本陣の時代考証                                目次へ
広重当時の一般の人や一般の絵師は本陣の作法についてほとんど何も知らなかった。
各地の名所図会などに描かれた本陣図は
建物は正確だが、幕や宿札など本陣作法についてはまったくでたらめなことが多い。
明治以後の広重の解説者、さらには
江戸時代考証の専門家でさえも本陣の知識は非常に弱い。
その中にあって江漢と広重の二人だけが本陣作法に精通していたのは大変不思議である。
広重図               江漢図
注意)広重図についてこれまで多くの人が解説しているが、ほとんどの場合、基本的な勘違いをしている。

1)この場所を本陣の内部(中庭)として解説している人が多いが、実は街道に面した外側で、門をくぐった先が本陣の内部である。

2)裃姿の人物は本陣の当主(町人)である。武士の上役と解説している人が多い。
  本陣当主が、間もなく始まる「お見送り」儀式のために正装したままで、荷物の運び出しを指図している場面である。
時代考証の立場から見ると、この二枚の本陣図は大変興味深い。
本陣の作法は一般人にはまったく縁のなく、また知る必要がない事柄である。絵師にとっても同じことで、当時描かれた各地の名所図会に描かれた本陣図は(建物は正確だが)考証的にはまったくでたらめである。その中にあってこの二枚だけは文句の付けようがないほど正確である。

この二枚は一見同じように見えるが考証的に見ると重要な違いが数カ所ある。
1)門の幕:江漢図は白麻。広重図は紫縮緬。 2)宿札の文字:江漢図は「〜守宿」。広重図は「〜守」 3)広重図は定紋入り提灯4)本陣当主の帯刀 etc

どちらが正しいのだろうか。実は数カ所の重要な違いがあるにも関わらず、本陣作法の時代考証上両図とも正確なのである。
したがって、どちらがどちらにコピーしたにしても、江漢/広重とも本陣作法に精通していたことになる。

江漢は西遊日記を見ただけでも何度も本陣を訪問しており、本陣作法に詳しくても不思議はない。
広重図が何故これだけ正確なのかは別に考える必要がある。
参考図伊勢参宮名所図会「阪の下」(部分)

江漢/広重図の基本的な構図はこの図から得ている。
荷物を出し入れする板の間、玄関に通じる「門」、立てかけた二本の槍、幕の下からのぞいた「宿札」など
街道に面した側で、すぐ脇を一般の旅人が通行していることにも注意。


「関」「坂の下」の本陣は、門のタイプが図と違う。
現地の写生ではなく、一般的な本陣風景を描いて五十三次の「関」に当てはめたものである。
この参考図はよく観察して丁寧に描いてあり、各地名所図会の本陣図としてもっとも出来がよいものであるが、時代考証から見るとなお不正確である。

1)行列は到着しているのに、まだ門の幕が張ってない。
2)殿様はすでに奥にお入りになっているのに、門の脇に白砂の山が残っている。殿様の駕籠が通る前に門と玄関の間に敷き詰めるための砂である。
3)関札がない。
大名行列が到着してしまうと軍事施設並みに警備が厳重になり、とくに写生などしていると挙動不審者と疑われて取り調べを受けたりする。この絵は大名の到着の数時間前に写生したものであろう。
門と玄関に掛ける紫縮緬(絹)の幕は白麻の幕より風雨に弱いので、行列の到着直前に張ったのであろう。
白麻の幕
紫縮緬の幕  定紋入り提灯
足柄史料: 
小田原宿の本陣当主が明治になってから書いたもので本陣作法の資料としてもっともに詳しく権威がある。

(抜粋)(大大名、御三家、幕府重職の場合は)門と玄関にその家の定紋を白く抜きたる紫縮緬の幕を、また家の前には定紋を黒く抜きたる白麻の幕を張り、・・・
提灯台に提灯を吊して、門前と門内に一対づつを置く。これにも定紋を付けたり。・・・
中大名は玄関だけ紫縮緬・・・
小大名は玄関も門も(白の)麻幕を張り・・・その家々の慣例があり一定ならざるは勿論なり。

裃/帯刀姿の本陣当主
帯刀の有無をわざと隠して描いている。
足柄史料: 本陣当主の扱い(抜粋)
(定本陣の大名は)定紋付きの裃をその本陣に与え、送迎に着用せしめ、または定紋を付したる提灯の使用あるいは帯刀をも特許なすなど、・・自藩の家来に準ずる待遇をなしたり。※

江漢図は裃帯刀の正装をした本陣当主が荷物の運び出しを行列編成担当の武士と打ち合わせている場面で、これで正しい。(双方が腰をかがめて相手に一目置いていることに注意)

