原文資料
引退事情と引退後の江漢                        
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江漢は1813年6月に「何もかもイヤになった」(画も悟りもオランダも細工も究理話も天文も皆あきはて申候ても困入り申し候−江漢書簡)として突如隠退する。さらに8月にはニセの死亡通知を出して行方を眩ましてしまい,1818年に死去するまで2度と世に出ることがなかった。
江漢五十三次画集は引退直後の作品であり、江漢画集の成立事情は引退と深く関わり合っている。(正確には、隠退直前に現地取材し、隠退直後に作品として仕上げた。)江漢の引退事情を探ることが画集の謎を解く重要な鍵である。
これまでの江漢研究では、隠退事件や隠退後の江漢人生を掘り下げて検討しておらず、隠退理由を江漢の書簡通りに「何もかもイヤになった」ためと受け止め、「長年の悪口がたたって友人が少なくなり、嫌気が差して隠退した」などとしている。
また8月のニセ死亡通知事件を「世間を騒がせて喜ぶ愉快犯的な変人の行為」としている。
 
いずれも資料の読みが浅い。
江漢書簡の「画も悟りもオランダも細工も究理話も天文も皆あきはて申候」は遠方の友人に対する江漢の見栄であり、これにだまされると全体が読めなくなる。   時事川柳:失業と言わず脱サラしたと言い
江漢は「不祥事」を起こして世間から糾弾され隠退に追い込まれた。6月にすべての公の仕事から隠退して仏門に入ることで追求から逃れようとしたが、それでも世間が納得せず、8月になって姿を消すしかなかった。
不祥事の原因は「貸し金の過酷な取り立てと思われる。
  
隠退前後〜隠退後の江漢についての資料は意外に充実している。以下の原文資料から江漢の身に何が起きたのか考えて見てほしい。
 
原文資料(一部抜粋)
引退前
文化八年
京都の前年
(文化八年)八月二十七日海保青陵あて  (引退直前の江漢の日常。強気であり、引退しそうな気配はない。)

小子も近年は西洋天経学にはなはだ通じ申し候て、毎月八日二十日会として講し申し候、京極備前之守侯世子また阿部福山の世子、皆門人にて彼方へ参候論談いたし候。さて人は文字を知り足る人は多く有候えども、理を知る者は少なし。・・西洋画、小子創草之事なるに世俗偽作して利之為に市中に売るもの多く候故、毎月画会之催して世人に施く事をいたし申候、・・・
江漢全集には「文化十年ヵ?」とあるが、どう考えても「十年」では無理があり(十年八月にはニセの死亡通知を出している。)、やはり京都に行く前年の八年であろう。「世俗偽作して」を「江漢の生前から江漢の偽作が出回っていた」と解する人があるが、そうではなく「西洋画のまがいもの」の意味。
引退前
文化九年

京都滞在
文化九年六月十三日 江馬春齢あて
二月二十日江戸を出立仕、三月八日に吉野山に参り、それより大和廻り、・・京都に家を借り、住居申し候。色々の雅人と出会い仕り候。江戸と違い京地は人物好く、おもしろき人のみ多し。・・この間究理談とて話をいたし候えば、聞く者多く参候。江戸の風韻と違い申し候。(
吉野紀行から京都へ。京都が大変気に入って、人生を楽しんでいる。)
文化十年
六月引退
文化十年六月十二日 山領主馬あて
去年春よりして京都に出で、生涯京の土になり可申と存、住居仕候処に、江戸表親族共の中変事起り候て、急に去暮に罷返り候処、今以てさはりと済不申、然し
十が九まで相済候て、先々安心は仕候。・・・

小人京よりa和と申す画師を弟子にいたし江戸へ呼びよせ候処、・・真の狂人になり申し候・・それ故吾志をつぐ者なし、この度は医業をいたす者を呼び世を譲り、小子はとんと世外の人なり、目黒の方へ隠居所を作り名を改め無言道人と申候。私跡相続人は上田多膳と申候て、旧の芝神仙に居申候。

