吉原   左冨士の見える場所は限定されており、写生場所がはっきり特定できる。                目次へ
広重図は、水田の中に土を盛り上げた縄手道 江漢図には右上がりの地形がきちんと描かれている。松林の砂道
大正の現地写真集の吉原は広重図そっくりで、「東海道55枚の中でも最も広重図に近い写真」と自慢している。
ここの実景は広重図通りの縄手道だったのであろう。
原−吉原の間の松林の中の砂の道は旅人にとって印象が深いらしく、いろいろな旅行記にこの道のことが書き残されている。※
江漢図は山や地形を正確に写生したあとで、原−吉原間の旅で印象が深かった松林道を描き込んだのであろう。
吉原の冨士                                      
カシミールの冨士
広重の冨士
江漢の冨士
吉原は東海道が冨士に最も接近する場所。 富士山を麓から見上げると、頂上が丸く見える。
江漢図の冨士は広重図のコピーではない。現地で快晴の冨士を写生しない限り、頭が丸い吉原の冨士は描けない。
以上から、江漢図は冨士の形や遠景の地形が正確。広重図は近景の水田の中の縄手道が正確ということになる。
 
東海道のコース説明(原−吉原付近)

愛鷹山と海岸線の間に現海抜3mの低湿帯(浮島ヶ原)が広がる。洪水の被害を受けやすい水田地帯。
柏原付近には沼もあり、ウナギが名物だったが、江戸人の口には合わなかった。
この地形は、海岸に沿って長く伸びた砂嘴が、海を内側に取り込んで出来たもの。

海岸線の標高は5−10mなので、人家や街道は低湿帯を避けて海岸線に集まっていた。
東海道はほとんど海岸の松林の砂道を通るが、田子の浦を避けるために、本吉原の手前で、浮島ヶ原のフチを回り込むようにして内陸に入る。左冨士の部分は多分広重図通りの水田地帯だったのであろう。
「吉原」は現在のJR駅。「本(ほん)吉原」は東海道の宿場。その東南に「元(もと)吉原」があり、洪水被害のために「本吉原」に移転。
柏原は原と吉原の中間の合いの宿。
※紀行文に出てくる原ー吉原間の松林道
●大田南畝: 改元紀行 元よし原の辺り松林の間を行くに、しばらく冨士を左に見るは道の曲がれる故なるべし。
●清河八郎: 西遊草 吉原より三里六丁にて原駅に至る。この辺りすべて砂路にて、松林左右にそびえ、わらじの受け、よろしきこと無類なり。(足の裏の感触がとてもよかった。)

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参考: 江漢図の富士山が正確に描かれている他の例を挙げておく。
由井の冨士  頂上右側が丸い。太い縞模様の位置など。 吉原と同様、広重図のコピーでは江漢図は描けない。
現地写真
広重
江漢

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