江漢53次概論:  大畠洋一   江漢53次画集は、広重53次の原画である。    総目次へ
10年前、司馬江漢の署名のある53次画集が発見され、著作、芸術雑誌、TVで取り上げられ、議論されて話題となった。
インターネット上でも議論がかわされた。

しかし江漢研究者は、それまで知られている江漢の作品と画風が違うことから、まったく取り上げようとしなかった。

また広重研究者は、「もし江漢のホンモノであれば、これまでの広重研究をすべて見直す必要がある大事件である。」としながらも、「江漢研究者がホンモノと言わない」ことから、未だにそれ以上つっこんだ検討をしていない。
この江漢画集については、「明治20年頃、江漢が西洋画の先駆者としての江漢が見直された時期があり、そのときの風潮に乗って作られたニセモノ」「金儲けあるいはイタズラを目的に、西洋画の手法で広重53次をそっくりコピーし、江漢の署名を入れたもの」という見方が一般的である。      ニセモノ論
 
大畠は、早い時期から「江漢図の方が現地風景によく似ている」ことから、江漢のホンモノであるかどうかは別にして、広重のモデルであることは間違いないことを主張し立証してきた。
また詳しく見ると、江漢図は決して広重図のそっくりコピーではなく、イタズラや金儲けのためのニセモノ作りでは説明できないことも主張した。
しかし当時の議論が「江漢の真贋」を中心に行われており、「モデルーコピー」論はそのサポート(補強材料)としか扱われなかったため、あまり注目されなかった。
●本物とまるで違うニセモノなどあり得ない。(贋作史上、前代未聞?)
もしニセモノとすると、ニセモノ作者の動機が説明できない。
          
●江漢図は広重図の単純なそっくりコピーではない。(下図に一例をあげる。) ニセモノ論者は江漢図をよく見ていないらしい。
沼津: 「白装束の行者」→「荷物運びの若者」 大津: 「お河童頭の幼女3才くらい」→「放ち髪の牛飼い少年15才くらい」

室町時代の絵巻物
大雄山の道了尊(天狗寺)詣り。
江漢の母娘は柄杓を持たず、裾をからげている。
馬借(運送業)が盛んだった室町時代の風俗。粋な姿の日本のカウボーイ。
江漢は「牛車の歴史」に関心を持っていた。
以下、次の順序で概論を述べる。
(1)モデルーコピー論カシミール3D (2)広重53次の多くの謎の解明 (3)江漢真贋問題 

 

「江漢図がモデル」であることの証明
江漢の真贋は後回しにして、少なくとも「江漢図が広重図のモデルである」ことを証明する。証明には、二つのアプローチがある。
  
(1)モデルーコピー論  (2)広重53次の謎の解明
(1) モデル/コピー論−−単純な論理

江漢図と広重図は全く同じ図柄であるから偶然の一致ではない。どちらかがどちらかのコピーである。「江漢図の方が現地風景によく似ている」場合、(不正確な画をコピーして、より正確な画が出来るわけがないから)江漢図がモデルと考えるのが素直な見方である。

ニセ江漢再訪説について
上記の論理を否定するには、「ニセ江漢が広重図を手にして現地を一つ一つ再訪し、広重図と現地を見比べ正確な風景を写生し直した。」
というややこしい想定を持ち出すしかない。
広重の場所を一々訪問して写生するのは、@とくに快晴の富士山を写生しようのはライフワークに近い大変な作業である上に、Aニセモノ作りやイタズラの目的に対して何の意味もなく、かえって疑惑の種を作る不利な行為である。
さらにそれ以上にこの説には大変な無理がある。B広重図の大半について、広重図から写生場所を推定することが出来ないのである。「箱根」「蒲原」は、数十年来「写生場所」についての議論が続いている有名な場所である。その他についても、これまでの写生場所についての推論のほとんどが間違いだったことが、最近になって次々に分かってきた。
富士山を比較しただけでも、江漢図は広重図のコピーではなく、現地の快晴の富士山を写生していることが分かる。
広重の富士(誰でも描ける) 江漢の冨士(現地の忠実な写生) 現地写真/カシミール3D
由井

