庚 申 塔 あ れ こ れ                        石 川 博 司

                
             目 次 ・・
                
               庚申塔入門 ・・・・・・・・・・・・・・・・・
               庚申塔の範囲の基準 ・・・・・・・・・
               庚申塔の形態 ・・・・・・・・・・・・・・・
               多摩地方の変わり型三猿 ・・・・・
               都内庚申塔の種々相 ・・・・・・・・
               南関東の庚申塔 ・・・・・・・・・・・・
               庚申塔年表を作ろう ・・・・・・・・・
               関東庚申層塔仮年表 ・・・・・・・・
               あ と が き ・・・・・・・・・・・・・・・
庚申塔入門
昭和55年は、60年に1度回ってくる庚申年であった。この年を期して、たとえば庚申堂の開張とか、庚申塚や庚申塔の新造、あるいは特別なお札の発行や今まで使っていた掛軸を塚に埋めて新調するなど、全国各地でいろいろな庚申の祭りが行なわれた。
 そうした行事の1つに庚申塔の造立があった。私の手元に集まった報告や資料を集計してみると、少なくとも昭和55年に立てられた庚申塔は、長野県の449基を筆頭に、新潟県の159基が続き静岡県の17基など、1都12県にわたって657基の多きを数える(『庚申』第89号)。報告の漏れなどを考慮すると、700基以上の造立があったと推測される。

 さらに横田甲一氏の報告によると、昭和56年には千葉県船橋市鈴身町や茨城県取手市米野井に庚申塔の造塔がみられる。また柴田寿彦氏の来信によれば、静岡県下で昭和56年には田方郡韮山町真如に、翌57年には富士宮市宝田北に庚申塔が立てられたという。このように庚申塔は、現代でも造立の見られる石塔である。現存最古の庚申塔は、埼玉県川口市領家・実相寺の文明三年(1471)銘の庚申板碑である、とされるから、現在までの500年以上の長期にわたって造塔がみられたことになる。

 このように長期間にわたって立てられ、そして昭和庚申年に多数の造塔があった庚申塔とは、一体何か、またどのような形態をしているのか、さらに長期間にどのような変化があったのかなど、ここでは庚申塔について簡単に述べよう。

     庚申塔の魅力
 見知らぬ土地を訪れた時に私は、時間の許す限り寺院や神社を廻る。市街化の進んだ所では、そうした場所に石仏が集められている確率が高いからである。そこで庚申塔を発見した時は、他人にとってそれがどんなにつまらない塔であっても、私には嬉しいのである。まして新しい発見があれば、何もいうことがない。それほどに私は、庚申塔に魅せられているのだろう。

 私が庚申塔に惹かれるのは、第1に北は北海道から南は鹿児島県に至るまで、沖縄県を除いて日本の各地で疎密の別はあるにしても分布がみられる点である。これは、身近かで庚申塔が見られるし、旅先などでも見る機会の多いことを意味する。道祖神、とりわけ双体道祖神は、姿態が変化に富むし地域性が現われていて面白い。その上に細かに調べるてみると謎の部分が多い。しかし庚申塔に比べると、分布している地域が限られ、どこでも見られるという訳にはいかない。

 第2に、主尊1つとってみても、後で述べるように多くの仏・菩薩などが登場し、実に変化に富んでいる。さらに主尊だけでなく、塔に刻まれた日月・鬼・鶏・童子・薬叉、とりわけ猿の姿態はさまざまなものがある。
 第3に、塔の形式が広範囲にわたる。通常みられる板碑型や光背型、笠付型などの墓石形の他に、五輪塔・宝筐印塔・層塔・石祠・石幢・灯篭などがあり、変ったものでは手洗鉢や鳥居がある。そのために庚申塔を理解するには、石造物全般に関する広範囲な知識が欠かせないのである。

 第4に、庚申塔は全国的に、しかも多量に分布しており、変化に富んでいるので思いがけない発見がある。今まで知られていなかった主尊や塔形の庚申塔が見付かる機会があるほど未知の部分が隠されている。つまり発見の楽しみがあるわけである。

 第5に、現存最古の文明3年(1471)板碑から現代まで、500年以上に造塔が続いているから、その間の変遷を追う楽しさがある。少なくなったとはいえ、まだ造塔に接する機会がある。現に千葉県鎌ケ谷市粟野では5年おきに、昭和60年に造立されたと聞いているし、船橋市鈴身町では10年おきに造塔されている。以上のような魅力は、庚申塔を見て歩かないと実感としてわからないかもしれない。実際に塔を見ていただきたい。

     庚申塔とは何か
 庚申塔は、庚申信仰の産物であることに間違いない。旧暦の場合は、通常の年では庚申のアタリ日(60日毎に回ってくる)が6回あるが、年によっては5回(5庚申)や7回(7庚申)のこともある。3年間に18回のアタリ日に庚申待を続けて行なうと、「一切ノ願望、此内ニ成就セヌト云う事ナシ・・・・」(大分県宇佐八幡蔵『庚申因縁記』)といわれ、三年一座(3年間に18回の庚申待を連続して行なう)を済ませて庚申供養のために石塔を造立した。この供養の石塔が庚申塔である。東京都豊島区高田・金乗院(目白不動)境内にある寛文8年塔に刻まれた「奉待庚申講一座二世安楽所」の銘文は、このことを示している。

 三年一座を済ませて庚申供養のために造立した石塔を「庚申塔」と定義付けるのはたやすい。また「庚申塔」とか「庚申供養塔」と刻まれた石塔ならば、庚申塔であるのがわかる。しかし各地にある数多くの庚申塔を実際に接してみると、これが「庚申塔」だと断言できない場合があるし、判定に迷う事例もでてくる。たとえば、地元の人達が庚申塔と呼んでいるけれども、何の銘文も刻まれていない自然石は、はたして庚申塔といえるだろうか。また庚申に関した銘文もなく、馬頭観音を主尊にした石塔を地元で庚申塔といっているから庚申塔にしてよいのだろうか。種子の「ウーン」1字だけを彫ったものはどうなのだろうか。

 山王廾一仏種子を刻んだ塔も、そうした1例である。埼玉県草加市稲荷町・慈尊院境内には、上部に山王廾一仏種子のある板碑型の文字塔が3基並んでいる。向かって右端のものは、寛永13年(1636)の建立で「奉果庚申待二世成就攸」と刻まれている。中央の正保4年(1647)塔と左端の承応元年(1652)塔には、右端にみられるような庚申に関した銘文はない。
 右端にある寛永の塔は、誰も問題なく庚申塔として認めている。しかし中央と左端の両塔は、はたして庚申塔とみなしてよいもかどうか、疑問の残るところである。

 庚申信仰イコール山王信仰であれば、そうした議論の余地がない。ところが両者は、密接な関連は持つものの、それぞれが相互に独立した信仰である。そこで庚申に関係する銘文がなく、山王廾一仏種子を刻んだ塔は、単独の山王信仰によるもか、それともそうした銘文はなくても庚申信仰と結びついて建立されたものか、見方のわかれる点である。そのどちらに判断するかによって、一方では庚申塔であるというし、他方では庚申塔と認められないということになる。
 山王の場合だけでなく、猿田彦大神を主尊にしたものは道祖神かどうかの問題が起こるし、他にも帝釈天ではどうか、などといろいろの事例にぶつかる。そうなると一体、庚申塔とは何なのか、について考えざるをえないだろう。そこで庚申塔の範囲をどの辺に置くかが問題になり、その線引きの基準が求められる。

 現在のところ残念ながら庚申塔の範囲を示す明確な基準はない。研究者の個々の判断にまかされているのが現状である。ここでは清水長輝氏が『庚申塔の研究』の中で示された範囲基準を土台に試案を述べよう。

 私の範囲基準というのは、(1)資格基準と(2)除外基準とに大別される。
 (1) 資格基準には、
      A 銘文基準
        庚申信仰によって建てたことを銘文に記してあるもの。
      B 青面金剛基準
        青面金剛の像か文字を刻んだもの。
      C 3猿基準
        塞目・塞耳・塞口の3猿か、その1部があって庚申以外の造塔目的を記していない
        もの。
      D 類似基準
        塞目・塞耳・塞口の3猿以外の猿でも塔の全体が他の庚申塔と類似するものや、日
        月や鶏などを伴なって、おおむね庚申信仰のために建てらたと推測されるもの。の4項目がある
 (2) 除外基準には
      E 造立目的基準
        施主が庚申講中であっても他の目的で造立したものは除く。
      F 奉納物基準
        庚申塔や庚申祠への奉納物を除く。
      G 伝承基準
        銘文がなく、単に庚申塔であるという伝承だけのものは除く。の3項目が挙げられる。
 庚申塔かどうかの判定は、資格基準の4項目のいずれかに該当し、除外基準の3項目のいずれにも触れないものを庚申塔とする。

     塔の移り変り
 庚申塔が建てられるようになったのは、前にも触れたように室町時代以降のことで、現存最古の塔は埼玉県川口市領家・実相寺の文明3年(1471)銘の庚申待板碑が挙げられる。江戸時代に入って庚申塔は各地で造立されたが、寛文年間からその数を増し、元禄年間には広く各地で多くの塔が建立された。庚申さまとして知られている青面金剛は、文字塔では天正19年(1591)に宮崎県西諸郡高原町広原で初出しているし、刻像では神奈川県高座郡寒川町下大曲・下大曲神社の承応2年(1653)塔が現在のところ最も古い。私が見た範囲で最も新しいのは、東京都武蔵野市緑町・延命寺境内にある昭和55年塔である。

 室町時代に始まった庚申塔の造立は、現在まで五百余年の歴史を有するが、その間に内容的にも外観上からも塔の変遷がみられる。清水長輝氏は、東京を中心として周辺を含めた場合の推移を4期に大別している(『庚申塔の研究』)。すなわち
   第1期  板碑時代    (室町ー桃山安土時代)
   第2期  混乱時代    (元和ー延宝年間)
   第3期  青面金剛時代  (天和ー天明年間)
   第4期  文字塔時代   (寛 政 以 降)である。関東地方の場合は、ほぼこのような傾向が認められる。しかし地域によってその区分年代にズレがあり、第1期が欠けるところがみられる。

 庚申懇話会の小花波平六氏は、清水長輝氏の区分を別の表現で次の4期にわけている。
   第1期  初期の庚申塔   文明〜文禄
   第2期  諸仏の庚申塔   慶長〜延宝
   第3期  青面金剛刻像塔  天和〜天明
   第4期  文字の庚申塔   寛政〜現代で、形式と主尊からみて、第1期を板碑・諸仏時代、第2期を諸型式・諸仏時代、第3期を諸型式・青面金剛時代、第4期を文字塔・主尊混淆時代としている(「庚申塔」『るるぶ別冊9』所収 昭和56年刊)。

 両氏の時代区分は、関東地方を中心とした見方であって、かなずしも各地で適用できるわけではない。たとえば佐賀県の場合には、第1期は庚申石幢時代というべきであるし、石幢・六地蔵時代といえる。また中世の庚申塔が発見されていない県では、板碑時代ではなくて、無塔時代というべきであろう。第2期に造立された塔がすべて文字塔の所では、前期文字塔時代、第4期を後期文字塔時代に区分する地域もあろう。さらに出現時期のズレがみられる。東京都西多摩地方では、第3期が元禄年間から始まる。山梨県北都留地方では、第1期が文明から万治までの無塔時代、第2期が寛文から享保までの庚申石祠・刻像塔併立時代、第3期が享保から天明までの青面金剛時代、第4期が寛政以降の文字塔時代である。

 このように地域を限ると、先の両氏による時代区分は、年代のズレがあったり、地域特性がみられて、必ずしも適切とはいいがたいけれども、庚申塔の大きな流れを見るのに目安にはなる。それぞれの地域の変遷を概観すると面白い。

     庚申塔の形態
 庚申塔を外観の上から分類すると、次の4つに大別できる。
   1 庚申板碑
   2 庚申石祠
   3 一般庚申塔
   4 特殊庚申塔
庚申板碑は、庚申供養のために建立された板碑をいい、庚申石祠は、石祠形式の庚申塔である。普通一般に見られるのが、一般庚申塔で、以上のいずれにも属さないのが、特殊庚申塔である。一般庚申塔は、さらに分類されるが、研究者によって違いがみられる。ここでは、『庚申』第54号(昭和44年)に発表した「庚申塔形分類」の9分類を示すことにする。

  1 板碑型
    正面を平にし、背面を舟底形にけずる。上部に額部を作り、中央は彫りくぼめて下部に前出
    をおく。この型のものも、細かく見ると特に額部に変化がある。江戸期の庚申塔としては、
    もっとも古い部類に属する。多くは文字塔で、時代の下ったものには、青面金剛を陽刻した
    塔がある。
  2 光背型
    板碑型に続く形式の塔で、如来の光背をかたどり、背面は板碑型と同様に舟底形である。一
    般には、阿弥陀如来・観音菩薩・地蔵菩薩などの主尊の塔が多い。
  3 板駒型
    板碑型と光背型との折衷した形式というべきもので、光背型の上部を将棋の駒のような形に
    している。背面は舟底形の荒けずり。青面金剛が刻まれるものが多い
  4 笠付型
    塔身の上に笠部を置いたもので、塔身の多くは、角柱であるが、円柱のものや板碑型の上部
    を切り取って笠を置いた形の塔がある。この型は、刻像塔と文字塔の両方にみられるけれど
    も、どちらかというと文字の塔が多い。笠部の変化から普通笠と唐破風笠とに区分できるし
    、また塔身からは角柱・円柱・その他に細分できる。
  5 駒 型
    将棋の駒の形をとっている。板駒型と異なる点は、背面が平で両側面も加工してある。板駒
    型より時代が下り、文字塔が多い。
  6 柱状型
    角柱型に扁平柱型や円柱型を含めた呼び名である。頭部の変化に応じて平角型・皿角型・山
    角型・丸角型などに下位分類される。末期の造塔に多い形式である。
  7 自然石
    自然の石を利用して像や文字を刻んだ塔である。角がとれて丸くなった河原石や片石をはが
    して平にしたものがみられる。東京周辺では末期に造立された「庚申」とか「庚申塔」と刻
    んだものが多いが、熊本では地蔵菩薩などの像を陽刻した初期の塔がある。
  8 丸 彫
    よく見られる地蔵菩薩のように、立体的に像を彫った形のものをいう。地蔵菩薩以外は少な
    く、青面金剛もその例である。
  9 雑 型
    これまで述べた一般庚申塔の板碑型から丸彫りまでに当はまらない形式を一括してこの分類
    とする。
 以上、ごく簡単に塔形の説明を述べたが、この分類は庚申塔を主体にしたもで、他の石仏にも応用できるが、庚申塔の研究者の間でもいろいろな分類が行われているし、呼び名も違いがある。たとえば、私が「板駒型」に区分する塔を「駒型」としたり、あるいは「舟形」と呼ぶ場合がある。また私が「板碑型」「光背型」「板駒型」の3種に分けるのを「舟形」で一括する方もおられる。こうした塔形の分類や呼び名を比較されると、各人の違いがよくわかる。手元に伊藤堅吉氏の『性の石神』があったら、73ページの「碑形分類図」と比較対照すると違いがわかるだろう。

     いろいろな主尊
 庚申塔の魅力の1つに挙げたように、庚申塔には、さまざまな主尊が塔面に現われてくる。道教に源を発する庚申信仰は、日本で同化する過程で仏教の各宗派や神道・修験道、あるいは古来から伝えられた民間信仰(たとえば日待信仰や月待信仰)などの影響を受けて変容をとげてきた。特に仏教化が進み、庚申縁起が成立して礼拝本尊が説かれるようになり、供養塔の造立が広く行われると、それぞれの指導者がいろいろな主尊を登場させてくる。

