§3 戦国時代の桜ケ丘−加賀屋敷と抜け穴           目次へ
(1)加賀屋敷と加賀の井戸

昭和始めの字界地図に「加賀山」という地名が出ているが、この地域は江戸時代に「加賀屋敷」と呼ばれており、六郷加賀守の屋敷跡と言伝えられていた。この話を聞いた武蔵国風土記稿の編者は、江戸城に保管されていた小田原氏の家臣名簿(小田原所領役帳)を調べたが、加賀守という名前は見当たらなかった。
                            土地宝典 昭和初期

またこの辺りには、地元の人がカンカン井戸と呼んでいる廃井戸が2つあったという。手を打つとガンガン響くからガンガン井戸と思っていたらしいが、もちろん「加賀の井戸」のなまりである。

柳田国男の「地名の研究」には全く違うことが書かれている。カガというのは、山の上にあって水の便が悪く水田にならない草地を示す。加賀とか足利とかの武家の姓も本来は地形を示すカガが語源であるという。
柳田説に従えば、昔からこの一体は地形からカガあるいはカガ山と呼ばれており、戦国時代にそこに山城が出来たので、地名を採ってカガ屋敷と呼んだだけであり、別に加賀守は居なくても構わないのである。

この加賀山はまず昭和の始め市営住宅として開発されたが、戦後になって住宅地と売り出され、もう1度整地分割された。
すなわち戦前戦後の2回整地工事が行われたのだが、この際、「屋敷−武家屋敷、長者屋敷」という言葉から想像されるような建物の土台石も、大勢の人の生活跡も発見された記録が無い。
一方、昭和6年の横浜市史稿での現地調査では、加賀の井戸は確かに現存した。武蔵国風土記稿には2つと書いてあるが、昭和6年の調査では3つあったようで、うち1つはまだきれいな水をたたえていたという。
保土ヶ谷区郷土史によると井戸のあった場所は星川下の谷に下りる坂の中途と書いてあるが、今ではどこだったのかよく分からない。知っている人がいるうちに、早く場所を確定しておく必要がある。※
建物跡も生活跡もないのに、井戸だけがまとめて3つも用意してある「屋敷」とは一体何だったのであろうか。
戦時だけ武士の立てこもる山城の類としか考えられない。水は篭城に備えての飲料用だけでなく、火矢で攻められた場合の消火用にも必要なのである。
この場所は、帷子川沿いの道、今井川沿いの道、桜ケ丘の道すべてを押さえる重要な拠点である。戦時に山城が設けられるのは当然の場所であったろう。
この地域一帯は周囲を急峻な断崖に囲まれた自然の要害となっている。
保土ヶ谷は戦国時代、小田原北条氏の勢力下にあり、この山城も小田原防衛ラインの一つであったろう。

●永禄3年( )上杉謙信の軍11万3千騎が小田原に向かう。
「武州堀難、関戸、分配筋より武蔵野を通り江田、稲毛、小机、権現山、品濃坂へ出た。この大軍では関所はあっても無いも同然、砦は片端から先手衆が駆け破って野も丘も平押しに押し通って 」(関八州古戦録)

●永禄12年( )武田信玄が小田原に攻め入る。
「府中、高井戸、世田谷、目黒、池上、丸子筋、稲毛、小机、帷子辺の家や寺を思うまま乱暴し尽くし、藤沢、大磯と押し通り 」(関八州古戦録)

保土ヶ谷付近はこれらの2回の小田原侵攻の進軍コースに当たっており、何らかの小競り合いはあったろうが、「攻め込んでくる大軍には強く抵抗せず一旦領内深く引き入れてしまい、篭城策を採る。敵が城攻めに飽きて引き上げる途中を待ち伏せして徹底的に叩く」というのが、小田原北条氏の基本的な戦術であったから、多分激戦は行われなかったと思われる。

注)後年の豊臣秀吉、徳川家康の連合軍による小田原攻めにおいても北条氏は伝統の篭城策を採った。しかし秀吉はすでに北条氏の手口を研究し尽くしており、長期の城攻めに備えて芝居の一座まで準備するという策を採ったため、小田原勢はなすすべもなく開城してしまった。

(2)加賀屋敷の抜け穴

昭和60年(1985年)、この台地の南端の真下に当たる「かなざわかまくら道」の道端の崖(水口歯科医の前−現在マンション_メゾン)を、石垣工事のためにシャベルカーでひと掻き削ったところ写真のような抜け穴が現れた。

幅100cm、高さ120cmくらい、大人が腰をかがめて走り抜けられる程度ので通路で、山のふちの地形に合わせてゆるくカーブしており、決して戦時中の防空壕趾ではない。山城の周囲の平地が敵の大軍に完全包囲された場合に備えての連絡や脱出のための抜け穴と思われる。

  

この位置の真上は当時桜ケ丘の山上にあったはずの神明社の森の奥である。ロープを伝わって崖を下り、タテ穴から一旦この抜け穴にひそんだあと思いがけない場所(大仙寺の墓地辺り?)から、すきを見て脱出する。
脱出したのちは、今井川を越えて対岸の山へ入ってしまうだけでよい。そこは岩間村、永田村、井戸ケ谷村のいずれかで、小田原北条の強力な一族である蒔田の吉良氏の勢力範囲である。

永禄12年、前記のように武田信玄がこの地を通って小田原に攻め込んだ時、蒔田の吉良氏は石名坂に鉄砲隊を並べ、武田軍の通過を許さなかったと言われる。武田軍は吉良氏との正面衝突を避けて、石名坂を通らず境木越えの道を選んだようである。          

2010年、マンションに隣接した住宅工事で抜け穴の続きが出てきた。完全に土で埋まっており、これから先には抜け穴はなかったようなので、この位置がタテ穴の入口だったと思われる。穴の大きさはタテ1m×ヨコ1m。
  
 マンション「メゾン」のとなりの民家 土地を掘り下げて1階に駐車場を作った
追記:ガンガン井戸と抜け穴
2000年5−7月「桜ケ丘いま昔」講座(桜ケ丘コミュニティハウス)のあと、
小菅静夫氏
(桜ケ丘2-42-22 tel 341-8824)から、次のような情報を頂いた。

1)昭和10年頃、現在のバス道、月見台遍照寺の塀の端に上記と同様の横穴の入り口があった。
(戦時中に防空壕として利用し内部を拡大?)
また元保土ヶ谷小学校の講堂近くの裏山にも横穴の入り口があった。

2)昭和13−14年頃、加賀の井戸を実際に見ている。場所は現在の桜ケ丘1丁目22(通称首吊り坂
図のような構造をしており、普通の縦井戸ではなかった。

大畠注)井戸の構造については、横浜市史稿(S7)の次の記事と照らし合わせて、Bの井戸と思われる。
井戸が3つあったが、@は農家の芋の貯蔵に転用、Aはビール会社が清水を引くために周囲を切り広げて水を蓄えている。Bは近所の物好きが横から掘り壊して内部を確かめ、今もわずかに水をたたえている。
 
追記:金谷「諏訪原城址」のカンカン井戸
2003年9月に、東海道(大井川)金谷宿背後の諏訪原城址を訪ねたところ、「カンカン井戸」の名称が残っており、まったく驚いた。これまで、カンカン井戸=「加賀の井戸の訛り」と信じて疑わなかったが,自信がなくなった。
                    
諏訪原城は、複雑な構造を持った広大な山城で保存状態がよく、詳しく研究されている。
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