江尻 (清水港 三保の松原)                    目次へ
江尻では、江漢と広重は別な場所を描いている。
江漢図は非常に精密に描かれた実在の風景であることがカシミールとの比較で分かった。
正面の二等辺三角形は興津川河口の突端の山(興津岩)。その真後ろに薩垂山のピークが稜線上に空に突き出ていることに注意。
                     
江漢は写真鏡による取材を続けながら、京都から江戸に戻っている。
江尻では海上からの取材という意外な行動を取っている。
東海道名所図会の「さった山」のようなアングルで、海上から見たさった峠を写生しようとしたのかも知れない。
江漢は薩垂山にこだわり、薩垂山が目立つ地点を探した形跡がある。
三保の松原突端から見たサッタ山は稜線の下にある。

このまま船で海上を直進すると、サッタ山が稜線上に出る。
東海道名所図会「さった山」

由井側(由井大橋)から見たサッタ山と西倉沢尾根。
江漢は、峠の反対側(江尻)から見たサッタ山にこだわった?
広重図「江尻」はまったく違う風景で、東海道名所図会「久能山からの遠望図」のそっくりコピー。
東海道名所図会はカシミールと照らし合わせても非常に正確だが、コピーの広重図は不正確。
右手に富士山のように見えるのは、沼津の「鷲頭山」。その右に伊豆の山々が続くが、広重図では全部省略して水平線になっている。

 

◎重要 江漢真物の直接証明 (「江漢以外には考えられない」程度の状況証拠は多数あるが、直接の証拠は少ない。)
西遊旅潭と西遊日記は同じ長崎への旅をまとめたもの。西遊日記挿し絵は西遊旅潭の挿し絵を写しただけのものが多い中で、下の二つの挿し絵は同じ場所だが、「さった山」の形が違っている。
この間に「さった山」の形が江漢の頭にインプットされたのである。
「江漢図(1812京都からの帰路のスケッチ)」と「西遊日記挿し絵(1815頃)」は同じ人物が描いたという直接の証明である。

西遊日記の「さった山」は海上から見た「江尻」図と同じ形で示されている。
  久能山から見下ろした「さった山」はまったく別な形に見えることにも注意。
西遊旅潭(1789頃)の挿し絵(久能山観音山からの展望) 西遊日記(1815頃)の挿し絵(久能山観音山からの展望)
江漢は久能山からの展望図を1788と1799の二回現地取材している。西遊旅潭は1788のスケッチを元にし、西遊日記では1799のスケッチを元にしているが、サッタ山の部分だけが更に修正されており、1812年帰路の「江尻」海上からのスケッチの知識が取り入れられたものである。
「真犯人しか知らないはずのことを知っていた」と言う意味で、「江漢画集の作者が江漢自身である」ことを示す数少ない直接証拠である。
            参照→→江漢の久能山展望図

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