図解2                              図解1にもどる          目次へ
図解1と同じ図をもう一度使って補足説明する。
とくに従来の郷土史の間違いについて詳しく説明したつもりである。他のページと一部記述が重複する。
第1図 鎌倉時代〜戦国初期
古町橋が昔からの交通の要地であったという思いこみがある。
また「(奈良平安の時代から)神明社付近が橘樹郡の中心地であった」という記述が保土ヶ谷郷土史の最初に出てくることが多い。
第1図を見ればとんでもない間違いであることが一目瞭然であろう。
この説は明治時代の地名学者吉田博士の「神戸=ごうど」説から来ているが、この説は今となると全くのデタラメである。
吉田博士の神戸説
吉田博士によると「神戸」を「かんべ」と呼ぶときは神社領だが、「ごうど」と呼ぶときは郡役所の所在を表すとされており、全国の地名を調査した結果例外が全くなかったことがその根拠とされる。

ところが例外が山ほど存在する。@戸塚の郷土研究には、上郷で神戸=ごうどの地名が神社とともに移動する例が記されている。A伊勢原の246号線沿いに神戸=こうどの地名があり、すぐ近くには古い由緒のある比々多神社があってその神社領であることは誰が見ても明らかである。B熱田神宮のそばにも神戸=ごうどの地名がある。すなわち神戸(ごうど)も(かんべ)と同じく神社領を示す地名なのである。
(「例外がない」ことが吉田博士「神戸説」の唯一の根拠なので、例外が一つでもあれば消えてしまう学説である。)

特に保土ヶ谷の場合は、この地名は昔からのものではなく、江戸時代の始めに桜ケ丘の山の上から神明社と一緒に移動してきたものである。
更にこの一帯は戦国初期までは海中であったことも分かり、奈良平安時代に郡役所などあろうはずがないのである。
第2図 戦国中期
峰坂
戦国中期に、三ツ沢−和田橋の旧かまくら道ルートに対して、海沿いの新ルート(古町橋)が開けた。新ルートの方が楽なので三ツ沢方面から来る旅人は、途中から新ルートへ乗り換えることになるが、この乗り換えのための道が「峰坂」で、江戸時代を通じて旅人が絶えなかった。

武田信玄が小田原に攻め込んだときの軍記に「神大寺に現れた武田軍が筋違いに(すじかいに=斜めに)帷子にかかった」という記述がある。
このあたりの街道は複雑で、京都の町のように碁盤目ではないから「真っ直ぐ」も「斜め」もないはずである。敵が神大寺(三ツ沢の先)に現れたので和田橋に来ると予想していたところ帷子橋に来たことに意外感を持ち、それが「斜めに」という表現で記録として残ったのであろう。
言い換えれば、この頃古町橋ルートが開けたばかりだったのであろう。
保土ヶ谷郷土史では伝統的に「鎌倉道」のことがほとんど無視されており、ろくな記述がないが、世間では鎌倉道の研究はずいぶん進んでおり、石名坂が鎌倉時代以来の鎌倉古道であることは誰一人疑っていない。また石名坂から先の鎌倉道のルートもよく研究されている。

ただし石名坂に至る経路については研究が遅れており、古町橋ー石名坂が一応現在の定説であるが、鎌倉時代に古町橋が海の中で通行出来なかったことが分かった以上、定説は見直されるのが当然である。

本著では「定説の鎌倉道」古町橋−石名坂は、戦国中期に開かれた「後期鎌倉道」としている。
鎌倉時代の鎌倉下の道=「前期鎌倉道」は和田から桜ケ丘を通り、帷子町郵便局前に下って石名坂にかかっていた。
<鎌倉道の定義      →鎌倉古道の定義 参照
鎌倉道研究者の間では研究対象である「鎌倉道=鎌倉古道=古鎌倉道」の定義はほぼはっきりしており、鎌倉幕府時代の「いざ鎌倉の道」に限定せず、「江戸時代に東海道が制定される以前の主街道で鎌倉に通じる道」と定義される。

ところが江戸時代の少し前、戦国中期頃に海退の影響を受けて全国の交通路が大きく変化しているため話が複雑になり、どうしても@鎌倉幕府時代の前期鎌倉道と、A江戸時代の少し前に開けた後期鎌倉道に分けないと議論できないことが起きる。
第3図 旧々東海道と東海道新道
神明社の移遷     →文献資料 参照
神明社が桜ケ丘から今の場所に移転してきたのは、このあたりの湿地帯の乾燥が進み、新しい土地作りがこれから始まろうとする絶好のタイミングだった。一旦村や田畑の割り振りが出来上がってしまうと、立退き料や年貢の補償金がからみ、神明社ほどの大きな施設が割り込んでくることが困難になる。

