大津  琵琶湖と逢坂山 牛飼い少年 大津と池鯉鮒の「異刷り」の謎            目次へ
広重 山がない版
広重 山がある版
1)江漢図には背景に逢坂山が描かれている。

2)広重図の屋根と屋根の間の白い▽部分は逆光で白く光る琵琶湖であるが、これまでの広重研究で指摘されたことがない。

3)広重図には「山がない摺り」と「山がある摺り」があるが、どちらが初摺りだろうか
大畠説: 初摺りには山がなかった。広重チームは「江漢図=実景」の基本的な立場から、江漢図にある逢坂山を後から何とか入れようと苦労したが、技術的に難しく結局山を入れることをあきらめた。その過程で様々な異版、異摺りが生まれた。

定説では「最初は山があったが、後摺りで不精をして山を省略した」ということになっているようだが、版木の「鑿の跡」などを詳細に検討すると定説は間違いである事が分かる。
大津の初摺りについて別に詳述)
江漢図は、東海道名所図会の「大津」に伊勢参宮名所図会の牛車を組み合わせたもの。広重は江漢図が東海道名所図会を原図にして居ることに気が付いていたので、茶屋内の人物などを原図から補っている。
東海道名所図会 大津  この坂は右上がりか、右下がりか?左右どちらが京都か?
伊勢参宮図会 逢坂山 牛車 (車道と歩道が分離)
米や炭などの生活物資は生産地から琵琶湖を舟で輸送され大津に陸揚げされたあと、人力や牛車で逢坂山を越えて消費地である京都に運搬された。
江戸時代、馬車や牛車は原則として街道を通ることが許されなかったが、例外として品川〜江戸、大津〜京都、府中の3箇所だけが許可されていた。特に大津付近では、図のように車道と歩道が分けられていた場所もあり、一部に石のレールも使われた。
(1)現地の地図によると、大津から来た場合、走井茶屋は道の左側にある。江漢は東海道名所図会「大津」の左右を間違えている。(正しくは、左が大津で右に向かっての下り坂。)

(2)広重図に逢坂山を入れてしまうと、琵琶湖の向こうに逢坂山があることになり、現地の地理と矛盾する。
矛盾しないためには、白く光る琵琶湖を削除するしかない。
琵琶湖を削除した版もあるが、結局、「琵琶湖を残して逢坂山を削除」ということに落ち着いた。

琵琶湖を入れたのは広重の工夫である。琵琶湖を削除すことについて広重が最後まで譲歩しなかったのであろう。
(ただし実際の地形ではここから琵琶湖は見えない。広重の想像である。)
牛車の先頭に立つ赤い着物の謎の人物について
@牛方より背が低いことから少年である。A短い派手な着物をを着て総髪(放ち髪)、鞭を一本持っている。B牛車にはそれぞれ牛方が付いており、この少年はフリーな人員である。 などから、仕事が終わった後で牛の世話をするのが仕事の「牛飼い少年」、室町時代の絵巻物によく出てくる。いわば日本のカウボーイで、粋な衣装から見て、また絵巻の少年が生き々としていることから見て、子供から大人になる過程の少年たちのあこがれの職業であったのであろう。
牛飼い少年は室町〜戦国時代の風習で、多分江戸時代にはなかったはず。

広重はこの少年の正体が分からなかったのか、或いは江戸時代にはない風習のためか、お河童頭の幼女に変えている。
石山寺縁起(室町時代)より
江戸時代にはなかったはずの「牛飼い少年」を江漢が何故描き込んだのか。この画集にときどき見られる「江漢の嘘」の一つである。
江漢の住まいの芝神明の近く、高輪牛町に江戸の牛車センターがあった。江漢はわざわざこの牛車センターを訪ねて江戸の牛車の歴史などをヒヤリングし記録している(春波楼筆記)。江漢は旅の途中でしばしば大津に寄っており、大津の牛車も再三目撃する機会があったと思われる。室町時代の「牛飼い少年」について関心を持って調べた時期があるのであろう。
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