 山頂が丸い吉原の富士。右上がりの地形。
☆「AかBである。ところがBではない。故にAである。」
  「江漢図→広重図」か「広重図→江漢図」のいずれかである。しかし「広重図→江漢図」ではない。故に「江漢図→広重図」である。
☆シャーロックホームズ「四つの署名」のせりふ 「不可能なものを除外していって残ったものが、如何にありそうになくても真相なんだ」
★江漢図には精密な富士が描かれている。江漢真作証明の手がかりである。       江漢の富士論(写生論)
モデルーコピー論(その2)  「カシミール3D」の導入
2002/7月に、「江漢広重研究のエポック」とも言える新しいツールが導入された。パソコンソフト「カシミール3D」である。(書店発売2002/4)  詳細は総目次−−カシミールの説明

国土地理院の地形図をもとに、日本全国任意の場所から見た風景(展望図)が自由自在に描けるソフトである。本来は日本アルプスなど山の眺望を愉しもうとするのが目的だったソフトであるが、東海道研究に応用してみたところ、100〜200m級の低山でも意外に見事に山の姿が描けることが分かり、広重/江漢の「現地風景」問題が一挙に解決し、多数の新情報が得られるようになったのである。(地形図の等高線が元になっているから、家並や工場などの人工物は除外された風景になる。
家並などが邪魔になって広重時代の現地風景が撮れないことが、現在一番の問題であり、カシミール3Dを使うことでその問題も解決する。)
私有地など立入り出来ない場所からの風景も自由に描ける。
カシミール3Dの情報に基づいて現地を訪問し現地の風景写真も撮った。結果は次のように予想をはるかに越えるものであった。

江漢図 岡部                      カシミール図
 
(1)江漢図の山は、単に「現地で写生した」という以上に精密に描かれている。山のシルエットだけでなく、山襞や山のコブまで正確で、写生したというより、風景をトレースしたといったほうがよい。江漢図は、実験的な手法によるものである。

(2)江漢図の山は正確だが、前景に書かれた人物、建物その他には多くのフィクションが含まれている。すなわち精密に描いた山のトレースとフィクションのモンタージュである。
(単純例:興津−−岩山や川の中州と背後の海は正確な写生風景、人物は東海道名所図会の借り物であり、風景に較べて人物の身長が大きすぎる。)

(3)広重図は、二三の例外を除いて、一般に不正確ないし全くデタラメであり、江漢図をコピーした風景である。(例: 岡部−−総目次−各論−岡部

         広重図 岡部
どちらがモデルか」だけが問題であれば、多くの議論も多くの証拠も必要ない。
例えば上に示した「岡部」の現地写真、カシミール、江漢、広重の1組を見較べただけで、江漢図が広重図のモデルであることは明白である。−−広重図「岡部」をコピーしただけで、現地風景そっくりな江漢図「岡部」が描けますか?
★「二三の例外」とは、「江漢図も正確であるが、それに対応する広重図も正確であり、かつ江漢図をそっくりコピーしたものではない(例えば山のアングルが違うetc)」という意味である。
そうであれば、「やはり広重も東海道を歩いたのか」と言うことになるが、もちろん広重は東海道をほとんど歩いていない。
この「例外」については、江漢図/広重図の成立を探る上できわめて重要なので、「新たな謎」として、別に詳しく議論する。(本資料では触れないが、きちんと説明出来る。)    総目次−新たな謎

 

(2) 広重五十三次の謎解き
保永堂版広重五十三次には、「多くの謎」がある。謎のほとんどは昭和5年の内田実「広重」(岩波書店)に指摘されており、70年以上も前からの課題であるが、謎解きはまったく進展していない。
<一枚一枚の画の謎> 詳細は各論参照
●再刻版や異摺りの謎
●東海道名所図会モデルの謎 (これだけは内田実「広重」昭和5にない。近藤市太郎氏「世界美術全集別巻」(昭和35年)の発見)
●写生場所の謎 「箱根」「蒲原」ほか多数

写生場所以外の謎も多い。
●「坂の下」の筆捨山にないはずの滝を描いたのは何故。
●「沼津」の満月の方角その他不自然なことが多い。
●「日本橋」再刻版の「住吉踊り」といわれる人物群。etc
<保永堂版五十三次の包括的な謎>
●広重が三泊四日程度の旅しかしていないにもかかわらず、保永堂が「真景」を売り物にし、序文に「(宿場はもとより名高い建物、海山野川草木、旅人の様子など)何くれとなく、くまなく写し取られたるが、まのあたり、そこに行きたる心地して・・」と堂々と打ち出した自信はどこから来たのか。
広重/江漢以前の東海道名所図会や伊勢参宮名所図会、広重と同年刊行の江戸名所図会では、入念な現地取材を行い、正確な現地風景を描こうと努力している。

