2−2 もう一つの鎌倉道−保土ヶ谷宿の起源                 目次へ
昭和初期の鎌倉道論争
武蔵国風土記稿や相模国風土記稿は、鎌倉下の道が東海道と同じ道筋であったという先入観に基づいて書かれている。

初期の研究はこれに引き連れられており、昭和初期まで「鎌倉下の道」は東海道とほぼ同じ境木越えの戸塚ルートと考えられ、古町橋−桜ケ丘−神奈川坂−境木とされていた。
すなわち桜ケ丘の道は、鎌倉時代からの古い鎌倉道であるというのが当時の学説であった。( 石野瑛 昭和2 横浜近郊文化史)

ところが道興の回国雑記に出て来る「餅井坂」が弘明寺の先に発見されたため、この学説はあっさり撤回され、鎌倉道は境木越えではなく、石名坂越えということに変わった。(石野瑛 昭和6 横浜市史稿 政治編1)
鎌倉道と思われていた桜ケ丘道は、突然に「ただの田舎道」になり下がってしまった。

   
それだけでなく、保土ヶ谷宿の起源が宙に浮いてしまう。

保土ヶ谷区郷土史(昭和13)では、鎌倉道でないにしても室町戦国時代の主要街道であったはずという感触から、古町橋−桜ケ丘−元町−境木コースをもう一つの主要街道に想定している。
「石名坂越え以外にもう一つ別な街道があったとしても構わないのではないか」という論法である。

しかし残念ながらこの説は論拠のない単なる「想像」であり、その後の研究者の賛同は得られていない。
境木を越える街道があったはずとする理由は若干書いてあるが、それが桜ケ丘を通らねばならない理由が薄弱である。
  
 大畠説 もう一つの鎌倉道−−保土ヶ谷宿の起源
                
前章で、鎌倉時代の鎌倉道は桜ケ丘を通っていたとした。和田−仏向−桜ケ丘−石名坂

この鎌倉道と同時期あるいは少し遅れて、もう一つの鎌倉道が発達していたらしい。和田で帷子川を渡った後、仏向の山を越えて、最短距離で元町(当時は権太坂はまだなく、法泉下が保土ヶ谷の中心)から境木を越えるルートである。

片倉/神代寺−三ツ沢−和田−とたどってきた鎌倉道は、仏向で二つのルート(石名坂、境木越え)に分かれ、それぞれに宿場町が発達する。
石名坂に発達した町が岩間宿、境木越えの坂下に発達した町が保土ヶ谷宿である。

これで保土ヶ谷宿の起源が説明出来るし、次のような文献資料とも一致する。
   
武蔵国風土記稿: 境木越えの道について次のような記事がある。これが本章の「もう一つの鎌倉道」のことである。
(太田道潅の記事に続いて)この頃の街道は今の道より乾(いぬい=西北)の方にありて、その道の次第は相州境(境木)より今の如く来たり、元町の内東に行くところを行かずして、田間を越え、良(うしとら=東北)のあたり片倉村の方へ入りしなり。

この道筋は、片倉を常に東北方向に見ながら進むコースである。
慶長十四年保土ヶ谷検地帳: 法泉下付近に「神奈川坂」「仏向街道」の地名あり。(花見台−元町の神奈川坂とは別な場所である。)
直接、最短距離を法泉下に向かう道のほかに、「ソニー付近−初音小学校の谷−元町ガード−法泉下」や「保土ヶ谷球場−花見台−元町ガード−法泉下」の道も開けて来たと思われる。距離は少し長いが勾配の楽な道である。
検地帳の時代、元町ガード付近の地名は宿尻(宿のはずれ)だった。また元町ガードと法泉下の間に、茶屋が2−3軒並んだ「茶屋町」という地名があったのではないかと思われる。

こういう形で保土ヶ谷宿が発達し、江戸時代の東海道を待つばかりになっていた。(保土ヶ谷宿の起源)

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