一.京にては富士山を見たる者少なし、故に小子富士を多く描き残し候。
去冬帰りに富士山よく見候て、誠に一点の雲もなく、全体をよく見候,駿府を出てより終始見え申候、是を写し申候。

一.この度和蘭奇巧の書を京都三条通りの小路西に入、吉田新兵衛板元にて出来申し候、その中へ日本勝景色富士皆蘭法の写真の法にて描き申し候、日本始まりて無き画法なり。
然し今は画も悟りもオランダも細工も究理話も天文も皆あきはて申候ても困入り申し候、
先は万々申残し後便可申上
文化十年
六月引退
文化十年六月 江馬春齢あて
今は画も天文も究理も細工もオランダも残らずあきはて困入り申し候、
先は幸便、匆々申上候
貸金取立ての事情 無言道人筆記(貸し金取り立ての事情)
・・・親類どもに金子預け置きしにその金を私用に使い失いしこと京都へ申し来たりし故、俄に・・江戸へ帰り来るに・・・小子老衰して業を務ること不成、故に工夫し、兼ねて左内というもの、信濃の生まれにて・・(女房子供三人を抱えて困窮していたのを青山の与力春日藤左衛門が古証文の催促人に頼み)居催促して命を惜しまず取り立てけるに、藤左衛門その報いをせず、立腹して去り・・喜兵衛と言う者の金を境町の貸付日々通ひ、是にて口を糊し居て、ある時吾が帰りたるを聞知り、神仙坐へ来たりしなり。

左内へ云曰く、吾金預け置しに取ず、汝この金を取りなば汝に預け、また汝を世継ぎにすべし、この金百余あり。彼考え思う、百金を高利に貸すときはたちまち千金になるべしと思い、早速承知し、・・それよりだんだんと貸したる金を責め取り、ついに百金を取り得て今残り二十両となる。しかるにその百金を諸々に貸し付け、吾は隠居所を建て置き、養い毎月金2カンと贈る也、然し是は善知には非ず。
今思うに信州辺りの人は一体生まれつき剛直にして愚なり。事を起こすこともするなり。小金を借りるものは身迫り如何ともすべきことなく借りる故に返す了見なし。それを快く貸す故に借りる者は誠に甘露をなめたる如し、故に一向に返す気なし。然しそれを取らずば大損をする故取り立てる。甚だ骨折りあり・・・(罪人を拷問し気絶したら気付け薬を与えてまた拷問するようなものだ。)この商売は牢屋の罪人を責めるよりは少し勝りたるか。

無言道人筆記 七九
左内という男,信濃の生まれにて貌大きく、志も甚だ祖にして、万端いっこうに取り柄なし。・・ただ妙なるは、貸したる金を催促する事、何度も行くなり。これもまた、人の出来ぬことなり。