広重も江漢図が正しいことを知っていたが、一般の人の知識レベルでは誤解されそうなので、当主の帯刀をわざと隠し、相手を町人に変えたのであろう。

※本陣は場所を提供するだけで、大名がすべて自分で野営地を設営するのが建前であり、「本陣」の言葉もそれから来ている。
大名行列が、何から何まで自分で準備するのは実際には大変なので、便法として滞在期間だけ本陣当主を家臣に準ずるものとして任命し、その証として定紋入りの裃と刀を当主に下賜したものであろう。
江漢図は本陣当主と行列の武士が打ち合わせをしている場面だが、武士と町人の対話にしては、両者とも小腰をかがめてお互いに一目置いているのが面白い。
江漢は、本陣当主は町人でありながら、武士と同格だったことを表現しようとしている。
  ●
同じ宿場役人でも問屋場などでは武士は威張り散らしていた。 江戸川柳 「権柄にえらで問屋を突き回し
     「えら」は頬骨のこと。「あごで使う」という日本語を「えらで使う」に置き換えることで、頬骨の張った田舎武士の威張り振りを表現した。
宿札の写真:「泊」と「旅宿」
参考  よくある間違い  
広重:狂歌入り東海道五十三次(上図)
殿様のかごが出ていくのをみんなで見送る「出立図(見送り図)」と解説されることが多いが、実は「出迎え」の図である。(本陣の内と外を間違えている。)
行列が到着し、殿様の駕籠が門から玄関に入るのを行列の武士たちが見送っており、宿場関係者は裃/帯刀の正装で出迎えている。
(見送りは早朝のこともあり、本陣当主だけが見送ることが多かった。)
広重は本陣作法を実によく知っており、絵に間違いがない。
大熊喜邦:東海道宿駅と本陣の研究
本陣の研究書としてほとんど唯一のもの。
写真は著者の祖父の佐渡奉行大熊善太郎の宿札で、「泊」「旅宿」の二種類が残っている。

広重図の「」、江漢図の「宿」ともに正解である。
武家の場合は「御泊」「御宿」「御休」は間違い。建前として自分が野営地を設営し、自分が掲げる表札なので敬語は使わない。

注意)足柄史料は大名の格付けによる幕の違い、提灯の定紋、本陣当主の帯刀などまるで江漢/広重53次問題のために書かれたような資料である。
大熊喜邦:「・・本陣の研究」にも全文が引用されているのだが、引用ミスがあり、一番重要な
幕の色の部分に長い脱落があることを発見した。大熊氏の最初の取材時から脱落していたのか、最終的な製本印刷の段階で脱落したのかは不明だが、足柄史料は大熊著書に頼らず原文を参照していただくようお願いしたい。
江漢の本陣訪問記事 
西遊日記
だけでもこれだけ出てくるから、江漢が本陣に詳しかったのは不思議はない。

4月27日 熱海 今井半太夫方に至る。(本人の注釈:「その後四五度も行く。」)  注)本陣に指定されていた熱海最大、最上の宿
5月1日  熱海 脇本陣渡辺彦左衛門方へ行く
5月13日 駿府 難波屋庄蔵とてお出入り商人あり。宿所仰せ付けらる。これへ参る。
    15日白川越中侯(老中松平定信),庄蔵方お泊り・・・(老中の行列が泊まる二日前、本陣の受入れ体制をわざわざ見学に行ったらしい。)
10月3日 
   大里(門司近辺) 大村侯、本陣に滞留ありて玄関に幕を張りあるを見て・・衣服を改め君辺へ申入候えば早速お逢いありて・・
        (旅の途中、佐賀の殿様が本陣に泊まっている所へ行きあわせ、挨拶に立寄って世間話をしている。)
広重の本陣知識(推定)
江戸を離れたことのない広重は本陣作法について何も知らなかったはず。何も知らないのはかえって強味で、専門家に聞くしかない。
広重は現地チェックの旅で神奈川〜大磯間のどこかの本陣を訪問し、関係者に江漢図を見せてこの通り描いてもいいかどうか助言を依頼したのであろう。本陣関係者は「江漢図が100%正しいのでこのまま描いて間違いない」ことを確認した。
しかしそれだけでは話がすぐ終わってしまい、遠来の客に対して失礼なので、「白幕だけの場合もあるが、大大名では門と玄関に紫縮緬の幕を張ることもある・・・定紋入り提灯を持ち込む大名もある・・・」など余分な説明を付け加えた。
江漢図を前にしての具体的な説明だったので分かりやすく、広重は短時間でいっぱしの本陣通になってしまい、その後の東海道シリーズでもしばしば正確な本陣図を描いている。

 

参考:時代小説評判記(昭和14年) 中公文庫(三田村鳶魚 江戸文庫シリーズ)
本陣の時代考証は専門家でも難しいことを示す好例として挙げておく。
この本は江戸考証の大家三田村鳶魚が当時の人気時代小説の考証にクレームをつけたもの。
冒頭で木曽馬籠宿を舞台にした島崎藤村の「夜明け前」を罵倒に近い言い方で徹底的に批判している。しかし藤村は馬籠本陣の出身で、親戚中から取材してこの小説を書いており、鳶魚の批判はすべて誤りであった。

