江漢原作問題をどう見るのか                           目次へ
1)広重の盗作事件−不祥事   ただし当時の風習から見て、他人の作品を下敷きにすることは、別に大したことではない。
2)コピーして何が悪い。現地を見ても見なくてもあれだけの傑作を仕上げることが出来るのが広重の腕前だ。
3)広重は優れたアートデザイナー(對中)

などいろいろな見方がある。広重の評価を下げたくないという気持ちは共通である。
 
大畠の現在の見方−−「江漢原作問題の総括」
「巨人の星」「明日のジョー」「子連れ狼」
優れた原作者と優れた画家との組み合わせで生まれた漫画や劇画の名作が多い。
原作者があったからといってこれらの作品の価値が下がるなどと思う人は誰もいない。

広重東海道五十三次は、原作者である江漢の「奇才」「豊富な知識見聞」と広重の卓越した「表現力」とが、歴史の偶然の中で時代を超えて結びついて出来た美術史上でも珍しい奇跡の作品であり、世界に誇り得る名作である。

日本の美術界が世界に恥じたり、生徒への説明に困ったりする理由はどこにもないではないか。
広重東海道五十三次が爆発的な人気を得、後世になっても人気が衰えず、広重の作品の中でも最高傑作とされるのは、広重の力だけではなく、江漢の原作の力によるところが大きい。
そのことを一番身にしみて知っていたのは広重本人である。

広重が次の「木曾街道六十九次」に二の足を踏み、四年間も断り続けたことについて、昔から言われている「保永堂との不和説」でも一応説明出来るが、真の理由は、そのことではなかったか。
不和説は「江漢の原作の存在」について誰も何も知らなかった時代(昭和4年)に生まれた説である。
東海道五十三次には江漢の原作があったからこそ、傑作が生まれ人気が出たことを広重はよく認識していた。
次の木曾街道六十九次には原作がないから、すべて広重のオリジナルで行くことになるが、それで東海道五十三次と同じ人気が取れるだろうか。当時の広重にはその自信がなかったから断り続けた。
更に4年間修行を続け、何とか「広重」ブランドでやっていける自信と実力がついたところで、木曾街道への参加に踏み切った。
「広重のオリジナルだけでは人気が出ない」というのは広重の単なる杞憂ではなく、実績があった。
保永堂は東海道五十三次の人気に便乗して、その続編として広重「東海道の枝道シリーズ」を計画し、江ノ島道シリーズ、大山道シリーズ、金沢道/鎌倉道シリーズの出版予告を出している。

このうち、「東海道の内 江ノ島道」が翌1834年に発行された。もちろん原作のない広重のオリジナルであるが、売れ行きがまったく伸びず、三部作のうち二枚で打ち切られた。

刊行されなかったもう1枚も2種類の版下が残っており、参考として後年版画にまで仕上げたという(神奈川博物館蔵?)。更に上記の大山道、金沢鎌倉道の版下も発見された。
(打ち切りの過程で保永堂との確執が生じたかも知れないとされ、内田氏の不和説につながる。)
東海道53次続編 「東海道の内 江ノ島道」 (1834) 3枚中2枚刊行して打ち切り
「七里ヶ浜」
遠近法を使った海岸風景で、すっきりしてなかなか出来のよい写実的な写生画である。
「七面山から見た江ノ島」
七面山(竜口寺の裏山)の上弁当を食べる二人。正面に海と江ノ島が見える。53次「由井」を思わせる大胆な構図。
庶民の鑑賞眼は意外に高かったのか、とにかく広重のオリジナルでは人気が出ず全然売れなかった。
このまま木曾街道のプロジェクトに入っても同じ憂き目を見ることは明白であり、折角上りはじめた広重人気の足を引っ張ることになりかねない。広重が四年間逡巡したのは無理もなかった。

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