2−3 桜ケ丘にあった神明社                    目次へ
神明社の建立
鎌倉時代、桜ケ丘(神戸山)の山上に鎌倉道が通っており、鎌倉道に隣接して広大な神明社が建立された。
桜ヶ丘の旧地名は「神戸」であるが、神明社の神社領を示す地名である。
武蔵国風土記稿に引用された戦国時代の天文24年文書「神戸神明濫觴之事」によると鎌倉時代は「一二三四の彌宜あり。神主あり、八乙女あり、二十五人の社人あり、六口の供僧/巫女あり。・・・」と繁栄していたが、戦国になって神領を奪われ衰微している。

神明社の移遷

江戸初期の旧々東海道( 1601)になって間もなくの元和5年(1519 )に現在の下神戸に移遷した。 (江戸名所図会、武蔵国風土記稿)

江戸名所図会:
   大神宮 嘉禄2年九月十六日この山上に遷し奉り、又元和2年三月三日今のごとく平地へ宮居を造立す

神戸の地名も神明社の移遷に伴って山から平地に移動している。

神明社は桜ケ丘のどこにあったのか
神明社が上神戸のどこにあったのかについて、私なりに挑戦した。
1)武蔵国風土記稿の大仙寺記事

大仙寺: 村の旧記によるといと古き寺にして 天禄年中の起立にて  神戸山惣持院神宮寺と号せしがその後衰微し、」 「応永(室町)に中興、山号寺号を「西方山安樹院大仙寺」に改める。」  「寛文十年大火(回禄)記録一切を焼失。」

神宮寺というのは神社に付属した寺という意味であり、この付近に神明社があったと考える人が多い。
神明社に神宮寺が付属していたことは、天文の文書にも明かであり、江戸時代の絵図にも満福寺という神宮寺が付属している。
2)旧神明社の規模とレイアウト

候補地はきわめて限定していると思われる。
江戸時代の図面(江戸名所図会、東海道分間延絵図)を見ると、神明社の社域はずいぶん広大である。
更に天文二十四年の縁起によると、旧神明社には神宮寺、経蔵堂、雨宮、風宮、日王子、高根明神、稲荷、山王などがあり、最盛期には、八乙女、二十五の社人、六口の供僧巫女を有しとある。上神戸時代の神明社は、江戸時代の神明社と同規模かあるいは更に規模が大きかったものと思われる。

これだけのスケールの神域が取れる場所は、桜ケ丘台地の南側に絞って考えると、@月見台、A桜台小学校からABアパートにかけての一帯、B岩崎中学付近くらいしかない。

次章で述べるように、神明社は栄えに栄えて手狭になったから広い場所に引っ越した訳ではない。天文の文書に見られるように、戦国時代の神明社は、かっての神社領の大部分を失って衰退しており、交通路の変化で街道が山から平地に移ったことが更に追い打ちをかけた。いわば追いつめられて移遷したのであり、経済的にも余裕はなく、移遷に当たって近郷の有力者たちの資金援助を仰がねばならなかったであろう。少なくても数百年前の建立当時の規模を上回るような壮大な移遷計画ではなかったであろう。したがって旧神明社の場所を推定しようとする場合、現在の神明社より一廻り大きい江戸時代の神明社の規模を更に数割上回る神社域がすっぽり治まるような地形の候補地を探す必要があるのである。

もう一つの仮説として、旧神明社と新神明社は規模だけでなく、レイアウトも同じであったろうと考えている。これは移設なり、改築なりの時の人情の問題である。農家などが新築するような場合でも、玄関や床の間の位置は昔のままにしたがるものである。

街道脇から鳥居をくぐると長い参道が続きその先に拝殿がある。拝殿の左右には風宮、雨宮などいくつかの神社が並んでいる。こうした現在の神明社のレイアウトは旧神明社のレイアウトを踏襲したものであろうとすると、Aの候補地の地形は規模、形ともこれにうまく当てはまる。桜台小学校付近に鳥居があったとし、霞台市営アパート付近の幅広くなった位置に拝殿やその他の小神社を想定するとうまくはまり込むことが分かる。

3)神社の森
明和7年往還図(下図)は、神明社の移遷から150年も経ったあとの江戸中期の地図であるが、江戸時代地図としては珍しい「土地利用図」であり、田畑になった耕地と未開発の森とが塗り分けられている。
黒い部分が未開発の森である。
きちんとした測量に基づいて作られているので、現在の地形図と重ねて眺めることが出来る。

この地図では、今井川に沿った平地と桜ケ丘道に沿った台地がほとんど開発されて田畠になっており、森のまま残っているのは、台地と平地の中間の利用しにくい傾斜地だけである。ところが、桜ケ丘道とは同じ台地の続きであるはずのABアパート−大仙寺上付近は、平坦な広い場所で畑として適地であるにもかかわらず、森のままで残っているのは非常に興味深い。
(明治13年地図では、この一帯はほとんど畑に変わっている。)

大仙寺踏切から下り方面を見る。
道祖神神社と稲荷があった小さい尾根を撤去した跡が見える。
旧々道時代は、この尾根が保土ヶ谷と神戸との境界線だった。(注1)
大仙寺前から岩崎町に出る小さな峠がそれである。
道祖神神社と稲荷は戸川神社境内に移設。


旧々東海道が出来たとき、神明社はまだ桜ケ丘にあった。

地図の広い森が「神社の森」跡。
大仙寺は神宮寺だった。
移転後の神明社跡地
柳田国男が神社の森について書いた小文が手元にある。神社の森に対する昔の人々の感情が要約されていると思うので、一部を引用しておく。(柳田国男:塚と森の話−明治45年)
「年久しく我々の祭ってきた神は、とても簡単な方法ではこれを移すと言うことは出来るはずのものではない。我々が神として斎くものは、ご神体でも社殿でもなく土地自身であり、森自身である。」「森というのは、人民がはばかって開き残した土地の一部」「いささかでも神に縁故のある土地は、常人ははばかってこれに手をつけなかったものである。」