 庚申縁起では、時刻によって異る本尊が礼拝される。天理図書館蔵の『庚申之本地』には「戊亥の時には文殊菩薩薬師過去七仏を念じ奉るべし、子丑の刻には青面金剛釈迦現在の七仏念じ奉るへし」とある。また大分県の秋葉文庫蔵の『庚申之御本地』では
   戌   文殊菩薩・薬師如来・大日如来を本尊として過去七仏を念ず。
   亥・子 青面金剛を本尊として現在七仏を念ず。
   寅・卯 六観音・阿弥陀如来を本尊として未来七仏を念ず。
のように、それぞれの時刻の礼拝本尊を示している(窪徳忠博士『庚申信仰の研究』)。 このように庚申縁起には、多くの仏・菩薩が登場する。また庚申講を指導する宗教家の宗派によって、たとえば神道では猿田彦大神を、日蓮宗では帝釈天を主尊にしている。そうした事情からみても、庚申塔にいろいろな主尊が刻まれている。東京都・神奈川県・千葉県・埼玉県の南関東地方の1都3県の場合をみると別表の通りである。この表に漏れたものとして、群馬県渋川市祖母島の弥勒菩薩(中上敬一「庚申塔諸種の主尊像」『日本の石仏』第27号)や鹿児島県の水天(小野重朗「鹿児島の庚申塔」)などがある。まだまだ全国各地に分布する庚申塔の中には、以上に挙げた主尊以外の刻像がみられであろうし、未知の主尊が現われる可能性を残している。

 伝尸を駆除する青面金剛は、伝尸と三尸の関連から庚申信仰にとりいれられ、礼拝本尊に加えられる。江戸時代に広く各地に普及し、庚申の本尊として定着する。青面金剛の像容は、『陀羅尼集経』に説かれているけれども、現在各地でみられる刻像は、儀軌に示された2童子・4薬叉を伴なう2鬼上に立つ3眼4臂像とは異なっている。

 刻像塔の主尊で最も多いのは、青面金剛である。文字塔には早くから現われているが、刻像塔に登場するのは承応年間以降である。寛文年間からは各地で造像され、元禄以降には広い地域にわたり、しかも量的にも一段と増加して庚申の主尊としての王座を占める。他の主尊を引放して刻像塔を独占し、青面金剛の最盛期を迎える。

 青面金剛は、儀軌に説かれた刻像ではなくて、一般に各地で見られるのは中央の2手が合掌、あるいは剣と人身(ショケラ)を持つ6臂像である。各地の刻像を調べてみると、6臂像が主流ではあるけれども、いろいろな変化が認められる。そうした例を東京都多摩地方の塔から1件1例で示すと
   2 手  寛文6年   三鷹市中原4丁目  菊地宅
   4 手  元禄7年   昭島市大神町3丁目 観音寺
   8 手  文化12年   府中市天神町3丁目 路 傍
   3 面  元禄3年   田無市本町3丁目  総持寺
   陰 刻  宝永5年   小金井市前原町   共同墓地
   丸 彫  正徳4年   保谷市泉町2丁目  路 傍
があり、6臂像であるが2童子と4薬叉を伴なうものが調布市つつじが丘にある。杉並区成田西三丁目・宝昌寺には坐像がみられ、神奈川県中郡二宮町の寺には舞勢像がある。

     文字塔あれこれ
 犬も歩けば棒に当る、である。昨年3月に私は、広島県三原市中之町・東光寺墓地で元文5年造立の「庚申基」塔を見た。一瞬「庚申墓」かと疑ってみたけれども、やはり「庚申基」に間違いなかった。これまで見たこともない庚申系の文字塔である。

 今年(昭和61年)の2月には、多摩石仏の会例会で神奈川県中郡二宮町を回った。その時に龍沢寺墓地で見た寛文7年の「過去現在未来」塔と延宝3年の「三世不可得」、さらに天和元年の「病即消滅不老不死」塔の主銘は、今まで話題にならなかったのが不思議なくらい珍しいものである。早くから一般に知られていた秦野市尾尻・寿徳寺にある寛文元年の「真如法界」塔や小田原市上曽我・中河原にみられる寛文2年の「無功徳」塔などに匹敵する。

 塔面に「庚申」や「庚申塔」あるいは「庚申供養塔」などの主銘が彫られた文字塔が一般的であるが、比較的に早い時期に造立された塔では長い主銘が刻まれている。東京都の区部を例にとれば、「奉待庚申十六仏成就供養所」や「奉待庚申講衆供養二世成就所」または「為庚申待意趣二世安楽也」「奉造立石塔一基現当二世安楽攸」「奉造立庚申待一座供養各一結現当安楽所」などのように長いものが多い。「庚申」系統の文字塔を集めてみると、前記以外のものも多く、ヴァライティに富んでいる。「庚申塚」「庚申墳」「庚申碑」「庚申灯「庚申尊」「庚申講中」「庚申佛」「庚申神」「甲神当」「甲申塔」「庚甲塚」「五庚申」「七庚申」「百庚申」「千庚申」などがみられる。この中で百庚申の一石文字塔では、単に「百庚申」と彫ったものが多いが、群馬県下では「庚申」の2字を百様の字体で刻んだ塔がある。縁起物の風呂敷に「寿」をさまざまな形に書くと同じ筆法で、書家が腕をふるって楷書体や行書体、あるいは草書体や隷書体で百の「庚申」を書いた雅味のある塔である。

 文字塔においても「青面金剛」や「青面金剛明王」、あるいは「青面王」などのように、主尊の尊名を刻むものがみられる。青面金剛については、他にも「青面金剛菩薩」「大青面金剛」「青面金剛尊」「青面金剛塔」「青面金剛供養塔」「青面金剛王」「青面金剛王塔」「大青面金剛王」「青面金剛妙体」「庚申青面金剛」「青面庚申」「青面尊」「清明金剛」など変化がみられる。

 青面金剛以外にも、たとえば帝釈天では、「帝釈天」や「帝釈天王」「帝釈尊天」「南無妙法蓮華経帝釈天」「奉待帝釈天」などがあり、猿田彦では、「猿田彦」「猿田彦神」「猿田彦大神」「申田彦大神」などがある。「山王大権現」や「道祖神」などの主銘も尊名の例である。また「南無阿弥陀仏」の六字名号や「南無妙法蓮華経」の題目を彫ったものがある。

     さまざまな猿
 山中共古翁は、庚申塔を「3猿塔」と称して、その著『共古随筆』の中に1章を設けている。3猿塔とは、庚申塔の異称としてふさわしくらいに、庚申塔と3猿との結びつきが密接である。庚申塔の魅力の1つに、猿の姿態の変化があげられる。庚申塔を知らなくても、みざる・きかざる・いわざるの3匹の猿が彫られている石塔だ、といえばわかるほどに、3猿は庚申塔のシンボルである。

 東京にある古い庚申塔に刻まれた3猿は、お行儀のよい菱形である。しかし神奈川の三浦半島で見られる3猿は、早い時期から横向きになったり、足を伸ばしたりして自由な姿勢をしている。いわば東京のが楷書的あるとすれば、三浦のは草書的であるといえよう。東京でも時代が下ってくると、菱形のお行儀のよいのが崩れてきて烏帽子をかぶったり、狩衣やチャンチャンコを着たり、手に御幣や鈴、あるいは扇子などを持って、自由なポーズをするものが現われてくる。さらに塔や台石に桃の木にぶらさがる3猿や駒引きの3猿などが刻まれるものもみられる。千葉県野田市内にある庚申塔の猿は、変化に富んでいて面白い。

 庚申塔に彫られている猿は、圧倒的に3猿が多いけれども、1猿・2猿・3猿・5猿・群猿もみられる。1猿の場合には、主尊として登場するし、1鶏を伴って下部に刻まれることも多い。2猿は、通常、向い会わせた横向きで拝む姿が多く、この形式のものを「日光型」あるいは「下野型」とか呼んでいる。5猿のものは、東京都町田市広袴・天王山にある延宝5年塔に刻まれており、横向きの合掌2猿と三不形(塞口・塞耳・塞目)の3猿とが同居している。また岩手県水沢市の日高神社境内にある嘉永5年の自然石塔には、御幣を持った2猿と三不形の3猿の5猿が陰刻されていると、同県花巻市の嶋二郎さんから報告があった。群猿のものは、神奈川県藤沢市江の島にある無年記の塔に浮彫りされており、各書に紹介されて有名である。

 一般に庚申塔に刻まれた猿の性別は、はっきりしない。しかし、よく観察すると雄雌の別が明らかなものがある。東京都目黒区下目黒1丁目・大円寺の境内にある寛文7年塔の3猿は、向って右から雄・雌・雄の順に並んでいる。文京区や新宿区、江東区の塔の中にも雄雌の区別ができるもがあり、中に無性のものが混じっていたりする。

 庚申塔が刻像塔から文字塔に移行したように、3猿像の場合も、所によって短い時期であるが、文字化がみられる。東京都日野市を中心とした地域の例をみると、3猿の刻像のかわりに「三匹猿」や「三疋猿」「参疋猿」あるいは「申申申」の文字を刻んでいる。東京都北区滝野川・寿徳寺の「三猴」や埼玉県和光市下新倉・吹上観音の中央を「不聞」とし、左右に「言」と「見」を配した例もみられる。3猿の刻像と併て、3猿の文字化も興味がある。

 以上、庚申塔について簡単に述べてきたけれども、前に触れたように庚申塔は各地に分布しているから、それぞれの土地の塔と他の地域の調査報告と比較していただくと、自分で調べた地域の郷土性が明らかになり、特色もわかっていただけると思う。例えば、『日本の石仏』第37号に掲載された柴田寿彦さんの「静岡県中央部庵原郡の庚申信仰」や竹入弘元さんの「長野県高遠町・長谷村の石仏めぐり」に発表された庚申塔と比較することができる。また両氏の報告によって、静岡県には「本師釈迦牟尼仏 南無青面金剛王 南無観世音菩薩」や「南無本行釈迦文仏 南無大悲観世音 南無青面金剛明王」などの文字塔があるのを知り、長野県には梵字で記された「キャ・カ・ラ・バ・ア」塔が分布しているのがわかる。さらに小林剛三さんの「独立したショケラ」によって、福島県郡山市やその周辺の市町村では、ショケラを伴う青面金剛の刻像塔が少ないことがうかがえる。このように本誌に発表された各氏の論考から、各地の傾向が捉えられるのである。

 紙幅の制約があってまだ触れたい点が多々あるけども割愛しなければならない。詳しくは清水長輝氏の『庚申塔の研究』(昭和34年刊)を参照されるとよいが、今日では入手が難しい。現在市販されているものでは、故・平野実氏の『庚申信仰』(角川選書)が手頃であろう。昨年4月には、故・三輪善之助翁の『庚申待と庚申塔』(第一書房)が復刻された。各地で発行された石仏の調査報告書、例えば『日本の石仏』第37号に紹介されている『伊勢崎の近世石造物』をみれば、群馬県の傾向の一端がわかる。

 ともかく実地で庚申塔に接していただくことが先決である。まだまだ各地には、未知の庚申塔が存在する。そうした塔を追うのもよし、主尊のバライテイや猿の姿態をカメラで狙うのもよいだろう。ともあれ庚申塔に興味を持って接していただければ、その魅力がわかっていただけるであろうし、この小文が少しでもきっかけになれば幸である。(昭和61・ 4・ 4記)
                 『日本の石仏』第38号(日本石仏協会 昭和61年刊)所収
庚申塔の範囲の基準

    (1) 範囲の基準の必要性
 我々は普通「庚申塔」と口にしているけれども、一体、庚申塔とは何か(定義)、どのようなのものが庚申塔であるか(範囲)ということになると、なかなか簡単には説明することができないであろう。私自身としても、今までに庚申塔とそうでないものとを区別して調査を進めてきたし、また、その結果を雑誌等にも発表してきたのだから、何らかの基準を設けて、それによって庚申塔か、そうでないかを判断してきたことになるだろう。それでは一体その基準は、どのような基準であるのかと言われると、答えに詰まってしまう。それと言うのも、私自身が庚申塔の範囲を定めた明確な基準なり尺度なりを持ちあわせていなかったからに外ならない。

 それでは、今までどうしていたかというと、明確とはいえないけれども、例えば、3猿とか、青面金剛とかいう、一般的に庚申塔として認められているような共通の尺度、或いは通念といおうか、極く大まかな共通の尺度によって判断してきたといえるだろう。通念に従って私が庚申塔と判断してきたことは、一面からみると他動的な基準によって判断してきたことを意味する。こうした他動的な通念による考え方を受け入れていたのだから、調査した塔の数が増し、見聞も以前より広くなってくると、現在まで基準にしていた通念がはたしてよいものであるかどうか、と疑問を持つようになってきた。また、現在の通念に矛盾した点も感じられるようになった。
 先に窪徳忠教授は、『庚申』第41号の誌上の「庚申信仰研究の回顧と展望」において、庚申塔の概念規定の統一の必要性を説いておられる。そして、1例として、「道祖神」と文字を刻んだ下に3猿のついている塔や、「ウーン」1字を刻んだ塔をとり上げて、問題を提起されている。狭い地域を趣味的に興味本位に調査するのならばともかく、庚申塔の調査が全国的に拡がっている現在、庚申塔の範囲が定まっていなくては、各研究者にとっても誤解や混乱を生じ、各地間の比較もできない結果となる。Aという塔をB氏は庚申塔として認めるが、C氏は庚申塔でないとしたら、またDの塔の場合はその逆であったというのでは困る。それ故、庚申塔の範囲を定めることは、各地間の比較を容易にし、無用な誤解や混乱を起こさずに、研究をスムーズに能率的に進める上で非常に重要なことである。この際、庚申塔に範囲を定める基準の必要性を認めて、各々研究者の間で議論を戦わせ、庚申懇話会としての庚申塔の範囲基準を定めていただきたいものである。

 実際問題として、庚申塔の範囲基準を設けることは、庚申信仰自体が複雑な要素からなりたっているから、困難な点が多々ある。しかし、そのままにしておいては研究の交流に混乱が生じないとも限らないから、非力をかえりみず、トップバッターとして、私なりの庚申塔の基準を述べて、議論の口火を切りたい。極く狭い地域の庚申塔調査と、貧しい知識とによって組み立てた基準であるので、推論の誤りや、独断が多いかもしれない。また、1地方では通用するが、全国的にみた場合には不適当であるかもしれない。そのような点は徹底的にご指摘いただきたい。そして1日も早く庚申塔の範囲の基準が設定されて、各研究者間の無用な混乱や誤解なしに、同一の尺度をもって、より高度な研究に進まれることを期待するものである。

