六手青面を考える                              石 川 博 司

  ┏┳━━━━━━━━━━━━━━━━━━┳┳━━━━━━━━┳┓
  ┃┃ 六 手 青 面 を 考 え る  ┃┃ 目    次 ┃┃
  ┗┻━━━━━━━━━━━━━━━━━━┻┻━━━━━━━━┻┛
       六手青面を考える
         六手青面金剛の再検討    ・・・・・・・・・
         浦和の人鈴型青面      ・・・・・・・・・・
         市原型の出現        ・・・・・・・・・・・
         岩槻型と市原型       ・・・・・・・・・・・
         各地の万歳型        ・・・・・・・・・・・
         中山さんの改訂版      ・・・・・・・・・・
       六手青面を歩く
         由木を歩く         ・・・・・・・・・・・・
         古谷本郷の八手青面金剛   ・・・・・・・
         岩槻を歩く         ・・・・・・・・・・・・
         房総石造文化財研究会    ・・・・・・・・
         浦和東部を歩く       ・・・・・・・・・・・
         東所沢を歩く        ・・・・・・・・・・・
                                                            総目次へ
六手青面を考える
六手青面金剛の再検討

 庚申塔の刻像塔で最も多くみられるのは、何といっても青面金剛像である。その青面金剛の中では六手の青面金剛が最も多い。六手の青面金剛は、胸前の二手の持物によって・剣人六手(標準六手)・・合掌六手・・その他の六手に三大別できる。

 清水長輝さんは、六手青面金剛について『庚申塔の研究』(大日洞 昭和34年刊)の書中で「標準型ともいうべき六手像は、八四図のように二種類あり、一つは中央が剣と人身(標準六手)、他は合掌(合掌六手)である。(中略)それから変わった六手としては、中央に手がなく側方にすべて出ているものがある」(一一五頁)と書いている。先の三大別の・には、胸前の二手の他の持物に側方六手を加えるべきだろう。

 このように改めて六手青面金剛を話題に取り上げたのは、五月十二日(土)に房総石造文化財研究会で「二手青面とホームページ」を話し、その中で六手青面金剛をふれたからである。そこで例に挙げたのは、岩槻市を中心とするいわゆる「岩槻型」の六手像と多摩川南岸に分布する「万歳型」六手像と八手像である。

 突然、「岩槻型」とか「万歳型」、あるいは「御殿場庚申像」といわれても、全く見当のつかない方があると思う。「岩槻型」は合掌六手の一種で、胸前の中央手が合掌し、上方手に剣と人、下方手に矢と弓を執る形式(A型)を主流に、そのバリエーションが一〇種類ある。
 「万歳型」も「岩槻型」と同様に合掌六手の一種で、胸前の中央手が合掌し、上方手が日天と月天(瑞雲を伴う場合がある)を捧持し、下方手に矢と弓を執る形式である。最近八手の万歳型が川越市古谷本郷でみつかった
 そのことが頭にあったので、五月二十七日(日)に参加した日本石仏協会の浦和見学会では、大間木・中尾・大牧でみた人鈴型の六手青面金剛三基に注目した。さらに五月二十九日(火)には、所沢市東部を歩いた。この時の本郷・東福寺の天和三年笠付型塔に刻まれた六手青面金剛が気になった。
 この本郷の天和三年塔では、清水さんが「中央に手がなく」といった六手青面金剛を主尊とする。左右の手が上中下の三方向に伸びている。右手の上から鉾・矢・刀、左手は宝輪・弓・人身である。右手の下方手に執るのは、反りがあるので「刀」としたが、蛇の可能性もある。

 六月二日(土)に新宿区百人町・水族館で開催された石仏談話室で、開会前に町田茂さんから市原市石造物同好会が調査・編集・発行した二冊『市原の庚申塔』(平成6年刊)と『市原の馬頭観音』(平成7年刊)をいただいた。
 その発端は、先の浦和見学会に参加された町田茂さんと西岡宣夫さんから、岩槻型が市原市内に一三基分布するという話を聞いた。その例が載っているとということで、町田さんが前記の二冊を持参されたのである。
 両書にのった「合掌手+人身」は一三基、翌日にこれらを分析してみると、岩槻型と別の系統であるのに気付いた。市原の塔は岩槻型に先行するし、その持物の変化や一猿形式などを考慮すると「市原型」と名付けて「岩槻型」と区別する方がよい。
 そう考えていた六月八日(金)に受け取った中山正義さんの来信では、・鬼の向き(横か正面向きか)、・鶏の数(無しか一羽か二羽か)、・猿の数(一匹か三匹か)で「市原型」と「岩槻型」の区別ができる。また岩槻型では持物の型が集中しているのに対して、市原型が一基毎に異なるばらばらである点を指摘されるている。

 合掌六手にしろ剣人六手にしろ、この名称は、胸前の中央手からきている。いずれも他の四手を考慮していないから、つい同一の形態と勘違いされてしまう。両者の標準形となるのは、上方手に矛と宝輪、下方手に矢と弓をとる。従って、他の四手の持物には、例えば蛇とか索や宝棒などがあり、持物なしの徒手がある。

 前記の『庚申塔の研究』では、先ず儀軌にある三股叉・蛇がまいた棒・輪・索の他の持物を挙げ、実際は種々雑多であるとしている。それらを含めて三股叉(矛と戟)・宝輪・弓・矢(一本と二本)・剣・刀・人身・宝棒・独鈷・三鈷・鈴(宝鐸)・鍵・斧鉞・幢幡・日輪・月輪・卍・宝珠・数珠・蛇・蛇のまいた棒・袋状のもの・錫杖を思いつくままに列記している。(一〇九頁)
 このように多くの持物がみられるのだから、胸前の二手が合掌や剣・人と共通しても、例えば岩槻型や市原型にみる「合掌手+人身」のように、他の四手に標準形以外の変化が生ずる。そこで合掌六手や剣人六手の場合でも、持物の変化に注意して系譜を追いかけるべきだろう。これまで、我々が呼んでいる「万歳型」や中山さんが指摘された「岩槻型」以外には、こうした追求がなっかたと思う。

 関東や国東の青面金剛の形像が異なる点は気付く方がいたにしても、それぞれの地にある六手青面金剛の持物の分析は、合掌六手とか剣人六手のように大雑把であった。これからは、六手青面金剛の持物を再検討して系統を調べてみる必要があるのではないか。その際には、単に持物だけでなくて鬼や鶏・猿などの形像、場合によると塔形を含めて考察すれば、今まで見逃していた事柄がみえてくるだろう。それによって石工の系統とか、祖形となるお札や指導者の考えが明らかになる場合が想定できる。
(平成13・6・9記)
浦和の人鈴型青面

 平成十三年五月二十七日(日曜日)は、日本石仏協会主催のさいたま市浦和東部の石佛見学会に参加する。午前一〇時、JR京浜東北線・北浦和駅東口に集合、野口進さんが案内に当たる。この日は1市立郷土博物館〜2馬場二丁目地蔵〜3馬場二丁目三室堂〜4宮本二丁目氷川女体神社(昼食)〜5三室・松木地蔵堂〜6三室南宿庚申塔〜7中尾・吉祥寺〜8中尾・駒形公会堂〜9中尾・駒形路傍〜10大間木・赤山街道路傍〜11大間木・会ノ山墓地〜12大牧・清泰寺のコースを廻る。

 この中で9の中尾・駒形路傍と10大間木・赤山街道路傍、それに予定になかった大牧一一一六の路傍で、中央の右手に人身と左手に宝鈴を持つ六手の青面金剛立像に出会った。廻った順に挙げると
  1 延享1 笠付型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿      87×39×26
  2 寛保3 笠付型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿      88×34×29
  3 延享3 笠付型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿      90×35×23である。
以前に調査したことがあるので気のゆるみが生じ、今回はうっかり木の影で逆行もあって、単にカメラを向けただけで、
  4 天明3 駒 型 日月・青面金剛・一鬼・三猿         58×27×17
に気づかずにいた。この4の塔は、前回の調査の記録をみると
   木に隠れてみえにくいが
     2 天明3 駒 型 日月・青面金剛・三猿         58×27×17
   がある。正面中央に主尊の鈴人身六手の青面金剛立像(像高35・)、下部に三猿(像高8・)
   を浮き彫りする。右側面に「奉待庚申五拾度供養塔」、左側面に「天明三庚申歳二月吉日 施主嶋年忠右衛門」の銘文がある。と、中央手に宝鈴と人身を持っているのがわかる。前の三基と異なり、持物が左右逆になっている。念のため、この日の記録をみると
    附島の神社から東浦和駅に向かう途中の路傍には
     7 安永6 笠付型 日月・青面金剛・一鬼・三猿      96×31×23
   がたっている。正面に鈴人六手の青面金剛(像高41・)、足下に正面向きの一鬼、下部に三猿
   (像高9・)が浮き彫りされている。右側面には「奉建庚申塔」と九人の施主銘、左側面には
   「安永六丁酉九月吉日」と世話人1人を含む九人の施主銘がある。
 このように寛保〜延享年間、少し間があって安永〜天明年間と比較的狭い範囲に、左右逆のものを含めて、五基もの人鈴型青面金剛立像がみられる。

 今月十二日(日曜日)に房総石造文化財研究会で、私が「二手青面とホームページ」を話した。その中では、二手だけでなくて多摩地方にみられる万歳型、岩槻市を中心とする岩槻型、あるいは坊主頭青面金剛のローカルな六手像にふれた。そのことが頭にあったので、今回の人鈴型青面金剛が気になった。
 そこで少なくとも寛保〜延享年間、場合によると天明年間までに旧浦和市域で造立された青面金剛の中に人鈴型青面金剛が含まれているかも知れないと考えた。そこで、中山正義さんが作成した平成十一年十一月十日現在の「浦和市庚申塔年表」に当たってみた。この年表には実地調査と文献調査の塔があり、実査された六手青面金剛は、合掌六手・剣人六手・岩槻型六手・雑型六手の別が記されている。
 中尾・駒形路傍の延享元年塔を年表で調べると、雑型六手(年表では「青面金剛雑」と記されている)に分類されている。従って、年表中の「青面金剛雑」には、人鈴型青面金剛が含まれており、特に今回歩いた中尾・大間木・大牧などの地域にある塔の可能性が強い。そこで年表から雑型六手を抜き出してみると
   ┏━━┯━━━━━┯━━━━━━━━━━━━━━┯━━━┯━━━━━━━━━━┓
   ┃西暦│元号年月日│特徴            │塔形 │所在地       ┃
   ┣━━┿━━━━━┿━━━━━━━━━━━━━━┿━━━┿━━━━━━━━━━┫
   ┃1699│元禄121127│青面金剛(雑型六手)    │笠付型│宿・観音寺     ┃
   ┠──┼─────┼──────────────┼───┼──────────┨
   ┃1737│元文2  │青面金剛(雑型六手)    │笠付型│大間木       ┃
   ┠──┼─────┼──────────────┼───┼──────────┨
   ┃1744│延享111吉│青面金剛(雑型六手)    │笠付型│中尾 駒形一六二六 ┃
   ┠──┼─────┼──────────────┼───┼──────────┨
   ┃1749│寛延21115│青面金剛(雑型六手)    │笠付型│大間木・岡村家墓地 ┃
   ┠──┼─────┼──────────────┼───┼──────────┨
   ┃1776│安永52吉│青面金剛(雑型六手)    │笠付型│三室・松の木路傍  ┃
   ┠──┼─────┼──────────────┼───┼──────────┨
   ┃1778│安永7XX│青面金剛(雑型六手)    │笠付型│間宮・長福寺跡   ┃
   ┠──┼─────┼──────────────┼───┼──────────┨
   ┃1783│天明32吉│青面金剛(雑型六手)    │光背型│大牧・清泰寺    ┃
   ┠──┼─────┼──────────────┼───┼──────────┨
   ┃1797│寛政9  │青面金剛(雑型六手)    │   │大崎・棚井     ┃
   ┗━━┷━━━━━┷━━━━━━━━━━━━━━┷━━━┷━━━━━━━━━━┛
の八基が検索される。
この中の観音寺の元禄十二年塔は、平成十年四月十九日(日)の多摩石仏の会四月例会で調べている。その時の記録をみると
    宿の観音寺の山門を入ると、右手には
     7 元禄12 笠付型 青面金剛・三猿            76×32×30
がある。これは普通にみられる六手青面金剛とは異なり、左手の上から矛・弓・宝鈴、右手の上から宝輪・矢・人身を持つ六手立像(像高42・)で、下部の三猿(像高13・)は正面向きである。
正面の像の右に「□裂邪綱指□□□壽□□□□禾」、左に「干時(異体字)元禄十二己夘天十一月廾七日 敬白」、右側面に「法誉岌 當村 土橋兵左門 土橋宇右門 武見作右門 土橋理兵衛」の施主銘がある。と記され、今回みた人鈴型が中央手であるのに対して、観音寺塔では下方手であるのが異なる。祖形といえるかも知れないが、年代的にも距離的にも離れているので、同じ系統とはいえないであろう。
 この他に町田信氏の「三室・瀬ヶ崎周辺の庚申塔」(『うらわ文化』第二九号 昭和45年刊)をみると、「持物は先と同じだが、中央手左に子供を吊るしている」と記す人鈴型青面金剛は次の一基がみられる。
 ※・ 安永5 笠付型 青面金剛               三室・松木
 さらに同氏の「尾間木周辺の庚申塔(上)」(『うらわ文化』第二九号 昭和45年刊)をみると、「中央手に酒徳利を逆にしたようなもの(ショケラという赤児ではない)を、左手には子供の髪をつかんで吊るしている」の
  ・ 宝暦2     青面金剛               中尾・墓地入口で、興味深いのは「この地区の特色と言ってよいほど例が多く、右手、左手の持物はセットになっている。右手の持物は明確ではないが、鐘のような道具ではないかと思う」の記述である。加えて「中央手右(手)に子供を左(手)に鐘を吊るし」の
 ※・ 延享1     青面金剛・一鬼・二鶏・三猿      中尾・越谷街道沿
 ※・ 寛保3 笠付型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿   大間木・赤山街道
 ※・ 寛延2     日月・青面金剛・二鶏・三猿      大牧・墓地の三基があり、・の塔で「この地域の標準的な像である」と断言している。次いで「中央手は合掌する子供と鐘を吊るしている」の
 ※・ 天明3     日月・青面金剛            大牧・清泰寺が挙げられている。このら五基の中で※印を付した重複した塔を除くと
  ・ 宝暦2     青面金剛               中尾・墓地入口が洩れていることになる。
 左右逆の持物を含めて、これまでに明らかな人鈴型六手青面金剛を造立年代順に並べてみると
 参考 元禄12 笠付型 青面金剛・二鶏・三猿         宿・観音寺
  1 寛保3 笠付型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿   大間木・赤山街道
  2 延享1 笠付型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿   中尾・駒形路傍
  3 延享3 笠付型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿   大牧一一一六路傍
  4 安永6 笠付型 日月・青面金剛・一鬼・三猿      大間木・路傍
  5 天明3 駒 型 日月・青面金剛・一鬼・三猿      大牧・清泰寺となる。表の中で中尾・延享元年塔と清泰寺・天明三年塔はすでに明らかであるから、観音寺塔を加えて三基が除かれる。残る次の六基の内には、人鈴型六手像が含まれている可能性が強い。
  6 元文2 笠付型 日月・青面金剛・一鬼・三猿      大間木
  7 寛延2 笠付型 日月・青面金剛・一鬼・三猿      大間木・岡村家墓地
  8 宝暦2     青面金剛               中尾・墓地入口
  9 安永5 笠付型 日月・青面金剛・一鬼・三猿      三室・松木路傍
  10 安永7 笠付型 日月・青面金剛・一鬼・三猿      間宮・長福寺跡
  11 寛政9     青面金剛               大崎・棚井
 この他にも調査洩れがあるかも知れないが、ともかくも人鈴型青面金剛六手像が旧浦和市域に分布していることは間違いない。この種の像がどの範囲に広がっているのも知りたいところである。
                〔初出〕『庚申』第一一三号(庚申懇話会 平成13年刊)所収

