§1 古代の桜ケ丘                       目次へ
縄文時代、川沿いの平地には海が深く侵入しており、人の住居は台地の上にあった。弥生時代になって、海が徐々に引き、稲作が始まると住居は徐々に潅漑のよい平地に移り、台地は無人の森に戻るが、一部はやがて畑として再開発される。
最近まで森のままだった地域が、学校や団地などで大規模開発されるような場合では、本格的に発掘調査されるため遺跡として記録され、あるいは保存される。(岡本町:三殿台遺跡など) 
近くでは仏向遺跡、16号線向かいの峰岡遺跡

桜ケ丘一帯も当然大きな古代住居があったはずの地形であるが、江戸時代に早くから開発され畑になっていたため、住居跡は破壊され、土器の類も堀尽くされてしまったものであろう。※

参考 仏向遺跡
桜ケ丘と地続きの仏向地区は最近まで森だったため、住宅団地から住居跡や土器類が発掘される。
2010年6月に一般公開されたときの写真を一部紹介する。(仏向小学校前の住宅公団団地)
 
        縄文時代住居跡                        弥生時代住居跡
 
       平安時代住居跡                           獣骨と貝殻(貝塚出土品)
  
            縄文土器                              弥生土器
目次へ
市が原」は、第1章の昭和始め地図では、現在の岩崎中学辺りの字名である。
「神戸原」と同じ意味にも使われたので、桜ケ丘一帯の広い地域を指す地名でもある。

「大礼記念保土ヶ谷年鑑」(昭和15年)には、次のような「市が原」の地名伝説が出ている。
市加原:神戸原一帯の称なり。慶安以前(新道以前)道路この辺を通せし頃、市の開けたる所なりと。今も畑より摺鉢、茶碗などの破片を多く堀出せり。
(市が原付近は昔の街道が通っており、旅人目当てのが立っていたので、市が原の名が残った。今でもこの付近の畑を掘ると茶碗のかけらが沢山出て来るのはそのためである。)

柳田国男によると、地名の最初は「原」「谷」といった簡単なものから始まり、やがて「原」や「谷」がいくつか出来て区別する必要が生じると、「一の原」「二の原」のような地名が出来るということである。
「市が原」も本来は「一の原」だったのが、後に「市」と当て字されたものであろう。
「市が立った」というのは、当て字の「市」から生まれた地名伝説であり、当て字の漢字をもとに二次的な地名伝説が生まれるパターンの一つである。多分、後年にぎわったという「神戸市「の連想もあったであろう。「街道があった」というのは当時の学説を取り入れたもの。

この話はいろいろなタイプの伝説が組合わさって出来上がったもので、信用出来ない。

そういう中で「畑から茶碗のかけらが出て来る」と言う話だけは興味深い。
茶碗を焼く窯があったというのならともかく、焼物市があったので茶碗のかけらが沢山出て来るというのは筋が通らない話である。
畑から土器が沢山出て来るのは、この付近に大きな古代住居跡があったことを示している。

 
※ 桜ケ丘付近での古代住居趾については、保土ヶ谷区郷土史( 昭和13)に次のような土器、石器の過去の出土記録が引用されているので、古代の桜ケ丘を探る手がかりにしてほしい。

(イ)石器時代 縄文、弥生 土器、石斧などの出土地
 岩間供養塚付近(清水ケ丘) 
月見台
神戸 (桜台小−岩崎ガードの中間点?)
神戸神戸原(岩崎中学付近?)
   神戸浴風園(戦前の老人施設、現栄養短期大)
桜ケ丘旧警備隊趾(関東大震災のあと、人心安堵のため軍隊をおいた。
            現桜ケ丘バス停−神戸坂間の道の両側に軍隊が居た)
   その他、星川、峯岡 各地         ( )内は大畠注

(ロ)古墳横穴時代(高塚)
富士塚(神戸町)、十三塚(帷子)、仏向原塚

(イ)の出土品は、多分、神奈川歴史博物館などに保管されていると思うが、現在ほど組織的に発掘調査されていないため、資料的な価値は乏しい。

(ロ)の高塚について、塚=墳墓とは限らないので、注意が必要である。
富士塚は常識的には江戸時代の富士信仰の跡であり、十三塚は鎌倉室町時代の仏教関係の行事に使われた供養塚(真言宗系の十三仏供養?)であって、いづれも墓ではないし、もちろん古墳時代よりずっと新しい遺跡である。
但し「塚と呼ばれるものは一般には墳墓ではない」という常識を踏まえた上で、やはり「墳墓らしい」という新しい発見や研究もあるようであり、そのことまで否定しているわけではない。

目次へ

inserted by FC2 system