    (2) 基準の設定
 庚申信仰に基づいて作られたすべての石造物がすべて庚申塔であるならば、庚申塔の定義も範囲も比較的に容易だし、種々の問題も起こらないかもしれない。けれども、我々が「庚申塔」といえば、庚申信仰に基づいて作られた石造物を指すのではなく、その中のある範囲の石造物を指している。それでは、ある範囲とは一体どこまでを指すかというと、共通の範囲を多く持っているものの、明確な範囲ではなく、各々の研究者によって多少の違いがみられる。そのような違いが、例えば、東京都北区赤羽町1丁目の宝幢院にある寛永16年塔を庚申塔とみる説と、これは単なる山王廾一社の供養塔であって、庚申塔とは認めないとする説とがある。
 「この範囲にある庚申信仰によって建てられた石造物は、すべて庚申塔である」という明確な基準は、私の知る限りでは、まだ出ていないようである。しかし、これに近い基準は、清水長輝氏がその著書『庚申塔の研究』の8頁で「本書では次の範囲内のものをだいたい庚申塔としておいた」と、極く控え目に述べている。その基準は、2、3の例外を認めながらも
   (1) 庚申信仰によって建てたことを銘文にしるしてあるもの。
   (2) 青面金剛の像か文字をきざんだもの。
   (3) 塞目塞耳塞口の3猿か、その1部があって他の造塔目的をしるしていないもの。
   (4) 3猿形態以外の猿でも、塔全体が他の庚申塔と類似的なものや、日月、鶏などをとも
       なって、おおむね庚申信仰のために建てられたことが想像されるもの。の4つをあげ
   (イ) 施主は庚申講でも他の目的で造塔したもの。
   (ロ) 庚申塔や庚申祠への奉納物。
   (ハ) 自然石など伝承的なもの。の3つの場合を除外している。

 清水氏の基準をここで仮に(1)が銘文基準、(2)が青面金剛基準、(3)が3猿基準、(4)が類似基準、(イ)が造塔目的基準、(ロ)が奉納物基準、(ハ)が伝承基準と呼ぶことにする。これらの基準を基本にして、私なりの基準を設定した。
 私の基準は、基準を大きく(・)資格基準と(・)除外基準の2つに分けて、資格基準に適合した庚申信仰によって建てられた石造物(以下、庚申信仰石造物という)の中で、除外基準に反しないものを庚申塔とするものである。

 資格基準は、清水氏の(1)から(4)もでの基準に
   (5) 猿田彦の像か文字を刻んだもの。
   (6) 帝釈天の像か文字を刻んだもの。の猿田彦基準ち帝釈天基準の2つの基準を加えたものである。そして、除外基準は清水氏の(イ)から(ハ)までの3つの基準を用いることにする。これを分かりやすいように示すと、次頁のようになる。これを実際の庚申信仰石造物にあてはめて、資格基準のA項からF項までの6項の基準をチェックし、その1項、またはそれ以上の基準に適合したもので、さらに除外基準のG項からI項まの3項に触れないものを庚申塔とする。

 具体的に幾つかの例をあげて説明を進めるほうがわかりやすいので、『庚申塔の研究』の中から数基を選び、どの項に該当するかを示しておこう。まず、現存最古の庚申塔としてしられる旧・練馬区
    庚申塔判定基準
                            ・・・・・・・・・・・
                          ・・・A 銘文基準   ・
                          ・ ・・・・・・・・・・・
                          ・ ・・・・・・・・・・・
                          ・・・B 青面金剛基準 ・
                          ・ ・・・・・・・・・・・
                          ・ ・・・・・・・・・・・
                ・・・・・・・・・ ・・・C 猿田彦基準  ・
              ・・・(・)資格基準・・・ ・・・・・・・・・・・
              ・ ・・・・・・・・・ ・
              ・           ・ ・・・・・・・・・・・
              ・           ・・・D 帝釈天基準  ・
              ・           ・ ・・・・・・・・・・・
              ・           ・ ・・・・・・・・・・・
              ・           ・ ・E 3猿基準   ・
              ・           ・ ・・・・・・・・・・・
   ・・・・・・・・・・ ・           ・ ・・・・・・・・・・・
   ・庚申塔の範囲基準・・・           ・・・F 類似基準   ・
   ・・・・・・・・・・ ・             ・・・・・・・・・・・
              ・             ・・・・・・・・・・・
              ・           ・・・G 造塔目的基準 ・
              ・           ・ ・・・・・・・・・・・
              ・ ・・・・・・・・・ ・ ・・・・・・・・・・・
              ・・・(・)除外基準・・・・・H 奉納物基準  ・
                ・・・・・・・・・ ・ ・・・・・・・・・・・
                          ・ ・・・・・・・・・・・
                          ・・・I 伝承基準   ・
                            ・・・・・・・・・・・
 春日町・稲荷社の長享2年のマン種子板碑は、「奉申待供養結衆」の銘文が資格基準のA項に該当し、その上、除外基準の3項に反しないから庚申塔と認める具合である。B項該当の塔は、特別に例をあげなくても問題はないと思うので省略する。
埼玉県川口市金山町・善光寺の嘉永6年塔(第50図)は、「庚申」の銘文(A項)と猿田彦の像(C項)が合致し、神奈川県鎌倉市材木座・五所神社の寛文十2年塔(第27図)は、「奉造立帝釈天王」の銘文(D項)と3猿(E項)が、東京都豊島区高田本町(当時)・目白不動の寛文6年倶利迦羅不動刻像塔(第24図)は、3猿(E項)が、東京都台東区浅草公園(当時)・銭塚地蔵の承応3年大日如来刻像塔は、「爰以酬庚申供養」の銘文(A項)と日月・1鶏・1猿を刻むこと(F項)が、いずれも資格基準に適合し、その上G・H・Iの除外基準3項に触れていないので庚申塔とみる。

 この基準を用いるさいに注意しなければならない点は、清水氏も指摘されているように、台石の交換である。特に3猿を刻んだ台石のみでE項適用となる場合には、本塔と台石との組合せを充分に吟味する必要がある。何故ならば、塔の移動などにともなって、本塔と台石との組合せが替わったりして、誤りを犯しやすいからである。

    (3) 基準適用の問題点
 前の具体例でみたように、基準の適用がスムーズに行われるのであれば非常によいのであるけれども、実際に種々適用する場合には、判断に苦しむような場合も生じてくるのである。庚申信仰自体が道教や仏教、あるいは神道や他の民間信仰と複雑な形でいじまじり、他の信仰と共通した面がみられるから、その信仰を反映した庚申塔においても、他の信仰と重なり合った部分に明確な基準を引くことはむずかしい。そのために基準ができても、どう判断し、どう適用するかという点で問題が生ずるのである。その問題点が前にあげた山王塔であり、窪教授の指摘されたウーン種子塔や道祖神塔である。

 問題点の第1として、まず山王塔からとりあげてみよう。山王廾一社の本地仏種子を刻んだ庚申板碑を始めとして、山王権現の文字やそれらしい像を刻んだ庚申塔があり、現在でも庚申の主尊を山王さまと信じている地方もみられるから、庚申信仰と山王信仰との関係は密接であり、共通の部分を持っているといえる。しかし、こうした反面では、山王信仰が庚申信仰と無関係な部分もあって、現在にいたっている点も無視できないだろう。庚申信仰イコール山王信仰ならば、新たに山王基準を資格基準の1項目とすることに異論はないけれども、それでは山王さまの石祠までもが庚申塔に含まれてしまって合点がゆかない。もっとも、除外基準のG項、つまり造塔目的基準によってチェック・アウトすることも考えられる。しかし、山王廾一社の本地仏種子を刻んだ塔が、すべて庚申信仰に基づいて造塔されたものであるかどうか、また江戸初期に造塔された山王廾一社供養塔が、はたして庚申信仰と密接不離な関係のものであったかどうかは疑問である。それらが庚申信仰に基づいて建てられたものであり、庚申塔の他の条件を満たすことが実証されるならば、庚申塔として取り扱うことも、場合によっては山王基準を新設することもよいと考えている。これは現在研究中の方もおられることだから、今後の研究に待ちたい。従って、現状では、私は庚申塔とも認めにくいから、例示した北区赤羽町(当時)の寛永16年塔は庚申塔とはみていない。

 次にウーン種子塔をとりあげてみよう。ウーン種子は青面金剛を表す種子として用いられることは、多くの青面金剛刻像塔に刻まれていることからも知られるが、ウーン種子以外にも、カーン種子やバン種子などを用いる場合がある。またウーン種子自体も、必ずしも青面金剛のみを表すとは限られていない。そこに基準適用の問題点が生ずるのである。ウーン種子即青面金剛であるならば、資格基準のB項適用の拡大解釈によって、青面金剛を示す文字と解して、ウーン種子塔は資格基準B項適用となろう。しかし、ウーン種子は青面金剛に限らず、明王部と天部の通種子であって、金剛夜叉明王や愛染明王などにも用いられており、青面金剛の専売特許ではない。それ故に、現状ではB項の拡大解釈によらず、他の基準の合否によるのが望ましい。そして、多くの塔資料を集めて、ウーン種子が青面金剛を表すと認められる期間の研究を進め、その上で、その時期以降のウーン種子のB項拡大解釈を適用するのが妥当であると考える。

 最後に「道祖神」の文字を刻む塔(3猿付)が、庚申塔であるかどうかという点について述べよう。単に「道祖神」とだけ刻む塔については、これを庚申塔とは認めないけれども、資格基準のA項(銘文)なり、E項(3猿)に合致する場合の塔については、庚申塔とみてさしつかえないのではなかろうか。この場合に問題となるのは、「道祖神」の文字を庚申の主尊とみるか、あるいは造塔目的とみるかにある。「道祖神」を造塔目的とみる限りにおいては、庚申塔として取り扱うことはできない。しかし、本来の文字通りの道祖神とは、A項なりE項なりで明らかに区別できるのとなれば、庚申塔と認めてよいであろう。そうして、「道祖神」を文字通り道祖神と解し、造塔目的とみるとするならば、文字によらず刻像の場合でも、例えば、地蔵や阿弥陀においても、刻像と文字の違いで、A項なりE項なりによって庚申塔の資格基準を得ても、除外基準G項(造塔目的)に反する結果となる。そうなると、B項(青面金剛)・C項(猿田彦)・D項(帝釈天)の3項に蔵しない刻像塔は、除外基準G項に触れて庚申塔とは認められなくなってしまう。従って、道祖神塔はすべて文字塔、刻像塔を問わずに、A項・E項あるいはF項の各項に合致するものは、造塔目的と考えずに庚申の主尊とした解釈に立って、庚申塔の範囲内にあるものとみるべきである。

    (4) 燈籠型庚申塔
 今までの通念に対して疑問を感じた、と前に述べた。それというのは、実は燈籠型庚申塔のことであった。この一文を書いた動機も、燈籠型庚申塔について考えたことに端を発している。それが段々に発展して範囲の基準にまで拡がってしまった。ただし、ここでとりあげた燈籠型庚申塔は、すべて三多摩地方のものであって、他の地方のものは含まれていないから、その点をまずお断りしておく。

 檜原村下元郷にある明和4年の燈籠は『庚申塔の研究』に、清瀬町中清戸の日枝神社境内にある寛文4年の燈籠は「庚申塔年表補遺」(『庚申』第25号)に載っているから、一般には庚申塔として認められているということができる。もっとも、後者については、庚申塔と考えていない人もあるけれども、私は通念によって今まで庚申塔と判断して、そう取り扱ってきた。ところが、先日の檜原村の調査で、下元郷の燈籠について改めて考え直す機会を得た。そしてこの燈籠だけでなく、三多摩の燈籠型庚申塔についても再考した。

 下元郷の講調査の時に、地元の老婆が昔は庚申さま(寛保3年の青面金剛刻像塔)の前には2基の燈籠があったけれども、今は1基になってしまった、と話してくれた。そこでこの燈籠(明和4年)も庚申塔ですよ、といったところ、でも庚申さまはあれ(寛保3年塔)だといってきかなかった。
 地蔵刻像の庚申塔を今では地蔵としてお祀りしている所が稲城町(当時)でみられるから、造塔当時と現在のズレはあるのかもしれない。だから下元郷の場合でも、燈籠を庚申塔として建てたのかもしれない。しかし、老婆の目から見て、燈籠を庚申塔とすることは納得できないようだった。

 まず、この燈籠を基準に当てはめてみよう。しかし基準では竿石に「庚申塔」とあるから、A項の条件を満たしている。除外基準ではH項に触れるかどうかが、この燈籠を庚申塔とみるかみないかのわかれめである。つまり、燈籠にははたして独立性があるのかどうか、の問題である。
 茶人が自分の墓に燈籠を用いている例があるから、燈籠自体1基の墓石として独立性がある。しかし、神社や寺院にみられるように、一般的にみて燈籠は奉納物的性格が強いのではなかろうか。庚申塔や庚申塚に燈籠を奉納している例は、八王子市下川町、秋多町(現・あきる野市)上菅生、府中市中河原、三鷹市中仙川などにみられる。こうした点を考え合わせると、下元郷の場合も奉納物的性格が強いのではないかと思われる。また、寛保3年の庚申塔と切り離して、はたしてこの燈籠が存在したかどうかも疑問である。とすると、老婆のように、庚申さまとそれに奉納された燈籠とみるのが妥当かもしれない。
 清瀬町の燈籠の場合は、下元郷の場合よりも明瞭で、「奉納山王御宝前諸願成就為也」の銘文は、明らかに山王宮に対する奉納物と考えられる。従って、この燈籠は、庚申塔の資格基準のE項(3猿基準)に該当するとしても、除外基準H項(奉納物基準)に反するので、庚申塔とはみられない。

 これら2基の燈籠の外に、今まで庚申塔としてあげた三多摩の燈籠には
   宝暦4年  清瀬町中清戸
   宝暦11年  檜原村大沢
   元治1年  久留米町下里
   明治15年  久留米町門前などがある。いずれの燈籠も庚申塔と同じ場所にあるか、神社の境内にあって、はたして庚申塔として建立されたものかどうか不明である。しかも、奉納物とみるほうが適当と思われる。従って、これらの燈籠型塔は庚申塔とは考えられない。ただ、それらの塔を単なる庚申塔や庚申祠への奉納物と区別する必要があろう。

 そこで、庚申信仰石造物を私は次のように分類してみた。
               ・・・・・・・・・
             ・・・1 庚 申 塔・
             ・ ・・・・・・・・・
             ・ ・・・・・・・・・
   ・・・・・・・・・ ・・・2 準庚申塔 ・
   ・庚申信仰石造物・・・ ・・・・・・・・・
   ・・・・・・・・・ ・ ・・・・・・・・・
             ・・・3 奉 納 物・
             ・ ・・・・・・・・・
             ・ ・・・・・・・・・
             ・・・4 関連石造物・
               ・・・・・・・・・
 庚申塔については、前に述べた範囲基準内の塔を指すことはいうまでもない。次の準庚申塔は、資格基準に適合するが、除外基準に触れるものを指す。準庚申塔は、庚申塔に準ずるもので、伝承的な塔もこれに加えた。奉納物は、庚申塔や庚申祠に奉納した石造物で、準庚申塔を除いたものである。関連石造物は、他の目的(庚申信仰以外の目的)で庚申講が建てた石造物で、庚申塔や庚申塚の由来を刻んだ石造物などを含む。

    (5) む す び
 庚申塔の調査研究が全国的規模に拡がった現在、庚申塔の範囲を明らかにすることは、研究者間の無用な誤解や混乱を避け、各地間の比較を容易にするために必要なことである。そこで、私は私なりに、清水長輝氏が『庚申塔の研究』で示された基準を基にして、庚申塔の範囲の基準を作ってみた。

 私の庚申塔の範囲の基準は、資格基準6項と除外基準3項からなっている。庚申信仰石造物の中で、資格基準の1項以上に該当し、かつ除外基準に触れないものを庚申塔とした。しかし、この基準を実際に適用してみると、種々の問題が生じてくる。それらの問題は、今後の研究に待つ点が多い。