保土ヶ谷郷土史では、神明社に相当なページを割いているのに、神明社の移遷について一言も触れておらず、したがって神戸の地名が昔から神明社付近にあったという前提で議論をしているのは不思議である。  
「神明社御由緒・・・元和5年(1619)宮居を神戸山山頂から現在のところに遷し、社殿の造営、社頭の整備が行われた・・・」
元町の位置
東海道を基準に考えると、旧保土ヶ谷(元町)はずいぶん奥まった場所にあるように感じるが、実はもっと奥の方(法泉下)にあったのである。
和田橋起点に頭を切り換えると、この場所が和田−境木を結ぶ最短距離の線上にあることが納得できる。又その後に起きた一連の複雑な交通路の変化も、海退によって渡河点が下流に移ったことが原因で順次引き起こされたことが上図1.2.3から理解できるであろう。
権太坂開削    →文献資料 参照
昭和13年の保土ヶ谷区郷土史に「万治2年に権太坂開削に着工」記事があやふいところでボツにされずに収載されたのは幸いだった。

しかし収載の場所が何故か「街道」でも「道路工事」でもない「伝説」の項だったため、見落とされることが多く、単に「権太坂」か「権左坂」かという地名起源の資料に使われるにとどまってきた。
この情報は「いつどこで誰が何故・・」といういわゆる1H5Wが揃った完全な情報であり、出所も昭和10年当時の生証人による確かな情報源である。(これにくらべて、耳の遠い老人が自分の名前を聞かれたと勘違いして権太と答えたという武蔵国風土記稿記事のお粗末さは何であろう。)
その重要情報を無視してきたことが東海道以前の保土ヶ谷の研究がこれまでいっこうに進まなかった原因の一つである。

武蔵国風土記稿は郷土研究の原点であり優れた資料である。ところが武蔵国風土記稿の編者が良心的に取材し、忠実に記録したにもかかわらず、この「権太坂開削」だけを知らなかったため、地元の人の説明が理解できず意味不明な個所が各所に出来てしまい、未だに「保土ヶ谷の謎」になっている。「万治2年権太坂開削」を補って読む武蔵国風土記稿の「保土ヶ谷の謎」はすべて氷解してしまうのである。

権太坂が作られたのは、江戸時代もかなり後になってからで、旧々東海道時代はもとより東海道新道も最初の11年間は権太坂を通っていなかったことになる。(略年表参照)
権太坂がなければ境木越えの道は通れないから、万治2年は何かの間違い−−開削ではなく改修の誤りであろう」などという論法がまかり通ってきた。実は権太坂がなくても境木の道はちゃんと通れるので、この論法は根拠がない。
   (自分の勝手な都合で「何かの間違い」として原資料を改変してしまうのは研究者として許し難い。)
境木中学の前から商店街を下るとJR線路にぶつかる。これを真っ直ぐ進んだ地点が法泉下で、旧保土ヶ谷宿のあった場所であったことが、当時の慶長14年検地帳の地名からも証明できる。(線路工事と戦後の宅地造成で道筋が少し変わっているが、以前からこのルートは通じていた。)

現在の元町は明らかに権太坂の坂下に作られた町であり、権太坂がない時代にここに宿場があったとは考えられない。万治3年権太坂が完成して東海道ルートが変わったときに「元町」の町名とともにここに移転してきたのである。
「帷子」「岩間」・・など保土ヶ谷の町々は、東海道筋にもとの町名を持って移転してきており、「元町」もその例外ではない。

保土ヶ谷区郷土史(S13)では、保土ヶ谷の一里塚(外川神社)と品濃の一里塚の間が一里に500m足りない3.25kmしかないのは何故かという疑問が提起され、「権太坂がきついので旅人の疲労度を考慮して短めに設置した」などというもっともらしい理由が述べられている。一里塚は旧々東海道時代に作られたもので当時の東海道は法泉下を通っていた。その後近道の権太坂が出来たため東海道が500m短くなった。それだけの話であった。
(一里塚に関する幕府の記録はほとんど残っていないので、疲労度云々は資料によるものではなく、後からの誤ったこじつけである。)

 

略年表    
承久3年(1221)
嘉禄元年(1225)
承久の変で鎌倉幕府の地盤固まる
神戸山に神明社建立
桜ケ丘の道
鎌倉下の道
文明17年(1485) 道興「廻国雑記」 帷子−岩井原(岩間原?)−餅井坂− 道潅時代の
鎌倉下の道
永禄3年 (1560)  
永禄12年(1569) 
上杉謙信 品濃経由で小田原に攻め込む
武田信玄 帷子より石名坂を通らず、小田原に攻め込む
(境木越えの道が通じていたことを示す)
境木越えの道
慶長5年 (1600)
慶長6年 (1601)  
慶長9年 (1604)  
慶長14年(1609) 
元和5年 (1616) 
関ヶ原の戦い
東海道制定
一里塚設置
★保土ヶ谷検地帳
神明社下神戸に移遷
旧々東海道
慶安元年 (1648) 
慶安2年 (1649) 
万治3年 (1660)
三町合併−東海道新道 (第1次新町計画)
慶安の大地震・・・復興のため新規工事計画遅れる。
権太坂完成 (岩間合併?)(第2次新町計画)元町移転
東海道新道

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