府中 安部川背景の山                                 目次へ

東海道線車窓より徳願寺山。一見、広重図と似ていないが・・・
●広重図の背景の山は、安部川の鉄橋で東海道線や新幹線右車窓の正面に大きく見え、見逃すはずがない山。
下のパノラマ図からも他の山は考えられない。これまでの東海道研究で、まったく記述されていないのが不思議である。
地図に山名が書いてないので、「徳願寺のある山=徳願寺山」と呼んでおく。 
パノラマ図  黄色の点線が渡河地点

●静岡市の背後の「賤機山(しずはたやま)」と解説してある本が多い。山容から見ても距離/角度から見ても全くの誤りである。
中腹のL字型の平地が特徴で、ここに今川義忠夫人を葬った大窪山徳願寺がある。
江漢図は明らかに実在の山を写生した現地スケッチであるが、山の頂上を修正した形跡があり、この部分だけ形が崩れている。

広重図の朝霧を海原−駿河湾と見間違えた本もあったので注意。
広重図は一見まるで違う山容に見えるのだが、川面の朝霧が問題。朝霧で山裾と後ろの尾根を隠して見ると、広重図と同じ山容になり、江漢図よりかえって正確である。
広重はどうやって現地の正確な山の形を入手したのか。カシミールによって生じた広重五十三次の新たな謎である。※
※以下 府中の朝霧について、とりあえずの仮説 (総目次 「新たな謎」参照)
広重図は朝霧で山裾と後ろの尾根が隠されているのが不思議であり、描かれた部分を見ると江漢図より正確なのがさらに不思議である。山裾が隠れていることは広重図から分かるが、後ろの尾根が隠れていることは分からない。(広重図から江漢図の全景は復元できない。)
江漢図は山の全景であるが、カシミールと比較すると、江漢図は珍しく出来が悪い。とくに中腹の平地の位置が高過ぎる。

●江漢が写生したとき、山裾が隠れて見えなかったのを想像で補った−−すなわち山裾に「下駄を履かせて」描いたが、その際下駄を履かせ過ぎたためにこういう絵になったのではないかと思われる。
 「朝霧に山裾が隠れた風景」を「朝霧の中から森が出現する風景※※」に置き換えた?

1812年に江漢が写生したとき、朝霧で山裾が隠れていた。20年後、広重が現地確認で訪れたときも、たまたま同じように朝霧で山裾が見えなかったという偶然は不自然で考えにくい。

●1833年広重が東海道五十三次を描いたとき、広重の手元には江漢五十三次画集の他に、江漢の取材ノート「写真鏡による現地取材の原図」の一部があったのではないか。 そう考えると、「新たな広重五十三次の謎」はすべて解消する。
(江漢画集は、廻り廻って広重の手に入ったのではなく、岐阜の旧家(江馬家)から直接貸し出され、東海道五十三次完成後、返却されたと考えている。この時、写真鏡による原図やメモが一緒に貸し出された?)
○江漢の写真鏡原図では朝霧に山裾が隠れてよく見えなかった。江漢は霧が動く中で、何枚かの写真鏡取材をした。
○洋画に仕上げるとき、江漢は見えない部分を想像で補い「ゲタを履かせて描いた」。
○広重は別な原図をも参照して、朝霧で一部が隠れた姿に描いた。

★江漢書簡には1812年京都からの帰路、「駿府を出てから快晴が続いた」と明記してある。
言いかえれば「駿府
(府中)にいる間は、まだ快晴ではなかった」ことになる。この朝霧が晴れ上がったあと、快晴続きに恵まれたのであろうか。
※※1812年、江漢が京都で描いた真筆「駿州柏原の富士」に同じ手法で「朝霧から出現する森」が描かれている。

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追記 2004/06/12
○2004/02発行の鈴木重三ほか「保永堂版広重東海道五十三次」(岩波)
賤機山は認めていないようだが、広重図背後の山は不明としている。
○平凡社地名全集「静岡県の地名」では徳願寺について詳述しているが、その中で徳願寺山という言葉を使っている。
さらに「広重五十三次(府中)の背後の山はこの山である。」と明記している。
○角川「日本地名辞典」静岡県では安部川の項で安部川渡しの現地写真を掲載している。
説明はないが、写真背後の山の形は明らかに徳願寺山である。
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