 本文を書く動機となったのは、燈籠型庚申塔で、私はこれには独立性の点で疑問があるので、準庚申塔と区別した。ただし、ここでは三多摩の場合のみを考察した。
 この私の範囲基準については、独断もあろうし、誤りもあろう。そして、各人各様の意見があると思う。その意見の中から、共通の尺度としての基準が生まれることであろう。
                     『庚申』第46号(庚申懇話会 昭和42年刊)所収
庚申塔の形態

     墓地でみよう
 石仏に関心のない人たちには、「庚申塔」というと、何か標準的な形があって統一されたものである、と思うかもしれない。
 日本の郵便切手は4角だが、世界の切手を調べると3角や6角・8角・円、さらに自国の領土の形を切手にしたものまで、いわゆる変形と呼ばれる切手が存在し、それらが収集のテーマのひとつになっている。庚申塔も同様で、実際に調べ回るといろいろの形があることに気付かれることだろう。

 庚申塔がどこにあるのかわからないという人は、まず近くの墓地に行って墓石をみることをお推めする。最近造られた「○○霊園」というのは、墓石の形が統一されたところもあるから、こうした墓地は避けた方がよい。

 さて、東京周辺の墓地では、在来の形とは異なる洋風なものが加わっているだろう。村のはずれのお地蔵さんと唱われる地蔵は、立体的な像に刻まれたものもあるし、地蔵に限らず阿弥陀や聖観音の立体像の墓石もある。自然石をそのまま利用した墓石もあろう。住職の墓地には、卵形のもの(無縫塔)もみられる。古い墓地や旧家の墓地には、宝篋印塔や五輪塔などもあろうし、中世の板碑が残っている場合もある。
 ともあれ近くの墓地でいろいろな形を知り、その移り変わりの傾向を調べておくと、庚申塔を調査する場合にも有益である。また、路傍の石仏を見る時に年銘のないものの造塔年代の推定に役立つ。

     庚申塔の形
 全国にはまったく思いがけない形の庚申塔がある。そうした塔を外観から、私は次の4種に大別している。すなわち、庚申板碑・庚申石祠・一般庚申塔・特殊庚申塔の4種だ。

 庚申板碑は、庚申(待)供養のために建立された板碑で、今まで発見された庚申板碑の多くは、図1に示した武蔵系の板碑(青石塔婆)である。武蔵系以外では、下総系の板碑があり、これは、武蔵系に比して幅が広く厚い。
 庚申石祠は、石祠の形をとった庚申塔で、今までに1都8県で発見されている。これには幾つかの形があって、屋根部の変化から、宝塔型・入母屋型・流造型(図2参照)の3種に分類できる。宝塔型の変形に宝篋印塔型、流造型の変形には唐破風付きがみられる。
 一般庚申塔は、普通にみられる庚申塔であって、これについては次の甲で述べることにする。
 特殊庚申塔は、一般庚申塔に比べて少ないもので、磨崖・五輪塔・宝篋印塔・層塔・石幢・石燈籠などがこの類である。石燈籠自体は、多くの形に分類できるけれども、庚申塔の範囲では細分する必要はない。なお、石燈籠の分類に興味のある方は、京田良志氏著『石燈籠入門』(昭和45年 誠文堂新光社)の「石燈籠の種類」(100〜117頁)を参照されるとよいだろう。

     よく見られる形
 一般庚申塔は、1部を除いて通常見られる庚申塔の形である。これは、板碑型・光背型・板駒型・笠付型・駒型・柱状型・自然石・丸彫・雑型の9種に分類できる。それぞれの塔形について説明しよう。

 板碑型は、青面金剛を平らに、背面を舟底形にけずる。上部に額部を作り、中央は彫りくぼめて下部に前出をおく。この形のものも細かく見ると形に変化がある。江戸期の庚申塔としては最も古い部類に属する。多くは文字塔で、時代の下ったものの中には正面に青面金剛(庚申の本尊)を刻んだものもある。

 光背型は、板碑型に続く型式の塔でにょうらいの光背をかたどり、背面は板碑型同様に舟底形である。一般にみて、地蔵・阿弥陀・観音などの主尊の庚申塔が多い。

 板駒型は、板碑型と光背型との折衷した形というべきもので、光背型の上部を将棋の駒のような形にしている。背面は舟底形の荒けずり。この形の塔には、青面金剛が刻まれたものが多い。

 笠付型は、塔身の上に笠を置いたものでる。塔身の多くは、角柱であるが、丸柱のものや板碑型の上部を切り取って笠を置いた形のものもある。笠付型は、刻像塔と文字塔の両方に見られるが、どちらかといえば、文字の方が多い。笠部の変化から、普通笠と唐破風笠とに区分できるし、塔身からは、角柱・丸柱・その他に分類できる。

 駒型は、将棋の駒の形をとっている。板駒型とは異なり、背面が平らで、両側面藻加工してある。板駒型よりも時代が下り、文字塔が多い。

 柱状型は、角柱型に偏平柱型や丸柱型を含めた呼び名である。頭部の変化によって、平角型・皿角型・山角型・丸角型などに分類される。末期の造塔に多い型式である。

 自然石型は、自然石をそのままりようして、像や文字を刻んだものである。角のとれて丸くなった河原石や片岩をはがして平らにしたものがみられる。東京周辺では、末期に「庚申」とか「庚申塔」と刻んだものが多いが、熊本では、地蔵などを刻んだ初期のものがある。

 丸彫り型は、よく見られる地蔵のように、立体的に像を刻んだ形のものをいう。丸彫り型の青面金剛はすくない。
 雑型は、一般庚申塔で板碑型から丸彫り型までに当てはまらない型式を一括してこう呼んでいる。具体的な例は、次の項で述べる。
 以上、簡単に塔形の説明を加えたが、このような分類は、庚申塔を中心に考えた分類といえよう。しかし、庚申塔の研究者の間でもいろいろな分類が行われているし、塔形の呼び名も変わっている。例えば私が「板駒型」と呼んでいる形を「駒型」と呼んでいる方もあれば、「舟型」と分類している方もある。
 また、私のいう「板碑型」・「光背型」・「板駒型」の形を含めて「舟型」と呼んでいる人もあるという具合である。こうした塔の形の分類(呼び名も含めて)を比較してみると、相互の間に違いのあるのに、気付かれるだろう。手許に伊藤堅吉氏の『性の石神』があったら、73頁の碑型分類図と私のものと比較されると面白いだろう。

     変わった形の塔
 全国に散在する庚申塔の中には、いろいろ変わった珍しい形のものがある。そうした塔をいくつかあげてみよう。
 笠付型は、前にも述べたように、塔身が角柱であるものが多い。稀には丸柱もある。そうした中で変わったものといえば、山梨県北都留郡上野原町犬目にある天和3年塔は異形の笠付型だろう。板碑型の上部を改造して笠を置いている。
 柱状型は、頭部の変化によってさらに分類されるが、大体は角柱である。東京都青梅市二俣尾にある文政6年塔は、塔身が円柱で、台石が六角をしている。東京都西多摩郡秋多町(現・あきる野市)引田の五日市街道に面して3角形の台石に3猿が刻まれたものがある。惜しいことに塔身が失われてしまったが、台石から見ると塔身は3角柱だったらしい。
 まだ私は実物を見ていないが、変わった形の庚申塔として資格充分なのは、日下部朝一郎氏が『石仏入門』で紹介している、群馬県勢多郡城南村の石臼庚申である。石臼に「庚申塔」と刻んでこうしとうとしたものである。
 次のものもまだ見ていないが、『国東半島の石仏』の著者、渡辺信幸氏から報告のあったもの。上部を宝珠形に刻んでいる。分類すると雑型ということになろう。
 最後に、とっておきの変形庚申塔を1つ。それは東京都青梅市千ケ瀬・宗建寺の境内にある文化9年塔である。3猿を刻んだ台石の上にテーブル状の台座、さらにドラム状の塔身を置くものだ。これも雑型である。

     む す び
 以上おおまかに庚申塔の形を見てきた。まだまだ、私の知らない形があるであろう。庚申塔だけに限定せずに、石造遺物全般に拡げると、石燈籠ひとつとってもいろいろな形がある。道祖神には陽物をかたどったものもある。それぞれの研究対象によって塔などの形も異なり、分類方法も違いが見られる。そうして呼び名も独特なものがある。が、庚申塔の分類としては、ここに述べたものが基準になろう。
 ともあれ、庚申塔でなくても、近くの墓地で実際に墓石を見て「これが光背型だな」とか「そちらは丸彫り型だな」などと、形の変化を知っていただければ幸いである。そして、さまざまな墓石を調べ、時代によって、どのような形に変化するかを知れば、石仏に対する興味も湧いてこよう。
                  『あしなか』130輯(山村民俗の会 昭和46年刊)所収
多摩地方の変わり型三猿
 3猿は、庚申塔のシンボル的な存在だ。庚申塔を知らなくても、見ざる・聞かざる・言わざるの3匹の猿がついている石塔だ、といえば、あれかと思いだす方もあろう。山中共古翁が『共古随筆』の中で、庚申塔を扱った1章を「三猿塔」と名付けたことからも、庚申塔と3猿の関係がうかがえる。本誌182輯では、横田甲一さんがお手持ちの庚申塔アルバムから多くの3猿を紹介され、3猿のバラエティを示された。庚申塔の魅力は、主尊像や像容の変化、あるいはさまざまな塔形もさることながら、3猿の多様な姿態を見逃せない。

 昨年(昭和58年)10月、3猿の源流を追いかけて世界各地を廻られた飯田道夫氏が『見ザル聞かザル言ワザル・・世界3猿源流考(三省堂選書)を発表された。同書をお読みいただければわかるように、世界各地にみられる木彫りや鋳造などの3猿像は、お国柄の違いがあって、猿の造形にも表れていて面白い。私のささやかな3猿コレクションの中にも、国産の3猿に混じって、木製のケニヤ産3猿が加わっている。さて、ここでは横田さんの触れられなかった東京都の市郡部、多摩地方に散在する庚申塔の中から変わり型の3猿を選んで紹介しよう。

 多摩地方にみられる変わり型3猿は、大きく4つのタイプにわけられる。その第1は、「扇子型」と仮に名付けておくが、3猿が扇子を持つタイプである。代表的な事例は、青梅市千ケ瀬6丁目の宗建寺境内にある文化9年塔台石に刻まれた3猿である。写真でもわかるように、烏帽子をかぶり、狩衣を着て扇子で塞目・塞耳・塞口のポーズをとる。この系統のものは、青梅市黒沢1丁目野上指の文政5年塔や同市成木6丁目慈眼院の文化9年塔、あるいは小平市天神町・延命寺の嘉永3年塔や西多摩郡五日市町伊奈・山王宮下の弘化4年塔にみられる。これらの3猿像は、いずれも台石に浮彫りされている。この系統は着衣帯冠のものが多いが、そうでない3猿もある。青梅・成木の塔がその例でただ扇子だけを持っている。着衣の猿も細かに観察すると、同一方向に歩む五日市の塔、1匹だけは逆向きの青梅・千ケ瀬の塔、中央が正面向きに座って両端が外側を向いて踊る青梅・黒沢の塔、座って踊るしぐさのの小平の塔と変化がある。

 第2のタイプは、3猿に馬を配したもので、「駒曳き型」と類別できる。これは、青梅を中心とした扇子型に対して八王子市に分布する。長房町中郷の安永7年塔台石のは、向かって右端の猿が先駆け、中央の猿が駒を曳き、左の猿が後から追いたてている。同系のものが下恩方町辺名・金山神社にある。天明3年塔台石の3猿は、先の中郷のとは向きが逆である。向かって左端の猿が馬の手綱をとり、中央の猿が馬上に乗り、馬の後ろを右端の猿が棒で追う構図である。

 第3は「桃木型」と呼んでおくが、桃の木の枝に3猿を配している。これも駒曳き型と同じく八王子市内にみられる。上恩方町醍醐の安永2年塔、同町上案下の明和8年塔、南浅川町大平の明和9年塔の台石に刻まれている。この系統の3猿は、庚申塔ではないけども、武蔵村山市中藤・日枝神社の燈籠台石に浮彫りされている。ついでながら、対の台石には相撲をとる3猿があって珍しい。
 第4は、以上にあげた扇子型・駒曳き型・桃木型に属さない、さまざまなタイプの3猿で、ここでは「雑型」と呼んでおく。町田市相原町・大戸観音境内にある寛文10年塔は、一見すると地蔵と思われる2手青面金剛を主尊とする。この種の主尊像は、神奈川県津久井郡津久井町にもあって、同一の石工になるものであろう。塔下部の向かい合わせの3猿は、この頃、江戸周辺にみられる正面向きで並ぶお行儀のよい菱形3猿(標準型)が多い中でユニークな存在である。西多摩郡羽村町羽東・禅林寺の元禄塔も、この種のもので、肥えた向かい合わせの3猿を浮彫りしている。武蔵村山市岸の丘陵にある年不明塔の3猿は、横向きで1列に進む変わり種である。町田市相原町の御殿峠旧道にある寛文塔は、向かい合わせの2猿の上に横向きの猿を置くもので、多摩地方には類例がない。その他にも細かな変化を取り上げれば数があるけれども、多摩地方の主な変わり型3猿は、以上に示したものに要約されよう。

 最後に、3猿の文字化にふれておく。多摩地方では日野市を中心にみられるのが、3猿の刻像の代わりに文字で表示した塔である。つまり3猿像を省略して「三疋申」とか「三匹申」「参疋猿」、あるいは「申申申」の銘文を刻む。3猿の刻像が文字塔から消える時期に生まれた過途的現象である。日野市に八基みられる以外は、八王子市・多摩市・府中市に分布するが、数はいたって少ない。多摩地方以外でも、たとえば東京都北区滝野川・寿徳寺の「三猴」や埼玉県和光市下新倉・吹上観音の中央に「不聞」として右左に「言」と「見」を配した例がみられる。3猿の刻像と併せて、3猿の文字表示も興味がある。
                  『あしなか』185輯(山村民俗の会 昭和59年刊)所収
 
都内庚申塔の種々相
 昭和55年は、60年に1度巡ってくる庚申年である。前回の大正9年には、長野や新潟などで庚申塔が建てられた。こうした造塔の動きは今回の庚申年にも見られ、すでに昨夏、私は、長野県北安曇郡白馬村で「昭和五十五年初庚申」銘を刻む庚申塔を調べている。今年秋には、千葉県鎌ヶ谷市粟野でも庚申塔を建てそうだ、という情報を得ている。 庚申年には、造塔ばかりでなく、今まで使っていた掛軸を塚に埋めて新しものに替えたり、庚申堂の本尊を開帳するという所もある。その他にも庚申年の行事がいろいろ行われるので、今年(昭和55年)は楽しみである。

 庚申塔は、沖縄などごく1部を除いて全国各地で見られ、しかも地方色があり、主尊像の変化や他の信仰との習合が表出されており、調べて楽しいものである。そうした魅力を持つだけに、庚申塔に興味を持って追い続ける人が多い。私もその中の1人である。
 多摩地方に散在する庚申塔は、現在までの調査によって1300基を超えている。東京都全体では3000基ほど現存すると推定される。庚申塔は、刻像塔と文字塔とに大別されるが、刻像塔で多く見られるのは、青面金剛を主尊とするものである。その青面金剛も、胸前で合掌するか、剣と人身を持つか、の6手立像が多い。しかも上方の2手には矛と宝輪を持ち、あるいはそれよりも少ないが日天と月天を捧げ、下方の2手に弓と矢を持つ類型的なものである。それでも、中には3面のものがあったり、童子や薬叉の刻まれたものが見つかる。

