万歳型青面を追う                              石 川 博 司

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  ┃┃ 万 歳 型 青 面 を 追 う  ┃┃ 目    次 ┃┃
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      万歳型青面を歩く
         横山行−正月例会      ・・・・
         上野原の石仏        ・・・・・
         多摩市の石仏        ・・・・・
         新田の石仏         ・・・・・・
         町田を歩く         ・・・・・・・
         川崎を歩く         ・・・・・・・
         世田谷・桜丘を歩く     ・・・・・
         古谷本郷の八手青面     ・・・
         厚木西部を歩く       ・・・・・・
      万歳型青面を分析する
         万歳型の名称        ・・・・・
         西多摩の万歳型       ・・・・
         北多摩の万歳型       ・・・・
         八王子市内の万歳型     ・・・
         東京区部の万歳型      ・・・・
                                              総目次へ
万歳型青面を歩く
横山行−正月例会

 一月十二日(日)は、多摩石仏の会の新年例会だ。午前九時三〇分、国電高尾駅改札口前に集合である。総会に先立って、恒例の石仏の見学を始める。長房町廾里の松本広場で思いがけず塞の神を作っているのに出会う。中央に建てられた竹の頂点に置かれたダルマは、その年のエトの方角、今年でいえば寅の方向に向けるという。十五日の朝六時に焼かれるそうで、町会に掲示板にもポスターが貼られている。

 見学の最初は、長房町中郷にある今日の目玉ともいうべき合掌弥陀主尊と台石に駒引きの三猿を配した庚申塔二基である。すなわち、
  1 宝永2 笠付型 合掌弥陀                  52×27×21
  2 安永7 笠付型 青面金剛・二鶏・三猿            71×31×26である。両塔を初めて見たのは、二〇年ほど前になる。今日とは逆コースから来たせいか、以前の記憶とは反対の方向を向いているように感じられた。駒引きの三猿は、恩方町辺名にもみられる。多摩御陵の参道を横切ると、二十年前に回った頃とちがって、人家が多くなって、あたりの風景も変った。

慈眼寺では、
  3 年不明 台 石 三猿                    21×38×32を見る。本塔は見当らないが、おそらく笠付型の青面金剛であろう。
中郷の小道を少し北にはいった路傍には、
  4 安政7 自然石 「庚申塔」三猿               88×36が立っている。台石に薄く浮彫された三猿は、むっくりとしており、三面に配される。
 浅川を渡って東浅川町に入り、まず新地にある庚申塔を訪ねる。
  5 元禄6 笠付型 青面金剛・三猿               71×25×18この塔の主尊は、上手に矛と刀、下手が徒手の四手青面金剛で、八王子市内でも珍しい。下部に刻まれた三猿は、神奈川県津久井地方で寛文年間に見られるような形式である。 原宿の山王社に行くと偶然とはいいながら、氏子の方が本殿の傷みを調べるために、ご神体の石猿を出すところであった。多摩石仏の会の初期の例会で県さんに案内されて来た時(もう十八年前になろうか)に一度対面している。御幣を持つ丸彫りの坐像で、背面に「願主 町田甚右衛門」の銘が刻まれている。
この社の境内には
  6 天明8 灯 篭 「青面金剛庚申」              57×24×24竿石の他の面には「秋葉大権現」「地蔵大菩薩」「天明八年 村中安全」の銘があり、火袋は失われている。近くの集会所では、塞ノ神の準備が進められている。
ここの前庭に
  7 宝暦11 笠付型 日月・青面金剛・三猿            65×28×21が見られる。青面金剛は、上二手が日天と月天を捧げ持つ合掌六手像である。

次に回った原宿自治会館にも同じような青面金剛がある。
  8 明和3 笠付型 日月・青面金剛・三猿            78×31×32がそれで、左側面の「具金剛體現四臂姿 妙應信念施與」の銘が珍しい。ここには、
  9 寛延3 柱状型 「奉供養庚申塔」              55×25×24があり、長い銘文の中に「彭侯子 彭常子 命児子」の三尸銘を刻む。この塔に接して小屋が作られているから、体をおりまげて調査しなければならない。

