヨーロッパにあったのだろうか。

以上からの結論
江漢画集は、1812京都からの帰路、江漢が始めて写真鏡を使って風景を取り込んだ日本始まりて無き画法による風景画であった。
これまでの江漢作品と画風が違うのは当然なのである。
追記: 江漢画集の縦長画面
広重図は横長だが、江漢図は縦長画面。由井のように縦長が決まっている風景もあるが、空の空間を持て余しているものが多い。江漢が風景画集を描くのに何故縦長を選んだのかも謎の一つであった。

上記のように江漢画集の成立事情が分かると、この謎も解ける。
この風景画集は木版画の形で「和蘭奇巧」に綴じ込まれる予定であった。縦長だと1枚1ページに収まるが、横長だと見開き2ページか2枚1ページになり、中途半端である。本の編集上1枚1ページの方針が決まっており、写真鏡による現地取材が縦長で行われたのであろう。

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江漢の写真鏡
●江漢の著作には写真鏡の図面は出てこないが、大槻玄白の著作には45度の鏡を使った写真鏡図がある。
幕末、横浜の写真店で使われたカメラも同じく「写真鏡」と呼ばれたが、鏡を使っていないので風景が逆さに映る。写真機ならこれでよいが、絵を描く道具としては不適当であろう。

●江漢は、1805年頃から写真鏡を議論し始め、「絵を描く人にはなくては成らないものなので是非入手したいとしているが、なかなか入手出来ず、実際に写真鏡を使い始めるのは,1812年京都からの帰路である。1812年京都滞在中に京都の細工師に作らせたのであろう。※

※20−30年前に流行した眼鏡絵でも45度の鏡が使われている。西遊日記の旅(1788-89)で江漢はこの眼鏡鏡を持ち歩き、田舎の人に見せてびっくりさせて楽しんでいる。ところが帰路の京都で「この間頼みし眼鏡鏡出来る」という記事がある。追加注文分を受け取ったらしい。眼鏡鏡写真鏡も鏡を使った同じような仕掛けなので、同じ京都の細工師に作らせたのであろう。
幕末(1850頃)に訳出された写真機の技術書「写真鏡図説」
「写真鏡図説」。
横浜などでこのカメラを使って写真屋が開店していた。ピント合わせのために、引き出しのようにスライドする構造になっている。
江漢の時代は、まだ感光液(コロヂヨン)はなかったが、砂磨りの不透明版(くもりガラス)に風景を写してトレースする用途として使われていた。
江漢の訳語と同じ「写真鏡」と「ドンケルカーモル」の訳語である「暗箱」が、用語として使われているのは興味深い。
★成瀬氏の研究「29.江漢工夫の奇器について」記事
写真家の中川邦昭氏は江戸後期に作られた写真鏡で実験し絵画作成に役立つことを証明した。(この写真鏡は上図のような写真機であろう。)
中川氏はこれまで知られている江漢作品の多くが写真鏡によって作られたとしているが、成瀬氏はそれには疑問を呈している。
(大畠も同意見: 江漢が写真鏡を使い始めたのは1812年京都からに帰路である。)
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