§5 江戸時代の桜ケ丘−相州道                目次へ
(1)相州道
桜台小学校のある高台は、江戸時代、神戸(コウド)と呼ばれていた。
今井川に沿った低地が「保土ヶ谷(元町)」、桜ケ丘道をほぼ境にして南側の細長い台地が「上神戸」、北側は帷子川の南岸までの斜面を含めて「下星川」である。
神明社の周辺は「下神戸」で、細い土地で「上神戸」とつながっている。

以上のような江戸時代の地名と町村境界を知った上で次の資料を読むと、桜ケ丘道は江戸時代には「相州道」と呼ばれていたことが分かる。

武蔵国風土記稿
星川村:「
村の南西の方、仏向村および神戸村の境に一条の往還あり、相州へ行く間道なれば土人相州道と呼ぶ。道幅は二間余なり。」
仏向村:「
村内に海道二条あり。その一は 八王子道と号す。一は相州往還と呼ぶ。南の方下星川より入て十丁許りにして都筑郡今井村にいる、道の幅一間余なり。

相州道は、保土ヶ谷から二俣川方面に行く道であり、市沢、三反田、二俣川などの村々の人が保土ヶ谷宿に助郷(注2)に来るのに使った道であった。助郷だけでも年間数千人の人が通ったであろう。

この道は今でも二俣川あるいはその先の三つ境あたりまでたどることが出来る。
途中道しるべ石碑などが沢山残っており、「歴史の道」として楽しめるコースである。少々遠いのが難点で、二又川まで片道3時間近くかかる。助郷の人々の苦労が忍ばれる距離である。歩くと大変だが、自転車のコースとしてなら手頃かも知れない。

「相州道」というのは、保土ヶ谷地区の人から見た呼び名である。途中の道しるべ石碑によると、二俣川方面の人は、この道を「ほどがやみち」「ぐみょうじみち」と呼んでいたことが分かる。市沢町の道しるべでは「厚木道/八王子道」と書いてある。

相州道の定義

「追分けで東海道から分かれる
厚木道、八王子道、大山道その他(二俣川道)の総称」

桜ヶ丘の相州道は、上記の相州道と市沢で合する間道である。

武蔵国風土記稿の相州道の記述は左図の3ヶ所。

新板東海道分間絵図
追分け=
「大山道、厚木道、八王子道、そのほか相州道のちまたなり。」

(2)桜ケ丘石碑
桜ケ丘バス停のそば、ビール坂に下りる角に小さな石碑がある。摩耗がひどくそのままでは何も読めないが、いろいろ工夫した結果、次の文章が読み取れた。
  
「道祖神」
「新道供養塔」
「嘉永六丑年  二俣川邑 清水勝右エ門
           帷子町  ???
従是 保土ヶ谷  」
                      (従是=「これより」)

この石碑文の示す意味は、「嘉永6年(うし年)帷子町と二俣川村が協力して新道を作った。その記念碑」ということである。
前の章で、「今のような桜ケ丘道が作られたのは、大正−昭和始めの岡野氏の開発による」と書いた。
ところがそれ以前の江戸末期に、この道が一度大改修されていることがこの石碑により分かったのである。

明治13年測量の地形図(迅速2万分の1)に出ている相州道は、ほぼ今と同じコースを通る立派な直線的な道であるが、これは幕末の大改修後の新道なのである。

この大改修には、次のような背景があるようである。

当時、助郷の村々と保土ヶ谷宿の間にはトラブルが絶えなかった。東海道の公用の旅に必要な人夫を近くの村の助郷で賄うという街道の制度自身が、時代とともに交通量が増えるにつれて無理になってきており、その矛盾が村と宿の両方にしわ寄せされてきたのである。

二俣川村は以前はふつうの「助郷」とは違ってとくに忙しいときだけ人夫を出せばよい「大助郷」であった。村では保土ヶ谷から遠すぎることを理由に幕府に陳情し、「大助郷」を免除して貰った。ところが東海道の往来が烈しくなり、人夫が不足してきたため、再び助郷に指定された。しかもすでに「大助郷」の制度はなくなっていたため、ふつうの「助郷」にされたのである。

「遠すぎる」ことは、一度は幕府も認めたいわば既得権であり、村人は容易には納得しなかった。片道3時間の場合、前日のうちに宿に着いて仮眠し、1日働いて、また宿で仮眠して翌日帰ることになり、3日間かけて1日分の手当しか貰えない全く割に合わない仕事なのである。

幕府と村人の板挟みになった宿と村の名主が知恵を絞ったのが、この道路改修工事であった。
改修の内容は、曲がりくねった山道を直線に直すことで、「遠すぎる」二俣川−保土ヶ谷間を少しでも短くし、村人の不満を少しでも和らげようとしたもののようである。例えば岩中付近は桜ケ丘の最高地点で小山になっているため、昔の道はこの小山を南に捲いて、岩中のグランド南を通っていたが、新道はここを堀割で直線で通っていることが前記の「迅速2万分」地形図で読み取れる。

