小田原と大山                               目次へ
広重「小田原」には以前から再刻版の謎があった。
東海道五十三次が発売された数が月後、背景の山が右図のように改訂されたのである。
版画浮世絵では絵を描き直すと版木の彫り直しが必要になる。大変な手間と費用をかけてまで改訂した理由が長い間まったくの謎であった。
広重初刻版
広重再刻版
江漢図がモデルであることが分かると(あるいはモデルであると仮定すると)、数十年来の「小田原」再刻版の謎が簡単に解ける。
広重図の箱根山は実際の風景とは、まるで違う。
広重の旅は大磯までで、その先の酒匂川までは、行っていない。
江漢「小田原」の山の輪郭をそのまま使って、箱根らしくモザイク模様に仕上げたもの。

  酒匂川大橋(東海道)から見た箱根連山(実際の風景)
  遠景の山が中央火口で、左から二子山、駒ヶ岳、神山

★広重の再刻版は、実際の箱根風景に似せてうまく修正している。
箱根山を見分けるには両子山が重要な鍵となる。

  カシミール図の大山(田村の渡し)   
江漢図は、箱根ではなく、山の輪郭枝尾根/前山から大山の精密な写生である。
江漢図には、後ろの表尾根の山(塔ヶ岳)を消した痕跡が残っている。

カシミールで検討すると、この形は田村の渡から見た大山であることが分る。東海道(馬入橋)からでも大山は見えるが、表尾根が続くため大山の形が良くない。
取材当時、江漢は五十三次の宿場や東海道にこだわっていなかったから、ここで東海道をは少しずれて相模川4キロ上流の田村の渡まで行って大山を写生し、「田村大山道」経由で藤沢に出たのであろう。

★東海道五十三次の中に何故大山図がまぎれこんだのかこの数年間の謎であった。田村の渡からの写生であれば、ほんの少し脇道にそれただけであり、この京都からの帰り旅では、江漢は取材のためにあちこちで道草を食っている。

小田原再刻版の謎解き
江漢図「小田原」に描かれた山は、どこでどう間違えたのか、箱根山ではなく大山であった。

「小田原」の文字は画面ではなく、画集の縁に貼り付けてある。(上図)
広重は江漢図の山(大山)の輪郭線をそのまま使って(右に傾いた山頂、左肩上がり)、モザイク様の箱根山を描いている。
  
広重は江漢図の「小田原」の文字を信じて小田原図を描いたが、初刻が刊行された後になって、山が違っていることに気が付き、箱根山らしく描き直した。それが小田原の再刻版である。
再刻版についてのこれまでの議論
これまで「広重が老成したあと、若いときの奇抜な作品を恥じて描き直した」「五十三次を描いている過程で、山、樹木、家屋など風景の表現方法について開眼描き直した。」などの説があったが、いずれも考えすぎであった。
時間的に見ても、初刻と再刻版の間は数ヶ月しかなく、広重が老成したり、開眼したりする暇はなかったはずである。

答えが分かって見ると、単純明快、原図の箱根山が間違っていたことに気がついて、描き直しただけの話であった。
間違いは、江漢図の表題の間違いから始まったものであり、広重図が江漢図のコピーである何よりの証拠である。
江漢図が広重図のモデルである証拠は30件くらい指摘できるが、論理的にはこの小田原1件だけでも十分証明されている。
広重図から江漢の大山へたどり着くことは、まったく不可能であり、広重図をモデルに江漢図が出来ることはありえない。
★小田原再刻版にはいくつかの変わり絵がある。下の二図は両子山は同じで、後ろの駒ヶ岳の形を変えてみているだけである。
両子山ほかの風景は同じ。右図は左図の青版を直接削って山を険しくしたもので、実際の山容に近づけたわけでもない。
上図のように、木版を直接削って修正する場合、絵師(広重)は関与せず、彫り師に直接指示しているのではないだろうか。
内田実「広重」(昭和5)では、「小田原再刻版は筆触や落款の書体から見て広重の筆ではないことは明らか」と断定的に書いてあるが、そういうことも影響しているものと思われる。
初刻版
再刻版
ただし
「落款の書体」については内田氏の言う意味が分からない。
どちらも広重の筆跡/書体であり、内田氏の勘違いであろう。

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