図解 保土ヶ谷交通路と宿場の変遷                目次へ
第1図 鎌倉時代〜戦国初期(太田道潅時代)
鎌倉時代、海面が高く(海進)、帷子川下流(古町橋〜神明社付近)は低湿帯あるいは干潟の状態で、通行出来なかった。当時の帷子川の渡河点はずっと上流の和田橋である。
A.鎌倉道(下の道)
和田橋を渡り、桜ヶ丘の尾根道を通り、「ごえんば」横町(帷子町郵便局のある横町)から今井川を越えて石名坂にかかった。石名坂の登り口には岩間宿が発達した。
「ごえんば」は「越え場」の訛であり、今井川の渡河点を表す地名である。(芳賀善次郎氏のご教示による)
    和田ー石名坂ー弘明寺ー大船ー北鎌倉
           ●鎌倉時代の初期、桜ケ丘の鎌倉道沿いに
神明社が造られた。
B.やや遅れて、鎌倉道とは別に、和田からまっすぐ仏向の山を越えて境木に出る街道が開け、境木の坂の登り口(法泉下付近)に保土ヶ谷宿が発達した。

   和田ー境木ー(戸塚ー藤沢ー北鎌倉)?
この道も「鎌倉道」と呼ばれた形跡がある。武蔵国風土記稿・・・「今井の鎌倉道」のページ参照
図の街道は三箇所で、いずれも川を直角に横切っていることに注意。
原則として山の上を通り、川との関わり合いを最小限にとどめるため川を直角に横切るのが古道の特徴である。
第2図 戦国中期(小田原北條氏−武田信玄)
戦国中期に海面の低下(海退)が急速に起き、帷子下流の古町橋が通れるようになった。
とくに石名坂越えの鎌倉道は、桜ケ丘に上ってまた下りる必要がなくなり、大変便利になる。

山裾や川沿いを通る新しい型の街道への移行が始まり、交通路や宿場の位置が次々に変化する。

●桜ケ丘の道は、街道からはずれて通る人が激減し、神明社だけが山の上に取り残される。
☆これまでの鎌倉道研究ではこの古町橋−石名坂コースが「鎌倉下の道」とされ、定説になっているが、1万分の1地形図の等高線から、鎌倉時代には帷子下流は通れないことは確実で、これまでの定説は修正する必要がある。

古道研究の定義では、江戸時代以前の鎌倉道はすべて鎌倉古道と呼ぶことになっている。鎌倉時代の「鎌倉下の道」と区別するために戦国時代に出来た新しい鎌倉道を「後期鎌倉道」と呼んでおく。
第3図 江戸時代(旧々東海道と東海道)
江戸時代になると、鎌倉道を途中まで利用して、今井川に沿った旧々東海道が作られた。一里塚が作られたのは旧々東海道時代である。

●桜ケ丘の鎌倉道沿いにあった神明社は、山を下りて、東海道沿いの新しく出来た土地に移転する。
東海道新道(新町計画)
50年後、更に下流の帷子橋を通る東海道新道に移行し、保土ヶ谷新町計画が始まる。(第1次工事)
さらに12年後権太坂が完成し、元町が今の場所に移転して保土ヶ谷新町計画が完成する。(第2次工事)
★旧々東海道時代及び東海道新道時代の初期には、まだ権太坂はなかったことに注意。
権太坂と元町
和田橋で帷子川をを渡っていた時代は、和田−法泉下ー境木が最短距離であった。
渡河点が帷子川下流に移ると、法泉下経由では迂回になるので、ショートパスのための権太坂が必要になったことが上の図から分かる。
権太坂が出来て東海道の道筋が変わったため、法泉下にあった元町は「元町」の名前を持って権太坂の下に移転した。(「昔の元町」と「今の元町」)  「今の元町」は旧保土ヶ谷宿があった場所ではないことに注意。
以上のように海面の低下(海退)の進行により、保土ヶ谷の地形が変わり、交通路が次々に変化した。

交通路の変化が海面の低下で引き起こされたとすると、関東各地でほぼ同じ時期に交通路の変化が起きたであろう。
多摩川下流で起きた街道の変化や金沢八景付近の地形変化が大変参考になる。→→「海抜2m」のページを参照

図解2につづく      目次へ

略年表    
承久3年(1221)
嘉禄元年(1225)
承久の変で鎌倉幕府の地盤固まる
神戸山に神明社建立
桜ケ丘の道
文明17年(1485) 道興「廻国雑記」 帷子−岩井原(岩間原?)−餅井坂− 道潅時代の
鎌倉下の道
永禄3年 (1560)  
永禄12年(1569) 
上杉謙信 品濃経由で小田原に攻め込む
武田信玄 帷子より石名坂を通らず、小田原に攻め込む
(境木越えの道が通じていたことを示す)
境木越えの道
慶長5年 (1600)
慶長6年 (1601)  
慶長9年 (1604)  
慶長14年(1609) 
元和5年 (1616) 
関ヶ原の戦い
東海道制定
一里塚設置
★保土ヶ谷検地帳
神明社下神戸に移遷
旧々東海道
慶安元年 (1648) 
慶安2年 (1649) 
万治3年 (1660)
三町合併−東海道新道 (第1次新町計画)
慶安の大地震
権太坂完成 (岩間合併)(第2次新町計画)元町移転
東海道新道
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