鳶魚の批判
●「定紋付きの裃」の用語について、定紋のない裃などありえない。
「定紋付きの羽織」なら分かるが「定紋付きの裃」という言葉を使うのはおかしい。
「苗字帯刀をまだ許されていない本陣当主」が「裃/帯刀」で大名行列を出迎える場面があるのがおかしい。
鳶魚への反論
(大畠)
全国各地で「定紋のない裃」が冠婚葬祭に使われていた。(各地の祭礼図など) 前記の足柄史料にも、「定紋付きの裃」という用語が使われている。
足柄史料によると、大名から本陣当主に対し定紋付き裃と刀が下賜される。
  (名字帯刀とは別なしきたりである。)

★鳶魚は厳しい口調で批判しているが、藤村の方が100%正しい。
江戸考証の大家三田村鳶魚がこれだけ見事に間違えた例は珍しい。
藤村が鳶魚にどう反論したのか、それとも無視したのかは不明。

三田村鳶魚「時代小説評判記」 島崎藤村「夜明け前」についての批判 原文引用

定紋付きの裃
一番先に目につきましたのは、宿役人が「定紋付きの裃を着用して」とあることです。
裃という以上は紋のついていないものは決してない。女義太夫や手品使いなど模様のない綺麗なものがあり、そういうものは別ですが、その他には紋のついていない裃はありません。いやしくも紋がついていると言えば借着でない限り、自分の紋に決まっている。裃の借着をすることはまずないから自分の紋をついた裃を着るのが定例である。
羽織の場合は「紋付きの羽織」と言うことがある。これは紋のつかぬ羽織もあるから区別するために「紋付きの羽織」と申すのです。
紋の付かぬ裃はないから「紋付きの羽織」というのさえおかしいのに、「定紋付き」とまで念を入れられたのは、一体「裃」というものを知っておられるのかどうか。こうしたことさえこうなので見れば、島崎さんの識量に対して不安を感ぜずにはいられません。

もう一つ、宿役人が大名や役人を送迎する場合、木曽では裃を着用したのかどうかお伺いしたい。苗字帯刀を許されている人は別ですが、苗字帯刀を許されていない人まで裃を着たのかどうか木曽以外の他の場所では、こうした場合裃を着ないのが例になっているのです。小説に出てくる二人の宿役人のうち、一人は後になって苗字帯刀御免になったと書いてあり、もう一人は後々まで苗字帯刀を許されていない。しかるに裃を着て出るというのだから、私はこれを疑わしく思うのです。

 

「仙女香」の広告について
広重図
仙女香、美玄香のあとに、発売元(坂本氏)と住所(京ばし南てん馬丁・・)が明記されており、広告であることは一目で分かる。
広告であることに気がつかずに、江漢図にうっかり描き込んだとは考えられない。

両図とも「〜守」←→「〜守宿」に描き直す、門の幕の色を変えるなど本陣作法に細心の注意を払って描いている。何気なく描き写した内容のものではないことは確かである。
江漢図「仙女香は江漢の時代にはなかったから江漢画集はニセモノ」とする意見をあちこちで見かけるが、無責任かつ軽率な間違いである。

仙女香は三代目瀬川菊之丞(1751-1810没)(俳名仙女のち芸名仙女)の人気に連動して売り上げを伸ばした商品であることは、化粧品の歴史、歌舞伎事典、江戸学資料など何を見ても書いてあり、江漢(−1819没)と同時代の化粧品である。
仙女香は宣伝に熱心な女性用化粧品で、浮世絵を広告媒体に使ったことはよく知られているが、正確には「美人画浮世絵」を広告に使ったのである。女性用化粧品の広告に美女使うのは古今東西の常識である。広重が男だけの世界である本陣風景女性用化粧品の広告を入れたのは何故か考えてみる必要がある。(広重はこのあと木曾街道でも2カ所に「仙女香」の看板を描いているが、広告かどうかよく分からない。
原画の江漢図に仙女香の看板が描き込まれていたため、広重は広告に使うことを思いついたのであろう。

高橋克彦「浮世絵ワンダーランド」平凡社(2000発行)では「関所に仙女香の木札が掲げられているはずがありません。」とし、「広告の趣向」と割り切っているが、この図は「関所」ではなく、「関の本陣」である。本陣にはお供の田舎武士が泊まるので「帰郷の際、奥様へのお土産に江戸名物の仙女香をどうぞ」という意味で化粧品の広告があっても不思議はない。
広重は本陣関係者に江漢図を見せて本陣作法を確認してもらっている。「仙女香」の看板も本陣関係者に確認した上で描きこんだはずである。あとになって「本陣に化粧品広告が実在するにしても、本陣をよく知らない読者が不思議に思うのではないか」などという心配意見が出たため、どちらへ転んでも言い訳できるように広告仕立てに変えたのかも知れない。広告主「坂本氏」の名前と住所がふすま模様に隠れてよく見えないのは広告としては異例であり、途中で方針変更して広告主名を入れたためこうなったのではないか。
                                           
女性用化粧品の広告

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