今井川の改修工事(資料の読み直し)            目次へ
桜ケ丘の道路工事が嘉永6年
一方今井川の改修工事が嘉永4年。神奈川のお台場に残土を納入したのは、第1回嘉永6年、第2回嘉永7年である。この二つの工事には密接な関係がある。

今井川工事の土は旧川筋の埋め立てに使う必要があるはずで、土が余るはずがない。今井川工事で地元が立て替えた工事費を幕府から取り戻すために今井川の残土納入を名目にしたもので、実際は道路工事から出た土を始末と主張した。

品川お台場に土を納入する件について
@無償提供ではなく坪600文で幕府に売りつけることで、宿で立て替えた改修費用を取り戻した。
A余っていた土を売ったのではなく、道路工事で土をわざわざ作って納入した一石二鳥の道路工事だったというのが「桜ケ丘の歴史」での主張である。
(1)土は無償か有償か
保土ヶ谷の歴史では伝統的に @余った土が流れて困っていたので A無償で上納してすっきりしたという間違いが続いている。よく読むとそんなことはどこにも書いてない。
原文を読み直してどこで間違えたのかはっきりさせたい。
保土ヶ谷区郷土史(s13)p1268 捨て場に困った土がお国のお役に立てばとて、船賃のみもらってこれを献納した。
すなわち 全部無料
保土ヶ谷区郷土史(s13)p1270 (1回目の1000坪は有料、2回目の)2000坪のうち100坪は国恩冥加金として無代献納した。
すなわち 1900坪有料 100坪無料
保土ヶ谷ものがたり p31 (1回目の1000坪は買い上げてもらったあと、)2000坪の土は、今度は無代献納する事とし、ただし運賃だけはお下げ渡し願いたいと申し出た。これが許されて、持て余した土を全部取り去ることが出来た。 すなわち 1000坪有料、2000坪無料
保土ヶ谷区史 
(平成7) p171
「大量の土の処理が問題だったが、お台場の土として活用いたしたく、実費の運賃だけで上納します・・」との趣旨書を出して成功。3番へ1000坪、5−6番へ2000坪の土を運び、土の流出問題を一挙に解決してしまった。 −−すなわち全部無料
★原資料は一つなのに、無償か有償かだけについても、それぞれの話が全部喰い違っている。
新しい郷土史が作られる度に、訂正されるどころが、間違いがエスカレートしていくことがよく分かる実例である。
正解 第1回 1000坪×655文(運賃25%負担)   約100両
第2回 1900坪×600文(運賃全額負担)    約180両弱
      100坪 無償提供(運賃全額負担)
第2回 土納入の価格交渉 (交渉経過がややこしいことが間違いの原因の一つ)

1)第1回1000坪は坪655文(船賃25%を村で負担)であった。。
2)第2回2000坪は2回目のことでもあり、坪600文として、願い書を提出。
3)幕府から2000坪の内、100坪を無償寄付とするよう値引き交渉あり。
  (「おまけを付けろ」と言うのは値引き交渉の常套手段)
4)宿では思いがけない幕府の値引き要求に立腹し、一矢を報いようとして逆提案をした。
  100坪を無償とする代わりに1900坪分の船賃を全額幕府持ちにして欲しいと逆提案。
5)ところが船賃の条件変更を幕府につけ込まれる結果となり、結局次のように最終決定した。
  100坪は無償(持ち込み)、1900坪については坪600文、船賃は全額宿負担

★下手な交渉をしたことになるが、ほぼ予定の金額(工事実費300両弱)を幕府から無事に取り戻したことで全体としては成功と言ってよいであろう。

これまでの郷土史の読み違いのもう一つの原因は5)の「下げ札」にある。
「下げ札」は本文の上に貼り付けた付箋で、本文の「追加修正覚書」である。

5)は本文4)を訂正した「下げ札」。
2)3)4)5)と時間順に写本すべきところを、大正時代の郷土資料調査で、楷書に直したとき、2)3)4)5)4)のように4)の文書の中間に挿入されたため、前後の意味が分かりにくくなった。

原文 時間順に戻して、要点だけを原文を書き抜いて見た。これなら読み違いは起きそうもない。

願い書    (前回は、運賃25%持ちという条件で)
        655文づつ頂戴奉り候えども・・、坪600文づつにて相納め申すべく候間・・
下げ札    2000坪は願い上げ奉り候
幕府      ・・2000坪の内、100坪を無償にするよう・・
本文     100坪:  無代献納。苅部清兵衛献納。御場所までの運賃とも。
        1900坪: 船積みまで、無賃にて相勤め。
海上運賃の儀は御下げ願い奉り候
幕府      ・・運賃も無料にするよう・・
下げ札    
本文運賃の儀、坪600文下されおき候はば、宿方にて引き受け運送仕るべく(宿負担)
                                    依之、この段下げ札を以て申し上げ奉り候

