戸塚付近の鎌倉道道標と広重五十三次の道しるべ   
                                   大畠洋一
     「日本の石仏 」89号(99春)掲載 
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1.戸塚周辺の道しるべ
藤橋幹之助の労作「道標とともに−金石碑より」(昭和57)がある。藤橋氏は地元の研究家で、退職後、「道しるべのついた石碑石仏」の所在地と碑文碑姿の調査に半生を費やされた。
同著には169本の道しるべが記載されており、うち31本に「鎌倉道」の文字が彫られている。
藤橋氏の著作から鎌倉道石碑を鎌倉道の概念図に書き込んだものを図1に示した。
戸塚付近の鎌倉道は大変混み入っており、いたるところ鎌倉道だらけの感がある。
鎌倉時代以来の三本の「鎌倉古道」(上の道、中の道、下の道)と、その後開けた江戸時代の「鎌倉見物の道」が数本走り、鎌倉に近いこの地域に集中し交錯しているためである。
個々の道しるべがどの鎌倉道を指すのか分かりにくく、地元のでも混乱することが多いが、この図で鎌倉道と石碑の関係が一応整理出来たつもりである。

図の中で、今井付近の鎌倉道(点線枠内)が不可解である。

この道はどう見ても鎌倉に通じておらず、また現在知られているどの鎌倉道にも接続していない。
武蔵国風土記稿によると、今井村にもう一つ「鎌倉古道」と呼ばれる道があった。

「村内に古鎌倉街道とて一条の往還あり。此の街道は北の方二俣川より入て、巽の方にかかること二十丁許にして保土ヶ谷宿の内東海道往還に至る、其所を武相の界とす。」
「相武国境(境木)で東海道に接続していた道」である。

すなわち今の今井道=鎌倉道である。
東海道に接続するこの枝道が「鎌倉道」と呼ばれることについては次の説明しかないであろう。

戸塚ー保土ヶ谷間のこのルートにも江戸以前から交通路が開けており、「鎌倉道」と呼ばれていた。江戸初期にこの道は「東海道」に昇格したが、これに接続する枝道には昔通りの「鎌倉道」の名前がそのまま残り、石碑にも刻まれた。
江戸以前のこの付近の交通路についての資料は非常に乏しく、上杉謙信や武田信玄の軍記などの断片的な記述から江戸以前にもすでにこの辺りにも交通路が開けていたらしいという推定がなされている程度であった。
東海道の制定は関ヶ原の翌年にあたる慶長六年で、新道工事を行う時間的な余裕はなかったから、すでに使われていた交通路をつなぎ合わせただけのものであったと思われる。
今井の鎌倉道石碑はこうした推定を補う重要な資料である。
 
2.広重江漢五十三次「戸塚」の「かまくら道」道しるべ

有名な広重五十三次の原画とされる司馬江漢の画集が最近発見され、美術界の大論争になっている。
広重は一度だけ東海道旅行をし、その時の見聞をもとに名作五十三次を描いたとされていたが、実は江漢の画集を写しただけで東海道旅行など一度もしていないのではないかという疑問である。

江漢、広重各五十五枚の絵のうち約五十枚はほとんど同じ図柄であり、偶然の一致はあり得ない。江漢は広重五十三次の作成年の約20年前に没しており、画集が江漢の本物であれば、議論の余地なしにこちらが原画である。しかし美術界ではこれまでの常識とかけはなれた結論に抵抗感が強く、「明治時代に描かれたニセモノの可能性があり慎重に検討」などとされたまま、いまだに公の場での議論がなされていない。
「道しるべ石碑」の立場から見ると大変興味深いテーマなので「戸塚図」について検討した。

(1)広重五十三次「戸塚」

広重図は戸塚宿入口近くの吉田大橋を描いたもので、ここから「鎌倉道」が分かれる。「こめや」は当時の紀行文に出てくる実在の茶屋であり、広重図の石碑や灯篭も東海道分間延絵図に描かれている。(地点a)

この橋のたもとにあった道しるべの石碑が大正時代に近くの妙秀寺に移設され今でも保存されている。(図1−20)
この現存の道しるべについて、広重の絵の道しるべとかなり違うということが以前から言われていた。
広重の道しるべが残っているという話を聞いて、東海道や広重の研究家が胸を躍らせて見に行くが、広重の絵とはかなり違うため、落胆し割り切れない気持ちで帰ってくるということをこれまで繰り返していた。
この話は美術界にも早くから伝わっていたようである。
近藤市太郎著:世界名画全集別冊「広重五十三次」の解説記事(昭和35年平凡社)一部引用

