三猿庚申塔               目次にもどる
庚申信仰や青面金剛は関西が先行し関東に伝わったことが分かった。「江戸中心」の考えを見直す具体例として茅ヶ崎三猿塔を挙げる。
★茅ヶ崎市輪光寺寛永十七年の三猿塔の説明文は次のようになっており、何気なく読むと見過ごしてしまうが、地元教育委員会苦心の作文である。

「この塔は寛永十七年の年号が刻まれ市内・・の庚申塔の中で最も古いものである。
・・このようなスタイルは同時期のものに他に類例を見ず塔の移り変わりからはやや異質であるが、年号からは全国的に一番古い三猿塔である。」(もしも年号が偽作でなければ・・というニュアンスを含めている)

何故素直に「日本最古の三猿庚申塔です。」と書いてはいけないのだろうか。

発見された当時、江戸中心の「庚申塔年代区分」が出来あがっており、これと比較して三猿塔としては数年早過ぎることから、年号の偽作が疑われ、判定が保留にされその後もそのままにされているため、前記のような回りくどい表現になってしまうのである。
「庚申塔や青面金剛は江戸で始まり、徐々に地方に伝わる」という前提での判定である。

庚申信仰が関西で先行し、関西から関東に伝わったことがわかった今、寛永十七年に関東地区に三猿庚申塔が建っても何の不思議もない。
★京都の入り口である三条大橋のすぐ手前、東海道脇の分かりやすい場所に粟田口庚申堂がある。
この庚申堂には当初は三猿しか祭ってなく「三猿堂」と呼ばれていたが、後年になって青面金剛も祭るようになった。古い時代から庚申とは別に三猿信仰があり、のちに庚申信仰と結びついたとされる。

○青蓮院記録「華頂要記」記事
寛永七年三月再建、一堂安置三猿。称御猿堂。後年加青面金剛像。

寛永十年発行「尤の草子」(斉藤徳元の随筆)
「都粟田口に二しんどうといえる堂あり。中尊はいわ猿とて口をふさぎており。脇立ちはみ猿、きか猿なり。・・」「このいわ猿に祈ると相手が口をつぐんでしまい訴訟(公事さた)に勝てるという言い伝えがある。」

粟田口三猿堂が何時頃庚申と結びついたのかについて意見が分かれている。

A説)二しんどうは「三しんどう(三申堂)」の間違い。
尤の草子には「訴訟に効用がある」とだけ書いてあり、寛永十年時点はまだ三猿堂で庚申堂ではなかった。後年青面金剛を祭った時から庚申堂になった。

B説)二しんどうは「こしんどう(庚申堂)」の間違い。
寛永七年の再建の頃に三猿と庚申が結びついた。(庚申信仰が普及し、参拝者が増えたきたので、堂を建て直した。)
青面金剛がないから庚申堂ではないとは言えず三猿だけで十分である。青面金剛のない庚申堂が珍しいので、前記の記事になっただけである。
★茅ヶ崎の寛永十七年を公式に認めるだけでこの問題は次のように片づいてしまう。

寛永十年時点で、京都入口の分かりやすい場所に三猿だけを祭った有名な庚申堂があった。多分寛永七年の再建で庚申堂になったのであろう。寛永十七年茅ヶ崎三猿庚申塔はこの三猿をモデルに造られたもので、関西で三猿と庚申がすでに結びついていたことを示す証拠である。」
茅ヶ崎の三猿塔は以上のように全国的に三猿と庚申が結びついた時期を確定するための鍵となる重要な物的証拠である。江戸の庚申塔年代との単純比較で偽作?として抹殺したのは軽率であった。
山王猿と庚申猿の起源

茅ヶ崎の三猿は三匹とも烏帽子をかぶっている。粟田口をモデルにこの三猿庚申塔が作られたとすると、烏帽子は関東で付け加えられたことになり、「山王猿の謎」にも関係してくる。
寛文元年にも同じことが起きている。当時の大津絵YAや四天王寺系お札には普通の猿と鶏が描かれているだけだったが、これを模写して作られたZ2〜Z4では猿に御幣を持たせている。その二年前の万治二年栃木市片柳の青面金剛にも御幣を持った猿が居る(青面金剛展カタログ)。

寛永〜寛文の時代、関西の庚申猿は普通の猿であったが、関東には以前から山王の使者としての山王猿が彫られることが多かったため、関西から入ってきた庚申猿が山王猿のデザイン(烏帽子、御幣付き)で描き直されたことになる。
「山王信仰と庚申信仰が結びついた結果、山王猿が庚申に移行し庚申猿に変わった」という説がまだ根強い。
しかし絵図のモデルとコピーの流れから見る限りでは、「関西の庚申猿が庚申と共に関東へ移り、関東の山王猿と出合った」ということで十分説明出来る気がする。

「北斗七星信仰を通じて山王信仰と庚申信仰がつながり、山王猿が庚申猿に変わった」という説と「庚申の猿と鶏は、庚申の行事が申の日から酉の日にかけて行われることを意味する。山王信仰とは猿を通じてつながっただけ」という説がある。
関東において山王信仰と庚申信仰とのつながりがあることは確かであるが、庚申信仰発祥地の関西ではつながりの証拠が見つかっていない。

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関東の三猿は横並び、関西系の三猿は三角配置 (大畠仮説)

