追分と相州道                                 目次へ
買い物客で賑う松原商店街のはずれの場所に「追分け」という地名があった。
旧東海道から「旧々東海道」が分かれる地点であるが、歴史を伝える追分けの地名はなくなり、最近まであった追分公園もいつの間にかなくなった。

この追分けについて、保土ヶ谷郷土史関係の本には必ず「八王子道追分」と書かれている。

「追分」を示した古図面としては、次に示す「東海道分間絵図」と「金川砂子」がよく引用されるが、どちらの図面にも「追分」と書いてあるだけで、「八王子道追分」とは書いてない。
本当に「八王子道追分」と呼ばれていたのだろうか。
東海道分間絵図(元禄3年)                     金川砂子


実はこの場所が「大山道追分」と呼ばれていた形跡があり、前々から気になっていた。
○広重の「東海道風景図会」嘉永4年の「神奈川」(下記)には 大山道の追分け という説明文が出てくる。

○弥次郎兵衛喜多八の「東海道膝栗毛」をもじった「東海道膝磨毛」という道中物では、主人公の九次郎、舌八が浅間神社の人穴の暗闇で女たちと一騒動した後、女たちは追分から大山道に別れていく。

○帷子川北岸には「大山近道」(宮田町にあった神田不動)、「右おおやま道」(和田杉山神社)という道しるべが残っている。

「八王子道追分」と「大山道追分」のどちらが正しいのだろうか。
広重 東海道風景図会 「神名川
台の西に仙元の人穴見ゆ。大山道の追分も西の方にあり。
新板東海道分間絵図」(宝暦2)を見て謎が解消した。

遠近道印の「東海道分間絵図」(元禄3 1690)(前出)は、きちんとした測量に基づいて作られたもので、見かけよりずっと正確な地図であり、保土ヶ谷郷土史によく引用される。
この地図は旅行者用としても便利に長く使われていたが、長い間に東海道のルートが変更されたなどの理由もあり、ルート変更箇所を改訂すると共に、1/3に縮小して携帯に便利にし、沿線の説明を沢山加えた「新板東海道分間絵図」(宝暦2 1752)が作られ、旅人に愛用されて版を重ねた。更にこれをもとに英泉の挿し絵を入れた「東海木曾両道懐宝図鑑」(天保13 1842)なども作られた。

この「新板・・・」と「東海木曾・・」の街道地図には、どちらにも「追分」の説明が次のようにきちんと書かれていた。「大山道追分け」の出所もこのあたりらしい。あるいは別に大山道追分と書いた街道図があり、それと調整するために「相州道」という用語を作ったのかも知れない。
        追分・・・・・大山 あつぎ 八王子 その外 相州路のちまた也 (ちまた:岐れ道)
新板東海道分間絵図(宝暦2)

以上から「八王子道追分」、「大山道追分」、「相州道追分」とも正解と言うことになる。


相州道の定義

ここでは「相州道」の定義も議論の余地なくはっきりしている。
相州道とは「追分で東海道から別れる大山道、厚木道、八王子道、その他(二俣川道など)の総称」である。
保土ヶ谷郷土史の「相州道」は武蔵国風土記稿が出所である。
武蔵国風土記稿の編者は当時の旅人に愛用された「新板東海道・・」を事前に入手し、「相州道」の定義を予備知識として持った上で取材し執筆しているようで、武蔵国風土記稿の相州道記事は上記の相州道の定義と完全に一致している。    
       相州道へ(武蔵国風土記稿の相州道)      

        相州道で定義された諸道のうち、「大山道」だけコースがよく分かっていない。別項で検討する。    大山道へ

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