文化十年
八月ニセの死亡通知
司馬無言辞世の語(偽の死亡通知)
「江漢先生老衰して画をもとめる者有りといえども描かず。諸侯召せども往かず、蘭学天文或いは奇器を巧婿とも倦み、ただ老荘の如きを楽しみ、・・・鎌倉円覚寺誠拙禅師の弟子となり、ついに大悟して後、病て死にけり。・・・文化癸酉八月 七十六翁」
ニセ死亡通知のあと 文化十年十一月十一日 山領主馬あて
小人義当時は隠居にて・・その上鎌倉へ参、誠拙禅師と問答して禅師の弟子になり、常に居士衣を着し僧の形の如く、・・今までの蘭学天文話を止め申し候、それ故鎌倉にて死たると世に告知らせ申候。この摺り物を江戸中京大阪へも遺し申候、実に死にたると思う者は香典などをよこす者あり、また死にはせぬという者もあり。
吾が虚名を知る者多き故、世上いろいろの虚説をいう者在る故
の事なり、・・
和蘭奇巧、ようやくこの節写本出来、上方へ 近日為登り申すつもりにて来年中には開板になり可申候。
・・慰みに相認め申し候、ご覧に入れ申し候。
マスコミ? 石亭画談(伝聞) 
江漢かって事故ありて偽り、すでに死せりとして、芝某所に蔭居す。
或人途上にて江漢の後背を見て、追て其名を呼ぶ。江漢足を逸して去る。追うもの益々呼て接近甚だ迫る。
江漢首を回して目を張って叫して曰,死人あに言を吐かんやと。再び顧みずして復去ると云 −−−
鎌倉から江戸へ戻る 無言道人筆記 八
文化酉年(10年)ふと思い出して書す。
八月鎌倉円覚寺において死にたること板行にして知己へ皆知らせけるに、誠に訪者旦てなし。しかし市中のかまびすしく 、また熱海に隠れんことを思い、鎌倉逃れんとも想い、去年は京に居て、生涯ここに閑居のことを決しけれど、予を知るもの多くして、冬に至りて東都に帰りぬ
     大畠注:「文化9年冬、京都から江戸に帰った」ことではなく、「文化10年冬、鎌倉から江戸に帰った」の意味である。鎌倉からの転居先の候補として京都も考えたが京都も知人が多いのであきらめ、結局江戸に戻った。(次の書簡も参照)
江戸の生活
文化十年冬
文化十年 閏十一月二十六日付 江馬春齢あて
・・(京都から)東都に帰り、この事の疾相済み申し候えども、とかくに世塵の役々たるを厭ひ、画天文オランダにも飽き果て、世には死したると告げ、この秋鎌倉山に閑居を結び居り候ところ、冬になり田舎も寂寞として寒く、またまたこの間神仙坐に帰り候て隠宅を造り居申し候。・・小人も名を変え、桃言と申し候、江漢はあまり人に聞こえ候故に止め申し候。・・先だっては目黒辺に隠宅を造り候えども、是も止め、とかく浮き世に飽き申し候・・しきりに隠れたく思ひ、・・
      
(参考)江漢が鎌倉に在住したのは、1813年6月から1813年秋までである。江漢画集「日本橋」に「相州於鎌倉七里浜」。
江戸の生活
文化十二年

手紙の発送を人に頼む

文化十二年三月二十日 山領主馬あて
・・・参候てお話し承りたく、・・只今は出家の心地に相成り、行き先にて死にても宜しく候えども、皆親族の者留め申し候故、思い切って出かね申し候。せめては九十里の路ほどならば論なく参る可く候。・・小人は今は老衰、腰痛み歩すること一里を限り申し候。(引退後の江漢の健康状態 遠距離の旅は無理だが、寝たきりというほどではない。)

・・・今は(麻布)コウガイの辺地へ庵を結び、一人の老婆を使い安居仕り候・・・
去年八月死たると申事を世上に告げければ、訪人一人もなし、この間になりて不死事をようやく知り、今にてはだんだんと人尋申候、それ故またまた蘇生して詩文書画の才子と交わり・・・(江漢の見栄と思う。)

今は画も時にふれ相認め申し候、とかく後世へ残す事のみを楽しみいたし候、ほかに慰み楽しむことなし。

・・西遊旅談は板行にして世にあり、その時の日記あり、これをとくと改め、相したため候処、紙数三四百枚になり、間には画を入れ、西遊日記題し、ようやく三分の二出来申し候」「もっとも板行には出来申さず、まことに詳しく、茶を飲み、酒を飲み候事まで相しるし申し候。ご覧に入れたく候・・・
西遊日記の出版を最初からあきらめていた「プライベートなことを書いた部分があるから」という説もあるが、その部分を削除して出版すれば済む話である。

なお仰せ下され候通り、この度の御返書は詫間氏へ頼み申し・・、私娘の宅へ参る候路に候間、参て詫間氏直々頼み申し候て御噂のみ申し上げ候。  (住所を隠すため、手紙の発送を詫間氏に頼んでいる。発送まで名前を隠すのは異常である。)

江戸の生活
文化十二年
文化十二年六月以降 山領主馬あて
・・五月頃よりだんだんとかの不喰いの病起こり・・人交じりも面倒、長談いたし候事不能、一向に生きたる甲斐なし・・
尚々神仙坐旧宅も跡に居申候者(上田多膳のこと)ほかへ引き越す様申□□□□、それ故詫間氏より佐左衛門町松や重兵衛方へくだされ候えば、私のコウガイへ直に届け申し候。
手紙の受取りを詫間氏に頼んでいる。)
本当の辞世 江漢辞世の句
「江漢は年が寄ったで死ぬるなり 浮世に残す浮画一枚」
(本人の注釈が付いている)和蘭陀画法を以て山水遠近の風景を写せば真に浮出でたるが如し  俗名を浮絵という。
江漢後悔記