神明社が移遷したあとも、旧神社の森の大半は開発されず、移転後150年の明和7年地図を見ても、森のまま残されていた。
この土地が開発されたのは、上神戸に神明社があったことの記憶がすっかり失われた江戸時代末期になってからであった。
もしここが神社域でないふつうの山であったならば、もっと早い江戸以前か江戸初期の時期に畑に変わっていて当然だった場所なのである。

4)下神戸の代替え地
前記のように、明和7年往還図は正確な測量に基づいているので、現在の地形図との比較が可能である。
問題の大仙寺上の台地(桜台小学校−霞台公園と市営アパート−保土ヶ谷教会付近)が、この往還図の時代では「保土ヶ谷」に属しているのは大変興味深い。
江戸時代始めの神明社移遷に際して、下神戸の土地を得るための代替え地として、旧神明社の場所を手放したため、「神戸」から「保土ヶ谷」に編入されたのではないかと考えている。

当時の神明社は天文二十四年文書から分かるように、当初の神社領の多くを失って衰退していた。
天文の資料は神明社の縁起(歴史)を書いたものであるが、その目的は昔の神社領を返して欲しいという殿様(小田原北条氏)への嘆願書を奉行経由で提出したものである。
経済的に余裕があった訳ではなかったから、大金を積んで別な新しい土地を買い取ることは無理であり、移遷先の下神戸の土地を入手する代わりに、旧神社敷地(上神戸)は手放すしかなかったであろう。
5)村境 旧保土ヶ谷と神戸(神社領)との村境
明暦地図の大仙寺の左下に東海道に達する小さな森が残っている。
明治13年図を見るとこの部分だけ東海道の町並みが欠けていることが分かる。
実際には、ここは標高差5mほどの小さな尾根になっており、現在大仙寺下から岩崎町に抜ける途中の小さな峠がそれである。
この尾根と森は明治までそのまま残り、鉄道を通す際、削り取られたが、今でも大仙寺踏切の戸塚寄りに削り跡が残っている。
地形的に見ると、この尾根が旧保土ヶ谷の東境としてぴったりである。
この小さな森が明治まで開発されず残ったのは、ここが昔の村境であったためであろう。村境の森を開発するのはトラブルの元である。

武蔵国風土記稿によるとこの小さな森の中に道祖神社という小祠があり、大仙寺境内からも東海道側からも参れるようになっていた。          (東海道から大仙寺側への抜け道として利用された。)
  武蔵国風土記稿:大仙寺の項
    当寺境内の外に除地三段二畝二八歩境内の地に続けり。
    稲荷社:除地居山の内にて境内に続けり。
    道祖神社:同所にあり小祠。

道祖神というのは「サエノカミ(塞の神、サイト)」であり、村境(入口)の神様である。

注1)
神戸の語源
神戸(ゴウド)は、本来「神社領」を表す言葉であるが、以前から他に柳田国男説と吉田東伍説がある。
二人とも押しも押されぬ大先生だが、保土ヶ谷の「神戸」に関する限りどちらも間違いである。

×柳田国男説:渡河点を示す川渡(ゴウド)。

保土ヶ谷の神戸が古町橋に近い下神戸から始まって山の上へ広がったのであればこの説も成り立つが、これまで見てきたように山の上にあった神明社が平地に移ったことに伴って神戸の地名も移動したことは確かであり、「川」起源の柳田説は全く成り立たない。

×吉田東伍説:郡役所を表す郡家(ゴウケ)のなまり。神戸をカンベと読むときは神社領だがゴウドと読むときは例外なしに郡家という。

(反論) 保土ヶ谷だけでなく、神社領なのに「ゴウド」と読む例はいくらでもある。
246号線伊勢原の比々多神社近くに神戸(ゴウド)バス停がある。
名古屋熱田神宮の門前町が神戸(ゴウド)である。近くでは戸塚上郷の白山神社の神戸(ゴウド)がある。そして保土ヶ谷神明社も代表的な例外である。
「全国に例外がない。」というのが吉田説の唯一の根拠なので、例外が二三出て来るだけで吉田説は根拠を失ってしまうのである。

注2)「神明社御由緒」は武蔵国風土記稿の記事をほぼ正確に踏まえているが、「天正十八年徳川氏入国の時、社殿の造営が行われ、御朱印が安堵された。」という下りだけは、武蔵国風土記稿の読み違いであろう。

武蔵国風土記稿「 四石一斗の御朱印は慶安元年( 移遷後)に賜へりと云う 。この社は御打入りの後、再まで造営ありしと云う。

御打入り」は家康入国のことだが、「御打入りの後」というのは、単に「徳川時代になってから 」という意味の慣用語であって、「打入りの直後」の意味ではない。ここでいっているのは、単に「江戸時代になってから少なくとも2回普請をした跡がある」という意味であり、その後に出て来る棟札の記事を指している。

神明社の移転(いいかえれば、神明社が以前桜ケ丘にあったこと)は、桜ケ丘の歴史上きわめて重要である。そのことは桜ケ丘の旧地名「上神戸」や神明社の氏子の分布からも明らかだし、江戸名所図会御由緒にも「移転」が明記してある。

◆ところが保土ヶ谷区郷土史(S13)には、神明社の移転について一言も触れておらず年表にも載っていない。移転を明記するとほかの記事との間に矛盾が生じるため、故意に「神明社移転」を抹殺したものと思われる。 
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