古道探索 准后道興の道と僧万里の道 (太田道潅時代の交通路)      保土ヶ谷目次へ

戦国時代中期に交通路が山上から低地へと大きく変化した。戦国初期の太田道潅の時代はまだ鎌倉時代からの交通路が使われていた時期であるが、交通路を示す資料に乏しい。
その中で、次の二つの旅日記が鎌倉時代〜太田道潅時代の交通路をたどるための資料として重要である。

 (1)准后道興の回国雑記(1486)   (2)僧万里の東遊記(1486)(漢詩による旅日記ー「梅花無尽蔵」の一部)

いずれも江戸時代から研究され、武蔵国風土記稿や江戸名所図会にも引用されている。
おおよその道筋には問題がないが、保土ヶ谷付近だけに疑問が多く、謎のままで結論が出ていないのは不思議である。
海退や海岸線の変化などで、道筋が大きく変わったためと思われる。
(1)准后道興の回国雑記 (狂歌中心の旅日記)
地名が読み込まれているため道筋の手がかりになる。
 回国雑記の道筋の解明
芦まじりおふるあらいのうちなびき 
        波にむせべる岸の松風(新井=大森?)
東路のまりこの里に行きかかり 
        足も休めず急ぐ暮れかな(丸子)
つながれて月日しられて冬きぬと 
     また葉をかふる駒ばやしかな(駒林=日吉)
品川〜帷子まではほぼ解明されている。
品川から海岸沿い−JR大森駅の手前から内陸に入る。
−池上−丸子の渡し−日吉−東横線沿い−菊名−片倉、神大寺
−三ツ沢−・・・

江戸名所図会「上古の海道」  品川より池上に行く道。
・・その道筋、大井・荒井・池上・矢口とつづきしなり。
<保土ヶ谷付近だけがまだすっきりしていない。>

いつ来てか旅の衣をかえてまし 
        風うらさむきかたびらの里(帷子)
すさまじき岩井の原をよそに見て 
        結ぶぞ草の枕なりける(岩井原)
●「帷子」は帷子川北岸の広い範囲を示す地名であり、
道筋の手がかりにならない。どこで帷子川を渡ったのか
この資料からは不明。
●石名坂(政子の井戸)を通過したことは確実。
研究者の意見は一致している。
●岩井原は江戸時代から議論が多かったが、昭和初期に
岩井原=岩間原=北向地蔵〜清水が丘で学説がほぼ
確定している。
●北向地蔵〜弘明寺には複数の道があり、確定していない。
石名坂までのルートについては、保土ヶ谷の交通路変遷を参照。
北向き地蔵〜弘明寺道については、「弘明寺道を探る」を参照。
岩井原を巡る議論−−−−岩井原
行きつきてみれども見えぬ餅井坂 
        ただわらぐつに足を喰わせて(餅井坂)
ひだるさに宿急ぐとや思うらん 
        路より名のるすりこはち坂(すり鉢坂)
朝まだき旅立つ里のをちかたに 
        その名もしるきはなれ山かな(離山=大船)
弘明寺〜餅井坂(最戸)〜大船はほぼ解明されている。

すり鉢坂だけは同定されなかったが、阿部氏は舞岡公園から
左の谷間にへ下る地形としており、、大畠も賛成である。
(この地形は舞岡公園の工事で消滅した。)
「回国雑記の道」=ほぼ「鎌倉下の道」と考えるのが普通である。                 
●准后道興は京都聖護院の門跡。父は関白/長兄は右大臣という日本一の家柄だった。当時の聖護院門跡は熊野三山を統括する熊野三山検校であり、道興の回国雑記の旅は、全国に散在する熊野詣りの先達を組織化しするためだった。


2.僧万里の道(梅花無尽蔵)
僧万里は漢詩の先生。京都の戦乱を避けて美濃に隠住していたところ、太田道潅から招聘を受ける。
文明17年(1485)の9月7日、美濃を発って江戸に向かうが、漢詩の先生らしく「旅日記を漢詩で書く」という難題を自分に課す。
途中の道筋ははっきりしている。あいにく秋雨の季節で、旅の天候には恵まれず、途中富士山も見えない。
10月1日初霜、旅に出て始めての快晴。前夜の宿泊地である「糟谷」(伊勢原)を出て、藤沢の「遊行寺」を見物したのち、「相武国境」を越え、近くの「権現堂山」で憩い、「江ノ島」を遠望し、「世戸井」に泊まる。翌10月2日「神奈川」経由で「品川」から江戸に入った。
藤沢を通り、翌日神奈川へ入ったのであれば、保土ヶ谷付近に宿泊したと考えるのが常識であり、上記の漢詩から万里のコースと「世戸井」の場所を特定することが昔から保土谷郷土史のテーマになっており、いくつかの論考がある。
★万里はどこで相武国境を越えたのだろうか。「世戸井(セトイ)」は・・・最戸? 瀬戸ヶ谷? 佐江戸?
僧万里「梅花無尽蔵」 僧万里「梅花無尽蔵」 読み下し文
十月旦初霜有感。途中遊藤沢道場。
拝菅丞相画像小春一日