 
お台場の土寄進
更にこの工事にはもう1つの隠れた目的があったようである。
前年の嘉永5年に保土ヶ谷宿は、長い間の念願だった今井川の流路変更という大工事を自力で行い、工事で余った土を品川のお台場(外国船打ち払い用の砲台)建設用に売ることで工事費用を幕府から回収した。保土ヶ谷区郷土史その他の関係資料に、「2回目の土は無料で献納した」などと本位よりまちまちのことが書いてあるが、これはすべて原資料の読み間違いであり、第1回、第2回合わせて約300両を幕府からちゃんと受け取っている。

新川筋の開削から出てきた土は旧川筋の埋めもどしに使わねばならないから、本来、土が余るはずがない。
同時期に平行して行われた「相州道の道路工事」で出てきた大量の土を旧川筋の埋め戻しに使うことで、幕府に売りつける分の土が確保出来たのである。

上記の相州道コースには江戸時代の交通路を示す道しるべが多い。
○「ほどがや道(ぐみょうじ道)」「かながわ道」の分岐点を示す道しるべが三反田稲荷と市沢交番前の2箇所にある。
○熊野神社右(市沢小学校裏門)には、「かまくら道」「ぐみょうじ道」の立派な道しるべがある。
○市沢稲荷の庚申塔には「右 大山道、左 八王子道、厚木道」の道しるべがあり、大山道は二又川方面(八王子、厚木)とは別な方向であることを示している。
(3)もう一つの相州道
保土ヶ谷の相州道とは別に、神奈川から二俣川方面に行く道があり、この道も「相州道」と呼ばれた。二俣川方面の人からいうと、「神奈川道」である。

武蔵国風土記稿の「和田村」の項に出て来る相州道は「神奈川道」のことであり、和田で帷子川を渡っていた。
「横浜の古道」(横浜市教育委員会 昭和62)では二つの相州道を混同したらしく混乱しており、保土ヶ谷区役所前の看板の地図その他もこれを受けて間違えている。

武蔵国風土記稿:
和田村:「南方に相州道あり。仏向村より入り帷子町に通ぜり。この道村内を通ずること四百間余。」


和田村は帷子川北岸の村、仏向村は南岸の村であり、帷子川がその境であったと武蔵国風土記稿に明記してある。相州道が「仏向から和田に入る」とあるからには、ここで帷子川を渡るしかないことは明かであるが、「横浜の古道」では相州道が川を渡らずに川の南岸をたどって神明社脇に出るように書いてある。
上記の帷子町というのは、帷子川北岸一帯の「三つ沢」「岡沢」「峯岡」「川辺」を含む広い地域のことである。現在の帷子町あるいは古町橋付近を考えてしまうと更に混乱する。

新板東海道分間絵図(東海道のガイドブック)に次の説明があり、「相州道」の名称の起こりと思われる。
    「追分け=大山道、厚木道、八王子道、そのほか相州道のちまたなり。」
すなわち相州道は、追分けで東海道から分かれる大山道、厚木道、八王子道、二俣川道などの総称である。

注1)保土ヶ谷は「武蔵国」のはずれにあるので、どちらの方向に行っても「相模国」にぶつかるが、ここでいう「相州道」とは「厚木方面に行く道」の意味である。戸塚や鎌倉も相州だが、その場合は「戸塚道」「鎌倉道」といい、相州道とはいわない。

注2)助郷:宿駅常備の人馬の不足分を周辺の村々から応援すること。
本来は、宿負担が建前で、繁忙のときだけ助郷が応援することになっていたが、時代とともに交通量が増えて助郷の負担が大きくなり、助郷村の範囲も拡大、農村の生活を圧迫するようになって、宿との裁判沙汰などトラブルが絶えなかった。

助郷の負担の増加を示すグラフ。   幕末−黒船の横行→浦賀沿岸警備の強化→公用荷物の増加→助郷の拡大
○印 黒船が騒ぎを起こす度に助郷の数が跳ね上がっている。

追記 磯子区の助郷道工事  (磯子区森ヶ丘)
二俣川村と同じ年に、磯子区屏風ヶ浦(森村)は程ヶ谷宿の新たな助郷に指定された。二俣川同様、保土ヶ谷宿まで片道3時間かかる遠方の村である。この村にも嘉永6年3月「保土ヶ谷新道」を作った記念碑(馬頭観音)が残っており、助郷対策のための道路工事と思われる。同じようなことが各地で行われたのだろうか。
         
         北 ほどがや 南 かまくら 東 森村 道       (馬頭観音)    嘉永六丑年三月吉日  セハ人 森公田・・・雑色村・・・
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