 旧浦和市域に分布してローカルな六手青面金剛像としては、人鈴型以外にも岩槻型の像がある。岩槻型の特徴は中央手が合掌する、いわゆる合掌六手であって、標準形ではないが他の四手のいずれかに人身を持つものといったらよいであろう。通常みられる合掌六手では、いずれの手にも人身を執らない。
 岩槻型は、上方手に剣と人身、下方手に弓と矢を持物とするA型が基本型で、B型は矢が二本のもの、上方手や下方手の持物の位置が逆になったC型とD型がある。その他にも中央手が合掌で、他の一手に人身を持つが、斧・矛・輪・弓矢・剣・幢・蛇などを持つE型・F型・G型・H型・I型・J型・K型の変形がみられる。

 中山さんの調査では、大宮市文化財調査報告第二六集『大宮の庚申塔』(同市教育委員会 平成1年刊)に記載の一基(同市本郷町路傍の元禄十二年塔)を含め、現在までに七一基が明らかになっている。すでに『野仏』第一九集(多摩石仏の会 昭和〓年刊)には、五七基を載せた「岩槻型青面金剛について」を発表されているから、参照されるとよいだろう。ただしこの論考には、上方手に矢と弓、下方手に斧と人身のK型(春日部市大池畦の正徳四年塔)が抜けている。
 岩槻市加倉・浄国寺の元禄元年塔が岩槻型の初発で、翌二年には白岡町と岩槻市に各一基、大宮市に二基の計四基が造立されている。以上の塔はいずれも基本型のA型で、翌三年に矢が一本増えたB型が岩槻市に現れる。他の型ではC型は元禄八年、E型は元禄十五年、I型・K型・F型の二型が正徳四年、D型が享保三年、G型が享保四年、H型が享保十三年、J型が享保十四年が初発である。

 造立年代の分析では、初発(元禄元年塔)も最新(享保十九年塔)も岩槻市である。この間の元号別による塔数は、元禄が二八基(三九・四%)、宝永が六基(八・五%)、正徳が一三基(一八・三%)、享保が二四基(三三・八%)の計七一基となる。
 分布は、岩槻型の名称が示すように岩槻市が三九基(五四・九%)と最も多く、半数を越す。次いでさいたま市の一七基(二三・九%)(内訳は旧大宮市の一二基、旧浦和市の五基)、春日部・越谷・蓮田の三市が各四基(五・六%)、白岡町が三基(四・二%)である。岩槻市を中心にして、隣接する五市一町に分布が及んでいる。
 今回の見学会に参加された千葉県の町田茂さんと西岡宣夫さんのお話では、岩槻型が市原市内に一三基分布するという。こうなると、岩槻型も埼玉県だでけでなく、千葉県にも分布範囲が広がりをみせることになり、市原市周辺の市町村にまで及ぶかも知れない。注目すべき情報である。

 今年三月十一日(日)の多摩石仏の会岩槻見学会では、岩槻型の青面金剛を三基ほど廻ったが、この日の資料として中山正義さんが作成された「岩槻型青面金剛一覧表」が配付された。これは、平成九年十一月十二日現在でまとめられている。この一覧表を参考にして、年表から抽出すると
   ┏━━┯━━━━━┯━━━━━━━━━━━━━━┯━━━┯━━━━━━━━━━┓
   ┃西暦│元号年月日│特徴            │塔形 │所在地       ┃
   ┣━━┿━━━━━┿━━━━━━━━━━━━━━┿━━━┿━━━━━━━━━━┫
   ┃1702│元禄1510吉│青面金剛(岩槻型A型)   │笠付型│南部領辻・路傍   ┃
   ┠──┼─────┼──────────────┼───┼──────────┨
   ┃1710│宝永74吉│青面金剛(岩槻型A型)   │柱状型│大門・大興寺    ┃
   ┠──┼─────┼──────────────┼───┼──────────┨
   ┃1717│享保22吉│青面金剛(岩槻型D型)   │笠付型│三室一四〇四・路傍 ┃
   ┠──┼─────┼──────────────┼───┼──────────┨
   ┃1720│享保54吉│青面金剛(岩槻型A型)   │笠付型│下野田・円徳寺   ┃
   ┠──┼─────┼──────────────┼───┼──────────┨
   ┃1729│享保1411吉│青面金剛(岩槻型A型)   │板駒型│大門・大興寺    ┃
   ┗━━┷━━━━━┷━━━━━━━━━━━━━━┷━━━┷━━━━━━━━━━┛
の五基である。三室・享保二年塔はD型で、上方手が斧と人身で下方手が矢と弓である。この塔を除く四基はA型で、上方手に剣と人身を執り、下方手に矢と弓を持つ。前期のように、五基いずれも中央手は合掌している。

人鈴型にしろ岩槻型にしろ、通常の合掌六手や剣人六手像とは異なり、ローカル色が濃い形式である。こうした六手像を追うのも面白いものである。いずいれにしても、その広がりが気にかかるところである。(平成13・5・28記)
市原型の出現

 平成十三年六月二日(土曜日)は、新宿区百人町の水族館で石仏談話室が開催され、町田茂さんが「房総の六地蔵」を話された。開会前に町田さんから、市原市石造物同好会が調査・編集・発行した『市原の庚申塔』(平成6年刊)と『市原の馬頭観音』(平成7年刊)の二冊をいただいた。

 先月の二十七日(日曜日)には、野口進さんが浦和東部を案内された日本石仏協会見学会に参加した。その時に、この会に参加された千葉県の町田茂さんと西岡宣夫さんのお二人から思いがけないお話を聞いた。それは、岩槻型が市原市内に一三基分布するという情報である。岩槻型は、単に埼玉県だでけでなく、千葉県にも分布範囲が広がりをみせることになり、市原市周辺の市町村にまで及ぶかも知れない注目すべき情報である。

 帰りの電車で町田さんからいただいた『市原の庚申塔』をみると、表紙に「合掌+裸婦は合計十三基あります。目ぼしいものに印をしておきました」と書かれたピンクの口取紙が貼ってある。早速、合掌+裸婦の六手青面金剛をチェックすると

 ※1 延宝8 雑 型 日月・青面金剛・一鬼・一猿(烏帽子)菊間・田中前
  ※2 貞享2 笠付型 青面金剛・一鬼・一鶏・一猿(烏帽子)惣社・国分寺
  ※3 延宝8 笠付型 日月・青面金剛・一鶏・一猿(帽・弊)惣社・国分寺
  尸4 寛文13 笠付型 日月・青面金剛・一鶏・一猿(烏帽子)青柳・公民館
   5 延宝8 光背型 日月・青面金剛・一鶏・一猿(帽・弊)川在・大宮神社
   6 寛文12 光背型 青面金剛・一鶏・一猿(烏帽子)   櫃挟・櫃挟神社
   7 天和2 笠付型 日月・青面金剛・一猿        中・八幡神社
   8 貞享4 光背型 青面金剛・一猿           中・八幡神社
   9 元禄6 光背型 青面金剛・一鶏・一猿(帽・箒)   南岩崎・林道
   10 寛文13 光背型 青面金剛・一鶏・一猿        西国吉・藤田家
の一〇基が記載されている。
塔形は私の分類によるもので、市原市石造物同好会の分類とは異なる。「雑型」は、笠付型を模して一石の上部に笠部を彫ったものを示し、同好会では「笠付型」に、また光背型や板駒型は「舟型」に分類している。
 上部に「※」印がついているのは、町田さんが「目ぼしいもの」とした塔で、「尸」は三尸銘を表す。「一猿(烏帽子)」は、烏帽子をかぶった猿を示す。「一猿(帽・弊)」は烏帽子をかぶって手に弊を持つ猿で、「一猿(帽・箒)」は烏帽子をかぶって手に箒を持つ猿である。
 『市原の庚申塔』だけで一〇基かと思い、続いて『市原の馬頭観音』を出すと、表紙に「後の方に庚申塔補遺があります」のコメントが貼ってある。巻末に記載された「庚申塔補遺」の中には
   11 延宝8 笠付型 青面金剛・一猿(烏帽子)      田淵・持田崎
   12 元禄9 光背型 青面金剛・一猿           大久保・女ヶ倉
  ※13 元禄1 板駒型 日月・青面金剛・一鶏・一猿(帽・弊)高坂一七五の三基が載っており、町田さんのご指摘通り前書と併せて一三基となる。

 これらの塔は、所在地別に整理されているので、編年順に並び換えると
   ・ 寛文12 光背型 青面金剛・一鶏・一猿(烏帽子)   櫃挟・櫃挟神社
   ・ 寛文13 笠付型 日月・青面金剛・一鶏・一猿(烏帽子)青柳・公民館
   ・ 寛文13 光背型 青面金剛・一鶏・一猿        西国吉・藤田家
  ※・ 延宝8 笠付型 青面金剛・一猿(烏帽子)      田淵・持田崎
 ※・ 延宝8 雑 型 日月・青面金剛・一鬼・一猿(烏帽子)菊間・田中前
   ・ 延宝8 笠付型 日月・青面金剛・一鶏・一猿(帽・弊)惣社・国分寺
   ・ 延宝8 光背型 日月・青面金剛・一鶏・一猿(帽・弊)川在・大宮神社
  ※・ 天和2 笠付型 日月・青面金剛・一猿        中・八幡神社
   ・ 貞享2 笠付型 青面金剛・一鬼・一鶏・一猿(烏帽子)惣社・国分寺
   ・ 貞享4 光背型 青面金剛・一猿           中・八幡神社
  ※・ 元禄1 板駒型 日月・青面金剛・一鶏・一猿(帽・弊)高坂一七五
   ・ 元禄6 光背型 青面金剛・一鶏・一猿(帽・箒)   南岩崎・林道
   ・ 元禄9 光背型 青面金剛・一猿           大久保・女ヶ倉
となる。初発が櫃挟の寛文十二年塔で、最新が大久保の元禄九年塔とわかる。

 造立年代を元号別に分析すると、寛文期が三基(二三・一%)、延宝期が四基(三〇・八%)、天和期が一基(七・六%)、貞享期が二基(一五・四%)、元禄期が三基(二三・一%)となる。
 市原市内の一三基で眼につく特徴といえば、半数近くの七基の塔に日月がなく、一鬼を伴う塔が二基(5・9)である。さらに、いずれの塔も一猿であり、四基(・・・・・・・)を除いて烏帽子をかぶっている。その中には、御弊を持つ猿が三基(・・・・・)、箒を持つものが一基(・)みられる。鶏は、二羽でなく一羽であるのが特徴といえる。

 去る三月十一日(日曜日)に行われた多摩石仏の会三月例会は、中山正義さんの案内で岩槻市内を廻った。その時に中山さんが作成された「岩槻型青面金剛一覧表」をいただいた。その一覧表によると、岩槻型の初発が岩槻市加倉・浄国寺の元禄元年塔で、最新も同市南多摩見下新井・路傍の享保十九年塔である。この間の推移は、元禄期が二八基(三九・四%)、宝永期が六基(八・五%)、正徳期が一三基(一八・三%)、享保期が二四基(三三・八%)の計七一基となっている。

 岩槻の初発が「元禄元戊辰十月十九日」で、それに遅れる「元禄元天辰十一月吉日」の一か月後に高坂の塔が建っている。後は南岩崎と大久保の塔を加えて計三基が岩槻の初発より遅いことになる。従って造塔年代の面からいえば、市原が寛文十二年で岩槻が元禄元年塔だから市原市内の塔が先行している。
 『市原の庚申塔』と『市原の馬頭観音』の両書では、青面金剛の持物を明記している。そこで、年代順に示すと

   1輪 索   2鉾 人   3鏡 索   4鏡 珠   5輪 索
   ・ 合    ・ 合    6 合    2 合    ・ 合
    棒 人    鏡 索    鉾 人    棒 人    鉾 人

   6棒 人   7鏡 索   8棒 人   9輪 索   10鏡 索
   ・ 合    ・ 合    ・ 合    ・ 合    ・ 合
    輪 索    棒 人    鏡 索    鉾 人    棒 人

   11棒 索   12鏡 人   13鉾 索
   ・ 合    ・ 合    ・ 合
    鉾 人    剣 棒    鏡 人
のように、統一性に欠けてばらつきがみられる。岩槻型のA型(中央手が合掌し、上方手に剣と人、下方手に矢と弓を執る形式)が主流なのに対して対照的である。一つには、市原の塔が青面金剛普及期に造立され、岩槻型が合掌六手像が普及した元禄期以降の造立年代とも関係があろう。

 市原市内の「合掌+人身」の青面金剛像は、岩槻型に先行するし、その持物の変化や一猿形式などを考慮すると「岩槻型」の名称は考え直す必要がある。そこで私は、この種の六手青面金剛を新たに「市原型」と名付けて「岩槻型」と区別することにした。
 新名称の「市原型」は、現在わかっているのが市内一三基であるが、恐らく市原周辺の市町村にもこの「合掌+人身」の青面金剛像が分布すると考えられる。調査の進展次第では、千葉県内の分布範囲に広がりをみせることになろう。
 いずれにしれも「岩槻型」にしろ「市原型」にしろ、あるいは先日の浦和見学会でみた「人鈴型」のように、六手青面金剛にもローカル的な造像がみられる。これまで数が多いために見過ごされてきた六手青面金剛像の持物分析が進めば、さらなる系譜が発見できるであろう。