●保永堂が、(まだそれほど売れっ子でもない)新人広重を起用しただけの持ち札で、53次画集55枚という身分不相応な大プロジェクトに踏み切った自信はどこから来たのか。
(保永堂は、乾坤一擲に掛けたり、夢を追ったりするような大人物ではなく、細かいことを気に病み、うるさく口を出す小心者にすぎない。)

●広重が東海道を途中までしか旅していないことはほぼ確実(広重、東海道を旅せず説)。しかし広重がどこまで行ったのか特定が出来ないのは何故。(言い替えると、「現地を見ないと描けない絵」が、とびとびに、どこまでも続くのは何故。)※※

●東海道の大当たりのあと、広重が木曾街道への参加を4年間も逡巡した理由(保永堂との不和説?−−昭和5年内田実「広重」)。
不和説でもよいが、それよりも広重が原作のないオリジナルの木曾街道シリーズに乗り出す自信がなかったためではないか。

●若い広重の才能がこのシリーズを始めた途端に突然開花し、「前人未発の技法」を使い始めた「奇跡」(内田実)。
    「奇跡」「広重の天才」というのは、説明になっていない。
●広重が「江漢の画法を修得し完全に消化して自分のものにしている」(内田実)のは何故※
●広重生涯の多数の作品の中で、結局この保永堂版五十三次が代表作/最高傑作とされるのは何故。

●そして「何故保永堂版五十三次だけに、謎が集中しているのか」も基本的な謎である。
上のように書き出してみると、「謎が多い」どころではなく、基本的なことも含めて「何一つ分かっていない」という状況である。
これまでの唯一の説明は「お馬行列に参加して京都まで旅をし、その時の見聞をもとに五十三次を描き上げた」というものだったが、「京都への旅をしていない」らしいことが分かった昭和35年の時点で、筋の通った説明は何一つなくなったのである。
江漢図がモデルであることが分かると、あるいは江漢図モデルを仮定しただけで、以上のような様々な謎がすべてきれいに説明出来てしまう。
70年間解けなかった大小様々な謎の答えは、たった一言「江漢原作があったから・・」である。
例えば、最初の疑問「広重が東海道をほとんど旅していないのに、保永堂が図々しくも「真景53次」を宣伝文句に使えたのは何故か」の答えは、「保永堂が、原作の江漢53次画集を入手していたから」である。

これまでの広重研究者は江漢図モデルの存在を全く知らずに考えていたから、すべてが謎のように見えただけであり、江漢図モデルを知っていれば、もともと謎など存在しなかったのである。

(1)では、「現地風景との比較−−モデルーコピー」によって「江漢図がモデル」であることを立証した。
この(2)では、「モデル−コピー」とはまったく別な角度から、「江漢図モデル説」が立証されたことになる。

以上2種類の証明は、「江漢図の真贋とは無関係」に進めていることにも注意して欲しい。
☆アガサ・クリスティ:「牧師館の殺人」ミスマープルのせりふ
「もろもろの事実にぴったり合う説明があるとしたら−−−それがきっと正しい説なんです。」
※「江漢の広重への影響」(内田実)についての考察
江漢は引退の後、明治初年まで忘れられた存在だった、広重の時代、江漢が是非とも学び取らねばならないほど高く評価されていたかどうか。仮にそうでも江漢全集や江漢美術館がなく、作品はすべて個人蔵だった時代に、広重はどうやって学び取ったのか。

