まえがき 広重東海道五十三次と司馬江漢五十三次画集           目次へ    
                        
世界的な名作と言われ、郷土の歴史や東海道ロマンのシンボルとして親しまれている広重東海道五十三次(保永堂版)には、多くの謎や問題点があることが知られていた。  
@広重は東海道を旅行したのか  A再刻版や異刷りが多い。   B東海道名所図会からの借り物が多い。etc

最近、追い打ちをかけるように、モデル(原画)とされる司馬江漢の東海道五十三次画集(洋画、小型の画集)が発見された。

55枚の内50枚ほどが全く同じ図柄であるから、偶然の一致ではなく、どちらかがモデルで他方がコピーである。
江漢(〜1818没)は広重五十三次(1833刊行)より前の時代の人物だから、江漢の署名が本物なら、江漢図は広重東海道五十三次の原画ということになり、これまでの広重研究は根底から見直す必要があるという美術界の大事件である。

一見、江漢図は広重図を単純に模写しただけのように見える。
ところが絵の内容を細かく見ていくと、江漢図は現地風景の正確な写生であり、色々な意味で広重図の単純コピーではないことが次第にはっきりしてきた。
江漢側にも謎が多い。
江漢研究者は「これまで知られている江漢作品群との共通点がない。」「江漢の画風と違う」という理由で真物の判定をしていない。

画集が発見された当時、「江漢の時代にありえない画題、画風、画材」すなわち「ニセモノであることを示す証拠が揃っている」とされていたが、これらはすべて間違いで、ニセモノであることを示す直接の証拠は見つかっていない。
画風については、江漢自身謎だらけの人物であり、浮世絵−中国画−西洋銅版画−西洋画と次々に画風を変えていること、とくに晩年の1813年、謎の引退をして隠遁し、1819年没するまで五年間葉謎に包まれている。隠退後の絵画作品は世に知られていないが、この間も絵を描き続けていたことが書簡などから分かっている。

江漢図の印形はパソコンによる判定で真物であることは確認されている。
江漢の署名はよく似ているが、ニセモノ作者は徹底的に署名の練習をしてから仕事にかかるものなので、一般的に署名は真贋判定の決め手にはならないとされる。

ここで解かねばならない広重側/江漢側の問題は次のように多岐にわたり、総合的な検討が必要である。

  (1)江漢図広重図のどちらがモデルでどちらがコピーか
  (2)以前から言われていた広重東海道五十三次の謎の解明−江漢図から広重五十三次の謎が解けるか
  (3)広重五十三次の成立事情。−本当に広重は東海道を歩いたのか
  (4)江漢引退の事情。 引退後の江漢−−晩年−引退後の江漢が目指した画業
  (5)江漢五十三次の成立事情。何時どのようにして作られたか

★江漢研究者による真贋鑑定は江漢図Aだけを眺めて従来の江漢作品と比較しただけで、広重図Bとの相似が考慮されていない。
★初期の研究は、江漢図Aと広重図Bを比較しただけの議論が多く、水掛け論に終わることが多かった。
★本格的な総合検討は、江漢図A、広重図Bのほかに参考図Cを加えて見較べ、微妙な相違点と共通点を見付ける事から始まる。
 
 
A.江漢図 B.広重図 C.比較のための参考資料
再刻版(日本橋) 賑やかに改訂した。
江漢図の人物は再刻版に近い事に注意。
広重初刻版(川崎)
広重再刻版(川崎) 
たいして違わないのに何故わざわざ作り直した?
藤沢 遊行寺
現地風景(遊行寺山門−黒門)

広重図にはこの山門はない。
江漢図には橋の先に小さく描かれている。
     
江漢図「小田原」
どう見ても箱根山ではない。
広重「小田原」初刻
広重「小田原」再刻版 何故山を変えた?
「池鯉鮒」初刷り
「池鯉鮒」後刷り 何故山を入れた?

 

2002年、強力なパソコンツール 3D地図ソフト「カシミール が加わる。       
A.江漢図 B.広重図 C.カシミール図  正確な現地風景
箱根
多くの研究者や記者、カメラマンが現地を探したが、写生場所はどうしても見つからない。
広重の空想の産物というのが定説だった。
恩賜箱根公園 塔ヶ島展望台から
芦ノ湖と駒ヶ岳 (カシミール)

広重「蒲原」 写生場所の議論が多い。
「蒲原付近」新たに発見された写生場所は江漢図の地形にそっくり。 
頭がギザギザの広重の冨士
頭が丸い「吉原」の冨士
広重「吉田」
吉田橋の向こうに小さく描かれた山は?
「吉田」 石巻山

次の二組の人物や茶屋は東海道名所図会からの借り物。しかし背景の風景は実物らしいことが分かった。
興津
「興津」 岩山を回りこんで海に注ぐ興津川

石部
「石部」の背景は意外にも実在の山であった。

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