 四手青面金剛像の場合は、松村雄介さんが「大曲型」と呼んだ青面金剛の系譜がみられる。私の場合は、町田市相原町にある異形の寛文十年二手青面金剛像が起点である。それが神奈川や東京、山梨と対象が拡がった。単純な二手青面金剛の系譜から発展して、現在は六手像のローカルな系譜に注目している。

 合掌六手像で上方手に日月を奉持する形式の青面金剛像は、多摩地方でも多摩川以南に分布している。この系譜は、神奈川県や長野県にもみられる。あるいは、荒井広祐さんが『石仏の旅 東日本編』(雄山閣出版 昭和〓年刊)で報告している「御殿場庚申像」がある。これは螺髪の青面金剛で、庚申寺が発行した掛軸が手本と推定されている。このように、いろいろな系譜の青面金剛が各地に分布しているから、それぞれの土地特有の青面金剛像を発見することを期待したい。(平成13・6・4記) 〔付 記〕

六月八日に受け取った中山正義さんの来信によると、「市原型」と「岩槻型」の区別は、鬼の向きが横か正面向きか、鶏の数が無しか一羽か二羽か、猿が一匹か三匹かでも区分できる。
また岩槻型では持物の型が集中しているのに対して、市原型が一基毎に異なるばらばらである点を指摘されるている。また中山さんは、市原型を市原市以外で見ていない、とコメントがある。そうなると、市原以外の市町村への広がりを期待してたが、市原に限定される可能性が出てきた。
 
岩槻型と市原型

 平成十三年六月八日(金曜日)に春日部の中山正義さんからお手紙をいただいた。その来信の中には、次のように記されている。
野仏』19集で書いたように、平岩さんに教示を受けた寛文二基を書きました。その後、市原市に十三基あるようですが、NO1からNO7とNO9の八基を実査しております。
19集の文中でふれたように、持ち物が違うし、岩槻型は鬼は正面を向き、二本の腕でふんばって、二鶏三猿が刻されており、皆同じ型態のものを集めたもので、八基は合掌で人持ちが同じだけで、とても岩槻型とは比較にならない、似て非なるものとおもいます。合掌で人持ちを岩槻型というのは、ランボーというものとおもいます


そこで、先ず中山さんが『野仏』第一九集(多摩石仏の会 昭和63年刊)に発表された「岩槻型青面金剛像について」(二〜五頁)を参照してみると、すでに
    平岩毅氏のご教示によると、千葉県に人を持つ像が二基ある。
    寛文十二年 棒  人  寛文十三年 棒  人(第一図)
           合掌          合掌
          輪  索        輪  蛇
    持ち物は岩槻の型と違うし、又、この二基の系統は続いたのか、その地方の塔を見たことの
   ない私にはわからない。

と、来信にある千葉県の青面金剛を指摘している。

 ここで挙げられたのは市原市内の二基で、寛文十二年塔が櫃挟・櫃挟神社にある光背型塔と青柳・北青柳公民館庭にある笠付型塔(『野仏』四頁に図が載っている)の二基である。この他に市原で寛文年間に造立された塔は、西国吉八三八−二藤田家庭にある寛文十三年光背型塔がある。

 先の中山さんの『野仏』の論考には、岩槻型三基の写真が五頁に載っている。その中の二基は、私が初めてみた岩槻型の岩槻市加倉・久伊豆神社の元禄十五年塔と享保十三年塔である。共に笠付型塔で、前者が上方手に斧と人身、下方手に矢と弓を持つE型で、後者が上方手に矢と弓、下方手に剣と人身を持つH型に中山さんが分類している。
 また、合掌手で人身を持つ六手像の中で、鳩ヶ谷市桜町と与野市(現さいたま市)落合霊園の安永六年塔、県外の横須賀市衣笠の文化九年塔と年不明塔を岩槻型から除外している。無論、先の千葉県の二基も含まれていない。

 市原市石造物同好会が調査・編集・発行した『市原の庚申塔』(平成6年刊)と『市原の馬頭観音』(平成7年刊 巻末に「庚申塔補遺」が載る)の二冊から、「合掌+人身」の六手青面金剛を年代順に列記すると

   ・ 寛文12 光背型 青面金剛・一鶏・一猿(烏帽子)   櫃挟・櫃挟神社
   ・ 寛文13 笠付型 日月・青面金剛・一鶏・一猿(烏帽子)青柳・北公民館
   ・ 寛文13 光背型 青面金剛・一鶏・一猿        西国吉・藤田家
   ・ 延宝8 笠付型 青面金剛・一猿(烏帽子)      田淵・持田崎
  ・ 延宝8 雑 型 日月・青面金剛・一鬼・一猿(烏帽子)菊間・田中前
   ・ 延宝8 笠付型 日月・青面金剛・一鶏・一猿(帽・弊)惣社・国分寺
   ・ 延宝8 光背型 日月・青面金剛・一鶏・一猿(帽・弊)川在・大宮神社
   ・ 天和2 笠付型 日月・青面金剛・一猿        中・八幡神社
   ・ 貞享2 笠付型 青面金剛・一鬼・一鶏・一猿(烏帽子)惣社・国分寺
   ・ 貞享4 光背型 青面金剛・一猿           中・八幡神社
   ・ 元禄1 板駒型 日月・青面金剛・一鶏・一猿(帽・弊)高坂一七五
   ・ 元禄6 光背型 青面金剛・一鶏・一猿(帽・箒)   南岩崎・林道
   ・ 元禄9 光背型 青面金剛・一猿           大久保・女ヶ倉
の一三基である。
 この市原市内に分布する一三基で眼につく特徴といえば、半数近くの七基の塔に日月がなく、一鬼を伴う塔が二基(・・・)である。さらに、いずれの塔も一猿であり、四基を(・・・・・・・)除いて烏帽子をかぶっている。その中には、御弊を持つ猿が三基(・・・・・)、箒を持つものが一基(・)みられる。鶏は、二羽でなく一羽であるのが特徴といえる。
 確かに中山さんのいわれる通りで、「合掌+人身」を「岩槻型」と定義すれば、市原市内にみられる「合掌+人身」の六手青面金剛は「岩槻型」となる。しかし、来信にもあるように、鬼の姿態・二鶏三猿・同じ形態などを含めて「岩槻型」を定義すると、明らかに範疇には入らない。

 岩槻の初発が「元禄元戊辰十月十九日」塔で、それに一か月遅れる「元禄元天辰十一月吉日」に市原・高坂の塔が建っている。後は南岩崎と大久保の塔を加えて計三基が岩槻の初発より遅いことになる。従って造塔年代の面からいえば、市原が寛文十二年の初発で、岩槻が元禄元年塔だから、市原市内の塔が先行している。
 市原市内の「合掌+人身」の青面金剛像が岩槻型に先行するし、その持物の変化や一猿形式などを考慮すると、「岩槻型」の名称を考え直す必要があるとし、私はこの種の六手青面金剛を新たに「市原型」と名付け、「岩槻型」と区別することにした。
 さらに中山さんが指摘されるように、「市原型」と「岩槻型」の区別は、鬼の向きが横か正面向きか、鶏の数が無しか一羽か二羽か、猿が一匹か三匹かでも区分できる。また岩槻型では持物の型が集中しているのに対して、市原型が一基毎に異なるばらばらである点も見逃せない。

 先の中山さんの来信には、市原型について「市原市以外で私は見ておりませんので、市原市だけの一地域の造塔のようにおもわれます」のコメントがある。市原以外の市町村への広がりを期待してたが、市原に限定される可能性が出てきた。

 中山さんが作成された「岩槻型青面金剛一覧表」(平成九年版)によって、岩槻型の持物による分類の型を詳細にみると、A型からK型までの一一種がある。A型は中央手が合掌し、上方手に剣と人、下方手に矢と弓を執る形式である。A型は、七一基中四二基(五九・二%)である。
 このA型のバリエーションには、B型(A型の矢が二本)やC型(A型の下方手の矢と弓の位置が逆)、D型(A型の情報手の剣と人の位置が逆)がある。A型・B型・C型の三型を合わせると、一七基(二三・九%)になり、前記A型の四二基を加えると、実に七一基中五九基(八三・一%)にのぼる。市原型のばらばらと対照的である。

 六手青面金剛像は、合掌六手と剣人六手(標準六手)、その他の六手に三大別される。通常、合掌六手は、胸前の二手を合掌し、上方てに矛と宝輪、下方手に矢と弓を持つ。これが合掌六手の標準形といえよう。ところが、多摩地方の他にもみられるが、上方手に日と月を捧持する通称「バンザイ型」と呼ぶ型がみられる。今回、取り上げた「市原型」と「岩槻型」は合掌六手の一パターンで、それぞれの狭い地域に造られたローカル的な六手青面金剛であるといえよう。

 こうしてみると、合掌六手の標準形の他にもいろいろなバリエーションがあるから、こうした点にも注意を払う必要があろう。これまでは、いろいろな持物を無視して一括して合掌六手で処理してきらいがある。また、御殿場・庚申寺のお札を模した、一風変わった形像(荒井広祐さんが「御殿場庚申像」と呼ぶ)もみられるから、その点も含めてローカル的な系譜を追求すると、これまでとは違った六手青面金剛像が現れてくる。
(平成13・6・8記)
 
各地の万歳型青面

 最近、万歳型青面が気になって調べている。多摩地方では、八代恒治さんが『三多まの庚申塔』(私家版 昭和〓年刊)の中で指摘したように、万歳型青面が八王子や日野を中心に拡がっている。これまでも、私は西多摩地方の調査、特に多摩川南岸の現在のあきる野市(当時の秋多町や五日市町)で万歳型に接していたので、以来、青梅市内にみられない形式であったので注意を払っていた。
 昭和四十九年に発行された『青梅市の石仏』(青梅市郷土博物館)では、私が担当した「市内の庚申塔」の中で、はっきり「万歳型」とは書かなかったが、五七頁で「主として南多摩であるが、西多摩でも秋川筋に数基みられる型に、第一手が合掌し、第二手が日月をささげ、第三手に弓と矢を持つものがある。こうした型が市内ではみられない」と記した。引用文の第一手は書中の中央手、第二手は上方手、第三手は下方手を示す。

 私は多摩地方だけでなく、東京区部では平成十年三月の「世田谷・桜丘を歩く」や十二年五月の「新宿を歩く」などに万歳型青面の記録が残っている。東京都以外でも昭和六十一年以降の記録を調べてみると、山梨県では平成二年十一月の「上野原の石仏」、神奈川県では平成八年五月の「川崎を歩く」、平成九年七月の「鎌倉を歩く(・・)」、今月の六月十日に行われてた多摩石仏の会の「厚木西部を歩く」のように、山梨や神奈川でも万歳型に接している。

 万歳型の青面金剛の定義からすればはずれるが、平成十二年九月には川越市古谷本郷・古尾谷八幡神社のほろかけ祭の帰りに、仮に「万歳型剣人八手」と名付けた青面金剛を見つけた。これは、通常の剣人六手像に日天と月天を捧げた二手を加えた八手像といえる。また、平成八年二月の「板倉の石仏バスツアー」では、板倉町板倉・雲間墓地では延宝七年の青面金剛をみている。これは、像自体がかなりユニークなもので、左上方手に瑞雲のついた日天を捧げ、中央手に瑞雲のついた月天という持物が珍しい。日天と月天共に円形だから、あるいは日天と月天が上下が逆であるかもしれない。

 先日、平塚の梶川賢二さんから石仏を調べるか会編『平塚の石仏−改訂版−』1〜3の三冊をいただいた。1の『平塚地区編』と3の『豊田地区編』には万歳型がないが、2は『城島地区編』(平塚市博物館 平成11年刊)で 略図だから正確とはいえないが
   正徳6 笠付型 神奈川 平塚市小鍋島 八幡神社   H型
の一基が載っている。間違いないとすれば、これからもこのシリーズが続くから、平塚市内の万歳型の塔数が増える可能性があろう。先にふれたように、川崎・鎌倉・厚木などでは万歳型をみているから、神奈川にあってもそれほど驚くことではない。

 ホームページには、松沢邦男さんの『庚申塔と道祖神−見て、歩きの手引き』(ほおずき書籍 平成13年刊)が載っていて気になっていた。たまたま、石仏談話室でお会いした高木六男さんから実物をみせていただいた。早速申し込んで本を入手したが、表紙には庚申石祠や青面金剛などのカラー写真が載っている。その中の一枚が日月を捧げる剣人八手像であり、他にもう一枚がやはり日月を捧げる四手青面像を撮ったものなのである。
 剣人八手像の青面金剛は、表紙のカラー写真、三四頁のモノクロ写真にみられる。この塔は、中野市北間・長瀬観音堂横にある。中央手が剣と人身を執り、背後の上方手に日と月を捧げ、中央手に手に弓と矢、下方手に蛇と索を持つ八手青面金剛である。先の川越の像は、背後の中央手に矛と宝輪、下方手矢と弓を持つ剣人八手像だから、中野の像とは二手の位置や持物に異同がみられる。
 表紙と三五頁には、上方手に日と月を捧げ、下方手に蛇と索を執る四手青面金剛像の写真が載っている。この像は、小布施町山王島・河東王島神社の無年記塔である。また、口絵のトップには、山ノ内町下須賀川・諏訪大明神にある寛延四年に造立された万歳型合掌六手青面の写真を掲げている。下方手に索と棒(あるいは蛇か)を持つH型像である。
 この『庚申塔と道祖神──見て、歩きの手引き』には、前記三枚の他に日月を捧持する青面金剛の写真が掲載されていないので、三基以外にコメントのしようがない。しかし、文字塔を含むと思われるが、青面金剛塔の一覧表(八八〜九頁)には中野市には九基、山ノ内町には一四基、小布施町には二五基、木島平村には五基の基数が載っているので、まだ万歳型の塔が分布する可能性がある。これらの市町村には、先の六手H型像の他にも日月を捧持する四手や八手の青面金剛が存在するかも知れない。