●ビジネス文書としては出来が悪い。最初の願い書には単価だけを記載、数量を書き忘れて、幕府から質問されている。
二回目の本文では、「運賃負担」にばかり気を取られて、「600文」という単価を書き忘れており、下げ札で補っている。

保土ヶ谷宿としては、第1回1000×655文=約100両に加えて、第2回 2000×600文=約200両の金を幕府から取り戻したかったのである。(1両=6000文)
(2)土を持て余していたのか?

区史では「余って始末に困っていた土を無償で提供してせいせいした」と書いてあり、しかも「最初の納入分までも無償だった」と間違いが拡大している。

区郷土史(S13)に載っている宿から幕府への提出文書をよく読むと「図面上は残り800坪ですが、・・川縁を切り崩せばいくらでも増やせるので2000坪納入でお願いします」とちゃんと書いてあった。

本文上は土上納願い坪数の儀、有土取り調べ候ところ別紙絵図面にこれ有るは凡そ800余坪ござ候えども、切り崩し船積み致し候はば、坪数相増し申すべくや似つき、2000坪は願い上げ奉り候。
船積みの上相い増し候えども、有土の分は残らず上納仕りたく存じ奉り候。もしまた、不足に候はば、川縁地形取り下げ候て、成とも、2000坪は御上納仕るべく候。依之、この段下げ札を以て申し上げ奉り候。

大畠注)願書を出したところ、幕府から数量を確認してきたので、上記のように回答し、「下げ札(追加修正文書)」として元の願書に貼り付けた。
図面上の残りは800坪だが、何としてでも2000坪納めたいという内容で、余って持て余していたものを納めたわけではないことがこれからも分かる。

★掘り上げた土は旧川筋の埋め立てに使われる(新川筋で減少した耕地面積を補填する必要がある)ので、基本的には土は余らないはずである。
図面上は800坪しかないのに、どうやって2000坪の土を用意したのか。それが同じ嘉永6年の相州道工事につながる。道路工事のほとんどは、保土ヶ谷−二俣川間の各所に掘り割りの直線道を作る工事で、大量の土が出てきたはずである。
(3)原文の読み直し
今井川工事の項は、保土ヶ谷区郷土史(s13)での原文の読み間違いが多く、それが保土ヶ谷ものがたり、保土ヶ谷区史にも継承されている。この際きちんと読み直しておきたい。
原文は文の切れ目がなく長々と続くかなりの悪文であることも関係している。

1)嘉永5年11月文書
保土ヶ谷区郷土史では、「改修工事を催促する嘆願書」と書いてあるが、基本的な読み違い。工事が完了したので、約束通り立て替えた工事費を返して欲しいという催促の嘆願書である。

「弘化4年(未)から嘉永4年(亥)までに100両の金を貯めて、幕府の内諾を得て工事を実施した。実際にはその2倍以上もかかった。工事は完了し、工事の効果は十分出ている。
(工事を先にやってくれれば、あとは何とかする)という道中奉行の内諾を得て実施した工事だから、約束通り工事費を返して欲しい。具体的には、中の橋が洪水で流れる心配がなくなったのだから、橋の再建費1回分を下げ渡して欲しい。それとは別に150両を10年年賦(丑から戌)で貸して欲しい」。

工事費用は、「100両用意して着工したが、その倍以上かかった」とあり、幕府から返して欲しい金は250両程度だったらしい。それまでの経過を長々と書いてあるため分かりにくい。

2)嘉永7年7月文書
第2回の土上納の願い書である。
「土が流れ出して困る」という文章はあるが、「土が流れて困るので上納させてほしい」という嘆願ではなく、「土が流れてこ困っていたところ、昨年1000坪納入させていただき助かった・・」という去年のお礼のニュアンスである。

以下「・・昨年1000坪納入したところ、まだ土が残っていたので引き続いて納入をお願いしたが、工事が終わったのでそれ以上の土はは不要ということになった。今回新しいお台場建設の話が出てきたので、納入したい。前回655文だったが、2回目なので600文で結構です。」という願い書で、その後の価格交渉経過を経てと最終決定の嘉永7年9月およびその下げ札につながる。

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