保土ヶ谷の交通路と宿場の変遷(まとめ)  目次へ
鎌倉下の道(鎌倉時代)から旧々東海道(江戸初期)まで
保土ヶ谷史には、大正時代から「古町橋は昔から交通の要所」という思いこみがあり、今でも尾を引いている。
しかし鎌倉時代の海面は今より高く(海進)、古町橋(海抜2m)付近は干潟のような低湿帯で通行できなかった。
明治時代の地名学者吉田博士は神戸地名論から「神戸付近に郡役所があり、橘樹郡の中心地だった。」としているが、奈良/平安/鎌倉時代には、この付近は海中であったことが地形図から明らかであり、「郡役所」「中心地」などとんでもない話である。→→海抜2m参照
帷子川の渡河点はずっと上流の和田橋(海抜5m)であり、ここが交通の中心であった。
@ 鎌倉下の道は和田で帷子川を渡り、仏向の丘を越え、桜ヶ丘の尾根道をたどって帷子町郵便局のある「ごえんば横町」で今井川を渡り、石名坂にかかっていた。「ごえんば」は「越え場」の訛で今井川の渡河点を示す地名である。
石名坂の登り口に発達したのが岩間宿である。
(石名坂から先のルートは詳しく研究されているので省略。→→鎌倉道地図)
桜ケ丘道=鎌倉道」説は、以前から仏向在住の田辺政義氏が主張していたが、取り上げられることがなかった。→→「桜ケ丘」説
A 少し遅れて、和田橋ー仏向ー法泉下ー境木の道が開かれた。和田〜境木を結ぶ最短距離線上の法泉下(境木への坂の登り口))に発達したのが保土ヶ谷宿である。
この道も鎌倉道と呼ばれたことがあるらしい記事が武蔵国風土記稿「今井村」にある。
保土ヶ谷宿は大変奥まった場所にあるように見えるが、実は和田からの最短コース上にあったことに注意。
B 戦国中期にようやく古町橋が渡れるようになった。
石名坂を通る鎌倉道(岩間宿)にとっては桜ケ丘に上ってまた下りてくる必要がなくなり、旅人には大変便利になった。
江戸以前の鎌倉道はすべて「鎌倉古道」として定義されるので、@を前期鎌倉道、Bを後期鎌倉道と呼んで区別しておく。
C 江戸時代になって、 旧々東海道が後期鎌倉道Bと境木越えの道Aをつなぐ形で設定された。
旧々東海道=桜ケ丘説は単純な読み間違いによる「保土ヶ谷ものがたり」のミスである。
旧々東海道当時の
一里塚が今井川沿いにあることで桜ケ丘説は完全に否定される。
東海道新道(第一次新町計画〜第二次新町計画)
東海道新道(新町)が出来たのは慶安元年とされるが、実は慶安元年(第1次)と元治三年(第2次)の二回に分けて行われた。
武蔵国風土記稿の編者はこのことを知らなかったため、各所に記述の混乱が見られ、保土ヶ谷研究の中でいくつもの謎が生じた。
D 東海道が始まって50年後、4つの町をまとめて一つの宿として運営する新町計画(四町一宿)が計画された。

慶安元年に保土ヶ谷、帷子、神戸の三町が移転したが、岩間だけが遅れて十年後の万治三年に移転したとされる。
武蔵国風土記稿の編者は岩間だけ移転が遅れたことに疑問を持ち、その理由をただそうとしたが最後まで釈然としなかったらしい。
岩間の移転は、あとで事情が変わって追加されたものではなく、最初から計画に折り込まれていたことは、岩間の移転先が空けて用意してあったことから明らかである。

★岩間だけ移転が遅れた理由は、左図をみれば明らかなように思われる。
バラバラに運営されていた4つの町をまとめて一つの宿として運営することが計画の目的であり、まづ四町の指導者層を一カ所に集めて相談しやすくすることから始める必要があった。
岩間は新しい保土ヶ谷の中心に最も近い場所だったので急いで移転する必要がなかっただけである。

武蔵国風土記稿で「岩間の移転は元治三年」としながら、一方で「四町一宿になった時期は不明」としているのは不思議である。

E 岩間の移転は急ぐ必要はなかったが、逆に十年も遅らせる必要はなかったし、また岩間宿が日時を決めて一斉に引っ越す必要もなかった。慶安元年以降、新居の準備が出来た家から順次引っ越していったのであろう。

武蔵国風土記稿には岩間記事に続いて「人家も次第に街道筋に移り、ついに四ケ町連なって・・」という下りがある。何を説明したいのか分かりにくい文章だが「何時から四町一宿になったか」と聞かれても、岩間がさみだれ式に順次移転したので、日時が特定しにくい」という地元の人の説明がこのように記録されたものであろう。
→文献資料

