国貞の美人東海道について    大畠                                 目次へ
歌川国貞の美人東海道(1834)の背景には広重五十三次がそっくり写されている。広重五十三次の単純コピーというのが定説である。
結論からいうと、美人東海道は広重図の単純コピーであり、定説が正しい。次の五井野正氏の主張はすべて間違いである。
五井野正氏(歌川派門人会会長)の主張
●広重は東海道を旅しておらず、兄弟子である国貞から原画を貰った。美人画東海道がその原画である。」
●広重東海道五十三次には不合理な点が多く、オリジナル性に乏しい。美人画東海道の方が合理的である。
●当時の慣習からいえば、門弟、後人は師匠や先人から図を貰う事で師弟関係を生じるもので、その逆はあり得ない。
  師匠格である国貞が、門弟である広重の作品をコピーして自分の作品にしたと考える人がいたとすれば、研究者として軽率である。
平塚 蒲原
理由
これまで江漢図と広重図の比較研究で論じてきた議論を美人東海道に当てはめてみると、美人東海道は広重五十三次の欠陥をすべて継承している。広重の山の形にはかなり正確なものもあるが、国貞の山は完全に崩れている。
(もし江漢図が安易に広重図をコピーしたものであれば、「美人東海道」のように間違いだらけになるはずという見本のようなものである。)
広重東海道には実写によるオリジナルな部分があり、この部分は非常に正確なのだが、美人東海道ではそれさえも誤写されている。広重東海道を安易にコピーしただけのものである証拠が山ほど指摘できる。※
江漢図 広重図 国貞美人東海道
平塚:江漢図は富士の見えないアングル 広重: 高麗山と富士の位置関係は正確 高麗山の左に富士が来ることは絶対ない
蒲原: 江漢の家の土台はしっかりしているが、広重の家並みは足下が幽霊のよう。それがそのまま国貞にコピーされている。
沼津: 天狗男の白装束と煙草入れ、母娘の衣装や柄杓に着目。広重の意図的な改訂が国貞にそのままコピーされている。
以上の3例を見ても、C→Bでも(A→B,A→C)(共通モデル)でもなく、A→B→Cであることが明白で議論の余地がない。
A→B→Cとコピーをくり返すうちに、山の形などが、極端に崩れている。
」について、五井野氏は「広重図は「熱田神事」の題になっているが、目次では「浜の旅舎」となっており、以前からの謎であった。美人東海道ではまさしく「浜の旅舎」が描かれており、美人東海道が広重五十三次より先にあったことが分かる」としている。
美人東海道シリーズを通してみると、次のような事情が浮かび上がる。
(五井野氏の強い主張にもかかわらず)国貞は「門弟の広重のシリーズをそっくりコピーして」美人東海道シリーズを作り始めた。
当然ながら版元の保永堂から強い抗議があがり、調停または審判委員会に持ち込まれた。「」の辺りまで進んだ時点で委員会の決定が下り、それ以後の広重のコピーが禁止されたため、以後は東海道名所図会のコピーに切り替えた。
五井野氏が強い根拠として挙げた「」の異同はその境界に当たり、図柄の変更をよぎなくされたのである。

江戸時代に「著作権保護」という思想はなかったが、「同じ本を出さない」という出版業界の協定で保護されており、どこまでを同じ本と見なすかの具体的な判定は業界内の委員会(仲間行司)で審査決定された。江戸以外の大阪の版元など業界コントロールが及ばない場合は奉行所に訴えるという方法が取られた。(江戸学事典より)
「美人東海道」と「広重東海道」の関係は江戸時代の著作権保護の実態を示す面白い例である。
注)−国貞の京都に2種類がある。(左 三条大橋、右 京都御所)
国貞の美人東海道は、鳴海までは広重図をモデルに使ったが、著作権問題を避けるために宮、桑名以降は主として東海道名所図会をモデルにした。その流れの中で、京都では東海道名所図会と伊勢参宮名所図会をモデルに三条大橋を背景にした。
ところが広重五十三次も京都では江漢図ではなく、東海道名所図会と伊勢参宮名所図会をモデルにしており、よく似た図柄になってしまった。
再び著作権問題が生じる恐れが出てきたため、国貞は御所を背景とした別の京都を用意したらしい。
五井野氏の主張は「師匠や兄弟子が門弟や後輩の絵を模写して自分の作品にすることは絶対にあり得ない」という事を勝手に決め、それをすべての話の前提にして議論を展開しているに過ぎず、論理性がない。
現実に「美人東海道」が「広重東海道」をコピーしていることは事実なので、五井野氏の説はすでに出発点からくつがえっており、耳を傾けるべきではない。

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