寛永当時の粟田口の三猿は残っていないが、寛永十年発行「尤の草子」にはこの三猿について
中尊はいわ猿とて口をふさぎており。脇立はみ猿、きか猿なり」
と描写されており、この表現は三猿が三角形に配置されていたことを示している。
(横並びの三猿ではドングリの背比べであり、中央が偉くて両側が家来という発想は出てこない。三角配置であれば、釈迦三尊や阿弥陀三尊との連想で、中央が主尊という見方も出来る。)
その後の四天王寺系のお札や掛け軸に取り入れられた関西の三猿はいずれも三角配置であり、現在の四天王寺に残る三猿の石碑も三角配置である。(下図参照)

関東の三猿は横並びが原則で、三角配置された三猿は茅ヶ崎の三猿庚申塔以外ほとんどない。
(平塚市長遠寺に一体、旭区市沢町熊野神社に一体・・・・)

茅ヶ崎の寛永十七年は関西から直輸入された(粟田口庚申堂のコピー)三猿庚申塔であり、「このようなスタイルは同時期のものに他に類例を見ない(茅ヶ崎市教育委員会の説明文)」のは当然だったのである。

茅ヶ崎
日本最古の三猿塔

●寛永10年粟田口三猿堂の記事
「中尊は言わ猿・・・
    脇立は見猿、聞か猿」
とあり、三角配置だったことを示す。

関西には庚申塔が驚くほど少ない。
一方関東では庚申信仰/青面金剛信仰と庚申塔の数が連動している。石塔だけを眺めていると、庚申信仰/青面金剛信仰が江戸で始まって全国に広まったかのように見え、それが初期の庚申研究の流れになっているが大変な勘違いであった。
第4報で証明したように、関西では江戸より数十年前から掛け軸、お札、大津絵などの方法で庚申信仰が普及していた。

関西から江戸に持ち込まれた商品は「下り物」と呼ばれ、後の「舶来」と同じような様な感覚で高級品を示す言葉であった。
「下らない」の語源と言われる。
「庚申江戸発祥説」では、庚申や青面金剛の起源を論じる江戸時代初期では、関西がすべての文化文明の発祥地であり、江戸は日本の片田舎に過ぎなかったことが忘れられている。
庚申(かのえさる)を表すサル、山王神社のお使いのサル、三猿のサルが結びついて、庚申塔には三猿が付き物になった。
ただし結びつきの順番についてはまだ定説がない。
説1)庚申信仰は山王信仰と密接な関係があり、山王のサルが庚申のサルに移行した。(山王サル起源説) 
説2)庚申のサルと山王のサルは別な起源であり、サルを通じて庚申と山王が結びついた。
しかし庚申信仰が関西から入ってきたことが分かれば、庚申のサルの起源もおのずから明らかである。

1)初期の庚申塔や庚申の掛け軸のサルは、三猿ではないことが多いから、三猿が起源ではない。
  三猿信仰は最澄の時代から存在した。
  江戸の始め、寛永7年に栗田口庚申堂で三猿堂が庚申堂として再建された頃が三猿と庚申の結び付きの時期であろう。
2)サルが烏帽子をかぶったり御弊を持ったりするのは山王のサルから来たもの。
  関東では、庚申塔に刻まれた「山王大権現」の文字など、庚申と山王信仰との結び付きの事例があちこちで見られる。
  しかし関西にはその例が知られていない。また関西のサルに烏帽子や御幣が描かれたものはない。
  「関東に入ってjから、サルを通じて庚申と山王信仰が結びついた」のであって、庚申サルの起源ではない。
3)初期の庚申塔や庚申の掛け軸に、サルのほかトリを描いたものが多い。山王とトリのつながりはサルほどはっきりしない。

庚申のサルは、本来は庚申の日を示すサルであった。庚申待ちの行事はサルの日の夜に始まり、トリの日の朝にかけて行われるので、サルのほかにトリも描かれた。(もともと十二支の動物は文字の読めない人のためのカレンダー用に作られたものである。)
この説は庚申の本にも一応紹介されているが、何故か理由もなしに否定されていることが多い。あまりにも単純すぎるというのが理由であろうか。
飯田道夫「庚申信仰」p154・・(一説によると)庚申待は申の日に始まって酉の日に終わるから、申と酉を一対にして描くのであると。まことにうがった説で、面白いが、真実であろうはずがない。庚申信仰に人々が求める延命長寿、除災無難・・・・トリの意味もこの線に沿って考えられねばなるまい。
庚申研究では「山王サル起源」説が主流であり、反論はほとんど出ていない。庚申と山王のつながりを示す証拠は山ほどあるが、「サルを通じて結びついた」説を否定する証拠にはなっていない。庚申の起源であるはずの関西に、「庚申−山王−サル」という証拠がないことが最大の疑問であり、庚申塔の研究から「庚申信仰は江戸で始まり、徐々に全国に普及した」とした初期の思いこみが、影響していると思う。
「山王サル起源」へのやや批判的な意見をあげておく。
平野実「庚申信仰」p63・・・(山王と庚申のつながりの研究を紹介したあと)・・・もう一つの要素として庚申行事の日が庚申(カノエサル)であることを指摘できる。サルの日からサルを連想し、サルがやがて庚申とがっちり取り組んでしまったことは、当然すぎるくらい当然である。カノエサルの猿がなければ、こうもやすやすと、また固く、庚申さんと猿とが離れられなくなるものとなるはずがないであろう。
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