 縣敏夫さんの大著『図説庚申塔』(揺籃社 平成12年刊)には、全国各地の庚申塔が紹介されている。万歳型に関係のある青面金剛といえば、次の三基が挙げられる。
   ┏━┯━━━┯━━━┯━━━┯━━━━━━━━━━━┯━━━┯━━┯━━━┓
   ┃番│元 号│塔 形│都 県│ 所在地       │中央手│型式│下方手┃
   ┣━┿━━━┿━━━┿━━━┿━━━━━━━━━━━┿━━━┿━━┿━━━┫
   ┃・│延宝4│光背型│東 京│文京区本駒込 天祖神社│合 掌│H型│剣・索┃
   ┠─┼───┼───┼───┼───────────┼───┼──┼───┨
   ┃・│元禄6│光背型│長 野│辰野町平出 高徳寺  │定 印│B型│剣・蛇┃
   ┠─┼───┼───┼───┼───────────┼───┼──┼───┨
   ┃・│年不明│光背型│神奈川│藤沢市西宮 遊行寺  │剣・珠│E型│印・印┃
   ┗━┷━━━┷━━━┷━━━┷━━━━━━━━━━━┷━━━┷━━┷━━━┛
 ・は、すでに「東京区部の万歳型」でもリストアップした塔で、拓本を二一一頁に掲げている。この塔にふれた解説の最後の部分には
    合掌六手の青面金剛は日月を左右の手で捧げている(このように掴んでいる例は少ない)。
   この俗称バンザイ型は都内ではあまり見られないが、山間部に近い八王子市あたりに多く見ら
   れ、神奈川・山梨・長野あたりに及んでいる。下部の供養者銘などから、浄栄法印が主となり
   、高木源右門ら八人が庚申待を修して造立されたものであろう。(二一〇頁)


と記している。東京区部には、この塔を最古として、文京区に二基、新宿区・世田谷・豊島区に各一基の計五基の万歳型がみられる。この他にも中央手が合掌ではなく、他の持物を執る準万歳型ともいえる目黒・荒川・品川・杉並に各一基の計四基が存在する。この準万歳型は、寛文十二年を初発として万歳型に先行している。

 ・は、拓本を二三九頁を載せている。中央手が合掌ではなく定印という違いがあるが、万歳型とみて差し支えなかろう。関係がある解説の一部を引用すると
    高さ一mほどの光背型で、頂部に空間をあけ、大きめの円形日月を両手で捧げる俗にいうバ
   ンザイ型をしている。持ち物は第三手の左に蛇、右に剣の二つだけで、腹前の第一手が法界定
   印を結ぶ。(二三八頁)

である。日月と掌の間にある三日月形は、瑞雲の省略形であろう。掌と瑞雲の間がないので、B型とすべきか、F型とすべきか迷う型式といえる。ここでは、五指が前方に向かって開いているのでB型と判定する。

 ・は、拓本が二五三頁にみられるもので、準万歳型の青面金剛である。
縣さんの解説の中では、持物にふれて次の様に書いている。
    六手青面金剛の頂部の怒髪に三面があるが、儀軌の三面をこのように表現したものと考えら
   れる。忿怒の相は三眼をそなえている。腹前の第一手は、右手に剣、左手に宝珠を持つ例は珍
   しい(ショケラは見られない)。上方の第二手の左右は日月を捧げ、両方とも円形で日月の区
   別はみられない。下方の第三手の右は親指右は親指と小指をのばし中三本は屈し、左手は親指
   と人指し指をのばす印相を執り、これらの印は青面金剛では、例をみないものである。(二五
   二頁)

この塔は、縣さんの指摘があるように頂部に三面があり、下方手に印を結ぶ他にも、上部に三猿を配するなど類例がない塔面の構成である。

 現状からいえば、多摩地方、それも六〇基を越す八王子市を中心として、多摩に接する東京区部に極めて小数(五基、他に四基の準万歳型がみられる)分布する。東京に隣接する神奈川と山梨、さらに長野に万歳型が分布することは間違いがない。
 
全国各地には数多くの合掌六手の青面金剛像がみられるから、今後、どのような展開になるのか予想がつかない。これまで多摩地方中心に目配りしてきたが、神奈川・山梨・長野の三県を主体として、他の道府県にも注意する必要がある。
(平成13・6・26記)
中山さんの改訂版

 平成十三年九月十九日(水曜日)に、春日部の中山正義さんから平成九年に刊行された『関東地方寛文の青面金剛像 付延宝期青面金剛像』(私家版)の改訂版が届いた。同封のお手紙には、改訂版の発行を「寛文は四基新しいものを実査、延宝塔は前回の時より百数十基実査したので」と記されている。事実、九年版の寛文・延宝期の六四七基に対して、改訂版では六八一基と七基の塔数が増加している。

 先月十一日(土曜日)に、横浜の大畠洋一さんから「石仏資料集」のCD−ROM(以下「ロム」と略称する)を受け取った。そのロムの中には、中山さんの平成九年版の資料を基に入力された関東七都県の青面金剛のデーターベースが収録されている。
 このロムでは、原本と両者共に同じく「日月持ち」と表現して列記している。関東七都県のロム検索の結果は、「日月持ち」の青面金剛の万歳型と準万歳型(本来の六手だけでなく、四手や八手を含む)を合わせて栃木が六基、群馬が二〇基、茨城が分布なし、千葉が四基、埼玉が一一基、東京が一一基、神奈川が八基となる。ここでいう万歳型とは、上方手に日月を持つ合掌六手青面金剛をいう。準万歳型とは、中央手が合掌以外(例えば剣人六手)で上方手に日月を持つ六手青面金剛を指す。

 東京都の場合は、ロムで万歳型と準万歳型の青面金剛を検索・抽出した結果
   順 元号  塔形  所在地            中央手 下方手
   ・ 寛文12 板碑型 目黒区下目黒三 瀧泉寺    矛・索 矢・弓
   ・ 寛文12 板碑型 大田区矢口3 円応寺     矛・索 矢・弓
   ・ 寛文12 板碑型 目黒区下目黒三 瀧泉寺    矛・索 矢・弓
   ・ 寛文13 光背型 荒川区荒川四 蓮田子育地蔵  棒・弓 矢・索
   ・ 延宝1 板碑型 品川区西五反田五 安楽寺   不 明 不 明
   ・ 延宝4 光背型 文京区本駒込三 神明神社   不 明 不 明
   ・ 延宝4 板碑型 世田谷区太子堂三 円通寺   不 明 不 明
   ・ 延宝5 板駒型 品川区西五反田五 徳蔵寺   不 明 不 明
   ・ 延宝5 角柱型 大田区南馬込五 長遠寺    剣・人 矢・弓
   ・ 延宝7 光背型 八王子市左入町中丸一     合 掌 矢・弓
の一〇基が該当し、その他には
   順 元号  塔形  所在地            手 数 下方手
   ・ 延宝8 笠付型 世田谷区幡ヶ谷 清岸寺    八 手 不 明
の「日月持ち」の八手像が一基、と合計一一基が抽出された。この数字は、今回の改訂版と同じ塔数である。

 この改定版を使って六県の万歳型と準万歳型を抽出してみると、栃木県では
   順 元号  塔形  所在地            中央手 下方手
   ・ 延宝8 光背型 田沼町下彦間・上宿      合 掌 不 明
   ・ 延宝8 光背型 大平町牛久 雷電神社     合 掌 不 明
   ・ 延宝8 光背型 足利市高松町 長昌寺     不 明 不 明
   ・ 延宝8 光背型 今市市長畑・木の峰 観音堂  不 明 不 明
   ・ 延宝8 光背型 足利市中日向 観音堂     不 明 不 明
の五基があり、これに加えて日月持ちの
   順 元号  塔形  所在地            手 数 下方手
   ・ 延宝3 丸 彫 足利市八椚町 小卵塔場    四 手 不 明
の四手像一基があり、併せて六基と平成九年版と塔数が変わらない。

 次いで茨城県では、平成九年版と同様に改訂版でも万歳型と準万歳型の青面金剛の他にも、日月持ちの四手や八手も分布がみられない。

 続く群馬県では
   順 元号  塔形  所在地            中央手 下方手
   ・ 延宝3 光背型 板倉町籾谷 安勝寺      合 掌 不 明
   ・ 延宝3 光背型 館林市岡野 共同墓地     合 掌 不 明
   ・ 延宝5 板駒型 館林市仲町 観性寺      合 掌 不 明
   ・ 延宝5 光背型 館林市朝日町 法高寺     合 掌 不 明
   ・ 延宝7 光背型 館林市赤生田本町 永明寺   合 掌 不 明
   ・ 延宝7 光背型 館林市朝日町 法高寺     合 掌 不 明
   ・ 延宝7 光背型 館林市花山町 富士嶽神社   不 明 印 相
   ・ 延宝7 光背型 館林市羽付町 寶秀寺     不 明 印 相
   ・ 延宝7 光背型 板倉町雲間 墓地       不 明 印 相
   ・ 延宝8 光背型 館林市堀江 茂林寺墓地    合 掌 不 明
   ・ 延宝8 光背型 尾島町下堀口 浄蔵寺     合 掌 不 明
   ・ 延宝8 光背型 館林市上赤生田 観音堂    不 明 不 明
   ・ 延宝8 光背型 板倉町籾谷下一本榎下 路傍  不 明 印 相
   ・ 延宝X 光背型 館林市羽付町 楠木神社    不 明 印 相
   ・ 延宝8 光背型 大泉町東小泉 勢光寺     合 掌 不 明の六手像一五基他に四手像の
   順 元号  塔形  所在地            中央手 下方手
   ・ 寛文12 光背型 館林市細内集会所裏 墓地   四 手 合 掌
   ・ 延宝6 光背型 新田町反町 照明寺      四 手 不 明
   ・ 延宝8 笠付型 大間々町二丁目 富森稲荷   四 手 不 明
   ・ 延宝8 光背型 新田町村田屋敷 墓地     四 手 不 明
   ・ 延宝8 光背型 新田町市野井 墓地      四 手 不 明
の四手像五基があって計二〇基で、平成九年版と変わらない。

 平成九年版が一一基の埼玉県では
   順 元号  塔形  所在地            中央手 下方手
   ・ 延宝3 板駒型 羽生市小須賀 薬師寺     合 掌 不 明
   ・ 延宝4 笠付型 羽生市下岩瀬 点宗寺     不 明 不 明
   ・ 延宝4 光背型 上福岡市駒林 路傍      不 明 不 明
   ・ 延宝5 板駒型 大利根町佐波 地蔵堂     合 掌 不 明
   ・ 延宝6 笠付型 加須市大越・馬場 路傍    合 掌 不 明
   ・ 延宝7 光背型 大利根町道目上 路傍     不 明 不 明
   ・ 延宝7 光背型 加須市大越・堤崎 大神宮   合 掌 不 明
   ・ 延宝8 板駒型 羽生市下新郷 白山神社    合 掌 不 明
   ・ 延宝8 光背型 寄居町寄居 正樹院裏塀    合 掌 不 明
   ・ 延宝8 光背型 羽生市桑崎 墓地       合 掌 不 明
   ・ 延宝8 板駒型 羽生市稲子 光明寺      合 掌 不 明
   ・ 延宝8 板駒型 羽生市与兵衛新田 稲荷神社  合 掌 不 明
   ・ 延宝8 板駒型 羽生市常木 一位社      合 掌 不 明
の六手像一三基がみられ、前回より二基が増えている。

 神奈川県では、日月持ちの四手像や八手像がなく
   順 元号  塔形  所在地            中央手 下方手
   ・ 寛文13 笠付型 横須賀市大矢部 満昌寺    棒・索 矢・弓
   ・ 延宝3 光背型 横浜市港北区樽野町 横溝宅  不 明 不 明
   ・ 延宝3 板駒型 川崎市高津区子母口 蓮乗院  不 明 不 明
   ・ 延宝5 不 明 横浜市緑区元石川町保木    不 明 不 明
   ・ 延宝6 笠付型 逗子市沼間6 旧大踏切り   不 明 不 明
   ・ 延宝6 光背型 横浜市金沢区野島町 染王寺  不 明 不 明
   ・ 延宝8 板駒型 横浜市磯子区森町五 篁修寺  合 掌 不 明
   ・ 延宝8 板駒型 横浜市港北区綱島台 来迎寺  合 掌 不 明
の六手像八基が分布し、平成九年版の八基と同じ塔数である。

 最後の千葉県では、神奈川県同様に四手像や八手像がなく
   順 元号  塔形  所在地            中央手 下方手
   ・ 延宝4 板駒型 木更津市高柳 八幡神社    合 掌 不 明
   ・ 延宝7 笠付型 君津市平山 大原神社裏    合 掌 不 明
   ・ 延宝8 光背型 東庄町東今泉 路傍      剣 人 不 明
   ・ 延宝9 光背型 我孫子市中峠 長光院     合 掌 不 明
の六手像四基で、平成九年版の四基と増減なしである。

 こうした関東地方七都県に分布する寛文・延宝期の「日月持ち」青面金剛を、各都県別に集計してみると、次の表の通りである。
   ┏━━━┯━━━━┯━━━━┯━━━━┳━━━┳━━━┯━━━┳━━━┓
   ┃都 県│ 万歳型│準万歳型│不  明┃小 計┃四 手│八 手┃総 計┃
   ┣━━━┿━━━━┿━━━━┿━━━━╋━━━╋━━━┿━━━╋━━━┫
   ┃茨 城│   二│   〇│   三┃  五┃  一│  〇┃  六┃
   ┠───┼────┼────┼────╂───╂───┼───╂───┨
   ┃栃 木│   〇│   〇│   〇┃  〇┃  〇│  〇┃  〇┃
   ┠───┼────┼────┼────╂───╂───┼───╂───┨
   ┃群 馬│   九│   〇│   六┃ 一五┃  五│  〇┃ 二〇┃
   ┠───┼────┼────┼────╂───╂───┼───╂───┨
   ┃埼 玉│  一〇│   〇│   三┃ 一三┃  〇│  〇┃ 一三┃
   ┠───┼────┼────┼────╂───╂───┼───╂───┨
   ┃千 葉│   三│   一│   〇┃  四┃  〇│  〇┃  四┃
   ┠───┼────┼────┼────╂───╂───┼───╂───┨
   ┃東 京│   一│   五│   四┃ 一〇┃  〇│  一┃ 一一┃
   ┠───┼────┼────┼────╂───╂───┼───╂───┨
   ┃神奈川│   二│   一│   五┃  八┃  〇│  〇┃  八┃
   ┣━━━┿━━━━┿━━━━┿━━━━╋━━━╋━━━┿━━━╋━━━┫
   ┃都 県│  二七│   七│  二二┃ 五五┃  六│  一┃ 六二┃
   ┗━━━┷━━━━┷━━━━┷━━━━┻━━━┻━━━┷━━━┻━━━┛
 この表からみて、少なくとも関東地方七都県には万歳型が二七基あり、準万歳型が七基みられる。中央手が不明の二二基の中で万歳型がどの位含まれているだろうか、興味のあるところである。ただこの数字は、あくまでも寛文・延宝期の塔数だから、これ以降にどの程度の造塔がみられるのだろうか。その後の造塔数によっては、多摩地方の万歳型が独壇場ではなくなるかもしれない。