 青面金剛の場合、多くは類型的な6手立像であるけれども、2手、4手、8手の像も少数ながらあり、中には座像も見られる。類型的な6手立像であっても、詳細に観察すると頭部が炎髪であったり長いとんがり帽子状であったり、あるいはドクロをいただいていたりで、細部に変化がある。持物の1つ人身の場合でも、赤ん坊のようなものもあれば、首だけという例もある。

 庚申塔につきものの3猿の変化も面白い。正面向きの菱形状に刻まれた楷書的なものから、中央が正面、左右のものが横向きといった行書的なもの、さらに御幣を持って着衣帯冠の横向きの草書的なものまで、さまざまな姿態のものがある。庚申塔に刻まれた猿は、何も3猿とは限らない。1猿・2猿・5猿・群猿などがあり、中には添え物としてではなく、主尊の座についているのも見られる。

 鹿児島には、田の神や水天を主尊とした庚申塔があると聞く。それほど遠くなくても、神奈川県には、双体道祖神を主尊とした庚申塔が見られ、富士山の御師が発行した掛軸の図柄をそのまま彫り込んだものもある。江ノ島には群猿を刻んだ塔があるし、大和市には帝釈天主尊の塔が見られる。それとは別系統の柴又帝釈天を模した像を主尊とするものが横須賀市内にあるという具合で、その他にも阿弥陀・大日・観音・地蔵・閻魔などを主尊とするものがある。

 東京都には、庚申塔が約3000基現存すると推定されるが、その変化相は楽しいものがある。特に延宝ごろまでに造像されたものが変化に富んでいる。清水長輝氏のいわれる元和期から延宝期までの「主尊混乱時代」と区分された時期(『庚申塔の研究』)に当たる。 ここでは、東京都にある庚申塔の主尊の変化をとらえて一覧表を作成した。青面金剛は別格としても、この中で阿弥陀・観音・地蔵を主尊としたものは比較的多く見られるので、そうしたものは3例だけにとどめた。なお、阿弥陀については「東京都の阿弥陀刻像庚申塔」(『庚申』第87号 庚申懇話会 昭和56年刊)を、観音については「東京の観音庚申塔」(『野仏』第11集 多摩石仏の会 昭和54年刊)を発表しているので、詳細についてはそれらを参照していたければ幸いである。
    東京都庚申塔主尊別一覧表
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    ・主    尊・年  銘・塔 形・所      在      地・備   考・
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    ・釈迦如来  ・寛文4年・光背型・足立区西綾瀬3−19 長性寺  ・     ・
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    ・      ・寛文12年・光背型・墨田区墨田5−42−17 円徳寺 ・     ・
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    ・      ・延宝6年・光背型・文京区大塚4−49 大塚公園  ・     ・
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    ・薬師如来  ・正保4年・光背型・板橋区志村1−21 延命寺   ・     ・
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    ・      ・延宝4年・光背型・板橋区赤塚5−26 赤塚観音堂 ・     ・
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    ・      ・宝永7年・丸 彫・東大和市清水 清水神社    ・     ・
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    ・定印阿弥  ・寛文2年・光背型・大田区大森北3−5 密厳院  ・     ・
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    ・      ・寛文4年・光背型・足立区千住仲町34 源長寺   ・     ・
    ・      ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・     ・
    ・      ・延宝8年・光背型・墨田区東向島3−8 法泉寺  ・     ・
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    ・来迎阿弥  ・元和9年・板碑型・足立区花畑3−24−27 正覚院 ・三  尊 ・
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    ・      ・正保4年・板碑型・荒川区町屋2−8 原稲荷   ・三  尊 ・
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    ・      ・万治3年・光背型・江戸川区西葛西 称専寺    ・一  尊 ・
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    ・合掌阿弥  ・元禄2年・光背型・町田市成瀬・吹上 路傍    ・     ・
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    ・      ・元禄9年・笠付型・町田市木曽町 観音堂     ・     ・
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    ・大日如来  ・承応2年・光背型・台東区浅草2−29 銭塚地蔵  ・胎 蔵 界・
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    ・      ・寛文3年・石 祠・町田市三輪町下三輪      ・中尊金剛界・
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    ・      ・元禄2年・笠付型・町田市図師町坂下 路傍    ・金 剛 界・
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    ・聖 観 音 ・承応2年・石 幢・杉並区梅里1−4 西方寺   ・     ・
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    ・      ・寛文3年・光背型・大田区田園調布南24 密蔵院  ・     ・
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    ・      ・寛文4年・丸 彫・杉並区成田東4−17 天桂寺  ・     ・
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    ・馬頭観音  ・宝永7年・光背型・板橋区大原町40 長徳寺    ・     ・
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    ・      ・安永8年・駒 型・東村山市久米川・野行     ・     ・
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    ・如意輪観音 ・寛文8年・光背型・練馬区旭町1−20 仲台寺   ・     ・
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    ・      ・延宝6年・板碑型・荒川区南千住6−60 素盞雄神社・     ・
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    ・      ・延宝8年・光背型・北区神谷3−45 自性院    ・     ・
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    ・卅四所観音 ・享保5年・板駒型・江戸川区東瑞江2 下鎌田地蔵堂・秩父卅四所・
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    ・勢至菩薩  ・天和3年・笠付型・町田市小山町 日枝神社    ・     ・
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    ・      ・元禄11年・光背型・青梅市吹上 本橋宅      ・     ・
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    ・地蔵菩薩  ・承応2年・丸 彫・板橋区蓮沼48 南蔵院     ・     ・
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    ・      ・承応3年・光背型・北区中里3−1 円勝寺    ・     ・
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    ・      ・万治2年・光背型・墨田区向島5−4 長命寺   ・     ・
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   ・六 地 蔵 ・元禄15年・石 幢・町田市野津田町丸山      ・     ・
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    ・不動明王  ・貞享1年・笠付型・八王子市館町 梅元庵     ・     ・
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    ・倶梨迦羅不動・寛文6年・光背型・豊島区高田2−12 金乗院   ・目白不動 ・
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    ・閻魔大王  ・貞享2年・丸 彫・北区中十条2−1 地福寺   ・     ・
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    ・仁    王・元禄10年・丸 彫・足立区本木町5 三島神社   ・     ・
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    ・帝 釈 天 ・明治14年・板碑型・目黒区平町2−18 帝釈堂   ・     ・
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    ・狛   犬 ・享保6年・丸 彫・新宿区北新宿3−16 鎧神社  ・     ・
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    ・猿田彦大神 ・文化11年・柱状型・桧原村桧原・白倉・白光    ・     ・
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    ・      ・天保2年・駒 型・青梅市成木7 松木峠     ・     ・
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    ・      ・年不明 ・丸 彫・渋谷区千駄ヶ谷2−35 榎稲荷 ・     ・
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    ・2手青面金剛・寛文6年・光背型・三鷹市中原4−16       ・     ・
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    ・      ・寛文8年・笠付型・杉並区方南2−5 東運寺   ・釜  寺 ・
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    ・      ・寛文10年・笠付型・町田市大戸相原町大戸観音   ・     ・
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    ・4手青面金剛・寛文8年・笠付型・杉並区成田西3−3 宝昌寺  ・座  像 ・
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    ・      ・天和2年・光背型・板橋区向原3−2 薬師堂跡  ・     ・
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    ・      ・明和1年・笠付型・小平市御幸町 五日市街道   ・所在不明 ・
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    ・6手青面金剛・寛文1年・笠付型・板橋区板橋3−25  観明寺  ・     ・
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    ・      ・寛文3年・光背型・江戸川区東小松川2 源法寺  ・     ・
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    ・      ・寛文4年・光背型・江戸川区船堀6−9 法龍寺  ・     ・
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    ・8手青面金剛・元禄16年・板駒型・練馬区北町2−41       ・     ・
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    ・      ・宝永5年・光背型・渋谷区代々木5−10 墓地   ・     ・
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    ・      ・宝永5年・笠付型・杉並区清水2−15       ・     ・
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    ・3面青面金剛・寛文2年・笠付型・板橋区板橋3−13 東光寺   ・     ・
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    ・      ・寛文8年・光背型・文京区根津1−28 根津神社  ・     ・
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    ・      ・寛文8年・笠付型・豊島区高田2−12 金乗院   ・     ・
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    ・1    猿・寛文5年・光背型・新宿区北新宿3−23 円照寺  ・     ・
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    ・      ・寛文8年・板碑型・渋谷区恵比寿西2−11     ・     ・
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    ・      ・延宝2年・光背型・大田区田園調布南24 密蔵院  ・     ・
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    ・2    猿・寛文4年・光背型・新宿区筑土八幡町7 筑土八幡社・     ・
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    ・3   猿・寛文4年・柱状型・台東区浅草2−29 銭塚地蔵  ・     ・
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    ・      ・寛文5年・板駒型・台東区西浅草3−27 万龍寺  ・     ・
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    ・      ・寛文5年・板碑型・足立区本木西17−1 吉祥院  ・     ・
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 以上を一覧されて、都内にある庚申塔の主尊が実に多様性に富んでいるかをご理解いただけたと思う。その上で、実物をご覧になれば、さらに深く納得されるであろうし、庚申塔に興味を持っていただけるのではないかと考える。

 刻像塔にふれて文字塔を無視したのでは片手落ちになる。紙数の関係もあるから、ここでは、ごく簡単にふれておく。文字塔も主銘がさまざまで、一般的に見られるのは「庚申供養(塔)」であり、「庚申(塔)」である。大きな傾向として、造立年代の古いものは長銘を刻み、新しいものには「庚申」や「庚申塔」が多い。刻像の主尊を文字化したものがある。「青面金剛」「帝釈天王」「猿田彦大神」がその例である。六字名号や題目を刻むもの、かわったものとしては梵字で斜めに庚申の真言を彫った方が見られる。
以上のように、庚申塔は、主尊像や主銘の多様性が認められるが、さらに形態的にも変化がある。通常の塔は、板碑型・光背型・板駒型・笠付型・駒型・自然石・丸彫りの7種に分類することができる。これらのものは、その種類によって分布の粗密があるものの、日頃見る機会があるので、ここでは、それらを省略して、雑型と呼ぶべきか、分類しにくい青梅市千ケ瀬・宗建寺の塔の写真を示すにとどめる。

 板碑型などの通常見られるものを「一般庚申塔」とすると、その枠外のものがある。つまり「特殊庚申塔」に分類される五輪塔や宝篋印塔・石幢・燈籠などである。千葉県流山には庚申鳥居が見られるが、今のところ都内では見当たらない。しかし、特殊庚申塔に属する種々のものがあるので、最後に一覧表をかかげておく。

   東京都形態別庚申塔一覧表
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   ・形    態・年  銘・  所      在      地  ・備   考・
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   ・五 輪 塔 ・正保3年・杉並区永福1−25 永福寺       ・     ・
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   ・宝篋印塔  ・寛永3年・目黒区中目黒3−3 十七ガ坂墓地   ・     ・
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   ・      ・正保4年・新宿区上落合1−26−19 月見岡八幡  ・     ・
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   ・層    塔・明暦4年・調布市深大寺町 城山         ・     ・
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   ・石    幢・元禄15年・町田市野津田町丸山          ・六 地 蔵・
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   ・灯    篭・宝永3年・荒川区南千住1−59 円通寺      ・     ・
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   ・      ・享保3年・大田区南馬込2−40−11 神明社    ・青面金剛 ・
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   ・      ・宝暦11年・桧原村大沢 貴船神社         ・     ・
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   ・石    祠・寛文9年・町田市三輪町下三輪          ・中尊大日 ・
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   ・      ・元禄8年・足立区綾瀬2−23−14 北野神社    ・     ・
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   ・      ・元禄13年・足立区綾瀬2−23−14 北野神社    ・     ・
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                『武蔵野』第58巻2号(武蔵野文化協会 昭和55年刊)所収
南関東の庚申塔

1 庚 申 塔
 昭和55年は、60年に1度めぐってきた庚申年であった。この年には、今まで使っていた庚申掛軸を庚申塚に生めて新しいものに替えたり、庚申堂の本尊を開帳するところも見られるなど、庚申年の特別な行事が各地で行われた。そうした記念行事の1つとして、全国各地で庚申塔が建てられたのである。とりわけ長野県上伊那地方における昭和庚申年の造塔はめざましく、萩原貞利氏の報告(『伊那路』286号)によると、2市4町4村で366基の庚申塔が建てられた。

 南関東では、例えば東京都武蔵野市八幡町・延命寺や神奈川県横須賀市長坂、あるいは千葉県鎌ヶ谷市粟野・八坂神社、埼玉県秩父郡皆野町日野沢・水潜寺などで、昭和庚申年の造塔があった。しかし長野県や新潟県に比べると、造立数はきわめて少ない。
 石佛を調査する人達の中には、庚申塔に興味を持つ方が多い。それはそれなりの理由がある。まず第1に北は北海道から南は鹿児島に至るまで、疎密の別はあっても全国的に庚申塔が分布している。このことは、身近なところで庚申塔に接しられるし、旅先などでの出会いも期待できる。

 第2に主尊1つとってみても、実にさまざまな種類が登場して変化に富んでいる。その点が南関東では特に顕著であって、後にかかげる表や写真家ら、充分に汲み取っていただけるはずである。また塔の形態や猿の姿態など見るべきものが多い。そのために庚申塔を充分に理解するには幅広い知識が要求される。

 第3に全国的にしかも多量の庚申塔が分布し、主尊や形態などが変化に富んでいるので、思いがけない発見がある。今までまったく知られていなかった主尊の庚申塔に、ある日、偶然に出会う場合があって、未知の部分が残されている。つまり新発見の可能性がある。神奈川県の聖徳太子や双体道祖神、鹿児島県の田の神や水天を主尊とした庚申塔は、そうした予想外の発見例といえるだろう。

 南関東にどの位の庚申塔が分布しているのか、まだ正確なところはわかっていない。東京都の場合は、今での調査によって多摩地方に散在する塔が1300基を越え、区部・島部の塔を合わせると3000基ほど現存すると推定される。千葉県については、剱教育委員会発行の『千葉県石造文化財調査報告』によって県内約2800基の分布がわかる。神奈川県の場合は、まだ全県的な集計を見ていないが、伊東重信氏の『横浜市庚申塔年表』に629基、藤井慶治氏の「横浜市庚申塔年表」(『庚申』48号)に837基の記載がある。鈴木喜代司氏の三浦市の報告や県内各市町村の資料を合計すればゆうに3000基を越す。埼玉県も全県の分析がなされていないけれども、故秋山正香氏(行田市)の調査資料を見ると、県内7市15町村で約1900基にのぼる(『庚申』47号)。こうした塔数を集計しただけでも、少なくとも一万基を超える庚申塔が南関東に散在すると推定できる。

 南関東で庚申塔が建立されたのは、室町時代以降のことで、全国でも現存最古の塔として有名な、埼玉県川口市領家・実相寺蔵の文明3年(1471)庚申板碑が発出である。それ以後、南関東では80基以上の塔が中世に造建されている。その中で埼玉県秩父郡長瀞町矢那瀬・地蔵堂の明応8年(1499)石幢を除くと、他はすべて板碑であり、南関東の中世庚申塔の特色となっている。なお庚申板碑については別稿で述べられる予定なので、ここでは省略する。

