藤沢 遊行寺                                       目次へ
広重の藤沢遊行寺は、実景と較べて間違いだらけである。

それもそのはず、藤沢の遊行寺は、天保2年(1831)の大火でほぼ全焼した。復興に時間がかかり、天保9年の記念行事が復興が完了していないという理由で延期されている。
広重が東海道の一部を歩いた1833年はまだ焼け跡同然で、現地写生しようにも出来なかったことになる。
江漢図は正確。
小さく描かれた冠木門
遊行寺の黒門(冠木門)といろは坂(緩いスロープ)
1)遊行寺の入口は鳥居のような形の冠木門である。
参道には階段がなく、ゆるい傾斜のいろは坂を通って参詣する。(元禄以後変わっていない。)
江漢図には遊行寺橋を渡った先の正確な位置に(広重図にはない)冠木門が小さく描かれており、江漢図がモデルで、広重図がコピーであることが分かる。

2)広重図には、現地にない高い階段が描かれている。

3)江漢図は江ノ島鳥居−遊行寺橋−黒門を見通したアングル。
広重図は、鳥居と橋は江漢図をコピーしているが、寺の建物、左の崖、右の東海道の家並みは、方角が90度回転しており、藤沢宿本陣付近からの眺めである。
(建物の左側面が見える、階段(参道)の位置、崖の位置、寺の後方に東海道が見える。etc)
広重は、焼け跡で現地スケッチできなかったため、江漢図の構図の中に、別な角度からの「藤沢宿からの遊行寺遠望図」を入手してはめ込んで合成したらしい。

4)広重図の遠近法(とくに鳥居の遠近法)が崩れていることも、「江漢図の枠に別な絵をはめこんだ」と考えることで説明できる。(鳥居が不自然という理由で、広重53次55枚中でも評判が悪い絵である。)
江漢図には広重図にない実在の冠木門が描かれており、現地を写生したことは明らかなので、常識的には江漢図がモデルであることの絶対的な証拠である。

広重モデル説を通そうとすると、「ニセ江漢が、広重図を手にして現地視察し補正して描いたのかも知れない」(ニセ江漢再訪説)という反論しか残されていないが、山などの風景ならともかく、山門のような人工物はそう簡単には行かない。

例えば明治時代、ニセモノ作者が遊行寺を見学したところ、広重図にはない山門があったとする。この場合、@広重が描き落としたのか。それとも広重当時はなかったのか A江漢当時はあったのかどうか と言う時代考証を完全にやらない限り、迂闊に描き込むわけには行かない。「実は幕末に建てた山門」などということがあとで分かると、山門を描き加えたことで自ら墓穴を掘ったことになり、たちまちニセモノシリーズであることがばれてしまうからである。
なまじ現地視察や時代考証などせずに、すべて広重図通りに描いておくのが、ニセモノ作者にとってもっとも安全な方法である。

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