§4 旧々東海道をめぐる論争               目次へ
(1)旧々東海道とは
今の西口商店街が五十三次時代の旧東海道であることはよく知られているが、それ以前にもう1つ別な東海道があったことが文献に残っている。
「旧東海道の旧道」が正しいのだが、聞く人にはまぎらわしいので、旧東海道と区別するために、「旧々東海道」または「旧々道」と呼んでいる。

関ヶ原の戦い(1600年)で大勝した徳川家康は翌年の慶長6年(1601年)、東海道を設定し伝馬の制を敷いた。
すでに一地方大名でないことを天下に誇示する意味もあったと言われる。
旧々道はそれまで使われていた道を組み合わせただけの暫定的なコースであり、保土ヶ谷の場合は、慶安元年(1648年)に東海道新道が作られるまで、約50年間、東海道として使用された。

50年後、新道への移行に合わせて、それまで別々だった保土ヶ谷、岩間、神戸、帷子の四町が新道沿いに集まり、1つにまとまった保土ヶ谷宿(新町)を形成する。(4町1宿)

(武蔵国風土記稿) 昔は街道の往来今のところよりは西北の方にありしという。
しかるに慶安元年その道を変えられてより今の如くなりたり。
古き趾伝えて今に残れり。
(江戸名所図会) 芝生の追分けより下帷子の右の裏通りを程ヶ谷の元町に出づる通路にして、行程十八町ばかりなり。すなわち古の海道なり。万治二年(1959)(あるいは慶長、あるいは慶安ともいふ)、今の如く通路を改められ死より、裏通りを古町街道と称し、今の駅舎を新町とは名付けしなり。
(2)桜ケ丘説の間違い
×「保土ヶ谷ものがたり」(昭和42年)の旧々東海道のコース
   
「大蓮寺−桜ケ丘−花見台−神奈川坂−元町」という説明を地図入りで記載し、これが定説化された形になっていた。
この記事は資料の単純な読み間違いである。
×桜台小学校正門の「旧東海道」碑

「旧東海道」は「旧々東海道」のつもりで書いてあるが、
「保土ヶ谷ものがたり」地図の間違いを継承したもの。

当時の校長先生に間違いであることをよく
説明し、卒業記念なので撤去は出来ないと
いうことで、目立たないように植え込みで隠す
ことで話が付いていた。
校長先生が4代5代と変わると、申し送りも
うまく行かないらしく、
何時の間にかまた目立つようになった。
間違いの起こり
保土ヶ谷区郷土史(S13)の「徳川以前の東海道」という章に、「古東海道」という言葉が出てくる。
よく読めば分かることだが、「旧々東海道が出来る以前に、東海道前身の道があったはずとし、その道のコースを(推定ではなく)想像で書いたものである。(下右図)
  

◆「徳川時代」ではなく、「徳川以前」の章であるし、旧々東海道が出来る前の話であるから、もちろん東海道ではない
◆「推定ではなく、想像」であるからもともと何の根拠もないし、
      古町橋−桜ケ丘−神奈川坂−元町というコース自体、(徳川以前の話としても)今となっては間違いである。  
学説の変遷(上図の説明) 江戸時代から大正までの学説では、東海道とほぼ同じコースで鎌倉道が通っており、それが東海道に変わった(1図)と考えていた。ところが昭和始めになって鎌倉道は石名坂経由であることが分かり(2図)、これでは程ヶ谷宿が突然生まれたことになってその起源が何も分からなくなってしまう。保土ヶ谷区郷土史(s13)では、「もう一つの鎌倉道」を想定して辻褄合わせをしようとした(3図)が、今となっては無理な想定である。
×「保土ヶ谷ものがたり」では、保土ヶ谷区郷土史の記事を拾い読みし、「古東海道(鎌倉道)」を「旧々東海道」のことと勘違いして地図を描き、間違いを拡大した。(4図)

 本文では「東海道新道」「東海道旧道」と言いながら、地図では「旧道」のことを「旧東海道」と書いてある。世間では五十三次当時の東海道すなわち東海道新道をを旧東海道と呼ぶからさらに用語も混乱する。

すなわち二重/三重の間違いや誤読が重なって起きた救いようのない説なのであるが、「保土ヶ谷ものがたりに書いてある」というだけの理由で、未だに「諸説の一つ」として行き残っている。
(3)「桜ケ丘説」は誤りの理由
    (平成3年 保土ヶ谷宿まつり「旧々東海道は桜ケ丘を通ったか」シンポジュウムの一部)

1)「旧々東海道=桜ケ丘道」説は「保土ヶ谷ものがたり」以前には誰も唱えておらず、突然出て来る新説である。
ところが「保土ヶ谷ものがたり」では「祖父が孫に話して効かす聞かせる対話」の形でこの説を記述し、根拠を全く示していない。新説をこんな形で発表することは有り得ない。つまり定説と思い込んで紹介したものである。
「保土ヶ谷ものがたり」の説は「保土ヶ谷区郷土史」の別な記事を、旧々東海道のことと読み間違えた単純ミスである。