 南関東では室町時代に始まった庚申塔の造立は、現在まで約500年に及ぶ歴史がある。その間に名強敵にも、外観の上からも庚申塔の変遷が見られる。清水長輝氏は、その著『庚申塔の研究』で東京付近を中心とした場合の変遷を次のように4期に大別している。すなわち、第1期は板碑時代で、室町時代から安土桃山時代にかけて庚申板碑が板碑が建てられた時期である。第2期は混乱期で、元和(1615〜24)から延宝(1673〜81)かけて見られる種々の主尊刻像塔が造られた時期をいう。第3期は青面金剛時代で、天和(1681〜84)かた天明(1781〜89)にかけてである。第2期に拡がってきた青面金剛が庚申塔の主尊の王座を占め、各地で全盛期を迎える。第4期は文字塔時代で、寛政(1789〜1801)以降の文字庚申塔が多く造られた時代である。

    2 刻 像 塔
 南関東の庚申塔の特徴は、主尊が変化に富んでいる点である。それは造塔年代とも関係があって、塔の変遷でもふれた第2期、つまり主尊混乱時代の造塔が多いのも理由の1つにあげられる。庚申信仰の本尊として広く青面金剛が普及して定着するまでは、庚申塔にさまざまな主尊が登場する。実に変化があって、通常、見られる石仏の多くの主尊が塔面に刻まれている。

 まず如来であるが、釈迦・薬師・阿弥陀・大日。菩薩では聖観音・馬頭観音・如意輪観音などの観音をはじめ、勢至や地蔵・六地蔵などである。明王では不動や倶利迦羅があり、天部では帝釈天は無論のこと、弁才天や仁王、その他に閻魔・聖徳太子・双体道祖神がある。青面金剛や猿田彦はいわずもがなで、猿を主尊の座に据えた塔も造られている。珍しい例としては、冨士御師発行の庚申掛軸を模した塔もある。

 表1は、主尊別に各都県1例ずつあげて作成したものである。東京の場合は、小花波平六氏が区部の塔について書かれているから、できるだけ重複を避けて多摩地方の塔を優先させた。この表とそれに続く写真によって南関東の庚申塔が他の道府県の塔に比べて、主尊像の変化相がいかに幅広いものであるのか充分に理解できると思う。さらに圧倒的に多い青面金剛も、子細に調べれば、普通に見かける6手立像ばかりでなく、坐像や2手.4手・8手の像があるのや、1面の他に3面の像の存在にも気づかれるはずである。さらに彫法の面から、一般的な浮彫り像以外に陰刻像や丸彫り像があり、2童子や4薬叉を伴う塔が造られているのにも気がつかれるであろう。

   表1 南関東主尊別庚申塔一覧表
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   ・形  態・年  銘・塔型・ 所       在        地 ・備  考・
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   ・青面金剛・寛文6年・光背・(東)三鷹市中原4−6         ・    ・
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   ・  2手・寛文2年・光背・(神)津久井郡津久井町馬石       ・    ・
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   ・    ・元禄16年・光背・(千)松戸市古ヶ崎 鵜ノ森神社     ・    ・
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   ・    ・寛文12年・光背・(埼)久喜市青毛 鷲宮神社       ・    ・
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   ・青面金剛・元禄7年・光背・(東)昭島市大神町 観音寺       ・    ・
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   ・  4手・承応4年・光背・(神)高座郡寒川町大曲 八幡神社    ・    ・
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   ・    ・延宝2年・光背・(千)柏市布施 大日堂         ・    ・
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   ・    ・寛文1年・光背・(埼)大里郡妻沼町西城 長慶寺     ・    ・
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   ・青面金剛・文化9年・雑型・(東)青梅市千ケ瀬 宗建寺       ・    ・
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   ・  6手・寛文11年・笠付・(神)三浦郡葉山町上山口        ・    ・
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   ・    ・寛文3年・光背・(千)東葛飾郡関宿町台町 光岳寺    ・    ・
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   ・    ・寛文3年・板碑・(埼)北足立郡吹上町明用 観音寺    ・    ・
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   ・青面金剛・文化12年・駒型・(東)府中市天神町 路傍        ・    ・
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   ・  8手・文化2年・駒型・(神)三浦郡葉山町一色 玉蔵院     ・    ・
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   ・    ・元文1年・駒型・(千)浦安市堀江 宝城院        ・    ・
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   ・    ・宝永2年・光背・(埼)春日部市上大増 香取神社     ・    ・
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   ・青面金剛・宝暦6年・笠付・(東)田無市本町 総持寺墓地      ・    ・
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   ・  3面・文化3年・笠付・(神)藤沢市下上棚           ・    ・
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   ・    ・延宝6年・板碑・(千)松戸市大橋 浄念坊        ・    ・
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   ・    ・寛文3年・笠付・(埼)大宮市西遊馬 高城寺       ・    ・
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   ・帝釈天 ・明治14年・板碑・(東)目黒区平町 帝釈堂        ・    ・
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   ・    ・宝永1年・笠付・(神)大和市大和田 薬王院       ・    ・
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   ・    ・嘉永5年・駒型・(千)松戸市紙敷 庚申前        ・    ・
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   ・猿田彦 ・天保2年・駒型・(東)青梅市成木 松木峠        ・    ・
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   ・    ・万延1年・柱状・(神)横須賀市久里浜 天神社      ・    ・
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   ・    ・文政10年・丸彫・(千)野田市木野崎菊谷         ・    ・
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   ・    ・嘉永6年・駒型・(埼)川口市舟戸町 善光寺墓地     ・    ・
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   ・1  猿・貞享1年・板駒・(東)狛江市和泉 泉龍寺        ・    ・
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   ・    ・享保4年・板駒・(神)横須賀市久留輪 粒石       ・    ・
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   ・    ・寛文12年・板碑・(埼)大里郡川本町屈巣 観音堂     ・    ・
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   ・3  猿・寛文10年・板碑・(東)青梅市小曽木 小枕路傍      ・    ・
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   ・    ・寛文10年・板碑・(神)横浜市金沢区六浦町三艘      ・    ・
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   ・    ・寛文5年・板碑・(埼)北葛飾郡杉戸町佐左衛門 松田寺  ・    ・
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   ・群  猿・無年紀 ・柱状・(神)藤沢市江ノ島 奥津宮下      ・    ・
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   ・釈迦如来・寛文12年・光背・(東)墨田区墨田5−42 円徳寺     ・    ・
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   ・ 説法印・延宝1年・光背・(千)流山市中野久木 愛宕神社     ・    ・
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   ・釈迦如来・寛文4年・光背・(東)足立区西綾瀬 長性院       ・    ・
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   ・  合掌・明暦2年・笠付・(千)市川市曽谷 安国寺        ・    ・
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   ・薬師如来・宝永7年・丸彫・(東)東大和市清水 清水神社      ・座  像・
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   ・    ・寛文10年・笠付・(千)船橋市西船橋5丁目 路傍     ・    ・
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   ・    ・寛文10年・光背・(埼)蕨市錦6丁目 堂山墓地      ・    ・
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   ・阿弥陀 ・元禄7年・笠付・(東)八王子市万町 観音寺       ・    ・
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   ・  定印・寛文10年・笠付・(神)鎌倉市大町 八雲神社       ・    ・
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   ・    ・延宝年間・光背・(千)印旛郡白井町法目         ・    ・
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   ・阿弥陀 ・延宝4年・光背・(東)調布市深大寺町 諏訪神社     ・    ・
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   ・ 来迎印・寛文2年・笠付・(神)横浜市戸塚区舞岡町桜堂      ・    ・
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   ・    ・承応2年・光背・(千)富津市竹岡 十夜寺        ・    ・
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   ・    ・寛文3年・光背・(埼)越谷市宮本町 地蔵院趾      ・    ・
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   ・阿弥陀 ・元禄2年・光背・(東)町田市成瀬 吹上路傍       ・    ・
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   ・  合掌・天和3年・笠付・(神)鎌倉市二階堂           ・    ・
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   ・大日如来・元禄2年・笠付・(東)町田市図師町 日向路傍      ・    ・
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   ・ 金剛界・延宝8年・笠付・(神)津久井郡藤野町上河原       ・    ・
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   ・    ・寛文6年・丸彫・(千)流山市流山8丁目 路傍      ・    ・
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   ・大日如来・承応2年・光背・(東)台東区浅草2丁目 銭塚地蔵    ・    ・
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   ・ 胎蔵界・元禄10年・光背・(神)横浜市保土ヶ谷区今井町 金剛寺  ・    ・
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   ・    ・延宝4年・光背・(千)流山市西初石           ・    ・
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   ・聖観音 ・寛文3年・光背・(東)大田区田園調布 密蔵院      ・    ・
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   ・    ・延宝3年・光背・(神)横浜市戸塚区矢部町 八幡神社   ・    ・
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   ・    ・正保3年・光背・(千)浦安市堀江 大蓮寺        ・    ・
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   ・    ・寛文5年・光背・(埼)八潮市柳の宮 狩野家墓地     ・    ・
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   ・馬頭観音・安永8年・駒型・(東)東村山市久米川 野行路傍     ・    ・
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   ・如意輪 ・寛文8年・光背・(東)練馬区旭町 仲台寺        ・    ・
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   ・    ・寛文1年・丸彫・(神)川崎市幸区北加瀬 寿福寺     ・    ・
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   ・卅三所 ・享保5年・板駒・(東)江戸川区東瑞江 下鎌田地蔵堂   ・秩父霊場・
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   ・勢至菩薩・天和3年・笠付・(東)町田市小山町 日枝神社      ・    ・
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   ・    ・年不明 ・光背・(千)我孫子市中里 薬師堂       ・    ・
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   ・    ・延宝8年・光背・(埼)三郷市彦倉 虚空蔵堂       ・    ・
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   ・地蔵菩薩・寛文4年・光背・(東)稲城市東長沼 常楽寺       ・    ・
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   ・    ・寛文3年・光背・(神)川崎市高津区久地 養周院     ・    ・
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   ・    ・万治2年・光背・(千)浦安市新井 延命寺        ・    ・
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   ・    ・承応3年・光背・(埼)越谷市越谷 天岳寺        ・    ・
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   ・六地蔵 ・元禄15年・石幢・(東)町田市野津田町 丸山路傍     ・    ・
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   ・    ・延宝2年・燈籠・(神)秦野市堀之内           ・    ・
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   ・    ・寛文5年・石幢・(埼)羽生市常木 長光寺趾       ・    ・
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   ・不動明王・貞享1年・笠付・(東)八王子市館町 梅元庵       ・    ・
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   ・    ・寛文11年・光背・(神)横浜市鶴見区東寺尾 不動堂    ・    ・
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   ・    ・寛文9年・光背・(埼)岩槻市馬込 満蔵寺薬師堂     ・    ・
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   ・倶利迦羅・寛文6年・光背・(東)豊島区高田 金乗院(目白不動)  ・    ・
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   ・閻魔大王・貞享2年・丸彫・(東)北区仲十条 地福寺        ・    ・
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   ・    ・元禄10年・丸彫・(神)横浜市中区南中通 県立博物館   ・    ・
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   ・仁  王・元禄10年・丸彫・(東)足立区扇2−9 三島神社     ・    ・
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   ・弁才天 ・元禄2年・光背・(東)足立区千住仲町 氷川神社     ・    ・
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   ・    ・宝永6年・光背・(埼)川越市下松原 路傍        ・    ・
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   ・聖徳太子・嘉永3年・駒型・(千)世田谷区用賀 真福寺       ・    ・
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   ・    ・元禄5年・板駒・(埼)横浜市港北区綱島西 来迎寺    ・    ・
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   ・双体道祖・明和6年・光背・(神)茅ヶ崎市東寺尾 池端路傍     ・    ・
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   ・枡形牛王・享和4年・柱状・(神)藤沢市片瀬 泉蔵寺入口      ・    ・
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   ・狛  犬・享保6年・丸彫・(東)新宿区北新宿 鎧神社       ・    ・
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      ※(東)=東京都 (神)=神奈川県 (千)=千葉県 (埼)=埼玉県

    3 文 字 塔
 庚申塔は、主尊像を刻んだものだけでなくて、寛政以降は「庚申」とか「庚申塔」、あるいは「庚申供養塔」と彫られた文字塔が多数造られている。いうまでもなく第2期の混乱期や第3期の青面金剛期にも文字塔が建てられている。そうした比較的早い時期の文字塔では、前記のような簡単な主銘ではなく、「奉待庚申十六佛成就供養塔」や「奉果庚申待二世成就所」、あるいは「奉造建高真供養成就」「奉納庚申供養」「奉庚申後世善所二世大願成就円満所」などのように長居主銘が多い。

 文字塔においても「青面金剛」や「青面金剛明王」「青面王」などのように、主尊の尊名を刻む塔が見られる。神奈川県公郷町の寛永12年(1635)塔に刻まれた「帰命山王庚申大権現」もそうした1例である。この種の主銘に「帝釈天王」「釈提恒因天」や「猿田彦命」「猿田彦大神」などがあり、埼玉県富士見市水子山崎の年不明塔に見られる「大日如来」や千葉県市川市八幡・葛飾八幡の文政6年(1823)塔と同7年塔に刻まれた「道祖神」は珍しい例である。埼玉県では、行田市およびその周辺(旧忍藩領)で旧来の庚申塔を「塞神」と改刻した塔が見られる。東京都武蔵野市吉祥寺東町・安楽寺には「南無阿弥陀佛」の六字名号を主銘とした寛文5年(1665)塔があるし、同三鷹市牟礼の享保17年(1732)塔には「南無妙法蓮華経庚申供養之所」と題目を刻んでいる。このように六字名号や法華題目を主銘とした塔も見られる。

 庚申系統の庚申塔を集めてもバラィティがあり、前記以外に「庚申塚」「庚申墳」「庚申宮」「庚申灯」「庚申尊」「庚申講中」「庚申佛」「庚申神」「庚申大神」「甲申塔」「庚甲塚」「百庚申」「千庚申」「萬庚申」などがある。変わったところで「庚申千社供養塔」や「奉納札千庚申供養塔」という主銘も見られる。

    4 猿 の 像
 庚申塔の魅力の1つに、猿の姿態の変化があげられる。庚申塔を知らなくても、「みざる・きかざる・いわざる」の3匹の猿が彫られた石塔だといえばわかるほど、3猿は庚申塔のシンボルである。山中共古翁が庚申塔を「三猿塔」と呼んで、その著『共古随筆』に1章を加えているのも、庚申塔と3猿が密接に結びついているのを端的に表している。

 東京都にある古い殊に刻まれた3猿は、行儀のよい菱形である。神奈川県、特に三浦半島で見られる3猿は、早い時期から横向きになったり、脚を延ばしたりして自由な姿態をしている。いわば東京の3猿が楷書的であるならば、三浦のは草書的といえよう。東京でも時代が下ると菱形の行儀よいのがくずれて、烏帽子をかぶり、狩衣やチャンチャンコを着て、手に御幣や鈴・扇子などを持って自由なポーズをとる猿が現れてくる。八王子市の塔の中には、桃の木にぶらさがる3猿や駒曳きの3猿が刻まれている。千葉県野田市内の庚申塔は、猿の変化に富んでいて面白い。

 殊に彫られた猿は、圧倒的に3猿が多いけれども、1猿・2猿・3猿・群猿も見られる。1猿は、主尊として登場するし、1鶏を伴って下部に刻まれる例が多い。2猿は、通常、横向きで向き合って拝む姿が多く見られる。5猿は、東京都町田市広袴町の延宝5年塔に刻まれており、群猿は、神奈川県藤沢市江の島にある無年紀塔に浮き彫りされるもので、各書に紹介されて有名である。

