モデル/コピー論                    議論小目次へ        総目次へ
  「江漢モデル説」の証明(その2)
江漢の真物であるかどうかは後回しにして、少なくとも広重図のモデルであることを証明するというのが、議論の第一歩になる。
江漢よりも広重五十三次に関心のある人が多い。広重研究者、東海道五十三次愛好家にとっては、江漢図が「広重図のモデル」であることが分かればとえいあえず十分であろう。

現地風景との比較
現地風景と江漢図/広重図を比較して、「江漢図の方が現地に近いから現地スケッチ」であり、「少なくとも広重図を見ただけでは描けない」というのが「江漢モデル説」を主張するためのもっとも有力な証拠であり、誰にも分かりやすい議論である。
今回のカシミールにより大量の現地風景資料がまとめて入手でき、「江漢図は広重図の単純コピーではなく、現地スケッチ」という事を示す証拠が大量に追加された。  
江漢/広重五十三次は55枚中50枚が同じ図柄であり、偶然の一致ではないから、どちらかがモデルで、どちらかがコピーである。江漢図が広重図の単純コピーではなく、現地を知らないと描けない内容を含んでいる(例えば藤沢の黒門)という事例が一つでも二つでも見つかれば、論理的にはそれで証拠として十分なのである。
こうした証拠に対して、「ニセ江漢が広重図を手にして現地を再訪問し、修正した」というのが唯一の反論であろう。 (ニセ江漢再訪説)

●藤沢の一例しかなかった時期ならともかく、30近くの新しい証拠が出てきた現在、「ニセ江漢再訪説」を主張しても矛盾だらけになるなるだけである。ニセ江漢の行動の目的が説明できないし、行動自体も支離滅裂である。

●「ニセ江漢再訪説」に対する反々論として「広重図をいくら探しても写生場所が絶対見つからない」→したがって「ニセ江漢は広重図の現地にたどり着くことが不可能」という実例がいくつも出てきた。「箱根」「小田原」がすで挙げられていたが、カシミールにより数例が追加された。
ここでは、「江漢図の方が現地風景にそっくり」→「したがって江漢図がモデル」という単純な例を二三挙げておく。
各論の中に同じような例が多数見られる。
反対の見方(前記の「ニセ江漢が広重図を手にして現地を訪問した。」説)が可能かどうかも考え合わせながら眺めてほしい。
 
吉原の冨士 頭が丸い江漢の冨士は現地吉原の冨士。広重の冨士は子供でも描けるギザギザ頭。
どちらが現地写生かは一目瞭然。
カシミールの冨士
広重の冨士
江漢の冨士
藤沢    
江漢図は正確。
小さく描かれた冠木門
遊行寺の黒門(冠木門)といろは坂(緩いスロープ)
遊行寺の入口は鳥居のような形の冠木門である。参道には階段がなく、ゆるい傾斜のいろは坂を通って参詣する。(元禄以後変わっていない。)
江漢図には遊行寺橋を渡った先に(広重図にはない)小さな冠木門が描かれており、江漢図がモデルで、広重図がコピーであることが分かる。
1)広重図には、現地にない高い階段が描かれている。
2)鳥居と橋は江漢図をコピーしているが、寺の建物、左の崖、右の東海道の家並みは、方角が90度回転しており、藤沢宿本陣付近からの眺めである。
広重は、焼け跡で現地スケッチできなかったため、江漢図の構図の中に、別に入手した「藤沢宿からの遊行寺遠望図」をはめ込んだ。
広重図の遊行寺境内が90度廻転していること、鳥居の遠近法がずれていること、の説明はそれしかない。
箱根
箱根 右広重図  左江漢図
カシミールによる塔が島展望図

広重箱根図の写生場所については、明治以来謎とされており、結局広重の空想の産物というのが定説になっている。

江漢図の構図は広重と全く同じであるが、箱根を見慣れた人には写生場所は一目瞭然、恩賜箱根公園(塔ヶ島)の展望台(箱根関所隣りの大駐車場から直接階段で上れる)から見た芦ノ湖と駒ヶ岳の展望である。
「広重図から現地は探し出すことが出来ない」とが明治以来の実績であるから、ニセ江漢といえども、「広重図を持って現地訪問」は出来なかったはずである。
したがってA→B。少なくともBを見てAを描くことは出来ない。

江漢は塔ヶ島からの展望図に、東海道分間絵図の塔ヶ島イラストを重ねた。正確な写生風景の上に空想や借り物の近景や人物を重ねてモンタージュするのは、江漢図の各所に見られる特長である。
蒲原
カシミールで新たに発見された現地写生場所は、細かい点まで江漢図にそっくりであるが、広重図とはほとんど似ていない。
江漢図が広重図のモデルであるという重要な証拠である。

広重蒲原は、広重東海道五十三次の中でも最高の出来と評されており、写生場所を示す記念石碑まで建っているが、カシミールなしでは本当の場所を見つけることが出来なかった。
ニセ江漢が、広重図から現地写生場所を探し出すことは不可能である。
   
石部 江漢図、広重図とも、茶屋と人物は東海道名所図会からの借り物であることで有名。しかし背景の山は実景らしい。
東海道を西から東に向かう旅で、目川から石部に向かう中間地点で、富士山に似た三上山(別名百足山:俵藤太の百足退治で有名)の右手、進行方向正面にこの山が現れる。しわのないのっぺりした山容である。222mの小山(標高差は120mくらい)だが、東海道がすぐ山裾を通るため意外に大きく見えるようになる。

地名は
梅の木、有名な和中散本舗(是斎(ぜさい))のあった場所。江漢は和中散茶屋を描きたかったのであろうが、スケッチしてなかったので目川の田楽茶屋で代用した?
広重は現地がよく分からないまま、江漢の山をシルエットにして配置した。

広重図のシルエットから、逆に江漢図の山の質感や大きさまで想像で描く事は無理であろう。(したがって江漢図→広重図)
広重図の山は「比叡山の遠望」などと言われていた。梅の木に実在する小山ということが分かったのは、カシミールによってである。ニセ江漢が広重図のシルエットを元に現地を探し当てて写生したなどまったく不可能である。(ニセ江漢再訪説の否定)
岡部  
背景の山は宇津之谷峠の山々 江漢図がカシミールや現地写真にそっくりだが、広重図はかなり変型してしまっている
   

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