戸塚 再刻版                                   目次へ 
時間の経過を示す四枚の図−−A.江漢図、B.広重初刻版、C.広重再刻版、D.大正時代の写真−が戸塚の再刻版の謎を解く鍵である。
(1)米屋の格子窓と板壁 (2)川土手の藪 (3)右手の二股の樹木 に注目して一体何が起きたのか考えて見ていただきたい。
B.広重 初刻版
      A.江漢図
C.再刻版
      D.大正の写真
再刻版の違い:(1)米屋の格子窓と板壁 (2)川土手の藪が茂ったこと (3)二股の木が成長したこと (4)馬から下る人→乗る人
風景だけ見ると大正の写真とそっくり同じであることが分かる。
米屋は、東海道が廃止されたあと、茶屋を廃業して屋号そのまま本当の米屋に転業した。近くの商店の小僧が米搗きの順番を待っている写真である。(この後で、道が舗装され、土橋がコンクリートに変わる。)
四枚の風景だけを見比べると、初刻版Bは江漢図Aにそっくりであり、再刻版Cは大正の写真Dにそっくりである。
何が起きたのか一目瞭然である。
(1)広重はわざわざ現地チェックの旅に出かけたにもかかわらず、二十年の時の経過を見落とし、江漢図通りに描いてしまった。(広重のミス)   (江漢図から二十年たっているのに二股の木がひょろひょろの若木のままで少しも成長していないのはおかしい。)
(2)刊行後、実景と違うことが指摘されたため、広重はもう一度戸塚に出かけ、建物、土手の藪、二股の木などを細かく写生して作り直した。
  広重時代の風景は大正の写真とほぼ同じだった。
大正の写真の二股の木は大きくなりすぎ、後ろの二階家を作るとき邪魔になったので、軒の高さで切られてしまったが、やがて新しい枝を出してこのような太く短い姿になったもの。

 

戸塚の「鎌倉道」みちしるべ
吉田橋にあった鎌倉道道しるべは、近くの妙秀寺に移設され保存されている。
この道しるべについて、以前から広重図と違うということが指摘されていた。広重図は太い文字で「か満くら道」とあるが、実物は細いひらがなで「・・くらみち」となっている。
世界名画全集別冊(昭和35)の近藤市太郎解説
この戸塚の柏尾川付近から鎌倉道への分かれ道があり、・・最近その道標を示す石が二個発見され、いずれが広重の図に出てくる石標か似ついて論議を巻き起こしたのである。小林家の主張するのは妙秀寺にあるもので、・・・他は・・・私はこの両者とも広重の描いたものとは違うのではないかと思う。
徳力富吉郎:東海道 昔と今(昭和37)
広重の道標が場所が変わっても今でも残っていると聞いて、是非見たいものだと思っていた。・・・道標を見つけたときには、仇にめぐりあったような気がした。・・・広重の画には「かまくら道」とあり、現存の道標には「道」が「みち」となっている。果たして広重当時のものかどうか・・・

上の資料では申し合わせたように「現物が間違いで広重が正しい」ような表現にになっているのが面白い。広重五十三次はそれほど信用されているのである。もちろん「現物が正しくて、広重が間違い」である。
大正の写真Dを拡大すると橋のたもとと近くの土手に二つに折れた道しるべが写っている。妙秀寺の道しるべは三分の一のところで折れたものをセメントでつないである。「大正の写真D」の後、道が舗装され、橋がコンクリートに変わったときに妙秀寺に移設されたものであろう。
昭和35年から見て「大正」はそんな大昔ではなく、妙秀寺へ移した関係者の何人かがまだ健在だったであろう時代の話である。