 八王子市の場合には、市内には次の表の通り六五基の万歳型が分布している。
   ┏━┳━┯━┯━┯━┯━━━┯━┯━┯━┯━┳━┓
   ┃数┃2│4│7│7│5│1│2│8│3│6┃5┃
   ┃基┃ │ │ │ │ │1│1│ │ │ ┃6┃
   ┠─╂─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─╂─┨
   ┃区┃市│宮│木│井│住│口│方│八│山│川┃計┃
   ┃地┃旧│小│柚│由│加│川│恩│元│横│浅┃合┃
   ┗━┻━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┻━┛
 寛文・延宝期に限るが、群馬県館林市には日月持ちの六手像が一〇基と四手像一基がみられ、埼玉県羽生市では六手像六基が散在する。八王子の場合をみれば、寛文・延宝期には僅かに一基である。両市の天和以降の造塔次第では、八王子市に匹敵するかもしれない。特に両市の動向が気にかかる。

 今月一日(土曜日)の第一〇四回の石仏談話室では、牛越嘉人さんが撮られた長野県の「伊那路石仏見学会」のビデオが映写され、上方手に日月を捧げ、下方手に蛇と思われる帯状のものを持つ年不明の合掌六手青面金剛(万歳型)がみられた。
 牛越さんのビデオに続き、遠藤和男さんがこの見学会で撮られた写真約六〇枚が画面に映写され、説明が加えられた。先刻のビデオでみた年不明の万歳型青面金剛は、駒ヶ根市上穂・松崎家墓地にあることがわかる。

 他にも松沢邦男さんの『庚申塔と道祖神──見て、歩きの手引き』(ほおずき書籍 平成13年刊)では、同じ長野県中野市周辺に上方手に日月を捧げた青面金剛の写真が載っている。山ノ内町下須賀川・諏訪大明神にある寛延四年の万歳型合掌六手像の他にも、上方手に日月を下げる青面金剛は、小布施町山王島・河東王島神社の四手像と中野市北間・長瀬観音堂横の剣人八手像の二基がみられる。
 縣敏夫さんの大著『図説庚申塔』(揺籃社 平成12年刊)には、全国各地の庚申塔が紹介されている。万歳型に関係のある青面金剛といえば
   ┏━┯━━━┯━━━┯━━━┯━━━━━━━━━━━┯━━━┯━━━┓
   ┃番│元 号│塔 形│都 県│ 所在地       │中央手│下方手┃
   ┣━┿━━━┿━━━┿━━━┿━━━━━━━━━━━┿━━━┿━━━┫
   ┃・│延宝4│光背型│東 京│文京区本駒込 天祖神社│合 掌│剣・索┃
   ┠─┼───┼───┼───┼───────────┼───┼───┨
   ┃・│元禄6│光背型│長 野│辰野町平出 高徳寺  │定 印│剣・蛇┃
   ┠─┼───┼───┼───┼───────────┼───┼───┨
   ┃・│年不明│光背型│神奈川│藤沢市西宮 遊行寺  │剣・珠│印・印┃
   ┗━┷━━━┷━━━┷━━━┷━━━━━━━━━━━┷━━━┷━━━┛
の三基が挙げられる。その中の・は、前記の中山さんの改訂版にも載っている。・は、牛越さんのビデオでみた塔に関係がある地域にある。・に関連していえば、すでに私は、中山さんの資料以外にも川崎・鎌倉・厚木などで天和以降の万歳型をみているし、平塚の石仏を調べるか会編『平塚の石仏−改訂版−』2の『城島地区編』(平塚市博物館 平成11年刊)には、平塚市小鍋島・八幡神社に正徳六年笠付型塔が載っている。

 このように長野県や改訂版以後の時期に造立された神奈川県の例があることだし、両市に限らず、他にもこうした塔が多く分布する市町村がみられるかもしれない。今までにこうした分析がなかったから、六手青面金剛の持物の分析が充分ではない。
 単に万歳型や準万歳型に限らず、岩槻型や市原型、さいたま市浦和地区を中心にみられる人鈴型のような類型、さらに地方色のあるる持物の分析が行われるだろう。いずれにしても六手青面金剛の持物の分析は、今後の大きな課題である。これによって、伝播や石造文化圏、石工の活動範囲などをを明らかにできる可能性がある。こうした地道な追求による成果が期待される。
(平成13・9・20記)
六手青面を歩く
由木を歩く   多摩石仏の会五月例会

 平成九年五月十八日(日曜日)は、多摩石仏の会月例会である。午前九時三〇分に線駅に集合、川端信一さんの案内で八王子市内をまわる。集まったのは、林国蔵さん・鈴木俊夫ん・明石延男さん・関口渉さん・犬飼康祐さん・縣敏夫さん・萩原清高さん・多田治昭さんの総勢一〇人である。

 JR八王子駅には午前八時五〇分についたので、まだ誰も集まっていない。時間つぶしに子安町の興林寺を訪ねる。境内にある阿弥陀如来を中央に左右に三体ずつ配した六地蔵をみる。向かって右から石板に「清浄無垢」「大清浄」「大徳清浄」「阿弥陀如来」「大光明」「大定智悲」「大堅固」の文字を記している。各々の地蔵は、いずれも片手に宝珠をもっているのが眼をひく。他に昭和五十七年の「慈母水子地蔵尊」がみられる。

 駅に戻ると何人か集まっている。定刻には一〇人が揃う。南口から九時五五分発の南大沢行きの京王バスに乗り、殿ケ谷で下車する。この辺りは、バスの途中の変化した光景とは異なって、古い面影を止めている。最初は、殿ケ谷の薬師堂にある
 1 宝暦8 笠付型 日月・青面金剛・三猿            60×26×22をみる。青面金剛は、日月を捧げる合掌六手(像高38・)、右側面に「奉納庚申供養塔」の銘文がある。猿は像高12・。ここには、山角型「道祖神」(40×22×15・)がみられ、端にある石祠は弁天祠で、中にトグロをまいた蛇の石像とお札がはいっている。

 次いで南谷戸にはいり、明治二十五年再建の双体道祖神(45×37×21・ 像高60・)を調べる。背面には「此□也明和年間/百歳月之久終乃/中□謀重/干時明治二十有五年」の銘を記す。続いてした下由木・永林寺を訪ね、昭和二十五年の「牛魂碑」と昭和四十年の「養鶏養豚慰霊之碑」をみる。前者は「由木村搾乳業者一同」、後者は「八王子市由木農業協同組合養鶏養豚部会」の建立である。五重塔の下方には、幕を下げて石造と木造の陽物が祀られている。

 玉泉寺の入口には、自然石の中央を窪めて配した昭和六十年の双体道祖神(81×59・ 像高32・)と昭和二十八年の「ウーン 道祖神」(49×31・)の二基が並んでいる。境内に
  2 文政6 柱状型 「ウーン 庚申塔」               55×24×12がみられ、墓地には
  3 享保4 丸 彫 地蔵「カ奉造立庚申供養塔地蔵尊諸願成就所」 92×28がある。3はよく探したものである。ここで昼食をとる。

 午後は、越野・下根公園にある
  4 年不明 自然石 (山形)「庚申塔」            106×50
  5 年不明 柱状型 日月・青面金剛・一鬼            56×27×18から廻る。5は、年不明の双体道祖神(53×24×16・ 像高29・)の二基が並んでおり、側面の銘文の有無がわからない。
ここから松木の大石氏館跡入口にある
  6 享保3 柱状型 日月・青面金剛・三猿            63×24×20をみる。これも日月を捧げる合掌六手(像高43・)で、三面に配された猿の像高は13・である。右側面に地銘と「奉勧請庚申塔供養」、左側面に年銘が刻まれている。

 堀之内の保井寺には、庚申塔が二基ある。次の8は、かつて路傍にあった八王子市内最古の庚申塔が境内に移されている。前には北向きでいつも逆光に悩まされたが、南向きに変わって置かれたので写真が撮りやすい。
  7 文政3 自然石 「庚申供養塔」               93×58
  8 延宝9 光背型 日月・青面金剛・三猿            76×408は、剣と索を持つ二手像で、像高が31・、正面向きの三猿が13・の高である。
無縁墓地には、寛正五年の月待板碑が無造作に置かれている。上部に日月、蓮台のある月輪の中に「キリーク」、横に「月待」とあって、「寛正五年八月廾三日」の年銘、下部に三具足、年銘の両脇に施主銘が刻まれている。縣さんが採った拓本をいただく。
 時間の都合で堀ノ内・阿弥陀堂にある寛政九年の双体道祖神や天明三年の融通念佛塔などは省略して、引切の堀之内信号付近にある
  9 享保10 板駒型 日月・青面金剛・三猿            56×30をみる。合掌六手の青面金剛で(像高27・)、上方手に矛と宝輪をとる。猿は7・。

 堀之内にあった庚申塔がなくなったというので、探しているうちに思いかけずに天野の神社境内で長禄三年二月日の伊奈石板碑(46×18・)をみつける。上部に弥陀三尊種子を刻み、右側に「道阿弥」の施主銘がある。結局、一座銘の庚申塔は見当たらなかっが、その代わり伊奈石板碑の収穫があった。

 堀之内のバス停付近で安政四年の「堅牢地神塔」(65×28×25・)をみてから、大塚観音にいき、六観音をみてから
 10 正徳1 笠付型 青面金剛・三猿               65×29×23を調べる。主尊は、日月を捧げる合掌六手像(像高34・)で三面に猿(像高18・)を配する。右側面に「奉造立庚申供養諸願成就」の銘がある。観音堂の周りには、観音像を陰刻する石碑がみられる。
最後は大塚・八幡神社を訪ね
  11 昭和61 笠付型 日月・青面金剛               55×28×26
  12 天明2 笠付型 日月・青面金剛・三猿            52×24×18
  13 宝永7 笠付型 日月・青面金剛               53×24×21
の三基をみる。三基いずれも日月を捧げる青面金剛を主尊としている。11は、像高36・で裏面に「昭和六十一年四月吉日 氏子中」とあり、恐らく13の再建塔とみられる。12は、像高41・で、右側面に「奉造立庚申供養塔」とあり、猿(像高11・)は台石にある。13は、像高35・で、右側面に「奉建立庚申講之結衆」とある。

 この八幡神社で解散、犬飼康祐さんは一人で堀之内の庚申塔を探すというので別れ、聖跡桜丘と多摩センター行きとに二手で帰途につく。
              〔初出〕『平成九年の石佛巡り』(ともしび会 平成9年刊)所収
〔付 記〕
文中で「日月を捧げる合掌六手像」というのは、「万歳型」の像を指す。ここでは「日月を捧げる典型的なH型合掌六手像」の表現を使わなかったが、これも「万歳型」のことである。
古谷本郷の八手青面金剛

 平成十二年九月十五日(金曜日)は、川越市古谷本郷・古尾谷八幡神社で行われるほろかけ祭りに行く。西武新宿線の本川越駅前から乗車した西武バスを「聖地霊園入口」のバス停で下車して古谷八幡通りを八幡神社に向かう途中、右手に墓地がみえる。先を急いでいたので、墓地によらずに祭りに直行する。

 祭りが終わってから、何となく気になっていたので、帰り道の途中で墓地による。裏口から入って前に廻ると、古谷本郷上公民館前の西側に石佛が並んでいる。後列の右端に
 1 寛延4 駒 型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿      100×42×23があり、三面の馬頭観音を間に挟んで
 2 天和3 板駒型 三猿                     61×28と、ここには二基の庚申塔がみられる。
 1は、胸前の第一手に剣と人身、上部の第二手に月天と日天を捧げ、横の第三手に矛と宝輪、下部の第四手に矢と弓を持つ剣人八手の青面金剛立像(像高60・)、足下に鬼、その横に雌雄の鶏、下部に三猿(像高12・)を浮き彫りする。右側面に「寛延四辛未歳十月吉日」の年銘、左側面に「武州入間郡」とあり、その下に村名が刻まれているが、隣の石佛が邪魔していて判読できない。
 2は、主銘が刻まれずに下部に三猿(像高14・)が浮き彫りされた塔で、右端に「天和三乙亥年」、左端に「十一月十四日」、下部に一二人の施主銘が彫られている。

 多摩地方には、俗に「万歳型」と呼んでいる合掌六手の青面金剛がある。万歳型の青面金剛は、胸前の二手が合掌し、上部の二手が日天と月天を捧げ、下部の二手が弓と矢を執る。多摩地方の場合には、どちらかといえばこの種の像の分布が南多摩に多く、多摩川以北は稀である。東京区部や神奈川県内にもみられる。

 今回、古谷本郷でみたのは、通常の剣人六手像に日天と月天を捧げた二手を加えた八手像であるといえる。これまでみた剣人像では、六手像を含めて日天と月天を捧げたものを知らない。こうした日天と月天を捧げる八手像、しかも胸前の二手が剣と人身を持つとなると、「万歳型」と呼んでよいものか、迷うところである。ここでは、これまでの「万歳型」と区別する意味で、仮に「万歳型剣人八手」と名付けておこう。

 いずれにしても、こうした新種の八手青面金剛(万歳型剣人八手)が存在するのだから、これからも同種の像が発見される可能性がある。また、他にも合掌八手の万歳型があるのかどうかも気にかかる。特に、古谷本郷の周辺を調査する必要があろう。
           〔初出〕『平成十二年の石佛巡り』(多摩野佛研究会 平成12年刊)所収
岩槻を歩く   多摩石仏の会三月例会

 平成十三年三月十一日(日曜日)は、多摩石仏の会三月例会である。東武野田線東岩槻駅に午前九時三〇分集合、中山正義さんの案内で岩槻市内をまわる。集まったのは、縣敏夫さん・犬飼康祐さん・加地勝さん・鈴木俊夫さん・多田治昭さん・萩原清高さんの私を加えて総勢八人である。本来ならば、この日は岩槻・民文センターを予定してたので参加できないが、たまたま中山さんが岩槻市内を案内するというので午前中の参加になる。

 五線九時一九分に東岩槻駅をおりて改札口前、といっても駅の外に出ると、加地さんと萩原さんの二人、少し離れて縣さんがいる。待っていると鈴木さん、次いで多田さんが来て、犬飼さんはすでに今回の第一見学場所で待っていると、鈴木さんがいう。中山さんが定刻を過ぎて自転車で現れれ、コース案内「春日部・岩槻の市境を歩く」と地図、それに加えて「岩槻型青面金剛一覧表」を配付される。