「江漢図モデル説」を取れば次のようになる。
若き日の広重は江漢の絵を50枚以上もコピーした。江漢の洋画を浮世絵版画に直すというこれまでにない仕事であったから、一枚一枚が心魂を込めた他流試合であり真剣勝負であったろう。とくにあらためて江漢の勉強をしなくても、この作業を通じて江漢の画風が自然に身につき、自家薬籠中のものになったであろう。
★英会話にしてもパソコンにしても「勉強のための勉強」ではなかなか身に付かない。実務の中で必要に迫られて体得した体験だけが、本当に身に付き、将来の仕事にまで役立つものである。
※※「広重、東海道を旅せず」説についての検証
広重は京都に行っていないことはほぼ確実である。ではどこまで行っているのか。
★江漢モデル説を取れば話は簡単で、広重は平塚/大磯までしか行っていない。次の小田原(酒匂川大橋)の箱根山はまったく実物と違っており、それから先は全部江漢図と東海道名所図会のコピーである。
江漢図がとびとびなのは、江漢の取材目的が「53次」ではなく、「富士、日本勝景」だったためで、引退後の江漢が暇にまかせて53次に拡張した。
★江漢図を認めない立場で検証すると、矛盾点が次々出てきて謎は永久に解けない。「現地に行かないと描けない絵」を徹底的に検証すると、「広重は京都には絶対に行っていない」が、「二川、石部には行っている」ことになるはず。石部は「京都まであと半日」の宿場である。
   総目次−−「広重、東海道を旅せず」の検証
                                               
広重東海道旅せず
朝日新聞(2004年1月23日夕刊)第1面トップ見出し
「広重東海道を旅せず?」  「26枚転用の可能性」「石の橋桁が木製に」
広重が東海道53次を京都まで旅せずに描いたのは確実だと、浮世絵研究か鈴木重三さんが、「保永堂版東海道五拾参次」で明らかにした。全55枚のうち少なくとも26枚が3種類の本からの転用と指摘している、広重上洛説の見直しは避けられそうもない。

○千葉市美術館・浅野秀剛学芸課長の話「現地に行かないと描けない絵があるかという検証が必要だが、行かなくても描けることを丁寧に検証してある。上洛しなかった可能性がはるかに強くなった。」


(3) 江漢図の真贋 (真贋問題−−真物の証明)
江漢図の作者は、江漢本人以外に該当者が考えられないという状況証拠/間接証拠は多数ある。
上記の「江漢の富士論」もその1例である。
江漢図の作者しか知らないはずの情報を、江漢本人が知っていたという直接証拠もある。(「江尻」参照)
話が複雑になるので、本資料では真贋論を省略する。 ただし次のことだけは言っておきたい。

●美術品の鑑定は「疑わしきは罰せず」的な姿勢で行われる。少しでも疑点があれば、真物の鑑定は出ない。
江漢研究者の鑑定は「江漢作品群と画風が違うことから、ニセモノかも知れない。購入するのは、避けた方がよい。」という意味であり、
それはそれで正しい。
●広重研究者が拡大解釈して「ニセモノかも知れないから、研究の対象としない。」としているのは、学問の常識から言っておかしい。
江漢/広重それぞれの立場で研究し、総合判断すべき問題である。
   ○真犯人ではない疑いがあるから、有罪判決を出さない。−−「疑わしきは罰せず」の原則から言えば正しい。
                                         ただし無罪と無実とは別問題なのだが、混同されることが多い。
   ×真犯人と決まったわけではないから、捜査対象にもしない。−−この考えは誰が見てもおかしいでしょう。
江漢の紹介
蘭学者として、天文学、世界地理などの著作が多い。交際が広く全盛期には多くの大名を友人に持っていた。「口が悪い」ことで有名で、また「はったり屋」として評判が悪いが、老中松平定信の政策を公然非難したがお咎めがなかったことから「御落胤」説があり、全国をくまなく何度も旅行していることから「幕府の隠密」説まである奇人である。
「江漢西遊日記」の旅(1788)では東海道をのんびり旅し、長崎のオランダ出島を訪ねている。
画家としての江漢は、洋画の先駆者で銅板画、油絵、西洋画の遠近法を阿蘭陀の本などで学び工夫してマスターした。

(江漢の画歴と晩年の江漢)
江漢の生涯の画風は、浮世絵−南画(中国画)−銅版画−西洋画(油絵)とめまぐるしく変わる。
1807年には西洋画(油絵?)を止めることを宣言し、1812年には京都に滞在して「日本画、南画、洋画を融和した画風」で富士山の絵を沢山描く。後の横山大観につながるような透明感のある富士山として好評である。

1812年暮れに江戸に戻った江漢は金銭問題に巻き込まれ、1813年の六月には「何もかもいやになった」として「絵画の頒布会」もふくめて一切の活動から引退してしまう。その後1818年の死去まで二度と世に出ることはなく、1813以降の絵画作品は(著作の挿し絵以外)知られていない。
「何もかもいやになって」引退したはずの江漢が、隠退後も絵を描き続けていたことは資料から明らかである。
                                         くわしいことは 江漢のプロフィル

