保土ヶ谷の十三本塚                   大畠洋一      目次へ
十三本塚は、全国に驚くほど沢山存在する。村境にあることが多い。

十三本塚は次のように6+1+6で構成されていた。      ○○○○○○○○○○○○
中央の1本だけが一回り大きく、大将塚、将軍塚などと呼ばれる。
かなり大きなもので、高さが2〜5mくらいの築山の列である。
                 
民俗学辞典によると「一般には 戦死者や横死者が埋められているという伝説を持つ。」としている。

戦死者での墓と言われることが多く、当然一人の大将と十二人の家来が戦死したという話になっている。
そこだけの話ならなるほどと思うが、全国に何百もの十三本塚があり、すべて(1+12)の構成になっていることを知れば、この伝説は信じられなくなるだろう。
戦死者のほかに、一人のお姫様と12人の侍女の悲劇の話もあり、1匹の猫と12匹のネズミが死力を尽くして戦ったという話もある。
塚を掘ってみても、骨や遺品など何も出てこないことが多く、ただの盛り土であることも特徴である。
貝原益軒説
江戸時代初期、貝原益軒は法事に絡んだ真言宗の十三仏の供養塚という説を唱えた。ということは、江戸時代すでにこれが何に使われたかという記憶が日本全国のすでに失われていたことを示しており、十三塚は江戸以前の遺物でありことが分かる。武蔵国風土記稿の今井の項には「中古追善供養などのために築きしものと見ゆ。」とあり、それが江戸時代に定説だったのであろう。
柳田国男説
柳田国男は初期の「石神問答」以来繰り返し「十三本塚」の調査研究に取り組んだ。
「十三翁」などと悪口をいわれたこともある。
明治時代、柳田国男は全国の愛好家のネットワークを使って十三本塚の情報を収集した。
塚や地名の存在の情報は山ほど集まったが、何に使われたかのヒントになるような情報は皆無であった。

柳田国男は、貝原益軒の十三仏説について、真言宗系の祭壇であることまでは認めたが、十三本塚が12+1であることにこだわって、十三仏説を否定し、「聖天+十二天」説を唱えて最後まで譲らなかった。

しかし、十三塚とほぼ同時代の遺物である板碑に十三仏の碑がいくつか出土しており、右図のように虚空蔵菩薩を中心に6+1+6に配列されていることから、十三仏説は間違っていなかった。柳田説の間違いである。
十三塚は真言宗の僧侶が呪術のために設けた祭壇で十三の塚の上にはそれぞれ十三仏を示す梵字を書いた木製の塔婆を立てて祈祷が行われた。
村境に多いのは、流行病その他の災いが村に入って来るのを防ぐ祈祷が全国的に行われたためであろう。
この種の屋外の祭壇は祈祷が終ると取り除いてしまうのが普通であるが、十三塚だけは、災いの村への侵入を引き続いて監視して貰うためにそのまま残すことになっていたのであろう。
十三仏は言わば仏様の総出演で、仏様全員の力で、災いを検問し追い返して欲しかったのである。
村人に聞いても用途が分からないのは、真言宗の僧だけに伝わる秘儀式だったからであろう。

十三塚以外に六つ塚、七つ塚、五つ塚があるが、議論がほとんどされていない。
十三塚同様に村境にあることが多く、やはり戦死者、横死者伝説を伴っている。
保土ヶ谷付近の十三塚
保土ヶ谷付近にも十三塚が多い。武蔵国風土記稿の編者は十三本塚があちこちにあることに気が付き、今井村の項には次のように記している。「十三塚の名はここのみに非ず、所々にあるものなり。」
(1)武蔵国風土記稿によると品濃境、帷子、今井(保土ヶ谷境)に十三塚の記事がある。