 中央線のトンネルを抜けて散田町に出る。総会の時間の関係で寺は前を通り過ぎ、神社の庚申塔や三猿石祠も省略する。もう一基の庚申塔も遠くから所在を確認しただけで真覚寺に向かう。境内には
  10 宝永2(笠付型)日月・青面金剛・三猿           58×26×18が見られる。本堂の裏手脇にある奪衣婆・業秤・浄玻璃の鏡の三点を撮る。
後は総会の会場である旭ケ丘会館に向かう。   
〔初出〕『私の石仏巡り(昭和編)』(ともしび会 平成7年刊)所収


上野原の石仏

 平成二年十一月二十三日(金曜日)は、勤労感謝の日である。この日に多摩石仏の会十一月例会が行なわれる。JR中央線四方津駅に一〇時集合、犬飼康祐さんの案内で山梨県北都留郡上野原町の石仏を廻る。先月二十一日、私が案内した梁川〜四方津に続く四方津〜上野原の中央線沿線石仏散歩コースである。参加したのは、鈴木俊夫・林国蔵・藤井正三・関口渉・多田治昭・大野純子の各氏に、久方振りに参加された木崎保雄さんと林一夫さんの顔が見えて総勢一〇人となる。

 四方津駅から甲州街道に出て東に進み、最初は鼓楽神社を訪ねる。境内にある貞享三年五月の流造りの石祠を見る。室部正面には、狐か狼か四つ足の動物が陽刻されている。何を目的にこのような像を彫ったのであろうか。

 中央線の跨線橋を渡り、久保の集落に入る。以前より明るくなった感じのする塚に
  1 延享5 笠付型 日月・青面金剛・二鶏・三猿         69×32×30が立ち、横に寛延元年の二十三夜塔がある。それは、笠付型で上部に日月、中央に合掌する勢至菩薩の立像を陽刻する。近くに大正三年十二月造立の「生馬大神」がみられる。
 集落の中央には、道路下に流造りの石祠がある。右側面に「延宝八庚申年十一月」、左側面に「奉造立宮 浅間大菩薩」と刻む。室部正面に三尊仏が浮彫りされているが、摩滅が甚だしい。富士信仰に関係する銘文から考えて、刻像は弥陀三尊であろう。
 桂川に架かる杖突橋を渡り、杖突に向かう。集落を抜けて袋香寺を尋ねる。寺の入口には、石仏が並んでいる。寛延四年の大きな三界万霊塔の横には、「奉造 享保十一年丙午天 十二月中旬」の銘文がある笠付型の十王塔が立つ。塔の正面には、中央に地蔵の立像を置き、左右に奪衣婆と懸衣翁を配する。その下部に人頭杖や業の秤、浄玻璃の鏡を陽刻する。左右の両側面には三王ずつ、背面には四王の十王を浮彫する。先月見た大月市梁川町新倉の丸彫りの十王像とは趣が異なる。ここには、安永五年の山角型「廾三夜塔」もみられる。

 甲州街道に出て牧野に入る。ここから「悉聖寺」までバスに乗る。松留二二六番地の鷹取家に行き庭にある
  2 明和8 笠付型 日月・青面金剛・二猿            69×29×27をみる。下部に浮彫りされている二猿は、向かい合って御幣を担ぎ、富士山に登る図である。富士信仰と何かの関わりがあるのだろう。以前に犬飼さんから写真を頂いた未見の塔である。ここには、享和元年の「廾三夜」山角型がある。

 八ツ沢に入り、二基の念仏塔を見てから八幡神社に向かう。境内には
  3 享保3 笠付型 日月・青面金剛・二鶏・三猿         63×28×22がみられる。主尊の青面金剛は、上方手に日月を持つ合掌六手立像である。

 新田倉の路傍に双体道祖神がある。像の左右に「元禄拾参年」「辰天壱月吉日」と年銘が刻まれている。これをよくよく見ると、発泡スチロールを細工したもので、黒で古色をつけている。どこかの道祖神を真似て作ったものだろう。一見すると双体道祖神石像と間違えるくらいの出来である。横には天保十三年の善光寺の名号塔や明治十八年の「蚕馬頭尊」などがあり、「武州上岡邑」を刻む馬頭もみられる。現在は埼玉県東松山市にある上岡観音の影響が「武州上岡邑」の銘文から読み取れる。

