広重東海道五十三次の新たな謎      総目次へ
−−広重は山の正確な形をどうやって入手したのか。
謎が解けると新たな謎が生まれるのが通例である。
カシミールとの比較で、広重東海道五十三次の一部に、江漢図のコピーだけでは描けないはずの正確な山の形が描き込まれていることが分かった。   平塚の高麗山と消え冨士、府中の徳願寺の山、二川の長い尾根、京都の西山。

平塚については、以前から、広重は江漢図を手にして平塚/大磯付近まで現地確認の小旅行をしたと考えていた。
平塚まではそのままの考えでよいと思うが、同じようなケースが「飛び飛びながら」京都まで続いていることになると、考えを若干修正する必要が出てきた。広重五十三次の新たな謎である。

   二川
   江漢図「二川」−実は猿ヶ馬場付近の風景
1)二川  広重図の背景は二川宿(JR二川駅付近)の近くの長大な尾根で、東海道線や新幹線の車窓から撮影できるほど目立つ尾根である。
しかし江漢図にはこの尾根が描いてないので、現地訪問しないかぎり描けないはずである。
●江漢図には「柏餅屋」を示すものが何もないのに、広重はどうしてそれを知ったのか 
石部
石部「梅の木」 和中散本舗付近の「日向山」
 
2)石部 広重図「石部」の茶屋と人物は、江漢図や東海道名所図会と全く同じで、東海道名所図会モデルの代表例である。
ところが背景の山は、和中散本舗付近から見た日向山(にっこうやま)であることが現地調査で分かった。(2003年9月大畠)
京都には絶対行っていないはずの広重が、京都まであと半日の石部の山を正確に写しているのは何故か。
江漢図にも同じ山が描かれているが、左の稜線が樹木で隠れており、正確な山の形が江漢図からは分からない。
府中
3)府中 徳願寺の山−−静岡市の対岸。東海道線が安部川を渡るとき車窓一杯に見える山。
両図ともに、山の特長であるL字型のテーブル台地がはっきり描かれており、この山を描いたものであることは確かである。
●広重図は朝霧で山裾と後ろの尾根が隠されているのが不思議であり、描かれた部分を見ると江漢図より正確なのがさらに不思議ある。
●江漢図は山の全景だが、カシミールと比較すると余り出来がよくない。テーブル状の台地の位置が高過ぎるようである。
江漢が写生したとき、山裾が隠れて見えなかったのを想像で補った−−すなわち山裾に「下駄を履かせて」描いたが、その際下駄を履かせ過ぎたためにこういう絵になったのではないか。
●しかし1812年に江漢が写生したとき、朝霧で山裾が隠れていた。20年後、広重が現地確認で訪れたときも、朝霧で山裾が見えなかったという偶然は不自然で考えにくい。両図とも同じ原図を元にしているのではないか。
謎解きの仮説 次のように考えると、府中だけでなく、京都や二川の謎も解消する。
1833年広重が東海道五十三次を描いたとき、広重の手元には江漢五十三次画集の他に、江漢の「写真鏡による現地取材の原図」の一部があったのではないか。

○江漢の写真鏡原図では朝霧に山裾が隠れて見えなかった。江漢は見えない部分を想像で補い「ゲタを履かせて描いた」。
○広重は原図通り、朝霧で隠れた姿に描いた。 写真鏡原図には、京都、二川など江漢が採用しなかった現地風景が何枚か含まれており、広重はそれも利用したのであろう。

★江漢書簡には1812年京都からの帰路、「駿府を出てから快晴が続いた」と明記してある。
言いかえれば「駿府
(府中)では、まだ快晴ではなかった」ことになる。この朝霧が晴れ上がったあと、快晴続きに恵まれたのであろうか。

江漢画集は、廻り廻って広重の手に入ったのではなく、岐阜の旧家(多分辞世の句の出所と同じ江馬家)から貸し出され、広重東海道五十三次が完成したあと,返還されて、最近まで保管されていたものであろう。その際、画集だけでなく、写真鏡の原図が付属しており、「写真鏡を使って取り込んだ」という説明も付いていたのではないか。

これまで繰り返したように、広重五十三次の関係者は、江漢五十三次画集が精密な現地写生であることを信じて行動している。単に「江漢が旅の画家だったから精密な現地写生のはず」という理由の他に、もし広重グループが「写真鏡による取材ノート」の 一部を入手していたとすると、「江漢画集は精密な現地写生」と信じるのが当然だったであろう。

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(その2)平塚再考
以上の説明を採るに当たって、一つだけ悩みがある。「広重は少なくとも平塚/大磯まで現地確認の旅をしている」という以前からの推論がぐらつくからである。
平塚では「アングルが違う高麗山が正確に描かれている」ことを理由に江漢広重の二人とも平塚の現地を見ているとした。
一方で、石部については「アングルが違う日向山が正確に描かれている」説明として江漢のスケッチが複数存在したとした。
同じような2つの現象について、別な説明が必要になるのはあまり感心したことではない。
次のように考えて納得しておきたい。
石部の日向山(広重)は写真そのままの写実的な姿であり、写真鏡によるスケッチである。
一方、平塚の高麗山(広重)は、「写真」ではなく、似顔絵漫画的に高麗山の特長をよくとらえてたもので、実際の山を見ないと描けない絵である。
広重「平塚の高麗山」は、そっくりだが似顔絵漫画的。実物を見て、その印象を絵にしたもの。
広重「石部の日向山」は、写真的にそっくり。江漢の写真鏡スケッチ原図を利用したもの。
 
●広重の大磯は、平塚の写生場所からわずか1kmほどの地点で大磯宿の入口を描いたもので、一直線の松並木や、宿に入ってすぐ直角に曲がる家並みなど現地情報を正確に描いている。江漢図は大磯宿を出たあと数kmにわたって続く単調な松林の道を描いたもの。広重は江漢図の人物を借用しながら場所を巧みに大磯宿入口に移動しており、現地を知らないと無理な作業である。

●広重が神奈川と戸塚を訪ねていることは別な検討で分かっており、平塚/大磯まで足を伸ばすのは不自然な行動ではない。

以上から「広重が平塚/大磯まで現地調査した。」という最初の想定は変更する必要がない。

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