 皆が揃ったところで、犬飼さんが待つ南平野・稲荷神社を訪ねる。神社は西福寺の隣にあり、地境に庚申塔が並んでいる。向かって右(富士塚側)から
 1 明治4 柱状型 日月「猿田彦大神」三猿(像高15・)    103×41×41
  2 弘化2 柱状型 日月「庚申塔」               72×29×25
  3 寛政12 板駒型 日月・青面金剛・一鬼            63×31
  4 元禄4 笠付型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿(像高13・)90×36×35
  5 文化9 柱状型 日月「青面金剛」三猿(像高12・)      86×34×24
  6 享保14 笠付型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿(像高16・)17×49×51
  7 文政11 柱状型 日月「庚申塔」三猿(像高11・)       93×39×39
  8 享和4 柱状型 日月「青面金剛」三猿(像高11・)     105×40×40
  9 文政6 柱状型 日月「猿田彦大神」三猿(像高8・)    103×39×39
  10 安永5 笠付型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿(像高7・)91×39×41
  11 享保8 笠付型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿(像高15・)109×48×26
  12 明和5 駒 型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿(像高14・)95×43×30
 3は剣人六手(像高50・)、4は合掌六手(像高41・)、6は合掌六手(像高62・)、10は剣人六手(像高54・)、11は合掌六手(像高49・)、12は剣人六手(像高47・)である。この中の4と11は、中山さんがいう所謂「岩槻型青面金剛」で、先の「岩槻型青面金剛一覧表」に載っている。

 岩槻型の特徴は、合掌六手であって人身を持つものといったらよいであろう。通常みられる合掌六手には、他の四手のいずれにも人身を持たない。岩槻型は、A型(上方手に剣人、下方手に弓矢)が基本型で、B型は矢が二本のもの、上方手や下方手の持物の位置が逆になったC型とD型がある。その他に中央手が合掌で、他の一手に人身を持つが、斧・矛・輪・弓矢・剣・幢・蛇などを持つE型・F型・G型・H型・I型・J型・K型の変形がみられる。

 中山さんの調査では、大宮市文化財調査報告第二六集『大宮の庚申塔』(平成1年刊)に報告された一基(大宮市本郷町路傍の元禄十二年塔)を含めて、現在までに七一基がある。すでに『野仏』第一九集(多摩石仏の会 昭和63年刊)には、五七基を記載した「岩槻型青面金剛について」を発表されているから、参照されるとよいだろう。ただしこの論考には、上方手に矢と弓、下方手に斧と人身のK型(春日部市大池畦の正徳四年塔)が抜けている。

 岩槻型の初発は、岩槻市加倉・浄国寺の元禄元年塔で、翌二年には白岡町と岩槻市に各一基、大宮市に二基の計四基が造立されている。以上の塔はいずれも基本型のA型で、翌三年に矢が一本増えたB型が岩槻市に現れる。他の型ではC型は元禄八年、E型は元禄十五年、I型・K型・F型の二型が正徳四年、D型が享保三年、G型が享保四年、H型が享保十三年、J型が享保十四年が初発である。

 造立年代を分析すると、初発が岩槻市の元禄元年で最新も同市の享保十九年塔である。この間の元号別の塔数は、元禄年間が二八基(三九・四%)、宝永年間が六基(八・五%)、正徳年間が一三基(一八・三%)、享保年間が二四基(三三・八%)の計七一基となる。
 分布は、岩槻型の名称が示すように、岩槻市が三九基(五四・九%)と半数を越す。次いで大宮市の一二基(一六・九%)、浦和市の五基(七・〇%)、春日部・越谷・蓮田の三市が各四基(五・六%)、白岡町が三基(四・二%)である。岩槻市を中心として隣接する五市一町に及んでいる。

 稲荷神社境内にある一二基については、銘文を記録しなかった。ここに一三基があると聞いていたので、もう一基はどこかと尋ねると、小屋と冨士塚の間に、次の塔がたっている。この塔の銘文も前記一二基と共に記録していない。
  13 安政5 柱状型 日月「庚申塔」三猿(像高13・)      102×42×43

 南平野から花積の墓地に向かう。高台にある墓地には、正面に「虚空蔵菩薩」、他の三面に四体ずつの名称を刻む笠付型の十三佛墓石がみられる。十三佛の板碑型や石塔はみているが、こうした墓石は初めてである。
 墓地の隣には東西寺があり、境内に天神二基の間に挟まって次の二基がある。
  14 文化14 柱状型 日月・青面金剛・一鬼・三猿         91×37×32
  15 延宝7 板駒型 日月「奉供養庚申為二世安楽」三猿     113×46
 14は、剣人六手像(像高54・)を主尊とし、下部に三猿(像高9・)がある。右側面には「文化十四丁卯年四月吉日」、左側面には「武州埼玉郷元太田庄/岩槻領/花積村/蛭田村/講中」の銘がみられる。
 15は、上部に日月、中央に主銘の「奉供養庚申為二世安楽」、その左右に「延宝七己未天」と「二月十日」の年銘、下部に正面向きの三猿(像高20・)の浮き彫りがある。

 向かって左端にある天保九年石祠には、正面に梅花の枝を添えた菅公坐像を浮き彫りする。この石祠の写真は、庚申懇話会編の『日本石仏事典』二三四頁に載っている。左端にある自然石の天神は、唐服をきて梅枝を持つ渡唐天神の天保六年陰刻像である。これも同じ頁に紹介されている。

 午後からは一時三〇分に開演する民文センターの民俗芸能公演があるので、〇時一〇分に皆と別れて東岩槻駅に向かう。
房総石造文化財研究会

 平成十三年五月十二日(土曜日)は、千葉市の県立中央博物館を訪ねる。そこで房総石造文化財研究会の総会が開催され、午後からの総会記念講演で私が「青面二手とホームページ」について話す。すでにレジメ一枚と付属資料A4判一〇枚が用意されている。
 配付したレジメは、次の通りである。
  青面2手とホームページ
  1 青面2手を追う
   きっかけ 東京都町田市相原町 大戸観音の2手像
        『三多摩庚申塔資料』(私家版 昭和40年刊)では「地蔵」と表記
        「三多摩庚申塔資料追録」(昭和42年刊)で「青面金剛」に訂正
          清水長明 『相模道神図誌』 波多野書店 昭和40年刊
   都内の2手青面 昭和51年の多摩石仏の会の6月杉並見学会(『庚申』72号参照)
   まとめ第1弾  『石仏研究ハンドブック』(雄山閣出版 昭和60年刊
   多摩地方の2手 『庚申』93号「仙川・入間行」(庚申懇話会 昭和62年刊)
            『多摩庚申塔夜話』(庚申資料刊行会 平成9年刊)
   年表と分布   『庚申塔とホームページ』所収24〜32頁の改訂版(資料参照)
  2 青面2手を歩く
   「続桂川行」 『庚申』51号「庚申日録抄」(庚申懇話会 昭和43年刊)
   「寸沢嵐行」 『庚申』53号「続・庚申日録抄」(庚申懇話会 昭和43年刊)
   「鳥屋調査行」『庚申』53号「続・庚申日録抄」(庚申懇話会 昭和43年刊)
   「神奈川県津久井郡津久井町見学記」『野仏』16集(多摩石仏の会 昭和61年刊)
   「鳥屋を歩く」『平成九年の石仏巡り』(ともしび会 平成9年刊)
  3 ホームページの話
   きっかけ 国会図書館の蔵書検索 庚申の件名 145件 庚申塔76件
        都立図書館の蔵書検索 庚申塔68件
   日本テレビ  「ぶらり途中下車の旅」→淀橋庚申堂(資料参照)『庚申』 112号
   検索エンジン 私立PDD図書館に注目する(東覚寺の庚申塔)→千代田区
   リ ン ク  日本石仏協会→MURAhどん→道標おやじ(石仏漫歩)
  4 各種の検索エンジン
   exite       http;//www.excite.co.jp/
   フレッシュアイ     http;//www.fresheye.com/
   goo         http;//www.goo.ne.jp/
   google      http;//www.google.com/
   infoseek    http;//www.infoseek.co/jp/
   OCN navi    http;//navi.ocn.co.jp/
   MSNサーチ      http;//www.msn.co.jp/
   LYCOS       http;//www.lycos.co.jp/
   yahoo!      http;//www.yahoo.co.jp/
   検索のテクニック   演算子の使用
          〔参考文献〕 別冊宝島編集部『もっと使える! インターネット検索術』
                           (宝島新書 宝島社 平成12年刊)

 これに「全国二手青面金剛年表」二枚、岩槻型と万歳型の写真コピー一枚、「淀橋庚申堂」二枚、「二手青面の年表と分布」五枚(いずれもA4判)の参考資料を添えた。

 話は、顔を合わせての機会だから、先に発行した『二手青面金剛を追う』と『庚申塔とホームページ』(共に庚申資料刊行会 平成13年刊)にとらわれず、むしろ、それ以外の裏話やその本に書かなかった話題、後日談を中心とする。先ずレジメに沿って「青面2手を追う」から始める。
 二手青面金剛は、すでに昭和三十七年に檜原村、翌三十八年には八王子市や三鷹市で調べている。しかし、二手青面金剛を特に意識したのは、昭和四十年に町田市相原町の寛文十年塔に接してからである。当初はその塔の主尊を青面金剛と気づかずに、『三多摩庚申塔資料』「追録」(私家版 昭和40年刊)に「地蔵」と記した。ところが、清水長明さんのご教示で、地蔵ではなくて青面金剛であることがわかった。
 清水さんの『相模道神図誌』(波多野書店 昭和40年刊)には、神奈川県の愛川町にある寛文八年塔があり、それが町田の祖形であるとし、同町に一基と同県津久井町に二基に同様の二手青面金剛がみられる。町田の青面金剛は、その系譜であることがわかる。
 その後『庚申』72号(庚申懇話会 昭和51年刊)に「二手青面の系譜」を発表し、これが元になって『石仏研究ハンドブック』(雄山閣出版 昭和60年刊)で分担執筆した「二手青面の系譜」に発展した。さらに『庚申』93号(庚申懇話会 昭和62年刊)の「仙川・入間行)を、『多摩庚申塔夜話』(庚申資料刊行会 平成9年刊)の「二手の青面金剛」でふれている。

 ここまでは私がみた二手青面金剛を中心としたが、全国的はどうかということで参考資料として「全国二手青面金剛年表」と「二手青面の年表と分布」で補った。今回の会に参加された中山正義さんからは、開会前に年表に漏れた次の塔を教えていただいた。
   ・寛文12 板碑型 日天・青面金剛・一鬼・三猿  千葉県富津市青木 浄信寺
   ・延宝4 光背型 日月・青面金剛・二鶏・二猿  群馬県太田市丸山 丸山薬師
 二手青面金剛に関連して、岩槻市を中心とするいわゆる「岩槻型」の六手像と多摩川南岸に分布する「万歳型」六手像と八手像のを例に、二手青面金剛に限らず、六手像においても地方色の濃い造像がなされていることを話す。

 会場では、坊主頭の青面金剛が静岡にみられると簡単に話したが、その青面金剛は荒井広祐さんが「御殿場庚申像」と呼ぶもので、庚申懇話会編『石仏の旅 東日本編』(雄山閣出版 昭和51年刊)の「箱根裏街道を行く」に記されている。御殿場・庚申寺の御札を模した青面金剛刻像塔の写真が二三二頁にみられる。この青面金剛は、頭が螺髪で丸く、両手を法衣の下に入れ、蓮華座に坐って火焔を背負っている。この塔の他にも、長野県諏訪郡富士見町に線刻像があるという。
 次の「青面2手を歩く」では、私が実際に訪ねた刻像塔を順に、これまで発表したものを列記した。『庚申』に載せた「続桂川行」「寸沢嵐行」「鳥屋調査行」・庚申日録抄」の三つは、『二手青面金剛を追う』の中で紹介している。「神奈川県津久井郡津久井町見学記」(多摩石仏の会『野仏』第一六集)と「鳥屋を歩く」(『平成九年の石佛巡り』)は、共に津久井町の二手青面金剛を扱い、後者は新しく発見した貞享三年塔にふれる。鳥屋・馬石と関・光明寺墓地の塔については、サービス判の塔全体と二L判の像中心のものの写真二枚を貼ったシートを会場で回覧した。

 二手青面金剛の話を終えて、後半はホームページの話に移る。会場には吉村光敏さんが事前にパソコンが用意され、画面をスクリーンに投影できるから、話に合わせて関連するホームページを映写していただく。
 私がホームページを研究や調査に利用できると判断したのは、国会図書館や都立図書館の蔵書が羂索できることからである。スクリーンに国会図書館のホームページを映写していただき、実際に「庚申塔」の書名索引と「庚申」の件名索引を実演していただく。

 次いできっかけになった日本テレビのホームページから、新宿・淀橋庚申堂をみつけたエピソードを披露する。本来ならば『庚申塔とホームページ』に載せるべきであっが、すでに庚申懇話会の『庚申』に投稿(五月一日発行の第一一二号に掲載)していたので「あとがき」で簡単にふれた。

 次いで私立PDD図書館のホームページを呼び出して映写、東覚寺の庚申塔の頁からリンクして千代田区二番町・心法寺にある青面金剛に接続した。これまで千代田区には、秋葉原駅近くの須多町・柳森稲荷の正徳五年塔一基だけというのが定説であった。それがホームページによって覆された。

 吉村さんは、終了後にデーターベースや地図ソフトの実演と解説をおこなわことになっていた。そこで地図ソフトを使って心法寺の所在地をスクリーンに投射して、どのような場所にあるかを示された。これからは、所在地の表記に地図ソフトの利用を考える必要がある。また地図ソフトの利点として、東経・北緯の緯度と経度が表示される点がある。
 街区番号が明らかな新町名表示が行き届いて場所では、所在地の表示がしやすいが、山の中とか河原などの所在地となると、表示が曖昧になる。その点で緯度と経度で示せば都合がようだろうし、確度の高い目標になる。

 続いて、二手青面金剛に関連したホームページの接続例として、日本石仏協会の旧ホームページから出席されていた中村さんのMURAhどんのホームページにリンクして、二手青面金剛の写真を呼び出す。さらにここからリンクし、吉村さんの石仏漫歩のホームページに行って、二手青面金剛の一覧表をスクリーンに映写する。

 ここまではレジメの通りに進んだが、その後は塔型分類やデーターベースに話題が広がり、最後に参考文献を挙げて講演を終えた。その点では、レジメに各種の検索エンジンを載っておいたから、これを利用してその違いを知っていただきたかったこと、また検索に当たって演算子の利用についてもう少し説明すべきではなかったか、と反省している。ともかく、和気あいあいの中で話ができた。

