蒲原の雪景色 目次へ
広重写生場所の碑
広重「蒲原」は、広重五十三次の中でも最高傑作の一つとされるが、その写生場所に疑問を抱く人が多かった。

現地に立派な「写生場所」記念碑が建っているが、風景や地形が違いすぎるので現地を訪れても納得する人は少ない。
広重図の上り坂の説明に地元は苦労している。右へ進むと、富士川の河川敷に向かって下る地形である。
しかし「温暖な蒲原に雪が降ったのか」という疑問もあり、それも含めて「もともと広重はいい加減なところもあるから・・」「写生ではなく、ヒント(モチーフ)を得た場所・・」などと説得されて渋々引き下がることも多かった。
写生場所の疑問
カシミールによる探索
カシミールで探したところ、蒲原駅付近に江漢図そっくりの風景があっさりと画面に出てきたのには驚いた。
蒲原宿は蒲原駅ではなく、となりの新蒲原駅付近である。

カシミール図と江漢図との比較

@
右手の緩い坂道 (ヘヤピンカーブで丘の上に出る
A家がある台形の高台
Bその左に続く山並み
Cその後の頂上が沢山ある凸凹の山(445m)
D
左手の双頭の山(398m)・・道路地図では「高山」

・・と地形の要素が揃っているから間違いないであろう。

現地写真(蒲原駅の裏通りより)
当然ながらカシミール図との一致に驚かされる。
東海道から線路を越えた裏通りで、分かりにくい場所である。
カシミール3Dの助けがなければ見つからなかったであろう。
カシミール図は江漢図にそっくりだが広重図にはまるで似ていないし、山や丘の一つ一つが江漢図と同じなので、ここでは「江漢モデル」説および「江漢現地スケッチ」説に軍配を挙げてよいであろう。
江漢の写生場所: これまで考えていた場所から2kmも離れた蒲原宿と由井宿の中間点の海岸寄り。
江漢は当初、53次を描くつもりではなかったので、宿場や東海道にこだわらずに写生場所を決めている。
江漢図の右へ上る坂道@は、「中」郵便局裏から「秋葉神社上り口」。
ここを上っていくと、ヘヤピンカーブして江漢図の丘の上に出られる。

参考: 新蒲原駅前歩道橋から見た御殿山と城山(左)
                           (2枚続き写真)
蒲原宿は御殿山の裾の宿場町で、ここから更に100m山寄り。
背後の御殿山は写真1枚に入りきれないほど大きい。
広重図の山は御殿山に似ているところもあるが、実際の山に較べてあまりにも小さすぎ、現地を見たスケッチではない。
蒲原宿の中心は蒲原駅ではなく、隣の新蒲原駅で、本陣跡や広重記念碑はここに集中している。宿場の背後に御殿山(152m)があり、広重図はこの御殿山を描いたものとされていたが、関係者はみんな心底から納得していなかった。
「広重写生場所の近く」に建てられた「夜の雪の碑」の場所は、どうも地元の強弁、あるいは「地元の熱意の産物」だったように思われる。

江漢図の山は御殿山152mではなく、蒲原駅西北にある398mの山D(道路地図では「高山」)である。
雪景色について   「温暖な蒲原に雪が降ったことがあるのか」についても議論が続いている。
広重五十三次は、基本方針として「真景」を売り物にしていたので、現地との違いについて非常に神経質になっていた。ありもしない雪をわざわざ描いたりはしない。
江漢図は隠退後の作品で、すでに人に見せることを目的としていなかったためか、各所に大胆なフィクションが折り込まれている。
江漢図であれば、「温暖なはずの蒲原の雪景色」も、驚くに当たらない。
(「現地の精密スケッチと大胆なフィクションモンタージュ」が江漢五十三次の特徴である。)
広重の蒲原図をもとに写生場所を探す試みは、数十年議論しても結局成功しなかった。地元で強引に決めた「広重写生場所」に納得できないという研究者は多かった。
              写生場所の疑問
ところが江漢の蒲原図の写生場所は、カシミールで探し始めてからわずか30分ほどで簡単に特定出来た。カシミールの威力を示すと同時に、江漢図が現地写生図であり広重の原図であることの何よりの証明でもある。

目次へ

蛇足: 蒲原の初摺り    初摺りには、足の部分に彫り残しがある。
一般には初摺りは上から下のぼかし(一文字ぼかし)だが、例外もあるとのこと。
初刷りの段階で、いろいろな試みをやり、結局下から上へのぼかしに決めたらしい。(内田実 昭和5)
inserted by FC2 system