 新田倉で寛政二年の柱状型「廾三夜」塔を見てから、新井にある明神社に向かう。本日の目玉の一つである庚申石祠を見るためである。拝殿の前には
  4 享保5 流造型 丸彫り中尊・三猿              29×30×28
  5 年不明 柱状型 (上欠)如意輪・三猿            26×23×24がある。4の石祠には、丸彫りの中尊が安置されている。以前は石祠から中尊を取り出すことができたが、現在は屋根部と室部がセメントで固定され、前面の窓からしか中尊を見られない。以前に撮った写真を見ると、胸の前に茶碗状のものを奉持する立像である。頭部が欠けていて確かなこはいえないが、螺髪ではないかと思われる。とすると、中尊が薬師如来の可能性もある。5は、石祠の室部かもしれないが、一面に上欠の如意輪観音と思われる像を浮彫し、反対の面には三不型の猿を陽刻する。離れた所に寛政十一年の柱状型「廾三夜」塔がみられる。

 羽佐間の観音堂の境内には六地蔵や馬頭があり、それらに混じって
  6 享保16 光背型 日月・青面金剛・二鶏・三猿    93×44が並んでいる。主尊は、合掌六手の立像である。離れた所に
  7 年不明 流造型 二鶏・二猿                28×27×22がある。右側面に猿、左側面に鶏が浮彫りされている。猿は、不見猿と不聞猿でるから、先月見た川合の石祠に比べて造立の時代は下るだろう。昭和四十三年十一月撮影の写真を見ると、石祠の中に石棒が安置されていたが、今はなくなっている。ここには、『日本石仏事典』(雄山閣出版 昭和〓年刊)の「八幡大明神」の項に写真(一〇一頁参照)を掲げた丸彫り像があるが、現在は鍵のかかった木祠に入っていて外には出せない。

 裏道を東に進むと、道沿いの一角に近年作の石仏がみられる。その一つが琵琶を奏でる浮彫りの弁才天で、出来も良い。大通りに出てバスでJR上野原駅に向かう。駅の入口で解散する。皆と別れてから鈴木・犬飼・多田・大野の四氏と共に諏訪に向かう。
途中にある下新田の大神宮の境内には
  8 元禄3 笠付型 聖観音・一猿    73×25×20が立つ。主尊は蓮華を持つ立像で、下部の猿は合掌をする。右側面には「奉庚申供養」の銘がある。山梨県では、聖観音主尊の庚申塔が珍しい。

 下新田から諏訪に出て、慈眼寺を訪ねる。『石仏研究ハンドブック』(雄山閣出版 昭和〓年刊)の「石仏研究の事例と課題」で紹介した(一四二頁参照)
  9 文化10 笠付型 青面金剛・三猿    58×25×19の二手青面金剛を見るためである。主尊は、合掌の立像で弓矢を背負う。右側面に「旧塔ニ延宝九年ト有」の銘が刻まれている。また「當村女念佛構中」「世話人 平兵衛母 弥兵次母」の施主銘から造塔に女性が関与していたことがわかる。

 慈眼寺から諏訪神社に行き、境内にある文化六年の自然石「廾三夜」塔と
  10 年不明 自然石 「庚申塔」    79×53を見る。主銘は隷書体で「塔」の土偏が左ではなく、下に置かれている。

諏訪神社から最前来た道を戻る。桂川を見通せる西に向かう道では、日暮れの光景が美しい。陽が沈んだ後の茜色の空の下には黒々した山なみが続いている。桂川は静かに流れている。日頃、忘れている自然の美しさを思い出させる。やがて上野原駅に着く。
            〔初出〕『私の石仏巡り(平成編)』(ともしび会 平成7年刊)所収
多摩市の石仏