江漢図の成立事情−−江漢全盛期の作品ではなく、引退後の晩年の作品であり、引退事情の謎が絡んでいる。
江漢の晩年の事績をたどり、次のことが分かった。
1812年、京都に六ヶ月滞在し、京都の文人と親交を深める。ところが江戸表で親類に変事が起きて呼び戻され、11月20日京都発、暮れ(旧暦)に江戸へ戻る。
京都からの帰路、快晴に恵まれて富士を写生する。
京都の出版元との間で、「和蘭奇巧」の出版話が進んでおり、「写真鏡」(ドンケルカーモル)による「日本勝景色富士」の挿し絵を入れることが決まっていた。
(江漢の引退)
江戸に戻った江漢は金銭問題(親類が江漢から預かった120両を、無断で利殖に廻し、焦げ付いて全額回収不能になった。江漢はプロの取り立て屋を使って回収に奔走する。)に巻き込まれ、それがこじれて世間から糾弾され、1813年6月隠退に追い込まれる。すべての公的活動から引退し、鎌倉で仏門に入ったが、世間はなお納得せず、同年8月にはニセ死亡通知を出して行方をくらませ、以後1818年の死去まで、二度と世に出ることがなかった。
引退以後の江漢の絵は、(著作の挿し絵以外は)何も残っていないが、「後の世に残すことのみを楽しみに・・」絵を描き続けたことは書簡から知られている。
江漢は1812年の京都からの帰り旅を利用して「和蘭奇巧」の挿し絵のために、生まれて始めて「写真鏡による取材を行ったが、引退事件のために出版話も流れ、折角の取材が無駄になってしまう。
江漢はその取材スケッチを利用して西洋画手法で53次画集を作成した。画集の日本橋には「相州於鎌倉七里ヶ浜」とあり、鎌倉山に隠居中の作品である。江漢が鎌倉に居住したのは引退年の1813年6月から秋までである。

江漢の写真鏡取材は53次ではなく、10枚程度の日本勝景の挿し絵が目的だったが、引退後の暇に任せて、53次までに拡張した。
当然材料が不足し、東海道名所図会などから借用せざるを得なかった。
引退後の江漢は体調不調で、長距離の旅は不可能になり、京都の帰路が江漢最後の旅になったのである。
★江漢画集は53次の宿場や東海道から離れた場所も多い。
★広重はそれを53次の宿場に戻そうと努力している。
 
写真鏡の発見  江漢の「日本始まりてなき画法」
大畠は以前から、「画風の違い」の説明として、この画集は江漢引退後の作品であること、江漢の引退事情に注目すべきであることを主張してきたが、「写真鏡」までは考えが及ばなかった。
カシミール3Dや現地写真によって、江漢図が「単なる写生以上に精密」であることが気になり始めたことによる発見である。

江漢図の遠近法が以前から議論されていた。細野氏は「江漢図にはその時代にはあり得ないような高度の遠近法が使われている」ことから、明治以降の作品とし、数学者の横地教授は「江漢は独学でオランダ式の高度な遠近法をマスターしていた」として、水掛け論になっていた。
写真鏡であれば話は簡単である、ガラスに写ったとおりにトレースするだけだから、「高度な遠近法」は必要ない。大畠は以前から江漢図「由井」の右下、真上からの波打ち際の俯瞰をどういう画法で描いたのか納得できないでいた。普通の遠近法ではこの図は描けないのである。(広重もここだけは真似できず、風景の断面図のような形でごまかしている。)
ところが現地訪問してバカチョンカメラで撮った写真には、江漢図通りの視覚で波打ち際の俯瞰がちゃんと写っていた。「写真鏡」の謎が解けたきっかけである。
右下、波打ち際の俯瞰
1813年6月12日 山領主馬あて書簡
この度和蘭奇巧の書を京都三条通りの小路西に入、吉田新兵衛板元にて出来申し候、その中へ日本勝景色富士皆蘭法の写真の法にて描き申し候、日本始まりて無き画法なり。
「蘭法の写真の法」は写真鏡のこと。「日本始まりてなき画法なり」で、江漢も始めて使ったことが分かる。
ニセモノ説の唯一の根拠である「画風の違い」もこれで納得できる。
これまでの江漢研究   写真鏡について

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