ごえんば横町の謎                        目次へ
 
保土ヶ谷付近の村道が詳細に描かれ、カーブや交差の具合まで忠実なので、当時の交通路の様々な推定に使える。

●とくに桜ケ丘付近の村道の状況を描いた資料は他にはない。

図から桜ケ丘に上る道を推定すると
@大仙寺前−バス路の北側−桜ケ丘。A帷子町郵便局前から桜ケ丘バス道。
Bビール坂?
C岩小から岩中?

●ごえんば横町(高札場横町)が東海道と斜めに交差していることに注目。
次項の推定の根拠になる。

   
ごえんば横町の謎

東海道から直角に入る「ごえんば横町」という路地がある。入り口に高札場があったので、「高札場横町」と記載されることある。
この路地にはいくつかの謎があった。

1)ごえんばの名称
磯貝長吉氏が、遺稿「土に探す」※の中で、「ごえんば」の名称について考察している。
  御高札場横町
  おふれ場横町
  御用場横町
  御伝馬横町
  閻魔横町・・
などいろいろ考えた末、「御伝馬横町」であろうという結論になっている。
しかし根拠は示されていないので、語源は結局不明ということであろう。

(2)高札場の位置
高札場の目的は幕府の通達を出来るだけ多くの人に伝えるため。
高札場は人通りの多い場所を選んで建てられるものである。
宿場の中で街道が分かれたり交差したりしている場所はと呼ばれる。
宿場に辻があれば高札場は辻に建てられるはずで、保土ヶ谷の場合、金沢横町の三叉路がそのに当たる。
ところが実際の高札場は50m離れたごえんば横町にあるのは何故だろうか。(※参考図)
ごえんば横町付近の街道の変遷

前章で述べたように、保土ヶ谷付近の交通路は、前記鎌倉道→後期鎌倉道→旧々東海道→東海道(新道)と何度も変遷しているが、上図のように、「ごえんば横町」がすべてその変遷の中心になっている。

@鎌倉道(前期)は桜ケ丘道から郵便局前に下り、ここで今井川を越えて、対岸の石名坂を上っていた。
ごえんば」は渡河点を示す「越え場」の訛ったものである。(芳賀善次郎氏の御指摘による)

★芳賀善次郎氏、および戸倉英太郎「古道のほとり」、小塚光治「川崎史話」によると、多摩川、鶴見川、恩田川に渡河点を示す「越し場(こしっぱ)」の地名が残っている。

A帷子川(古町橋)が通れるようになって、後期鎌倉道が開けた。
ごえんば横町には月見台の尾根の先端が突き出しており、道はこれを避けるように東にカーブして石名坂に向かった。

B旧々東海道は,後期鎌倉道を途中まで利用するが、石名坂越えを避けて、境木越えを選び、大仙寺下へ向かう。
ごえんば横町〜大仙寺間が旧々東海道のために造られた道である。
郵便局裏手の山裾(現在駐車場)に山を削った古い工事跡があるが、旧々東海道設立時の工事跡と思われる。
月見台の尾根の先端が東に伸びており、迂回する必要があったため削りとったもので、次の武蔵国風土記稿記事があることから、「徳川家康が東海道(旧々道)を作ったときの工事跡」と言い切ってよい貴重な史跡である。
大仙寺へ曲がる角にも小規模だが同じような工事跡がある。やはり旧々東海道時代のものと思われる。

武蔵国風土記稿:
昔は街道の往来今の所よりは西北の方にありしという。しかるに慶安元年その道を変えられてより今の如くなりたり。
古き趾伝えて今に残れり。
(土地の人が役人に旧々道を現地説明し、「これが旧々道時代の工事跡です」と言ったのであろう)

C東海道新道発足当時、高札場の位置で鎌倉道と東海道が斜めに交差していたため、ここに高札場が設けられた。
その後の町並みの整備で、金沢鎌倉道の分岐点が、金沢横町の場所に変わったが、一度決まった高札場の場所は移動しなかったらしい。
以上の説明で、「ごえんば横町の謎」はすべて氷解したはずである。
※磯貝長吉氏遺稿「土に探す」の扱いについて
病に倒れた磯貝氏が大学ノートに書き残していたものを、印刷物にしたもの。
完成されたレポートではないので、「磯貝説」などと喧伝するのは氏の本意ではないはず。保土ヶ谷にはまだこんな研究テーマが残っているということを後輩のために残して頂いたものと考え、後輩の手で育て上げるべき内容である。
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※参考図: 札の辻   宿場の中に分かれ道がある場合、高札場がおかれるのが普通で、「札の辻」と呼ばれる。
大津 札の辻 草津 札の辻 戸塚 鎌倉道分岐点 保土ヶ谷
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