石名坂             目次へ
1994年に選ばれた「神奈川の古道50選」の中に旧鎌倉道の一部である「餅井坂」が入っている。

我が保土ヶ谷の石名坂は、次の比較表からも分かるように餅井坂に匹敵する、あるいはそれ
以上の歴史的価値のある古道で、50選に選ばれても当然の道であるが、立候補することすら
しなかったらしい。
郷土史にも鎌倉道の記事がなく、地元の郷土史愛好家さえその重要性をほとんど知らない中で
当然といえば当然であるが、またとない機会だっただけに残念である。
保土ヶ谷の郷土史関係者は、東海道保土ヶ谷宿のこと以外は関心を持たないらしい。
不勉強と努力不足として自省する必要があると思う。
餅井坂と石名坂の比較表
  餅井坂
(神奈川古道50選)
石名坂
(地元の郷土史にさえ書いてない)
古道の内容 旧鎌倉下の道 旧鎌倉下の道
江戸時代の弘明寺道
江戸時代の金沢道/鎌倉道(観光の道)
  (主街道300年の歴史
古道の雰囲気を残す。
(主街道700年の歴史
古道の雰囲気を残す。
古町通り(古道雰囲気十分)と接続
文献 准后道興の回国雑記
「行きつきて見れども見えず餅井坂
   ただ藁靴に足を食わせて」
准后道興の回国雑記
「すさまじき岩井の原をよそにみて
    むすぶぞ草の枕なりける」
道しるべ 百万遍道しるべ 1基 金沢鎌倉道 1基
  円海山 1基
  杉田梅林 1基 など数基 
古図面   東海道分間絵図(元禄)
東海道分間延絵図(文化)に
石名坂が描かれている。
史実   武田信玄を迎撃するため、
   蒔田吉良勢が鉄砲隊を並べた 。
江戸時代の観光ルートとして
   多くの文人紀行文がある。
幕末、浦賀警備の道。
吉田松蔭の黒船見学の道。
史跡、伝説   政子の井戸
  北向地蔵
  地蔵堂跡の石仏群
保存とPR努力 20年前から「餅井坂」木柱
鎌倉道の説明板
黒みかげ石の「餅井坂」碑
政子の井戸説明板のみ)

★「横浜の坂」からも脱落
その他   石名坂は古町通りと接続して いる。
この通りも古道の雰囲気 を残す数
少ない道であり、一体 として古道指定
されるべき道で あろう。
上の比較表について細かく述べる。
1.「鎌倉道」とは、鎌倉時代に「いざ鎌倉」の際に諸国の武士が鎌倉に馳せさんじるための軍事道路である。
藤沢−瀬谷を通る「上の道」、鶴ヶ峰を通る「中の道」、保土ヶ谷−弘明寺を通る「下の道」があった。
江戸時代の日野川沿い(上大岡経由)の鎌倉道や柏尾川沿いの吉田鎌倉道とは違う道であり、もっと山の中の道である。
鎌倉幕府が亡びたあとも民間の主要街道として戦国時代までよく利用された。
このことは次の史実からも明かである。
1)太田道潅の時代、准后道興が下の道を通って鎌倉に向かった。(回国雑記)
2)武田信玄の小田原攻めの際、北条の一族である蒔田の吉良氏がこの坂に鉄砲  隊を並べて待ち構えていたが、武田勢は正面衝突を避けて境木を越えた。

鎌倉道のルートは時代とともに少しづつ変わっている。また例えば北向地蔵−弘明寺の間のように古道が複数通じており、どれが最古の鎌倉道なのか簡単には決められない部分もある。横浜市教育委員会の「横浜の古道」では、こうした複路があることを理由に鎌倉道のルートを取り上げることをあきらめている。
しかしながら、石名坂の部分については全時代を通じて一貫して鎌倉道であったことは確かであり、多くの研究者の間に異説は出ていない。(阿部正道:神奈川の古道、芳賀善次郎:鎌倉道シリーズなど)