1)江漢図の道標は細い文字で「かまくらみち」とあり、妙秀寺の現地の実物とよく似ている。

2)戸塚宿の出口(京都側の見附)付近には、第二の鎌倉道分岐点があり、地元ではこちらが正規な鎌倉道と考えていた。※
第二分岐点にも立派な鎌倉道道しるべがあり、字体が広重図の道しるべとよく似ている。(現在日立製作所正門に保存)
(※幕府に編纂した武蔵国風土記稿や東海道分間延絵図では、吉田橋の鎌倉道は「川の土手を通る鎌倉道間道」として扱われている。)
←京都  戸塚宿 第2の鎌倉道分岐点(橋と道しるべ)    東海道分間延絵図       吉田橋 道しるべと銅の灯籠  江戸→
広重が描いたのは第二分岐点の「か満くら道」道しるべだったと思われる。前記のように、広重が吉田橋付近の風景の変化を見逃し、後で再刻版で訂正をしていることを考え合わすと、広重は第一と第二分岐点の場所を間違えたのではないかと思われる。もちろん歩いていれば米屋の看板や道しるべを見逃すはずがない。駕籠で居眠りして吉田橋を通り過ぎるというミスをしたらしい。

江戸の人は個人では駕籠はあまり使わなかったが、公用の時はよく使った。広重の旅の目的は、江漢写生ポイントの現地チェックだあり、駕籠を使って効率的に廻ることで旅の日数を短縮出来れば経費節減にもつながる。広重は大いばりで駕籠を使ったであろう。
広重の寝過ごし説はさすがに誰からも信じて貰えなかった。広重の行動があまりにも具体的すぎるため「講釈師見てきたような嘘をつき」の類と見られたためであろう。テレビ取材のとき、日立前の道しるべの前まで案内したのに「これは止めておきましょう。」とビデオ撮影さえしてもらえなかった。
双六: 米屋の板壁+馬から下りる人(初刻−再刻の中間図柄)

「馬から下りる人→乗る人」の改訂が再刻版の目的だったと見る説が多かったが
広重本人が一番気にしていたのは「板壁と格子窓の追加」だったことが分かる。
東海道富士見双六(神奈川県立博物館) 
広重画 和泉屋版

「寝過ごし説」を支持する意外な発見があった。保永堂とは別な版元から出た双六で広重自身が東海道五十三次をそっくり写したもの。すべて初刻版の図柄になっている。

広重の手元には初刷りの1枚が真っ先に届けられるであろう。広重はそれを綴じて保存し、その後の東海道シリーズなどの資料として活用した。

この双六も広重の手元に綴りをそのまま写しただけのはずであるが、戸塚だけが「馬から下りる人」(初刻)であるにもかかわらず、米屋の格子窓と板壁が描き込まれており、初刻と再刻版との中間のデザインになっている。
戸塚は、広重が自分のミスと意識していたため、双六のようなものでも建物を自主的に修正したのである。
追記: この双六の各駒は、徳力富吉郎「東海道昔と今」の図柄と一致しており、「初刻」というだけでなく「初摺り」のデザインと思われる。私はこの本のシリーズが初摺りであると信じている。双六はその証明の一つである。
(このシリーズの大津、池鯉鮒には山がない。「山があるのが初摺り」という定説は明らかに間違いである。)
追記: 戸塚初刻の「馬から下りる人」が再刻版で「馬に乗る人」に変わった理由
これまでの議論では、「気分転換」「縁起担ぎ」程度の説明しかなされていない。
「馬から飛び降りる人物」は、動きの一瞬を捕らえた広重には珍しい北斎流の絵である。
北斎作品にモデルがあるかも知れないと思い、北斎漫画の「馬術の連続図」を眺めていたら思いがけないことに気が付いた。

初刻、再刻版とも「馬から下りる」図である。
馬から下りる場合、絶対に初刻のような形では下りられない。(自転車でもオートバイでも同じで、進行方向に対して後ろ向きに下りることはあり得ない。
広重はそのことを指摘されたため、再刻版で正しい「下りる姿」に描き直しただけである。

再刻版で「乗る人」に変わったと考えたのは、私も含めて関係者全員の「思いこみ」であった。

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