「戸塚 ・・・昨年の東京中日新聞5月7日号で問題となった道路標のことに一言ふれておこう。
この戸塚の柏尾川付近から鎌倉への分かれ道があり、鶴ケ岡八幡宮へ二里の行程であった。最近その道標を示す石が二個発見され、いずれが広重の図に出てくる石標かについて論争をまきおこしたのである。小林家の主張する方は妙秀寺にあるもので・・・他は遠嶺八幡(吉田八幡)境内にあるもので・・・。私はこの両者とも広重の描いたものとは違うのではないかと思う。広重は案外文字を正しく書くので、「道」を「みち」とは書かないし、「是より左」など余分な文字を書くこともないと断定したからである。
(2)広重図の道しるべと現存の道しるべとは違うというのが地元の常識になっていたのだが、広重図は写真ではなく「絵」であることから実物との違いに深い意味はないのかも知れず、それ以上の追求はなされたことがなかった。
今回、新たに「江漢図」が現れた。江漢図の道しるべの形と文字は妙秀寺の実物とよく似ており、江漢図が現地スケッチであること、広重図の模写ではないことが分かる。
江漢図には実物上部にある剥離キズまで描いてある。広重図の「左り」はこのキズを文字と見誤ったものであろう。
(3)江漢の絵には現存の石碑にはない「右あわしま道」の一行が入っている。有名な折本の淡島神社ではなく、ここから1kmほど上流の大善寺淡島明神への道である。
淡島信仰が江戸地区で流行したのは元禄以降とされており、妙秀寺石碑の建立年延宝二年(1674)より後なので、この部分は「追刻」と思われる。追刻の文字は、当座の間に合わせに浅く彫られるため、先に磨耗消失したものであろう。
「鎌倉道の道しるべなどどこにでもある。」と考え勝ちであるが、藤橋氏の著作から作成した「鎌倉道一覧」から次の条件で選択すると広重図のモデルになり得るものはきわめて限定されることが分かる。

 1)東海道に面した場所。
 2)道しるべが主体の大型石碑。
 3)「か満くら道」の字体。

前出の記事の中で近藤市太郎氏は広重図のモデルとなった第三の石碑がどこかにあるはずと予言している。
広重図のモデルらしい第三の道しるべが吉田橋から1.5km離れた別な場所bにある。(現在は日立正門前に移設)
bは戸塚宿の中のもう一つの鎌倉道分岐点で、地元ではこちらの方が鎌倉道の本道であったことが右の記事から分かる。

広重はaとbの場所を間違えて別な道標を写したらしい。


相模国風土記稿
吉田町:「鎌倉への捷径ありて、(吉田)大橋辺より南に分かれ柏尾川堤上を経て上倉田村に至り本路に合す。

b戸塚宿:「鎌倉道中、小字「田宿」より東に分かれ、上倉田村に達す。鎌倉道の係る所板橋を架す。高島橋と称呼す。」
広重「戸塚」の再刻版と大正の写真
戸塚には次のような4つの図があり、人物を除いた背景の風景を年代順に並べて比較することが、もう一つのの手がかりになる。
  A 江漢図   (1815頃)
  B 広重図初刻版(1834)
  C 広重図再刻版(1835頃) 注)
  D 大正の写真 (1910頃)
注)広重五十三次の内、日本橋、品川、川崎、神奈川、戸塚、小田原の六枚について、そっくり絵を描き直し版木を彫り直した別な版があり再刻版と呼ばれる。同じ場所の風景を何故わざわざ作り直したのかについてこれまで納得のいく説明がなされておらず、広重五十三次の謎の一つとされている。

B 広重初刻版
A 江漢図

C 広重再刻版
@江漢図(A)と広重初刻(B)の風景はそっくりである。
この間二十年の時間経過があるのに、樹木が生長しておらず、ヒョロヒョロの若木のままである。
A初刻版(B)と再刻版(C)の間は1年しかないはずなのに、二股の樹木が太くなり、薮が茂り、建物も変わっている。
B再刻版の風景(C)と大正の写真(D)は、薮と二股の樹木、板壁と格子窓など細かい点までまでそっくりである。
二股の木は大きく育ちすぎて、二階屋を建てるとき邪魔になり軒の高さで一度切られたらしいことまで分かる。
以上から広重の戸塚図には次のような経過があったことが推定される。
広重時代の戸塚の風景は実は再刻版(C)の通りであった。広重は江漢の絵を手にしてこの付近の現地調査をしたはずだが、ここだけは何故か現地の風景の変化を見落とし、江漢図(A)通りに描いたため二十年の時の流れが失われた。(B)
あとになって、そのことを指摘された広重は再度戸塚に出向き精密な現地スケッチをした。(C)
広重が江漢図を下敷きにしていること、現地の場所を間違えたらしいことがここでも推定される。

この研究は当初、「どちらの図が原画か」という問題を解くことから始まったが、それだけにとどまらず、これまで誰にも解けなかった「広重五十三次の謎」が、江漢図との比較の中で次々に解明されつつある。

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