江戸時代になると全国規模の街道は東海道に移ることになるが、石名坂は金沢八景、杉田梅林への金沢道や鎌倉見物の道につながるため、観光ルートとして多くの旅人を運び続ける。
更に幕末になると浦賀への道として黒船警備の軍隊を運ぶ道にもなる。黒船で米国への密航を企てて逮捕された吉田松陰も保土ヶ谷宿に変名で宿泊していたというからこの坂を何度も通ったに違いない。
石名坂が引退するのは大正になって保土ヶ谷橋−井戸ケ谷の切り通しが出来てからのことである。鎌倉時代から数えると700年以上にわたって主要街道の地位を保ったことになり、大変長い歴史を持つ道ということになる。
2.准后道興の回国雑記には「いつ来てか旅の衣をかえてまし 風うら寒き帷子の里」の歌に続いて次の歌が出てくる。

  「すさまじき岩井の原をよこに見て 結ぶぞ草の枕なりける」

「草の枕を結んだ」とあるから岩井原を見ながら一泊したのであり、岩井原付近に宿場があったのである。
この岩井原は岩間原のことではないかという考えは、すでに「武蔵国風土記稿」に出ている。武蔵国風土記稿は基本的には「鎌倉下の道=後の東海道のコース」と考えて書いているが、岩井の原に相当する場所がないことに疑問を生じている。
      「岩井の原はこの岩間原のことなるにや。しばらくここに記して後の考をまつのみ・・・」

昭和七年の横浜市史稿歴史編1でも「岩井原=岩間原」と想定している。
行政的には、昭和15年に岩井町が制定され、戦後は岩井原中学が設立した。いずれも「岩間原=岩井原」説をベースにした命名である。
3.江戸時代の絵図面
元禄に作られた遠近道印の東海道分間絵図や文化年間に幕府の作った東海道分間延絵図には、石名坂がはっきり描かれている。
とくに元禄絵図では岩の間を切り開いた坂の感じが非常によく出ている。
(当時の図面や絵画の約束事として道に階段のような横線を入れると坂を表わすのである。)
4.餅井坂との比較
餅井坂には准后道興の狂歌に名前が出てくるという以外に何もない。
この辺りの鎌倉道は戦国の中頃から衰微し、ただの田舎道になってしまったから鎌倉時代から数えて300年くらいの歴史しかない。

ただ地元の保存とPR努力は以前からよくやっていた。20年も前から「餅井坂」の角柱が立っており、その後鎌倉道を解説した説明板が出来、数年前には黒みかげ石の立派な石碑が建った。

これに引きかえ石名坂の知名度は低い。地元の郷土史愛好家でさえ「鎌倉下の道」のことをよく知らない人が多い。
横浜市の建てた「横浜の坂」標識に漏れているし、「保土ヶ谷ものがたり」には「鎌倉下の道」も「石名坂」も出てこない。
その後の保土ヶ谷郷土史関連文書でも石名坂は「江戸時代の金沢鎌倉道」の役割でしか取り上げられていない。これでは石名坂の歴史の後半しか評価していないことになる。
神奈川の坂50選に立候補すれば確実に50選に選ばれただろうが、それさえさえしなかったのも無理がないお粗末な状況である。
追記:最新の「保土ヶ谷郷土史」での扱い
5.石名坂の史実
1)小田原北条のの時代に武田信玄の軍勢が一度だけ小田原に攻め込んだことがある。北条氏の基本的な作戦は攻め込んだ大軍を迎撃せず小田原領内に深く引き入れて篭城し、退屈した敵が引き上げにかかったところで帰路を待ち伏せして叩くということであったから、武田軍はほとんど抵抗を受けることなく保土ヶ谷を通過した。しかし基本戦術とはいえ、敵軍を目の前にしながら全く戦わないと云うのは武士の名折れである。形だけでも戦った実績を示すためには派手に鉄砲の音を聞かせるのが一番であり、北条の一族である蒔田の吉良氏が石名坂に鉄砲隊を並べて待ちかまえていたが、武田軍は境木越えのルートを取ったため戦いには至らなかった。

2)江戸時代、金沢八景や杉田梅林見物の紀行文が沢山残されており、石名坂が利用された。

3)幕末、吉田松陰は保土ヶ谷宿に隠れ泊まって黒船との接触を図っていた。当然、石名坂を何度も往復したであろう。
6.史跡
政子の井戸はよく知られているが、井戸の反対側にある地蔵堂の石仏群はあまり知られていない。
地蔵堂の元禄期の初期庚申塔群は保存状態がよく、種類や数も多くて、石仏研究上も重要な資料である。

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