神奈川                 目次へ
茶店の並ぶ神奈川台から見た袖ヶ浦の景勝。

神奈川にも再刻版があり、茶店の屋根の形と幅が修正されているだけで、他は同じ図柄である。
屋根の幅だけを広げると海が圧迫されて狭くなり、袖ヶ浦景勝の印象が弱まるので、全体を縮小して描き直している。
何故わざわざ金と手間をかけてまで、屋根だけを描き直したのだろうか。
初刻版(初刷り) 再刻版
江漢図(左)との比較
初刻版/再刻版/江漢図の関係は、「川崎」とまったく同じで、江漢図の屋根がそっくり再刻版に描き込まれている。(すなわち広重の手元に江漢図があったことを示す。)

広重は江漢図通りに描いたはずだったが、茶店の屋根の形が江漢図と違うことが版元の気に入らず、江漢図通りに描き直しさせられた。広重にとって気乗りのしない作業だったためか、江漢図に較べると藁屋根の描き方がひどくお粗末である。

広重五十三次と同じ1833年に刊行された「江戸名所図会」によると、当時の実際の神奈川台の茶店は瓦屋根が一軒あっただけで、他は全部藁屋根であった。「真景=実際の風景」にこだわれば、どうしても江漢図通りに描き直したくなるであろう。
板葺き屋根の長屋と瓦葺きの商店は「切妻」。藁葺きの田舎家は「寄せ棟」である。江戸育ちの広重は藁屋根の描き方が下手である。
あの器用な北斎でさえ、藁屋根の描き方が大変いい加減であることを最近発見した。
広重は神奈川台で何を見たか。
江漢図はタテ長、広重図はヨコ長であることもあって、広重「神奈川」の左側には江漢図にないものがいろいろ描き足されている。
広重「神奈川」には江漢図を写した部分と広重の描き足したオリジナル部分が混在している。
広重図から江漢図を引き算した広重のオリジナル部分について詳細に検証すると、広重が現地で何を見聞したがよく分かる。
下左図の丸で囲った部分が広重のオリジナルである。
広重が描き加えたオリジナル部分

    1833以降の袖ヶ浦新田干拓工事
1)背景の陸地は、港が見える丘、根岸森林公園、州崎の砂嘴、本牧岬など横浜中心部の地形がかなり正確に写されている。
  (この陸地を「房総半島」と解説することがあるが大間違いである。)

2)野毛山下の海中の白い岩は、「姥島」と思われる。この岩がある版はまれで初刻の中でも珍しい「初刷り」を示す特徴である。
  (保育社:カラーブックス「東海道昔と今」より。徳力富吉郎氏(版画家)が地方まで足を運んで選び抜いた初刷りシリーズ。)

3)広重図の茶屋の看板に描き込まれた「菊屋」「たまや」「さくらや」などは実在の茶屋名である。(江戸名所図会、横浜御開地明細図)
(江漢図では看板はあるが、看板の文字はブランクになっている。絵が小さいので文字が書き込めなかったのだろう。)
4)広重図に描かれた小舟の列は、広重東海道五十三次と同じ1833年に着工した岡野新田の工事境界線に並べられた小舟である。
それ以前にも袖ヶ浦干拓は行われていたが、海岸線を広げる程度だったので、袖ヶ浦の景勝を台無しにするほどではなかった。
また江漢の時代はちょうど中休みの時期で、干拓工事は何もなかった。
広重五十三次刊行と同じ1833年に着工した岡野新田を皮切りに、袖ヶ浦中央部の干拓が一気に進み、袖ヶ浦の名勝が消滅した。

5)数ヶ月後、広重はこの地をもう一度通過する(「戸塚」の項参照)が、すでに岡野新田の杭打ち工事が始まっていたため、再刻版には申し訳程度の棒杭が描き足されている。広重は袖ヶ浦景勝の最後の目撃者であり、広重初刻版は無傷の袖ヶ浦景勝の最後の姿を写したものだっただったことになる。
以上のように「広重のオリジナル部分」を検討すると、広重が神奈川台の現地を実際に見て描いていることが分かる。
「広重は本当に東海道を旅したのか」に対するとりあえずの答え: 広重は「少なくとも神奈川までは」現地を歩いている。

同じ手法で広重のオリジナル部分だけを順番に検討することで、広重の「五十三次取材の旅」の範囲とその成果を探ることが出来る。「広重は大磯宿の入口まで旅したが、それから先は歩いていない。」というのが現在の筆者の所見である。(平塚/大磯の項参照)

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