高名の報い
江漢後悔記(春波楼筆記1811に挿入?された部分※)
われ名利という大欲に奔走し、名を広め利を求め、此の二に迷うこと数十年、今考うるに、名ある者は、身に少しの過ちある時は、その過ちを世人たちまちに知る者多し、名のなき者誤るといえども知る者なし。この名を得たるの後悔、今にして始めて知れり、愚なることにあらずや。
(有名になろうとして数十年努力してきた結果、有名人であるがために、普通の人なら見逃される程度のわずかの過ちを世間に騒がれ、いわゆる有名税を払うことになって、人生を棒に振った。何と馬鹿げた事ではないか。)
無言道人筆記

悟りきれない悩み
文化10年(1813)10月記
今より44−45年前、神奈川に遊び、海を渡り、州間弁天に行く。聖天を祭る出家ありけるが、庵室の中、ただ独り居て白無垢を着て机にあり、経文を模写して、庭には海を望み神奈川の方冨士真正面に見え、まことに閑寂たるところなり。其の所の者朝来たりて飯汁などこしらえ、庭なと払い去るのみ。
余今、世俗をいといしに、この僧の志こそ尊けれ、名利のきづなを切ることはさても出来ぬことなり。
名の高く聞こえたるは西行なるに、名の聞こえぬ者、彼の聖天の僧の如き世にはいくらもあるなり
以上の資料から江漢引退の謎を拾うと

1)直前まで人生を楽しんでいた江漢が、あまりにも突然引退し、禅門に入る。
自主的な引退なら、引退興行(頒布会)のようなことで老後の小遣いを貯めてから引退といった手順を取ったはずである。

2)引退の2ヶ月後、更にニセの死亡通知を出して行方をくらませる。世論の追求に追いつめられての失踪である。
そしてそのまま二度と世に出ることがなかった。

3)何もかも飽き果てて」引退したはずの江漢だが、引退後も絵や著述を続けていた。

4)マスコミに住所が知られることを極端に警戒していた。本人は時間を持て余しており、隠遁生活が乱されるなどと言う理由ではあるまい。

5)準備が進んでいた「和蘭奇巧」の出版の話が消えてなくなった。江漢の人気が急落し、出版しても売れないと版元が判断したのであろう。
和蘭奇巧の挿し絵用として用意していた「和蘭写真の法」(写真鏡)による日本勝景の原画が転用され、洋画に描き直されてこの53次画集になったのである。

6)絵や出版物を生きている間は世に出す機会がないと江漢は復帰を早くからあきらめていた。
後の世に残すことのみを楽しみに時折絵を描いている・・。西遊日記の「板行には出来申さず」・・・など)
世間に発表したいという未練はたっぷりである。自主的な引退なら、どういう口実でも作品発表や復帰が出来たはず。
★江漢が引退に追い込まれた理由は、高利貸と冷酷な貸金取立の悪評が世間に知られたためであろう。
無言道人筆記にくわしく書かれた「貸し金取り立て事情」は、「貸金をうまく取り戻した自慢話」ではなく、「高利貸業に手を出したことへの江漢の反省と弁解」と思われる。
★引退について江漢自身がどう考えていたのか。上記資料の最後の二項、「江漢後悔記」の高名になった報いと「無言道人筆記」の悟りきれない悩みにはっきりと表現されていると思う。
「江漢後悔記」は江漢自身による人生の総決算であり、江漢人生の研究にとって重要資料。後年「春波楼筆記」の一部としてこう刊行されているが、「江漢後悔記−−後悔記 終」と言う形に成っており、独立した著作があとで「春波楼・・」に挿入されたものと思われる。現在「春波楼・・」の原本は失われているため、本来の形は辿ることが出来ない。

総目次へ  これまでの江漢晩年の研究

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