弘明寺道を探る。                          大畠洋一             目次に戻る
金沢横町の「金沢鎌倉道」道標の左側面に「ぐみゃうじ道」、北向地蔵の右側面に「ぐみゃう寺道」の道しるべがある。
北向地蔵を右折するのが弘明寺道だが、この道は大正の井土ヶ谷線工事と最近の高速道路工事で切断され、非常に分かりにくいため、たどって見ようとする人がいない。
失われた道を復元するには、南区の歴史の故老の記憶による「大正の北永田」図が重要な資料である。
この図と道しるべを参考に弘明寺道を探ってみる。
大正図で分かるように、北向き地蔵から永谷に下りる道は2つあった。

(1)山越えで宝林寺脇に下る道。−−大正の井土ヶ谷線工事で切断された。
宝林寺山門脇にこの道の跡が残っている。(右写真)

(2)大坂を下って、永田交番付近に出る。
高速工事とマンション建設で様子が変わったが、この道筋はちゃんとたどることが出来る。
高速道路の最初の陸橋を渡り、階段を下りると大坂である。
大坂今昔
 
弘明寺道道しるべ

金沢横町、北向地蔵の「弘明寺道」に続いて
3ヶ所の「弘明寺道」道しるべが現存する。
大正図によると、大阪を下りた地点にも道しるべがあったようである。

江戸時代には複数の弘明寺道があり、鎌倉古道がどこを通っていたかは、なかなか分からない。
道しるべから、3つの弘明寺道が考えられる。
石名坂〜北向地蔵は共通。

北向き地蔵を右折
大坂−永田町交番−山裾道−井土ヶ谷ガード・・・
@井土ヶ谷上町−京急線路沿い−弘明寺参道

A井土ヶ谷中町−南郵便局−震災記念碑−
住吉湯−弘明寺山門前(鎌倉道)

北向地蔵を直進
B清水が丘を縦断−井土ヶ谷下町に下りる。
井土ヶ谷事件碑の道しるべ−鶴巻市場−金丸薬局−住吉神社−乗蓮寺−南中学−弘明寺駅

ただし、どれが鎌倉時代からの古い道かは、今となっては分からないとされている。
鎌倉時代の交通路(下の道)推定

江戸以前の井土ヶ谷は低湿帯で歩行できない場所があったはずである。
筆者は帷子川下流について、等高線2mは海中、3mは低湿帯、4〜5mは歩行可能で街道として十分という基準で検討した。同じ基準をあてはめると、左図のようになる。
Bの道は、3m地帯なので、鎌倉時代は歩行不可能、江戸時代に出来た道と思われる。

鎌倉古道は、井土ヶ谷ガード−乗蓮寺(政子の化粧井戸)を通っていたと思われる。

清水が丘を越える場合は、途中の公園あたりから(階段を)下って井土ヶ谷駅北側に出たであろう。
●北向地蔵右折の道がわかりにくいために、「歴史の道を歩く」探索ツアーでは、北向地蔵直進のコースBを案内することが多いが、等高線から見て、この道は比較的新しい道であることが分かった。

●Bのコース、清水が丘から下った地点に「かなざわ・かまくら道」道標(地蔵像)があり、現在は近くの大光寺境内に移されている。蒔田橋を渡って鎌倉街道に出る江戸時代の道である。

●江戸以前(Bが通れない時代)の古い金沢道は弘明寺山門前を通り、餅井坂で鎌倉道と分かれて、関の下に出ていたらしい。
Aの道に「金沢道」の名が残っている。(井土ヶ谷町内会の作った資料−−片柳丈風氏より提供)

 弘明寺山門前「ほどがや道」道標と弘明寺坂
井土ヶ谷上町(永田東) 
寛政8
  石仏側面に「左ぐみゃうじ道」
  線香立てに「右保土ヶ谷道」
井土ヶ谷中町(写真右)(住吉神社に移設)
元禄2・・ほとんど読めない。
   「これより南ぐみやうじ江之道」
   「これより北東海道新町江之道」
井土ヶ谷下町(井土ヶ谷事件碑と同居)
   ぐみょうじ・かまくら道
       尼将軍供養塚
   北ほどがや、南かなざわ

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