品濃十三本塚
「保土ヶ谷町の内品野村の境によりてあり。この地の字を十三本塚という。
左右に六つづつあり。中の一蒙は三間ばかりのわたりなり、これを大将塚と呼ぶ。その余十二は敷九尺あまりに高さ六尺ばかり。いかなる故に築きしという事を知らず。恐らくはかの供養塚の類なるべし。」

帷子町
十三塚: (橘樹神社付近の地名に混じって−−武蔵国風土記稿が混乱しているかも知れない。)
この地に十三塚という古塚あり。故にこの(地)名あり。すでにその上にて弁ぜしところなれば、ここには云わず。

今井村: 十三本塚
村の南の方保土ヶ谷宿の境にあり。十三本塚と呼ぶは、その数十三ある故なり。大あるいは二間または四間四方ばかりのものもあるなり。中古追善供養などのために築きしものと見ゆ。

(2)その他にも十三塚があった。
花見台の塚
戦中まで保土ヶ谷公園の球場付近に塚が並んでおり、やはり戦死者の墓と言われていた。物好きがいて塚を掘ってみたが何も出てこなかったという。(仏向)

清水が丘の十三塚
古い住宅明細図で見ると、昭和50年代まで清水ケ丘付近にも塚が並んでいた。旧岩間と井戸ケ谷の村境に当たるところである。ちょうど道を遮るように、道と直角に一列に並んでいる。(駅の改札口のイメージ)

●昭和15年の大礼記念保土ヶ谷名鑑には、品濃境の十三塚について、「由来明かならざれども 上杉謙信の戦記より推せば当時の戦死者を葬りしものなるべし」との記事がある。新しい「戦死者伝説」が生まれかけている状況を示す資料である。
現存する十三塚
ごく最近まで、各地に十三塚が残っていたが、住宅地開発などで残り少なくなった。

●川崎市宿河原駅の近く(長尾の里巡りハイクコース)に「五所塚」が保存されており、平將門の乱の時、5人の武将の遺体を埋めたという伝説があるが、実際は中世の供養塔か祈祷のための祭壇と解説されている。
●寒川に十三塚と言われる大きな塚が一基だけ残っている。地元豪族の墓と伝えられていたが、最近の調査で、石棺など何も発見されなかったことから、中世の十三塚と結論された。
●鶴ヶ峰の「六ツ塚」は現在の郷土史では、万騎ケ原の戦いで戦死した畠山重忠一族百数十人を「六つに分けて」葬ったことになっているが、武蔵国風土記稿には単に「由来を伝えず」としか書いてなく、どうやら比較的最近、畠山重忠の戦死者と結び付けて作られた伝説らしい。ただし他の塚に較べて一回り小さいので、十三塚かどうかは不明。
郷土資料としての十三塚
塚が村境にあることから、柳田国男は「村境を決定する資料として使えるのではないか」と書いている。
これは明治以降激増した村境裁判を頭に置いての発言と思われる。
(明治十五年地形図では村界が描いてない部分が多い。)
私は「村境」というより、むしろ前記の十三塚の目的から見て「村の入口」と解すべきと思う。
当時の人はもちろん病原菌やヴィールスのことは知らなかったが流行病が村の入口から人の流れに乗って入って来ることは経験上よく知っており、村の入口で病魔を食い止めることを期待してこの場所で祈祷を行ったのである。

村の入口ということは、ここに古い街道が通っていたことを示す。
十三塚その他の塚は、前記のように江戸以前の遺物である。江戸以前の交通路に関する資料が驚くほど少ない中で、塚の存在は古街道がどこを通っていたかを示す重要な資料になるというのが私の意見である。

保土ヶ谷付近の十三塚は、右図の通りである。

品濃境(品濃 →保土ヶ谷)、帷子(芝生→ 保土ヶ谷)、花見台(仏向 →保土ヶ谷)、清水ケ丘(井戸ケ谷 →保土ヶ谷)、今井(保土ヶ谷→ 今井)・・
・いづれも街道の入口に相当する場所である。

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