   〔付 記〕
後日、『日本石仏図典』(国書刊行会 昭和61年刊)をみていたら、静岡県駿東郡小山町奈良橋に寛文元年の二手青面金剛に気付いた。
念のために『青面金剛と庚申信仰』(町田市立博物館 平成7年刊)掲載の清水長明さんの「青面金剛像と石造遺物」に当たってたら
静岡県駿東郡小山町藤曲奈良橋の戸は光背型。上部に日月の陰刻、相貌は柔和で右手に剣、左手に棒のようなものを持つ。足もとの両側には片足を上げた合掌の猿が向かい合う。基部は∧の線刻を横に連続した簡略な蓮座である。左側面に「寛文元辛丑念十一月二日願主道□」とある。(九一頁)
と記されている。写真は『日本石仏図典』の九五頁に載っている。
浦和東部を歩く   日本石仏協会見学会

 平成十三年五月二十七日(日曜日)は、日本石仏協会見学会である。午前一〇時、JR京浜東北線北浦和駅東口に集合、野口進さんが案内に当たる。小雨の中を集まったのは総勢二二名、先ずは駅前のバス乗り場に向かう。

 東武バスに乗車、終点の市立病院で降車する。向かったのが第一見学場所である市立郷土博物館、入口で案内の野口さんからコース説明があり、順序が逆になったが大津和弘さんの挨拶と案内者の紹介がある。博物館の建物は、明治十一年に建てられた埼玉師範学校の校舎「鳳翔閣」を復元したものである。

 館内で最初にみたのが板碑、直に実物に対面できるのが嬉しい。文明十七年の双式月待板碑(86×29・と100×37・)、弥勒二年の私年号板碑(87×32・)、大永二年の月待板碑(96×36・)の(合併前の)浦和市指定有形文化財である三基に興味がある。文明板碑は勢至菩薩像(像高27・と29・)を陰刻するもので、上部に日月・天蓋があり、「月待供養皈命月天子本地大勢至/為度衆生故普照四天下」の名を刻む。
 私年号板碑は、永正四年を示す「弥勒二年□正月十六日」の年銘がある。案内のレジメに「他に市内には福徳年号の板碑三基あり」と記されている。青梅市内にも福徳の私年号板碑がみられるが、弥勒はない。大永の月待板碑は、上部に日月・天蓋があり、十三佛種子を主尊として「奉月待供養」の銘がある。「妙正尼」や「道観禅門」、「彦三郎」などの施主銘一四人の施主銘がみられる。

 館内の展示物では、二階にみられる五関の張り子に興味がある。現在では作られていないが、木型とそれで作った張り子が並んでいる。その中では、どうしても達磨の木型を注目してしまう。館外には、護摩供養塔た足立不動一番の標石が並んでいる。

 次に訪ねたのは、馬場二丁目の路傍にある「奉供養念佛講二世安楽攸」の銘がある光背型塔に浮彫りされた地蔵菩薩である。台座には、女性銘の「於定」などの一六人と「三衛門」など三人の施主銘がみられる。
 次いで三室堂(観音堂 馬場二丁目)に行き、境内にある
 1 宝暦5 駒 型 日月・青面金剛・一鬼・三猿         99×41×26をみる。主尊は合掌六手立像(像高52・)で、下部に三猿(像高12・)を浮彫りする。右側面に「宝暦五乙亥二月吉日」、左側面に「三室村講中拾貮人」の銘がある。

 ここから昼食を用意してきた方は氷川女体神社(宮本二丁目)へ直行、持ってこなった人は地元・長島誠さんの案内でセブンイレブンで弁当や飲み物を購入する。神社で先着の方と合流して昼食をとる。食後、境内を廻ると伊勢太々講の碑が建ている。

 午後は、三室・松の木にある地蔵堂から見学が再開される。境内には、台石に「他力本願供養/信州善光寺如来四拾八度」と刻まれた阿弥陀如来丸彫り立像がある。普通、善光寺如来は光背のある三尊形式で造られるが、台座を含めて単なる阿弥陀如来である。

 その次が今回の目玉である三室・南宿の赤山街道沿いにある
  2 寛保2 笠付型 日月・青面金剛・二鬼・三猿・二童子・四薬叉112×42×41である。今回の案内の表紙写真も、この塔の中央部を撮ったものを載せている。
 主尊は二鬼上に立つ剣人六手立像(像高44・)で、両横に童子(像高29・)を配し、下に四薬叉(像高24・)がいる。三猿(像高19・)は、台石に浮彫りされる。

 ここへ来る前に、梶川賢二さんから二童子と四薬叉の名を聞かれる。童子は右方童子と左方童子、四薬叉は色で呼んでおり、『佛像図彙』や『日本石仏図典』に載っていると答える。図典では、両項目とも私が担当した。それを引用すると
   庚申塔〈13〉四薬叉 よんやしゃ
    青面金剛の従者である赤・黄・白・黒の四薬叉神をいう。この薬叉は、単独では登場せず、
   必ず青面金剛に伴われるものである。多くの掛軸や御影に見られるが、青面金剛を刻む庚申塔
   ではほとんど省略される。
    像容は刀を持つ赤、索をとる黄、□を持つ白、叉をとる黒の恐ろしい、手足の爪が長く鋭い
   四薬叉である。『大青面金剛呪法』に記す。『佛像図彙』には、四句文刹鬼として、右手に三
   叉戟をとる赤色、左手に三叉戟をとる青色、右手に刀を建てる黒色、右手に刀・左手に三羽の
   小鳥をとる肉色の四夜叉神を描く。
    庚申塔に刻まれた薬叉石像は、様相がまちまちで、持物も一定していない。東京都板橋区板
   橋東光寺の寛文二年(一六六二)塔では、刀と棒・棒・索・刀・矛をとり、埼玉県浦和市広ヶ
   谷戸の寛文四年塔では、長刀・ショケラ・矛・長刀と矢・刀の持物である。〔石川〕
   庚申塔〈14〉右方童子・左方童子 うほうどうじ・さほうどうじ
    庚申塔の主尊に刻まれた青面金剛の左右にある脇侍の童子をいう。『大青面金剛呪法』に「
   その像の左右両辺に、おのおの一人の青衣の童子を作る。髪髻を揚げ巻きにし、手には香炉を
   持つ」とあり、両童子が同形と考えられる。『佛像図彙』には、柄香炉を持つ右方童子と拱手
   の左方童子が図示されている。
    多くの掛軸や御影には、右肩・左方の両童子が描かれているが、刻像塔では省略される。石
   像では、図彙通りのものと合掌や宝珠を執るものがある。多くは童子の刻像が稚拙なたまには
   っきりしない。千葉県検見川町・善勝寺の安静七年(一八六〇)文字塔には、像の代わりに「
   右方童子」「左方童子」と刻まれ、長野県伊那市南福には、自然石の「右方童子」塔と「左方
   童子」塔に二基が見られる。〔石川〕
と、共に同書の一〇一頁に載っている。

 時間の関係で、後で廻る予定の中尾の吉祥寺に向かう途中で
  3 寛政2 柱状型 「奉建立庚申二世安楽」           52×21×15に出会う。レジメには紹介されていない塔で、折れた部分をセメントで繋いでいる。

 吉祥寺では、先ず住職の墓地を訪ねて、大振りな弥陀定印の丸彫り坐像をみる。この墓地には、弥陀三尊種子を薬研彫りする板碑型墓碑や合掌地蔵を浮彫り板碑型墓碑を始め、野口さんが指摘されるように、いろいろな塔形の墓石がみられる。
 本堂と山門の間の参道沿いに文政四年の徳本念佛塔があり、右側面に「血気てし無情の小音する時は 臆病風が吹いて来るそよ」の短歌を刻む。反対側には、「念佛百億萬遍供養塔」と刻む異形の宝筐印塔がある。享保十六年の造立。その裏側には、宝暦二年の三面六手の馬頭観音立像がみられる。

 続いて元は吉祥寺の末寺で、現在は廃寺のために駒形公会堂となったお堂を訪ねる。堂内には、十六日念佛供養板碑が安置されている。市の有形文化財に指定された板碑は、表面にガラスが入った木箱に納められている。永正十五年戊寅十一月十六日に造立された来迎の弥陀画像板碑で、「奉十六日念佛供養一結衆」の銘が珍しものである。暗いので入口まで運んで写真を撮るが、ガラスが反射して上手く撮れそうにもない。

 通りがかりにみて、公会堂から大間木に通じる赤山街道に向かう途中で
  4 延享1 笠付型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿      87×39×26をみる。主尊は中央手に人身と宝鈴を持つ六手の青面金剛立像(像高48・)で、珍しい持物である。下部には、一鬼・二鶏・三猿(像高9・)がみられる。右側面に「延享改元龍集甲子仲冬吉日」、左側面に「ウーン 奉造立庚申供養塔 講中 中尾村男女四十六人」の銘がある。

 大間木・会ノ谷の赤山街道路傍には、次の庚申塔二基が並んでいる。
  5 元文5 笠付型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿      92×36×33
  6 寛保3 笠付型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿      88×34×29
 向かって右にある5は、合掌六手立像(像高49・)主尊とし、下部に三猿(像高12・)がある。右側面の中央に「奉建立青面金剛童子二世安楽之所」とあり、年銘をその左右に「元文五庚申歳」と「十一月吉日」と二行に記す。左側面は、上部に「庚申供養塔」とあり、その下に二行に「武州足立郡見沼領」と「大間木村講中廾七人」とある。

 7は、先刻みてきた延享元年塔と同じ中央手に人身と宝鈴を持つ主尊(像高50・)で、下部に三猿(像高11・)がある。
 その先にある会ノ谷墓地では、寛文期の文殊菩薩像や六手如意輪観音像の浮彫り墓標石佛をみる。ここには、比較的彫りのよい石佛がみられる。墓地から大牧の清泰寺に向かう途中で、木が邪魔してわかりにくい、今回の予定になかった
  7 延享3 笠付型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿      90×35×23を誰かがみつける。気づかずに通り過ぎた私たちが呼び戻される。
 この塔も4や6と同様の持物を執る青面金剛(像高45・)で、下部に三猿(像高11・)が浮彫りされる。右側面に「奉造立庚申供養塔」、右側面に「延享三丙寅天二月吉祥日 講中拾四人」の銘文。

 このように三基続けて同じ持物、それも中央手に人身と宝鈴を持つ六手像をみると、先日、房総石造文化財研究会で「二手青面とホームページ」で二手および六手のローカルな青面金剛を話したのを思い出す。この形式も一種のローカル像である。この系譜を辿るもの面白いだろう。そんなことを考えながら、清泰寺につく。
 清泰寺には、平成十一年五月二十三日(日)の庚申懇話会五月例会で、芦田正次郎さんに案内されて訪ねている。寺の入口には、六地蔵と並んで元禄九年の丸彫り地蔵がある。台石に「日待供養之所/大牧村施主歓喜/奉加百七十五人」とあり、日待供養塔であるのがわかる。その先の左手には、三百庚申の一部が並び、境内の三方向に続いている。その端の一基をみると
  8 年不明 駒 型 「庚申塔」                 54×28×19である。この塔とほぼ同形の庚申文字塔が、境内の三方を取り巻くように三五〇基ほどある。左側の中央には、元治元年に造立された板石型の「甲子供養塔」(85×55・)がみられる。年銘は、通常は見かけない表記の「干時元治改元歳在甲子冬至後四日建之」を刻んでいる。その甲子塔の横には
  9 万延1 自然石 「三百 庚申塔」              78×52があり、その先の木陰に隠れて親庚申の
  10 天明3 駒 型 日月・青面金剛・三猿            58×27×17がある。今回はうっかり写真を撮っただけで、主尊(像高35・)や三猿(像高8・)を注意してみなかった。家に帰ってから平成十一年の記録をみると「正面中央に主尊の鈴人身六手の青面金剛立像」とあり、写真には先の三基とは逆の持物である。
この日にもう一基、附島の氷川女体神社から東浦和駅に向かう途中の路傍で人鈴型青面金剛をみている。安永六年の日月・青面金剛・一鬼・三猿を浮彫りする笠付型塔(96×31×23・)で、同じ記録に「正面に鈴人六手の青面金剛」と記されている。
 そうしてみると、持物の左右が逆な像を加え、今回を含めてこれまでに五基の人鈴型塔を調べたことになる。これを造立年代順に並べてみると、次のようになる。
  ・ 寛保3 笠付型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿   大間木・赤山街道
  ・ 延享1 笠付型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿   中尾・駒形路傍
  ・ 延享3 笠付型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿   大牧一一一六路傍
  ・ 安永6 笠付型 日月・青面金剛・一鬼・三猿      大間木・路傍
  ・ 天明3 駒 型 日月・青面金剛・一鬼・三猿      大牧・清泰寺

 これらの塔は、ローカル的な存在といえるだろう。少なくとも、寛保年間から天明年間にかけて、大間木・中尾・大牧とその周辺で造立された青面金剛像にこの形式の持物の塔があるのではないか、そうした期待を持たせてくれる今回の成果である。
東所沢を歩く

 平成十三年五月二十九日(火曜日)は、午前一〇時五〇分にJR武蔵野線東所沢駅で下車、本郷・城・坂之下・亀ヶ谷・南長居・日比田などの柳瀬地区を、単独で午後六時過ぎまで歩く。

 多摩石仏の会の十二月の案内を担当しているが、まだ場所が決まっていない。一応、狭山市の西武新宿線入曽駅周辺を考えていたが、少しコースが物足りずしっくりしない。たまた先月二十八日(土曜日)に所沢市立中央図書館でみた『柳瀬の石仏』(松井公民館石佛学習会 平成1年刊)がヒントになって、東所沢を歩こうと考えた。
 『柳瀬の石仏』では、柳瀬地区のコースが二つに分けて載っている。一つは、本郷・城・坂之下の範囲で一五カ所を廻る。他の一つは、亀ヶ谷・南長居・日比田・新郷の二五カ所を挙げている。これの主な所を一日で廻ろうとするコースを考えた。

 東所沢駅を起点に先ず本郷を歩く。土地勘が全くない所で『柳瀬の石仏』の「柳瀬地区石仏マップ〔・〕(本郷・城・坂之下)」を基にして、コース順に廻る方針で歩きはじめる。最初は、地図を読み違え、東所沢駅通りを勘違いして東所沢和田に入り、どうもおかしいなと気づいて、武蔵野線との位置関係から軌道修正る。幸いなことに東福寺・氷川神社の道標をみつけ、それに導かれて進む。