人迹板橋初履霜 小春告朔記共羊
 梅花丞相有遺像 便是弥陀古道場

        清浄光寺一遍上人開基

入相州同日。有山曰権現即相武之界
古云群盗之聚所也。今則不然也。葢昔有堂乎。

駅樹風声入武州 山名権現憩無楼
 旅衣未脱昏鴉尽 聊借民炉嘗濁酒


望画島 画或作江。同日。日本三処弁財天之一也。 
       宿世戸井

 大弁青衣徳天  島中樹色暮潮懸
 南無帰命無他事 擁護八州弥万全

        画島在海中央

十月旦日(1日)初霜有るを感ず。途中藤沢道場に遊ぶ。
菅原道真公の画像を拝す。小春の一日なり。

人跡初めて板橋の霜を履む 小春朔記共羊を告げる
 梅花大臣の遺像あり 是れすなわち弥陀の古道場。

              清浄光寺、一遍上人の開基なり

相州に入る。同日。山あり、いわく権現、即ち相武之界
古に云う群盗の集まる所也と。今は則ち然らず。葢し昔は堂有りしか。

駅樹風声武州に入る 山名権現 楼なきに憩う
旅衣未だ脱がざるに昏鴉尽く いささか民炉を借りて濁酒を嘗める

画島を望み或は江を為すを画く。同日。日本三処弁財天之一也。
(江ノ島)
           世戸井に宿す。

 大弁青衣徳天  島中の樹色暮潮に懸る
 南無帰命無他事 擁護八州弥万全
 (旅の無事と日本國の繁栄を祈願した。)

                        画島、海の中央にあり

神奈河 二日。出世戸井赴江戸。
途中有老松屈繁。其形如竜其処号鵜森

神奈民郭板屋連 深泥没馬打難前
 鵜森春動臥松老 未入飛竜九五乾

神奈河 二日。世戸井を出で江戸に赴く。
途中老松屈繁する有り。其の形竜の如し。其のところ鵜の森と号す。

神奈民郭板屋を連らね 深泥に馬没して打つも進み難し
 鵜の森春動松老臥す。 未だ飛竜九五乾に入らず

神奈川を通過して江戸へ向かうのだが、当時の神奈川はどこを指す
のか、さっぱり分からない。
「鵜の森」は確定していないが、丸子橋を渡ったあとの「鵜の木」説が
有力。鵜の木には「鵜森八幡」があった。

品河同日。隔五十町有江戸城。多法華宗。

双塔五層兼一層。問宗旨答法華僧。
蓮紅二十八差別、子細看来満口氷。


江戸城同日。有三五騎之鞍迎余。又僧俗数輩来。
自九月七日出鵜沼。至十月二日。途中凡二十日。
二十日余迷幾州。今朝始覚遂東遊。
春多江戸城辺路。鞍馬迎吾鞭渡頭。


静勝軒晩眺三日。余曽作静勝軒詩。
太田道潅亭曰静勝。迎余晩燕。

一々細並佳境看。隅田河外筑波山。
入窓富士不堪道。潮気吹舟慰旅顔。
法華宗の寺について、品川の大光寺(江戸名所図会、現存せず)が
定説だが、むしろ池上本門寺と見ていいのではないか。

万里は、江戸で盛大な出迎えを受ける。太田道潅の心遣いである。
出迎えや到着夜の接待を滞りなく行うために、前々夜からの万里の日程を
把握しておく必要があり、糟屋と世戸井の宿を指定してあったのであろう。



江戸城内の道潅の館(静勝軒)に入る。道潅の歌にもあるように、
当時の江戸城は海が近く、万里は「潮風」を顔に感じる。


翌日、道潅に会った万里は、一目でその人柄に傾倒してしまう。
しかし数ヶ月後、道潅は上杉定正に疑われて謀殺される。
万里には道潅の葬儀のために、格調高い弔辞を書くという運命が
待っていた。
細字が地の文。  太字が漢詩。  小文字は後で本人が描き込んだ漢詩の注釈である。
原資料では、※印の注釈文の位置がずれているらしいので位置を修正してある。翌日神奈川で再び江ノ島が見えたようになっているのは間違い。。
●僧万里は保土ヶ谷を通ったか。
相武国境を街道が通過する場所が3ヶ所。@野庭/日限山付近(鎌倉道) A境木(のちの東海道) B三ツ境(中原街道)
このうち、江ノ島が見えるのはB三ツ境の「楽老の峯」(家康の命名)だけ。
中原街道は太田道潅が開発し、糟屋の上杉定正(太田道潅の主筋)との連携や軍事目的によく利用した道。
大畠説は三ツ境: 残念ながら、僧万里は保土ヶ谷を通っていない。
万里は道潅の指定にしたがってBの中原街道を利用し、佐江戸(旧地名サイト)付近に泊まったらしい。

@Aであれば保土ヶ谷を通過あるいは宿泊したことになり、これまでもそういう説も多いが、いずれも江ノ島記事を避けて議論している。江ノ島を見たのは午後ではなく朝のうちであろうとか、州崎弁天の間違いだろうとか、詩人の言うことは当てに出来ないとか・・・
                                         
謎解きの鍵
年令の割には好奇心一杯の万里が、藤沢遊行寺を見物しながら、江ノ島や鎌倉を見物しなかったのは不自然である。
また藤沢へ出てから中原街道へ戻るのは、かなり迂回である。

旅に出てから始めての快晴に恵まれて、江ノ島/鎌倉を見物したかったが、道潅からの伝言で次の宿が指定されていた。少し無理して早立ちすれば見物出来るギリギリの場所として遊行寺を回ったが、やはり無理があり、宿に着く前に秋の日が暮れてしまう。
「旅衣未だ脱がざるに昏鴉尽く」とは宿に着く前に日が暮れてしまったという出来事を詠んだもので、やむを得ず民家で一休みし、炉端を借りてで持参の酒を暖めて飲んだ。「いささか民炉を借りて濁酒を嘗める」
途中で日が暮れたなら、どこへ泊まっても良さそうなものだが、あくまでも目的地を目指したのは、道潅から宿が指定されていたためである。

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