旧保土ヶ谷宿の本陣は新町に移転したが、一部の旅籠や売店、飲食店は元の坂の登り口(法泉下)に残って旅人相手の商売を続け、11年の間に「元町」の町名が定着した。
第1次計画と第2次計画の間が11年も空いたのは、第1次工事の翌年に江戸三大地震の一つである「慶安の大地震」があり、関東各地の宿場が壊滅して、その復旧が優先されるという予想外の出来事のためである。
F 権太坂は十年後の元治二年八月に着工し、元治三年に完工した。
「もとの元町」に残っていた人々は、権太坂開通の当日、「元町」の町名を持って「今の元町」に移転し、すべての東海道新道計画は完了して「四町一宿」が出来上がった。

保土ヶ谷宿の町は、岩間、帷子、神戸などすべて「もとの町名をもって移転」してきており、元町もその例外ではない。ただし武蔵国風土記稿の編者は移転が二回あったことを知らないので「元町」についての地元の説明がどうしても理解できなかった。
「茶屋町」の町名も元町に合わせて平行移動した。華やかなイメージの「茶屋町」が一番寂しい場所にあるのはそのためである。    (※「茶屋本陣」説への異論 ---)
武蔵国風土記稿に「・・元町、茶屋町はもとは保土ヶ谷の小名にて・・」というくだりがある。地元の人は「元町の名前を持って今の場所に移転した」ことを説明しようとしたのだが、武蔵国風土記稿の役人は権太坂があとで出来たことを知らず、移転が慶安と元治の二回あったことを知らなかったため、話が噛み合わず、意味不明のまま記録されたらしい。
→文献資料

街道の変遷(再出まとめ)

@鎌倉下の道(鎌倉時代〜)
Aやや遅れて出来た「境木越えの道」

B後期鎌倉道(戦国時代)

C Bを一部利用した旧々東海道
(一里塚は旧々東海道時代。)
D新町は最初から三町ではなく四町一宿。
岩間は新町の中心に近く、移転を急ぐ必
要がないので、とりあえず旧場所のままで
スタートした。
保土ヶ谷の一部は坂下に残留。「元町」の
名がこの時に生まれた。
E岩間は準備が出来た家から順次東海道筋
に移転した。(岩間の移転年が特定できない。)

F11年後に権太坂が完成。
元町は権太坂の坂下に「元町」の名前を
持って移転。
この時、「茶屋町」の名も平行移動する。
旧保土ヶ谷宿時代(法泉下)の交通路推定−−神奈川坂と神戸境
旧々東海道が出来る直前の宿尻(元町ガード付近)〜旧保土ヶ谷宿(法泉下)付近の交通路を推定した。

神奈川坂
昔は山越えの道。
今井川沿いの道が開けたあとは、一旦宿尻に出て法泉下に向かういくつかのルートが可能になった。

花見台から元町ガードに下る「神奈川坂」の地名はこの時期に生まれたものであろう。
神戸境
神明社のあった保土ヶ谷教会付近および大仙寺は神戸に属し、大仙寺前から岩崎町に入る地点にある小さな峠が神戸境であった。この境界線上、街道が通過する場所に道祖神社があったが、鉄道敷設のとき削り取られ、社殿は隣の稲荷社とともに、戸川神社に移された。
保土ヶ谷の北側(桜ケ丘との境界)は「神戸境」であるが、東側(大仙寺付近)にも「神戸境」があることに注意。

神明社が移転したあと、神戸の一部は保土ヶ谷に編入されたらしく、明暦の地図では神戸境は藤谷戸に移っている。
「鎌倉道=桜ケ丘」説                      元に戻る
田辺忠義氏(仏向町)の「鎌倉道=桜ケ丘」説の根拠
@戦後、花見台県営住宅建設の整地作業中に、砂利を敷き詰めて突き固めた簡易舗装の跡を発見した。
A戦前、保土ヶ谷公園野球場付近に塚が並んでおり、戦死者の墓とされていた。好事家が掘ってみたが、何も出てこなかった。
(大畠注)十三塚の類と思われる。中世に宗教儀式用に造られたもの。戦死者の墓などと伝えられることが多いが、遺骨や遺品は出てこない。村や地域の入口にあることが多く、旧街道の場所を推定する資料になる。
保土ヶ谷地区では境木、芝生、清水が丘、今井の保土ヶ谷境などにあり、いずれも街道筋、地域の入り口に当たる場所。
桜ケ丘説の根拠として次を追加しておく。
B神明社の存在と移転時期 C地形上ほかにルートがない Dごえんば横町の地名
更に保土ヶ谷区郷土史(S13)では、「古東海道が桜ケ丘を通っていた」説の傍証をいくつか挙げているが、これも鎌倉道=桜ケ丘説の根拠として、そっくり頂いてもよいであろう。

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