京都                   目次へ
広重の京都は三条大橋、江漢の京都は京都御所を描いており、別な場所である。
「広重は、発禁の恐れがあるため御所を避けた」という説があるが、広重以前の北斎五十三次にも京都御所が描かれており、誤りである。
当時出版が禁止されていたのは、朝廷の扱いではなく、徳川家とくに大御所の家康についてである。
1.広重図
広重のモデルは「東海道名所図会」と「伊勢参宮名所図会」である。川の流れ(中州の形)や霞にかすんだ家並み(水没したようにも見える)は「東海道名所・・」のコピー。
(1)三条大橋
−豊臣秀吉が天正17年に作った日本最古の石橋。ところが広重五十三次では木造の橋として描いており、「広重が京都に行っていないことの何よりの証拠」だそうです。(中右瑛氏※)
この説を確認し、補強するために三条大橋をじっくり現地観察した。

現在の橋は昭和30年代に再建されたものだが、当時の橋を再現することに努力し、欄干の銅製の飾りや石材の一部を利用している。 「東海道名所図会」三条大橋は明らかに石橋として描かれているが、広重図は木製。広重が現地を見ていない証拠である。

東海道名所図会「三条大橋」 部分
大正時代の三条大橋(明治14年) 現在の橋桁の方が江戸時代に近い。
(2)橋の上の人物。−−広重の人物の中で京都にしかいない人物−−日傘を差した侍と「きぬかづき」をかぶってお供を連れた公家の女性は「伊勢参宮名所図会」からの借用である。
伊勢参宮名所図会
   きぬかずきの女性
伊勢参宮名所図会
  日傘を差した武士
 
(3)背景の山々−−三条大橋の背景はのっぺりした東山で(下の現地写真)、広重がモデルにした東海道名所図会/伊勢参宮名所図会にもその姿が正確に描かれており、「清水」「八坂」「知恩院」など東山地区の地名や寺名も入っている。
ところが広重の背景には険しい山が描かれている。これは広重が間違ったのではなく、方角を180度回転させたものである。

東海道名所図会/伊勢参宮名所図会は京都を出発点とした旅の案内書、広重五十三次は京都を終着点とする旅の画集なので、三条大橋も180度回転させる必要があると考えたのであろう。
しかし広重はここでミスをしている。橋を回転したのに川の流れ方向(三角州の形)を回転するのを忘れている。三角州は尖った方が上流である。
  広重図の背景の山は全くのデタラメで、現地写生ではない。
広重ほどの画家が京都まで出かけて、橋桁の形も、橋の上の人物も、橋の背景の山も、何一つ取材しなかったということはあり得ない。
終着点の京都では、「写生をしていると馬行列の一行に遅れるから、目に焼き付けるだけにとどめた・・」などの言い訳は通用しない。
広重が東海道を歩いたかどうかは別にして、少なくとも京都には行っていないことが以上で証明された。
注)180度回転
三条大橋を描いた図として、@東海道名所図会、A伊勢参宮名所図会、B都名所図会があり、同じ画家が担当している。@Aは、京都を出発点とする旅のガイドブックで東山が背景。Bは京都市内のガイドブックで、同じ三条大橋のように見えるが、よく見るとBの右下の建物が@では左に来ていることや三角州の形から、180度回転した図であることが分かる。
    @東海道名所図会
    B都名所図会
 
2.江漢図の現地確認
広重「京都」は三条大橋だが、江漢「京都」では京都御所を精密に描いている。
ここに描かれた門はT字型の「向唐門」という形式で、京都御所や隣の仙洞御所も含めて、この形式は「建春門」だけであることを現地確認した。門脇の小塀や、塀の各所に設けられた通用門まで含めて正確に写生されている。
(江戸の後期以降、京都御所が火事などで損傷した場合、そっくり前と同じ姿で復元する事になっていた。)
●江漢は引退の前年1812年に6ヶ月以上京都に滞在しており、現地でスケッチする時間はたっぷりあったはずである。
江漢図の背景の山は(比叡山ではなく)、大文字山らしい。木立があって分かりにくいが、多分御所からは山が見えず、この方角にもう少し進んだ場所からの大文字山のスケッチを合成してものであろう。
現在は家並みが建て込んで、この角度の大文字山の写真が撮れる場所がなく、歩道橋(相国寺付近)の上から辛うじて1枚だけ撮影した。
すぐ近くの山なので、少し移動すると形が微妙に変わる。それを考慮すればまあまあの写真である。
写真右手前が大文字山。中央はその後ろの466mのピーク。
●広重図の手前の山は、江漢図の大文字山をコピーしたものらしい。三条大橋からのアングルだと形がまったく違うはずである。
●広重図の遠景の山々は全くのデタラメで、東海道名所図会の雲型を利用して険しい山を表現している。
参考:中右瑛氏「安藤広重の謎」(2001発行)より
京都
五十三次の終着点「京師・三条大橋」は俯瞰構図で描かれているのだが、ここで広重は大きなミスをしでかしているのである。鴨川に架かる三条大橋の橋ゲタが木製になっているからで、当時は石ゲタだったことがハッキリしている。細かいスケッチをしたという広重の最大のミスである。

京師・三条大橋」のミス
花の都・京の玄関口・三条大橋が東海道五十三次旅の終着駅である。長さ六十間(約百八メートル)、幅四間五寸一七・三メートル)。四条大橋、五条大橋とともに京三大橋という。お江戸・日本橋から百二十四里二十九町(四百九十ニキロ)。江戸を発って十数日かけてやっと京にたどり着いた。いまなら新幹線「のぞみ号」でタッタの二時問余り。当時は大変な旅だったに違いない。
図は、鴨川の流れに架かる三条大橋付近の鳥厳図である。橋には、行列の一団やら、さまざまな人たちが行き交う。繁華だが京ならではのおだやかな風俗である。遠景には、東山三十六峰が連なる。山麓に知恩院の大屋根や、中腹に清水寺、その下方に八坂の塔、川向こう岸の町並みの中に四条芝居小屋のヤグラが見え、広重は克明に写している。がしかし、広重は後世にのこる大失策をしでかしているのである。当時の三条大橘の橋げたは石で組まれていたのだが、この図は木げたとなっている。
この橋は天正十八年(一五九〇)、豊臣秀吉が五奉行の一人・増田長盛に構築させ、軍事的な重要さから石の脚柱とした。実地踏破し丹念にスケッチすることを実践とした広重にしては、のミスである。このミスに気付いた広重は、安政二年に出版した『五十三次名所図会』(蔦屋版)の「京」では、三条大橋は石げたに訂正されている。この重要なミスは広重上洛説を否定する決定的な証拠という。各宿場図を検証したのであるが、江戸から三島あたりまでは、実景どうりのリアルな描写であるので、現地踏破したことがわかり、それ以西へゆくにつれて想像的な作画となる。特に、終着に近くなるほどパクリ絵とも思われる図が多くなることから、広重は中途までは旅行し、上洛は果せなかったのではないだろうか、という結論に達する。

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