    5 塔 の 形 態
 南関東の庚申塔は、主尊像の変化もさることながら、形態的にも変化に富んでいる。表2は形態別に各都県1例で表示した。ごく普通に見られるような庚申塔ばかりでなく、この表からもわかるよに五輪塔・宝篋印塔・層塔・石幢・燈籠・石祠など、さらに庚申塔と呼ぶに抵抗のある鳥居や手洗鉢に至るまで、かなりの範囲に及んでいる。これも南関東の庚申塔の大きな特徴といえる。

   表2 南関東形態別庚申塔一覧表
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   ・形  態・年  銘・ 所         在         地 ・備  考・
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   ・五輪塔 ・正保3年・(東)杉並区永福 永福寺           ・    ・
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   ・    ・慶安3年・(神)横浜市緑区田奈町 稲荷社        ・    ・
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   ・    ・寛文11年・(千)我孫子市新木 長福寺          ・    ・
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   ・宝篋印塔・宝暦11年・(東)日野市下田 八幡宮           ・    ・
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   ・    ・正保2年・(神)横須賀市芦名 城山           ・    ・
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   ・    ・寛文3年・(埼)熊谷市玉井前岡             ・    ・
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   ・層  塔・明暦4年・(東)調布市深大寺町城山           ・2鶏2猿・
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   ・    ・元禄3年・(千)市川市柏井町 土神社          ・    ・
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   ・石  幢・元禄15年・(東)町田市野津田町 丸山路傍        ・六地蔵 ・
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   ・    ・享保年間・(神)横浜市緑区下谷本町 農協前       ・六地蔵 ・
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   ・    ・寛文5年・(埼)羽生市常木 長光院趾          ・六地蔵 ・
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   ・燈  籠・宝暦11年・(東)西多摩郡檜原村大沢 貴船神社      ・    ・
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   ・    ・寛文1年・(神)川崎市幸区小倉 無量院         ・六地蔵 ・
   ・    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・    ・元文3年・(千)我孫子市新木 葺不合神社        ・    ・
   ・    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・    ・寛文9年・(埼)北葛飾郡吉川町三輪之江 定勝寺     ・3  猿・
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   ・石  祠・寛文9年・(東)町田市三輪町下三輪           ・註尊大日・
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   ・    ・万治1年・(神)南足柄市飯沢 南足柄神社        ・2鶏2猿・
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   ・    ・寛永19年・(千)安房郡鋸南町下佐久間          ・    ・
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   ・鳥  居・享保5年・(千)流山市下花輪 神明社          ・    ・
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   ・手洗鉢 ・寛文7年・(東)墨田区墨田 正福寺           ・    ・
   ・    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・    ・文政10年・(神)横浜市保土ヶ谷区保土ヶ谷 帝釈堂    ・    ・
   ・    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・    ・文化7年・(千)我孫子市新木 葺不合神社        ・    ・
   ・    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・    ・元禄2年・(埼)越谷市東越谷 香取神社         ・3  猿・
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   〔資料提供〕横田甲一 清水長明 中山正義 沖本博 伊東重信 小林太郎 林国蔵
             『日本の石仏 南関東篇』(国書刊行会 昭和58年刊)所収より抜粋
庚申塔年表を作ろう
 最近、友人から或る雑誌をいただいた。それには、G県某町にある700基近い庚申塔を調査された方の論考が載っている。県下現存最古の元亀4年(1573)石幢庚申塔を始め、全国的にみても研究者が注目する鶏や猿の初出と目される寛永13年(1636)笠付塔(未調査ながら干支が違っているし、塔形から考えて造立年銘に疑問が残る)、さらに塔形の変化をとらえた数表、添付された塔の写真は目をたのしませてくれる労作である。こうした諸点、また紙面の都合で単なる紹介だけに終わってしまったのは残念だが、庚申塔祈祷文は、この町、さらにはその周辺ばかりでなく、他の地域で研究を進める者にとっても非常に有益である。その町内の調査報告には敬意を表したい。

 しかし、高い評価を与えられる内容を持ちながら、一方では極めて低い評価しかできない部分も残している。このために全体として割り引かれた評価が下される恐れが多分にあり、肝心の部分も疑問視されかねない。まことに惜しいことである。問題になる点はどういう所かといえば、頁順に書き抜いてみると、「石幢形式は最古の庚申塔の形式」、「全国的に寛文年間に初めて青面金剛という言葉があらわれるので、これより古い像はありません」、「日本で最古の庚申塔は大永七年(一五二七)の造立です」、「庚申塔に青面金剛と刻むのは、全国的に考えても寛文年間に二〜三あるだけです」「一六六〇〜七〇年代の寛文延宝頃青面金剛を庚申様ときめるのですから、この頃青面金剛の像が作られた場合は全国的に注目されるものです。驚くことに延宝八年(一六八〇)の庚申年に町内に二基の青面金剛像が立てられています。前記元亀四年の庚申石幢が全国数番目の古塔であるとともに、この青面金剛像も亦、全国屈指のふるさであります」などがあげられる。これらの諸点は、つまるところ最古の庚申塔と寛文以前の青面金剛刻像塔に絞られるだろう。

 前記の問題点を含めた6項目について、私は論考を書かれた方に質問の手紙を出した。現存最古の庚申塔を大永7年石幢(私はこの論考によって初めて知ったが、所在地の記載がない)とし、寛文年間の青面金剛刻像塔が全国に2〜3基という方に軽々しく庚申塔の研究について「その研究は近々十年ぐらいの新しい学問」などといわれては放っておけない。若輩の私でさえも十数年の調査歴があり何よりも先輩諸氏の尊い業績を無視されては困る。こうした記事に怒りのあまり、いささか感情的で詰問調の手紙を送ってしまった。この点は若気のいたりとはいえ、反省しているけれども、ともかくも「けんか同然の御手紙ありがたく存じます」で始まるご返事をいただいた。その返信の中に

    延宝八年青面金剛像二基は、全国屈指はオーバーな表現であるという抗議については、今の
   ところ「そういうことになるかな」とも感じますが、貴殿とは極めて僅少の差だが、私の感覚
   が違うのである。青面金剛文字塔は多少古いのがあるが、像塔の方は寛文以前は殆ど見当たら
   ないと思います。私は石造美術のことを言っているのですよ。寺の須弥壇に安置されている木
   像や懸仏の青面金剛のことは言っておりません。延宝八年は、石造物としての青面金剛像が出
   現してまだ二十年にもならない時期であります。
    同じ延宝八年のものが埼玉県にも桐生市にもありますが、これらはやはり全国屈指の古さと
   表現すると多少オーバーかもしれないが、どうも私には屈指となるような気持がするのです。
   なぜかというと、おそらく全国では青面金剛石像は万単位の数となりましょう。万単位の数の
   中で数十番、場合によっては二〜三〇番程度の古さならば、最古とはいわないが屈指といって
   もよいかと考えるからある。ただ全国で何番目くらいかは現段階では、私には良くわかりませ
   ん。庚申研究の貴会でさえ八都県程度の調査しかまだ完成されていないので、オーバー表現か
   どうか判定しにくい立場にあり、私も貴殿もカンに頼って表現問題で論をしているのが現状か
   と思います。具体的に全国的に何番目だからオーバーであるという答えがほしいわけです。こ
   ういう女子供の口争いは誠につまらないと思います。という回答の1項目が記されている。

 かつて私は、庚申懇話会の会誌『庚申』69号(昭和49年刊)に発表した「情報化時代の『庚申』に望む」の中で「文禄以前でも慶長以前でも、わかる限りの庚申塔年表の発表が望まれる。それによって、現存最古の塔を始め誤った記述もかなり少なくなるだろう」と記した。この件に関して、まだ具体的に進展していないのは残念であるけれども、庚申懇話会編『日本石仏事典』が現在編集中であり、来春には発売予定になっている。これによって、最古の塔の問題は、現状よりは改善されるだろう。

 今回の場合は、売り言葉に買い言葉の面もなかったとはいえないが、これを単なる手紙上の喧嘩としての不毛な論争に済ませたくはない。現存最古の庚申塔については、横田甲一氏が「文明二年の庚申板碑」(『庚申』第69号)に発表されているし、例えば、石神井図書館郷土資料室編『庚申塔・・練馬の民間信仰の中から』(昭和48年刊)や青梅市教育委員会編『青梅市の石仏』(昭和49年刊)に書かれている。また、中世の庚申塔年表としては、清水長輝氏の『庚申塔の研究』(昭和34年刊)の巻末、植松森一氏の「寛永以前の庚申塔について」(『野仏』第5集 (昭和48年刊)があり、先にあげた拙稿にも九州の文禄以前の庚申塔17基をあげておいたから、ここでは寛文年間までに造立された青面金剛の刻像塔に限って簡単な年表を作ってみたいと思う。

 不完全ではあるけれども、とりあえず私の手許にある資料を用いて、返信中の「八都県程度の調査しか」といわれたよりも狭い範囲で、これだけの例がある証としたい。ただ手許にある資料といっても、私の生の調査資料では我田引水と受け取られる恐れがある。そこで私の資料を含めて、すべて過去に公表されたものに限って用いることにする。とはいうものの、私自身の調査資料は、すべて何らかの形で公表しているので、全て今回は使用されている。

 まず、年表に先立って使用した資料を明示しておくと
   秋山 正香 『庚申塔と塞神塔』四・五・八   昭和39〜42年刊 庚申資料刊行会
世田谷教委 『せたがや 供養塔・道標その二』 昭和40年刊   同会
   清水 長明 『相模道神図誌』         昭和40年刊   波多野書店
   石川 博司 『三多摩庚申塔資料』       昭和49年刊   私家版
   愛川文化財保護委 『愛川町の野立ち文化財 田代・半原地区』 昭41年刊 愛川町教委
   藤井 慶治 『横須賀市内の庚申塔資料(一)』(横須賀市文化財調査報告書第一集)
                          昭和42年刊   横須賀市教委
   石川 博司 「庚申塔調査報告」『ともしび』8号昭和42年刊   ともしび会
   伊東 重信 『横浜市庚申塔年表』       昭和42年刊   私家版
   藤井 慶治 「葉山・逗子地区の庚申塔」『三浦古文化』6号 昭和44年刊
   平野 栄次 『大田区の民間信仰(庚申信仰篇)』昭和44年刊   大田区教委
   平野栄次・南博 『品川の民俗と文化』     昭和45年刊   品川区
   川越市市史編纂室 『川越の石仏』       昭和48年刊   川越市
   船窪  久  『甲州の庚申塔』        昭和50年刊   私家版で、ここで用いた資料の中には古いものが含まれており、新町名表示や道路拡幅工事などの移転があるから、わかる範囲で所在地の表記を現状に合わせて改めた所があることを断っておく。
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   ・造立年・塔 形・   所     在     地    ・
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   ・承応3・光背型・神 茅ヶ崎市甘沼 八幡社        ・
   ・   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・承応4・光背型・神 茅ヶ崎市行谷 金山神社       ・
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   ・明暦2・光背型・神 藤沢市遠藤・松原 御岳神社     ・
   ・   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・  ?・光背型・神 茅ヶ崎市十間坂 神明宮       ・
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   ・寛文1・笠付型・東 板橋区板橋3 観明寺        ・
   ・   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・   ・光背型・埼 大里郡妻沼町西城 長慶寺      ・
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   ・寛文2・光背型・神 津久井郡津久井町鳥屋・馬石     ・
   ・   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・   ・笠付型・東 板橋区板橋4 東光寺        ・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・寛文3・笠付型・埼 大宮市馬宮宿 高城寺        ・
   ・   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・   ・光背型・東 江戸川区東小松川2 源法寺     ・
   ・   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・   ・笠付型・埼 所沢市旭町 庚申堂         ・
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   ・寛文4・光背型・東 江戸川区船堀6−9 法竜寺     ・
   ・   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・   ・光背型・埼 浦和市広ケ谷戸           ・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・寛文6・光背型・神 愛甲郡愛川町上ノ原         ・
   ・   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・   ・光背型・東 三鷹市中原4−16         ・
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   ・寛文8・笠付型・東 杉並区方南2−5 釜寺       ・
   ・   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・   ・笠付型・東 豊島区高田2−12金乗院(目白不動)・
   ・   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・   ・笠付型・東 杉並区成田西3−3 宝昌寺     ・
   ・   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・   ・光背型・埼 深谷市石塚 光明寺         ・
   ・   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・   ・板碑型・東 渋谷区恵比寿西2−11       ・
   ・   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・   ・板碑型・東 品川区南品川1−10 本覚寺    ・
   ・   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・   ・光背型・東 文京区根津1−28 根津神社    ・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・寛文9・光背型・神 愛甲郡愛川町川北・沢平       ・
   ・   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・   ・光背型・神 横浜市保土ヶ谷区天王寺町 神田不動動・
   ・   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・   ・笠付型・埼 加須市馬内 延命寺         ・
   ・   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・   ・板碑型・埼 大里郡大里村小八林 大福寺     ・
   ・   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・   ・光背型・神 横浜市南区上大岡町 青木社     ・
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   ・寛文10・柱状型・東 町田市相原町 大戸観音       ・
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   ・   ・板碑型・千 市川市行徳町高谷 安養寺      ・
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   ・寛文11・笠付型・神 三浦郡葉山町上山口・寺前      ・
   ・   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・   ・光背型・神 津久井郡津久井町根小屋・並木    ・
   ・   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・   ・笠付型・千 館山市館山 三福寺         ・
   ・   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・   ・光背型・東 北区神谷3−45 自性院      ・
   ・   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・   ・笠付型・茨 取手市曽江 金刀比羅神社      ・
   ・   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・   ・光背型・神 横浜市戸塚区戸塚町 富塚八幡    ・
   ・   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・   ・板碑型・東 世田谷区砧             ・
   ・   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・   ・笠付型・神 逗子市逗子5−2 亀ケ岡八幡    ・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・寛文12・笠付型・神 三浦郡葉山町上山口・唐木作     ・
   ・   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・   ・板駒型・神 横浜市南区別所町 白山神社     ・
   ・   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・   ・板碑型・東 大田区矢口3−21 円応寺     ・
   ・   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・   ・光背型・神 横須賀市追浜町1−27 良心寺   ・
   ・   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・   ・板駒型・東 世田谷区玉川奥沢町 九品仏     ・
   ・   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・   ・光背型・東 荒川区荒川4−10 子育地蔵    ・
   ・   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・   ・笠付型・東 新宿区戸塚 子育地蔵        ・
   ・   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・   ・光背型・神 横須賀市長浦町5−23 路傍    ・
   ・   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・   ・板碑型・東 渋谷区西原町 雲照寺        ・
   ・   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・   ・光背型・埼 大里郡大里村相上 路傍       ・
   ・   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・   ・光背型・東 荒川区荒川4−10 子育地蔵    ・
   ・   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・   ・笠付型・山 中巨摩郡白根町百々 秋月院     ・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・寛文13・光背型・神 横浜市金沢区野島 染王寺      ・
   ・   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・   ・光背型・神 藤沢市遊行通4 庚申堂       ・
   ・   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・   ・板碑型・東 世田谷区太子堂 円泉寺       ・
   ・   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・   ・笠付型・神 横須賀市矢部町 満昌寺       ・
   ・   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・   ・光背型・埼 川越市大中居 高松寺裏       ・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 上記の年表のように、限られた資料でみても寛文年間までに造立された青面金剛刻像塔は50基を越すのである。当然、未調査のものもあろうし、すでにわかっていてもここに載っていないものがあるだろう。さらに延宝8年まで延々とこの年表を書き加えていけばご希望に添えるかもしれにけれども、例えば伊東重信氏の『横浜市庚申塔年表』(前掲)から青面金剛刻像塔を拾うと、延宝元年から7年までのものが7基、延宝8年塔が13基ある。あるいは秋山正香と八木橋信吉両氏の『庚申塔と塞神塔』第2集(昭和38年刊)には、熊谷市内の延宝元年から延宝7年までのものが2基、延宝8年塔は10基記載されている。こうしたことから推測して、東京・埼玉・神奈川の2都県で100基を越すであろうし、場合によれば延宝8年塔だけでもその位の数になるだろう。全国では一体どのような数字が出るののか、予想もつかない。こうした数字をもっても、まだ「全国屈指の古さ」といえるであろうか。