2)古い時代ほど道は山の上を通り、新しい道ほど川沿いや海沿いの低地を通るというのが古道の常識
戦国の中頃から街道の多くはすでに低地に移っており、江戸時代始めに制定された東海道が桜ケ丘道のような山越えのコースを選ぶはずがない。

3)江戸名所図会では単に「裏通り」とかいてあるだけ。「山へ登ってまた下りる」ような複雑なコースは書いてない。

 
(4)旧々東海道道筋の確定 

1)慶長14年保土ヶ谷郷水帳 ・・・「旧々道」時代の検地帳
  保土ヶ谷郷水帳は、旧々道時代の資料であり、旧々道を議論するための第1級資料である。

◎「一里塚
<関連年表
慶長6年  東海道(旧々道)制定
慶長9年  一里塚設置
慶長14年 保土ヶ谷郷水帳(検地帳)・・保土ヶ谷区郷土史
慶安元年  東海道新道制定−−4町1宿へ
万治2年  権太坂開削

年表から明らかなように一里塚が作られたのは旧々道が出来て3年目のことである。

この資料の中に次のような地名群が出ている。旧々東海道時代の一里塚が今井川沿いにあったことが分かる。

   −沿い−一里塚際−門前−向−

この郷水帳は4町合併以前の「保土ヶ谷」のもの。旧保土ヶ谷は今井川流域の地域で、山の上の「神戸」は含まれない。
もし旧々道が桜ケ丘を通っていたら、一里塚は桜ケ丘のどこか−−桜ケ丘高校か〜花見台付近−−にあったことになる。
桜ケ丘は「保土ヶ谷」ではなく、「神戸」か「下星川」であるから、「保土ヶ谷」の検地帳に一里塚の名称が出て来る訳がない。

「大道」
この検地帳に多数出てくる「大道」は旧々東海道のことである。大道が桜ケ丘(神戸)ではなく、今井川流域の旧保土ヶ谷を貫いていることが検地帳から分かる。

◎「大道下神戸境」と道祖神社
神明社の項で述べたように、大仙寺下には東海道に達する小さな森が残っており、道祖神社と稲荷がこの森の線路の上に当たるところにあった(明治の鉄道建設で戸川神社に移設)。道祖神は村の入口の神様、ここが保土ヶ谷と神戸の村境で、村道が通っていた。この村道がある日突然東海道に昇格したため、それを記念して道祖神の祠を道祖神社に建て直したものと思われる。上の地名はこの場所を示し、ここを旧々東海道が通過していた。

◎法泉前(法泉下)の付近に「屋敷」「辻」「宿」「大道」など宿場らしい地名が集中する。当時は権太坂がまだなく、法泉下が保土ヶ谷の中心で、ここから境木への坂を上った。

◎旧々東海道は「ごえん場横町」で後期鎌倉道と分かれて元町方面に進んでいる。郵便局裏の人口崖は旧々東海道のための工事跡である。

「昔は海道の往来今のところよりは西北の方にありしという。然るに慶安元年その道をかえられてより今の如くなりたり。旧き趾つたえて今に残れり。」(旧々東海道時代の名残と言い伝えられる工事趾が今でも残っている。)

以上の地点をつなぐと、次図のようになり、これが旧々東海道の道筋である。
     


  道祖神社の旧位置(大仙寺踏切より戸塚方面)         戸川神社境内に移設された道祖神社と稲荷
 
(資料)慶長14年保土ヶ谷郷水帳の地名(保土ヶ谷区郷土史 より)

とみ境(今井境のミス)  とい田  ほうせんの前  宿のうしろ掘向  うしろ谷 谷  南谷  ミナミの谷 
北谷川の向  北谷きり  池の谷 ヤツクケ  谷極り  神戸境  みやうがの谷  ほうせんの前 の前 
屋敷のうしろ  大道そえ  谷  久念仏塚  大道そえ  大道そえ塚の根  大道ノ上  大道上  大道下 
松の上  道下 嶋畠  掘ぶち  北谷切  廿屋敷  原  岩谷  かな川さう(神奈川坂) 仏向谷  宿尻 
やくしどう
向  した畠  北谷  いなり山之下 道ぶり  嶋田  大道そえ  大道そえ  大道ノ下  掘向共 
うしろ谷  北坂下  とうかの上  原  谷上  原  谷原 谷原 谷原 むら向共  大道下神戸境  川ふち 
一里塚際  門前  川向 谷崎  薬師堂の際  當屋敷わき  屋敷添  しやくかしら

  「大道」が旧々東海道
  「宿尻」は現在の元町ガード付近。宿の中心ではなく、宿のはずれだった。
  「久念仏塚」は、戦時中まで境木にあった「十三塚」のことであろう。

 当時、大仙寺は神明社の神宮寺で、保土ヶ谷ではなく神戸に属していた。道祖神社が「大道下神戸境」である。

 
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