 最初は「1本郷上組庚申塔」で、坂を下ってその塔の前を気づかずに通り過ぎる。たまたま庭仕事をしていた方に尋ねたところ、案内していただく。
 1 寛政12 駒 型 日月・青面金剛・二鶏            60×29×17の塔がそれである。狭い道の傍らに建っているので、以前、トラックに倒されたの起こしたこともある。セメントで固定してしまうと、車とぶつかった時に折れるので、下部を埋めておいたという。道路の工事が予定されているので、その時まで現状のままにしておくともいっている。
 この塔は、剣人六手の青面金剛(像高43・)を主尊とする。下部が埋まっているので、三猿は確認できない。右側面に「寛政十二庚申年二月吉日」の年銘、左側面に「上組講中二拾五人/世話人 宇右エ門/半左エ門」の施主銘が彫られている。所在地は本郷九一六−三・増田宅の東側路傍である。
 地図には、次に「2内山家馬頭観世音」と「3寺坂馬頭観世音」があるが見当たらず、次の「4東福寺石仏群」の東福寺を訪ねる。山門前に並ぶ石佛の中には
  2 弘化3 柱状型 「庚申塔」                 65×27×18が六地蔵や文字馬頭などと並んでいる。正面が主銘の「庚申塔」、右側面が「今夏三丙午四月吉日」の年銘、左側面が「入間郡本郷村/願主山下五兵エ治」の施主銘である。
 ここの石佛群の中には、享保三年の寒念佛塔がある。光背型塔(103×47・)に地蔵立像(像高77・)を浮彫りする。三山供養塔もみられる。

 墓地の入口に六面石幢(74×36×36・)があり、各面に一体ずつ地蔵を浮彫りする六地蔵である。錫杖と宝珠を執る地蔵立像(像高38・)の面には、像の右に「奉納日待供養」、右に「天和三癸亥年十月吉辰日」、像の下に「武州多摩郡/願主五十四人/本郷村敬白」の銘文を刻む。その手前に
  3 天和3 笠付型 青面金剛・三猿               71×27×17が並んでいる。主尊は青面金剛(像高30・)であるが、左右の手が上中下の三方向に伸びている。右手の上から鉾・矢・刀、左手は宝輪・弓・人身である。右手の下方手に執るのは、反りがあるので「刀」としたが、蛇の可能性もある。まだこの頃の青面金剛には、合掌六手や剣人六手以外の像がみられるから面白い。
 下部には、三猿(像高12・)が浮彫りされる。右側面に「奉納庚申供養悉地成就 同行七人/武州多摩郡本江村」、左側面に「天和三年亥十月吉祥日 敬白」とある。
 境内の不動堂の背後には、大日如来如来・不動明王・五大明王・不動三十六童子がみられる。今回このコースを選んだ理由の一つには、庚申塔もさることながら、不動三十六童子が目当てだった。
 予想もしていなかった石塔に、明治十年の「三十六童子供養塔」の主銘が刻まれて柱状型塔(78×31×25・)をみたことである。台石の三面には、施主銘が並んでいる。この塔の背後にも、丸彫りの立像や坐像の童子像が一八体みられる。制〓迦童子立像は、像高五二・で幅が二一・である。坐像の童子は、像高四〇・で幅が二五・である。これらは旧の三十六童子とみられ、立像と坐像とが混在している。それぞれには、年銘がないが供養塔と同じ明治十年の作であろう。

 それらと道を隔てた所には、造立の由来や大日如来や不動明王を含めた童子の配置図を示した黒御影の石塔がある。先の旧童子に対して、新しい三十六童子は、平成十一年四月五日に開眼供養された白御影の丸彫り立像である。回遊式のコースに配置されている。
 一体、こうした三十六童子の丸彫りは、何を基にして造像されたものか知りたいところである。参考までに「不動慧童子」の銘のある童子は像高六三・で幅が二三・、「善膩師童子」は像高六三・で幅が二三・である。
 童子の間に矜羯羅・制〓迦を伴う不動三尊がみられ、その上方に不動明王、別の場所に大日如来がある。不動明王(像高41×幅28・)は中央に置かれ、そのの右には、降三世明王(像高46×幅14・)と金剛夜叉明王(像高50×幅18・)、左には不動明王(像高46×幅22・)と軍荼利明王(像高50×幅19・)がある。五大明王にはしては、不動明王が重複し、大威徳明王が不足する。
 別の所にある大日如来は、宝冠をかぶり、法界定印を結ぶ胎蔵界・大日如来の丸彫り坐像(像高67×幅43・)である。台石には、年銘や世話人の名が刻まれている。明治十年の造立である。
 続いて訪ねた氷川神社には、天保二年の石鳥居や平成七年の狛犬、文化七年の石燈籠がみられる。拝殿の左横にある石祠は、三峰と稲荷の二基である。宝暦四年の石燈籠の竿石には三峰の銘がある。

 次の「5水神」の所在がわかるままに、「6放光王地蔵」の小祠を訪ねる。祠の中には、光背型塔に錫杖と宝珠を持つ正徳三年の地蔵が浮彫りされ、像の右に「放光王地蔵」の銘がみられる。地蔵の上にある奉納幕は、中央に卍があり、右に「放光王地蔵/いぼとり地蔵」、左に「平成五年九月十四日/願主世話人一同」とある。祠の前には、この地蔵の由来を記した昭和六十年に建てられた文字碑がみられる。

 武蔵野線のカードの下をくぐり、急な石段を登って城山神社で昼食をとる。ここは滝の城の跡である。境内を出ると空堀の跡がみられ、山城の遺構がわかる。「石仏マップ」のコースを外れたこともあって「7大峯大権現」と「8蔵王大権現・不動尊」に出会わず、通りに出て「9城山馬頭観世音」もみないで、真っ直ぐに進むと交差点がある。その先に、「12城庚申塔」の
  4 宝永2 板駒型 日月・青面金剛・一鬼・三猿        107×44が建っている。合掌六手立像の青面金剛(像高56・)が主尊、下部に三猿(像高14・)がある。像の右には「宝永二乙酉天霜月吉日」、左には「武州入間郡城村同行十二人」の銘文が刻まれている。

 庚申塔の後ろが城公民館で、左横に墓地入口がある。「11城共同墓地石仏群」で、入り口の左右に宝暦三年の六地蔵が三体ずつあり、台石に種子と地蔵名を記している。右側が予天賀・金剛願・放光王、左側が金剛幢・金剛悲・金剛宝の地蔵である。

 一旦、オリンピック道路方向に向かったが、思い返して逆の坂之上に向かう。途中で木祠に安置された「13塚越地蔵尊」をみてから、「14東光寺石仏群」の東光寺へいく。先ず境内にある
  5 安政6 板石型 「庚申塔」                219×62をみる。正面に「庚申塔」と四角の印二つ、横に「干時安政六己未年正月吉日」、裏面の上部に短歌「世之中は見聞き語るも/さし引の口のあけたて/心してせよ 珍了」、その下に「六庚供養 武州入間郡坂之下邨/化主現第十九珍了叟代/世ハ人両役頭」の銘文がある。

 本堂の左手の奥に金毘羅社があり、石段の右手に不動三尊がみられる。石段のを登った社殿の左に絵馬堂があって、正面に木製のプロペラがあり、堂内に大絵馬が掛けられている。小絵馬は絵馬堂の横側や裏側に打ちつけてある。長年の風雨で彩色が飛んで、僅かに拝みの姿がわかる程度である。石製の「大願成就」などとある額が眼をひく。堂内にいた男性に声をかけられ、社殿の彫り物が面白いと教わった。

 寺の先にある「15塩野家馬頭観世音」を省略して横道に入り、道を間違えて遠回りをして、先刻の城公民館に出てきた。オリンピック道路に出る途中にある「10富士仙元大菩薩」は、寛政三年の石燈籠で竿石に「富士仙元大菩薩」と刻まれている。

 柳瀬小学校の手前でオリンピック道路に入り、北上して進む。ここからは「柳瀬地区石仏マップ〔・〕(亀ケ谷・南永井・日比田・新郷)」を基にし、浦和所沢バイパスを右折して大正元年の「1南永井地蔵尊」を先ずみてから、南永井の交差点を目指す。
 交差点の東南角に覆い屋根があって、その下には「6窪野庚申塔」の次の二基がみられる。
  6 享保19 板駒型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿      78×36
  7 年不明 柱状型 青面金剛                  32×23×13
 6は、合掌六手の青面金剛(像高46・)で、下部に三猿(像高11・)がある。像の右に「享保十九甲寅年三月吉日」、左に「武州入間群南永井村講中十四人」の銘がある。
 7は、剣人型の青面金剛(像高21・)で、他の四手は不明である。像の右に「願主」、左に「左エ門」の文字が読めるだけで風化が甚だしい。

 交差点を越えた先、小道を少しばかり入った所にサツマイモ始作地の碑がみられる。その先で左折して進むと、八幡神社の前に出る。境内に入ると左手に「7八幡神社境内石碑」の一つ、板石型に「大黒尊天」その下に「大己尊命/小名彦命」と彫る文久4年塔がある。甲子年の甲子日に造立されているから、甲子塔としての建立であろう。

 「8南永井薬師堂石仏群」は、薬師堂から離れた神社境内の北西角に並ぶ。ここにある六地蔵は、法性・光明・法印・金剛願・宝性・地持と、先の城共同墓地でみた六地蔵とは異なる名称である。
 神社前の参道を南に通りに出ると、左右に幟を支える石があり、右手の手前に
  8 日月・ 板駒型 日月・青面金剛・三猿            70×33がある。主尊は青面金剛(像高32・)で、胸前の手が剣と索を持ち、後ろの左手を上げて矛を、右手を下げて蛇を執る四手像である。上部の日月は陰刻、下部の三猿(像高9・)は浮彫りである。像の右に「奉造立庚申養諸願成就野所 南永井村」、左に「元禄六癸酉天六月廾八日 敬白施主」、三猿の下に「慶心坊」を中央に置き、それを含めて「吉田吉之烝」など一六人の施主銘を刻む。

 と通りを西へ向かい、「10市川家馬頭観世音」を見逃して、稲荷社境内にある「11野沢家馬頭観世音」をみる。これは、寛政八年造立の三面六手立像である。ここにもう一基、御影の「獸魂之靈」と彫る柱状型塔(51×22×16・)がある。左側面に「昭和四十七年五月十一日/施主 野澤博太郎」の銘がある。
 覆い屋根の下にある「12浄水場前地蔵尊」を省略して先を急ぐと、右手の路傍に「13池田家馬頭観世音(新)」の昭和四十三年の文字塔がある。その先の右手路傍に「14池田家馬頭観世音(旧)」のかなり剥落の激しい馬頭観音像がみられ、その隣に「馬頭観世音」の黒御影文字塔(77×30×21・)がある。柱状型塔の左側面に「平成十一年二月再建/池田隆」の銘を彫る。

 大帖稲荷の境内には、「15大帖庚申塔」の
  9 天保9 柱状型 「青面金剛王」               72×28×28がある。正面が「青面金剛王」の文字塔である。右側面に「干時天保九年歳在春三月吉旦再建/當州入間郡南永井邨孝子/市川仁兵衛祐信継志」、左側面に「天下太平 寛政三亥年二月吉日/奉納四国板東秩父/国土安穏 市川仁兵衛祐政」、裏面に「文政十二年亥四月吉日/奉拝禮百番供養塔/市川孝左右門□□」とある。祖父と父の順拝塔を併せて再建した庚申塔と思われる。

 東福寺の三十六童子を調べている時に一時黒雲が広がって暗くなったり、八幡神社入口の庚申塔をみた時に小雨が降ったが直ぐ止んだ。しかし、ここで大雨に見舞われ、十数分の間雨宿りをする。雨が小降りになってのを機に、東所沢駅に向かう。駅までの途中で墓地にある「16日比田西原地蔵尊」、路傍にある文政十年の「17出羽三山供養塔」、境内にある心経塔の「18日比田薬師堂」をみる。「19向山地蔵尊(見沢家)」「20向山地蔵尊(野村家)「〓馬頭世観音・石橋供養塔」を見当たらないまま浦和所沢バイパスに出て、駅前通りを通って起点の東所沢駅に戻る。

 帰りは武蔵野線〜中央線〜青梅線と行きの逆コースで帰宅する。今回廻った地域の記憶がない。林志翁の百庚申巡礼記にふれていない地域だからかも知れない。不動三十六童子は収穫であったし、天和と元禄の青面金剛の手の位置や持物が参考になった。やはり、犬も歩けば石佛に当たり、思いがけない成果が挙がるものである。

   
あとがき
    今年五月に催された房総石造文化財研究会の総会で庚申塔について話したことから、思いが
   けず六手青面金剛の分類が気にかかるようにようになった。その後、同月に行われた日本石仏
   協会の見学会でさいたま市の浦和東部を歩き、「人鈴型」の合掌六手像に注意するようになっ
   た。中山正義さんがいう「岩槻型」、町田茂さんからいただいた報告書では「市原型」という
   べき新型を見つけた。そうしたことが重なって、本書をまとめるきっかとなった。

    これまでも「万歳型」に充分注意を払っていた。『青梅市の石仏』(青梅市郷土博物館 昭
   和49年刊)では、私が担当した「市内の庚申塔」の中で「万歳型」と書かなかったが、五七頁
   に「主として南多摩であるが、西多摩でも秋川筋に数基みられる型に、第一手が合掌し、第二
   手が日月をささげ、第三手に弓と矢を持つものがある」と記した。この型式こそ「万歳型」で
   ある。

    先に引用した文章に続けて「こうした型が市内ではみられない」と、青梅市内に分布がない
   と書いた。後になって三鷹の福井善通さんの教示で、この形式の青面金剛が市内黒沢の年不明
   塔一基を発見した思い出がある。

    今年七月に多摩地方を中心として『万歳型青面を追う』をまとめた。本書では、それに洩れ
   た「各地の万歳型」と「中山さんの改訂版」の二編を収録し、「古谷本郷の八手青面金剛」を
   参考のために重複記載した。多摩地方の万歳型についての詳細は、先の『万歳型青面を追う』
   を参照していただきたい。

    六手青面金剛の分類を見直す観点から、単に・合掌六手・・剣人六手・・その他の六手とい
   うような大雑把な分類ではならないと考え、改めて六手青面金剛を考え直す必要性を感じた。
   そこで、これまで書いた一連の文章から抜き出して構成したのが本書である。まだまだ全国各
   地には、ここで挙げた以外の六手青面金剛のタイプがみられると思う。本書が、そうした分類
   見直しのきっかけになれば幸いである。

                            ・・・・・・・・・・・・・・・・
                            六 手 青 面 を 考 え る
                             発行日 平成十三年十月十五日
                             著 者 石  川  博  司
                             発行者 庚申資料刊行会
                            〒1980083 青梅市本町一二〇
                            ・・・・・・・・・・・・・・・・
inserted by FC2 system