 まったく変な動機から青面金剛の年表を作ったけれども、このようにまとめてみると、平野實氏が「少し時代が下って寛文年代になると、もはや数が多く、珍しい存在ではなくなる」(『庚申信仰』48頁 角川書店 昭和44年刊)と記した裏付けにもなるだろう。今回のような極く簡単なものであっても、利用方法を考えると活用の範囲は広い。関東地方の白地図の上に所在地毎に印をつけたら、それも造立年によって色を変えてマークしたら、面白い分布地図になるだろう。分布の密粗から判断して、さらに重点調査地域が定められるかもしれない。同じ時期の青面金剛の文字塔年表との対比、あるいは他の主尊(阿弥陀や地蔵など)の年表と比較するなど、多角的に利用したらよいだろう。

 ともあれ、対象範囲の広狭にかかわらず、いろいろな角度からの年表を作ったら、思いがけない発見があると考えられる。庚申懇話会でも、先年、日蓮宗系庚申塔の資料を持ち寄ったことがあった。それを総合した年表作りにまで進められなかったけれども、多大の効果をあげた。私事で恐縮であるが、最近昭島市の庚申塔をまとめた(『たま』第4号 昭和50年刊)。僅か12基の資料ながら年表を作り、これから年不明塔を「元禄から天明の間」と推測し、さらに塔形の変化に着目して「享保時代前後」に絞った。この塔の台石には享保20年の年銘があり、それを発見された地元・神山又男氏が報告されたので推測が正しかったことが立証されたわけである。もっとも台石(塔の後方に立てかけてあった)を見落としていた私の調査ミスがあるのだから、余り自慢になる話ではないけれども、年表の1つの利用法を示しているといえる。

 昭和45年3月、庚申懇話会で横須賀市内の共同調査を行った。主体は庚申講調査であったけれども、私もこれに参加して44基の庚申塔を調べた。この時は、塔の写真カードが早くできたので、造立年順にカードを並べてみたところ、同じ石工が造ったと思われる青面金剛像があるのに気付いた。年表こそ作らなかったが、所在地別に整理しておいたら気付かなかったろう。たまたま編年順に配列したからこそ、そうした発見があったわけである。

 それより先の昭和43年には、手元にある資料をまとめて庚申石祠年表を作ったことがある(『ともしび』第18号 昭和44年刊)。当時は80基程度であったが、年表を通して造立年代・分布範囲・祠型と所在地との関連など、いくつかの傾向を掴むことができた。これ以後は庚申石祠に注意を払っているので、現在では当時よりもさらに広い地域の事情がわかるようになった。これも年表作成の功徳だろう。

 年表は、対象を絞れば簡単にできるから、まず手近な資料を用いて作ってみたらどうだろうか。それを土台に考え、時にはグラフを作ったり、時代別とか主尊別に色を変えて分布図を作ったりして、傾向や特徴を掴むように努力するならば、意外な発見があるのに気付くだろう。調査カードをボックスに入れておくだけでは、カードは何も物語ってはくれない。やはり、行動を起こすことが必要などである。自分の住む市町村から始めて、群単位・県単位、あるいはもっと広い範囲でまとめれば、さらに効果が上がるだろう。単に庚申塔全体だけでなく、主尊別に主銘別に、あるいは荘厳別に多角的な年表も考えられる。調査地域の異なる同好の士と年表を交換して比較するように発展すれば、相互に予想もできなかった発見につながる。ともかく庚申塔年表を作ってみよう。(昭50・11・14記)
                 『かのえさる』創刊号(三申研究会 昭和50年刊)所収
 
関東庚申層塔仮年表
 昨昭和55年は、60年に1度廻ってくる庚申年であった。それを期して昨年から今年にかけて庚申特集を組む研究誌が見られた。昨年末に発行された『日本の石仏』第16号も「庚申年」を特集している。上伊那郷土研究会の『伊那路』では第24巻4号と11号の2号を、長野郷土史研究会の『長野』では第94号を庚申特集号に当てている。

 群馬歴史散歩の会から発行されている『群馬歴史散歩』第41号(昭和56年刊)は、そうした庚申特集の1冊である。従来から群馬県内に庚申層塔が多いことは知られていた。しかも分布の集中が見られるのは利根地方といわれながら、その実、断片的にしかわからない状態であった。ところが同誌に載った阿部孝氏の「利根沼田の層塔庚申塔」によって、その空白が埋められた感じがする。さらに同誌特集には
   小花波平六  「群馬の庚申信仰史」
   椎名 誠男  「一風変わった庚申塔」
   三原 宗作  「子持村野庚申塔」があり、これらの論考や報告の中に庚申層塔が含まれているために、群馬県内の状態を知るのに都合がよい。

 以上にあげた資料の他にも、これまで発行された文献の中には庚申層塔にふれたものがある。私の手元にある
   清水 長輝  『庚申塔の研究』      大日洞         昭和34年刊
   大護 八郎  『路傍の石仏』       真珠書院        昭和40年刊
   五十嵐昭雄  「大間々町の庚申塔について」『群馬歴史散歩』第11号 昭和52年刊
   大護 八郎  『石神信仰』       木耳社          昭和52年刊を加えて、次ぎに掲げる仮年表を作ってみると、いろいろとわかってくる。まず、仮年表を示すと、次の通りである。

   関東庚申層塔仮年表
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・番・年  号・層・ 特           徴 ・ 所    在    地 ・
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   ・1・天文5年・ ・               ・群馬県利根郡白沢村塩ノ井 ・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・2・承応3年・3・2猿・蓮華「奉安置庚申像」  ・群馬県利根郡新治村 泰寧寺・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・3・承応4年・ ・               ・群馬県利根郡川湯村湯地  ・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・4・明暦2年・5・日月・2鶏・2猿「庚申供養」 ・東京都調布市深大寺町城山 ・
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   ・5・明暦2年・5・日月・2鶏・2猿       ・群馬県沼田市鍛冶町 正覚寺・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・6・明暦3年・5・日月・2鶏・2猿・蓮華(注1)・群馬県利根郡月夜野町真政寺・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・7・明暦3年・5・2猿             ・群馬県利根郡白沢村 雲谷寺・
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   ・8・明暦3年・5・2鶏・2猿          ・群馬県吾妻郡中之条町中村 ・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・9・明暦3年・ ・               ・群馬県利根郡白沢村尾台  ・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・10・明暦3年・ ・「庚申供養」         ・群馬県沼田横塚町 神社  ・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・11・明暦3年・5・蓮華             ・群馬県利根郡白沢村峯堂  ・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・12・明暦4年・5・日月・2鶏・2猿・蓮華    ・群馬県利根郡月夜野町真政寺・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・13・万治2年・5・日月・2鶏・2猿・蓮華    ・群馬県利根郡月夜野町如意寺・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・14・万治2年・5・日月「南無阿弥陀佛」     ・群馬県利根郡白沢村平出神社・
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   ・15・寛文9年・5・日月・2鶏・2猿「庚申待供養」・群馬県利根郡昭和村 雲昌寺・
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   ・16・寛文10年・3・日月・2鶏・2猿・中尊4手青面・群馬県利根郡月夜野町下牧 ・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・17・寛文10年・3・日月・2鶏・2猿・中尊4手青面・群馬県利根郡月夜野町牧野社・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・18・寛文推定・3・日天・2鶏・2猿・中尊4手青面・群馬県利根郡月夜野町牧野社・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・19・延宝1年・5・2鶏・2猿「奉起立宝塔庚申供養・群馬県北分間郡榛東村柳沢寺・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・20・延宝1年・5・2鶏・2猿「奉造立宝塔庚申供養・群馬県北分間郡榛東村柳沢寺・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・21・延宝4年・ ・3猿             ・群馬県利根郡片品村土出  ・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・22・貞享3年・5・「奉讃青面金剛」       ・群馬県利根郡片品村武尊神社・
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   ・23・元禄2年・3・日月・如来          ・群馬県利根郡月夜野町下牧 ・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・24・元禄3年・5・「奉待庚申神講衆」      ・千葉県市川市柏井町 土神社・
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   ・25・元禄5年・ ・               ・群馬県利根郡昭和村川額  ・
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   ・26・元禄6年・3・日月・2鶏・2猿「奉建庚申塔」・群馬県利根郡新治村箕輪天神・
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   ・27・宝永2年・3・日月・2鶏・2猿       ・群馬県吾妻郡中之条町宗堂寺・
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   ・28・宝永4年・5・               ・群馬県山田郡大間々町浅原 ・
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   ・29・正徳3年・3・「念佛庚申供養塔」      ・群馬県利根郡月夜野町下牧 ・
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   ・30・享保3年・5・「妙法蓮華経」        ・群馬県沼田市坊新田町妙光寺・
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   ・31・宝暦2年・5・               ・群馬県北群馬郡子持村興福寺・
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   ・32・明和2年・7・「南無妙法蓮華経」      ・群馬県沼田市坊新田町妙光寺・
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   ・33・明和2年・ ・               ・群馬県利根郡新治村猿ケ京 ・
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   ・34・明和4年・7・               ・群馬県沼田市沼須     ・
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   ・35・寛政12年・5・               ・群馬県北群馬郡子持村寄島 ・
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   ・36・寛政12年・ ・               ・群馬県利根郡白沢村生枝  ・
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   ・37・寛政12年・ ・日月・鶏・猿         ・群馬県利根郡白沢村岩室神社・
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   ・38・安政4年・ ・               ・群馬県山田郡大間々町   ・
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   ・39・年不明 ・ ・               ・群馬県安中市西上秋間庚申塚・
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   ・40・年不明 ・5・2鶏・2猿          ・群馬県勢多郡粕川村月田  ・
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   ・41・年不明 ・3・日月・2鶏・3猿       ・群馬県北群馬郡子持村十二社・
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   ・42・年不明 ・5・               ・群馬県北群馬郡子持村双林寺・
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   ・43・年不明 ・3・「奉造立庚申供養」      ・群馬県吾妻郡吾妻町金井墓地・
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   ・44・年不明 ・4・3猿             ・群馬県利根郡月夜野町和名中・
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   ・45・年不明 ・3・2鶏・3猿          ・群馬県利根郡利根村 海蔵寺・
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   ・46・年不明 ・ ・               ・群馬県利根郡昭和村川瀬  ・
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   ・47・年不明 ・3・               ・群馬県利根郡水上町平出  ・
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   ・48・年不明 ・4・               ・群馬県利根郡片品村東小川 ・
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   ・49・年不明 ・3・               ・群馬県利根郡片品村 大円寺・
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   ・50・年不明 ・4・月天・2鶏・3猿・蓮華    ・群馬県利根郡新治村 海円寺・
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   ・51・年不明 ・ ・               ・群馬県利根郡新治村東峯  ・
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 (注1) 「庚申待□供養」の銘文がある。

 資料の制約があって、細部が不明な塔があるために、重複や誤認が予想される。また、ここに洩れた塔も考えられるから、今後の調査によって補正していきたいが、これによって関東地方の庚申層塔がどのような状態にあるのか、大体の傾向がうかがえる。
 まず、分布の特徴は、群馬県、特に利根郡を中心として県北部に集中している。群馬以外では、東京都千葉に各1基の分布がある。このうち東京の塔は、茶室の庭に置かれており、元からあったものではない。千葉の1基は、外形上からも群馬とは系統を異にするから、東京の1基は、系統の同じ群馬から移された塔と推測される。

 さて造立年代から庚申層塔を見ると、ほぼ庚申石祠と同じような傾向が見られる。つまり、青面金剛の普及しない時期、庚申層塔の場合には、承応期から寛文期にかけての造立が多い。そして青面金剛の刻像塔が各地で建てられるようになる元禄期より建塔が減少している。ただ庚申層塔の場合は、調査の不備もあって、造立年代不明の塔がある点を考慮しなければならないが、三原宗作氏の報告によると、子持村寄島の5層塔には「明暦三年丁酉建之塔天明三年浅間山流失之残此度供養之寄島中寛政十二年庚申十一月吉祥日」と刻まれているから、年代の新しい層塔の中には、再建塔が含まれている可能性がある。

 庚申層塔については、私自身の調査数が少ないから、まだ層数と造立年代との結びつきに相関関係があるかどうか、はっきりしたことはいえないが、今年(昭和56年)6月31日に調査した次の塔の場合には

   明暦3年  5層  月夜野町真庭 真政寺
   同 3年  5層  同      右
   万治2年  5層  同町下津 如意寺
   寛文9年  5層  昭和村川額 雲昌寺
   同10年  3層  月夜野町下牧 小堂
   同10年  3層  同町下牧 牧野神社
   同(推定) 3層  同      

右の7基で見る限りでは、5層塔が古く、3層塔が新しいという結果が出ている。また、後の下牧の3基には、4手青面金剛像を浮彫りした中尊を4層目に入れている点が注目される。もしその中尊が造立当時のものであるならば、青面金剛の普及を示す例であり、共存していたことになる。

 この仮年表は、私の集められる資料をともかくまとめたものである。調査した塔は、私の判断を優先させたが、文献間の差異は信頼できる資料によった。しかし、仮年表を見て気付かれると思うが、中世年号の庚申層塔には疑問がないわけではない。私としては、寛文年間の塔ではないかと推測するが、調査しないで軽々に断定できないの資料通りに示した。その他にも、はたして庚申層塔といえるかどうか判断の下しようのない塔も見られるが、報告者の通りに記した。

 そうした個々の問題はあるにしても、断片的な資料をも組み込んで一表にまとめあげてみると、趨勢が読み取れる。これを土台に実地調査を行えば、実体がつかめる。ただ広範囲にわたるので多くの方々のご協力が必要なので、仮年表を作って発表した次第である。庚申層塔の多い群馬には、日本石仏協会の支部が結成されており、熱心な研究者が多いと聞いている。地元の地の利を生かして調査・研究をぜひ進めていただきたい。(昭56・ 8・17記)
                 『日本の石仏』第24号(日本石仏協会 昭和58年刊)所収
     
あ と が き
      本書は、これまで書いたものの中から庚申塔に関係したものを選んで1冊に編集した。
     それぞれの文末に記したように、各誌に発表している。

      最初の「庚申塔入門」は、庚申塔の初歩的な事柄をついて知っていただく意味で加え、
     「庚申塔の範囲の基準」と「庚申塔の形態」の一般論を続けた。次いで各地の「多摩地方
     の変わり型三猿」を始め、「都内庚申塔の種々相」「南関東の庚申塔」を取り上げ、最後
     に「庚申塔年表を作ろう」とそれに関連する「関東庚申層塔仮年表」を掲載した。
      ともかく、ご活用いただければ幸いである。
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                              庚 申 塔 あ れ こ れ
                              発行日 平成11年7月30日
                              著 者 石 川  博 司
                              発行者 庚申資料刊行会
                              〒1980083 青梅市本町120
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