 多摩石仏の会五月例会は、平成三年五月十二日(日曜日)に犬飼康祐さんの案内で多摩市内の石仏を廻る。京王線聖蹟桜ケ丘駅の改札口前に午前九時三十分集合である。

 分倍河原駅で京王線に乗換える時にうっかりして、いつも利用している上りホームで急行電車に乗車した。間違いに気付いたのが調布駅を過ぎてから、千歳烏山駅で折り返して聖蹟桜ケ丘駅に向かう。集合場所に着いたのは、九時四十五分、すでに出発した後である。今日のコースを想定して関戸に向かい、霞ケ関の地蔵堂で一行に追いつく。参加したのは、案内の犬飼康祐さんを始め、鈴木俊夫・林国蔵・明石延男・福島茂・多田治昭・大野純子・遠藤塩子さんである。犬飼さんからは今日の見学コース地図と石仏一覧表、鈴木さんからは『東京都の庚申塔 第一集 江東区』をいただく。

 大栗橋から旧・鎌倉街道に入り、辺りの景観が変わっていて初めて歩くような感じがする。地蔵堂で寛政元年の永代融通念仏塔を見てから、次は塚の上に祀られた小祠にいく。分倍河原の合戦で戦死した横溝八郎の墓と伝えらる。次いで見学したのは、街道沿いの石垣の上にある文字庚申である。
  1 寛文13 笠付型 日月「奉待庚申之人族七人」二鶏・三猿   109×37二鶏と三猿を浮彫りしながら、「申三疋鶏二羽」の銘文を刻んでいるところが面白い。多摩市最古の庚申塔である。塔そのものは、昭和三十九年に調べた時から見ると風化したのか、いくぶん銘文が読みにくい。この辺りは、まだ昔の面影を残している。

 駐車場の木祠の中にある板碑、観音寺前の六観音、寺の境内にある持経観音などを廻ってから、熊野神社にある
  2 寛政8 柱状型 「庚申塔」
  3 寛保3 光背型 日月・青面金剛・三猿を見る。2の主銘と台石正面の「三匹猿」は、篆書体で刻まれている。三猿を浮彫りする代わりに、日野市を中心としてこの塔のように三猿の文字化が見られる。範囲は、あまり広くはないが、多摩の庚申塔の特徴の一つにあげられる。

 貝取に入って鎌倉街道をはずれて進むと、市役所の手前の高みに
  4 年不明 板駒型 日月・青面金剛・二鶏・三猿         80×36がある。下部の施主銘の始めに「西念寺」がみえる。
 市役所を過ぎ、鎌倉街道を横切って永田橋のたもとに出る。橋の手前の地蔵堂の中に
  5 享保12 笠付型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿      58×32×24がある。主尊は剣人六手の立像である。両側面には蓮華が浮彫りされている。

 乞田川に沿って進み、新大橋を渡って貝取の麦花塚に出る。ここには、阿弥陀や地蔵などの石仏に混じって
  6 宝永2 光背型 日月・青面金剛・三猿            54×32がみられる。先刻見た乞田の享保十二年塔と違って合掌六手の立像である。永田橋の地蔵堂の辺りか降り出した雨がいくぶん強くなってきたので先を急ぐ。

 乞田の釜沼橋から北に向かい、ニュータウン通りの北の道に出る。高みには、石仏が集められていて、その中に
  7 享保7 板駒型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿      97×48がある。ここには、弘化四年の「土公神」自然石塔(80×44・)がみられる。

 釜沼橋のバス停から多摩センター駅行きのバスに乗り、北落合小学校前で下車、落合・白山神社に向かう。ここには、先ほど見た乞田と同じ「土公神」自然石塔(86×39・)がある。安政五年に造立された。多摩地方で「土公神」の塔が見られるのは、多摩市の二基(乞田と落合)だけである。拝殿の軒下で雨を避けての昼食をとる。

 午後は、雨のために予定のコースを短縮して落合・唐木田に向かう。途中の落合・二反田の秋葉神社に寄り
  8 寛政11 柱状型 「庚申塔」三猿               56×25×16を見る。関戸の寛保三年塔、乞田の享保七年塔などと共に三猿の姿態が変わっている。

 小田急多摩線唐木田駅を過ぎて榎戸の共同墓地に行く。ここには、関戸で見た永代融通念仏塔より二年後の寛政三年に建てられた塔がある。ここから唐木田の稲荷神社に出る。稲荷神社の境内には
  9 寛政12 柱状型 日月・青面金剛・三猿が建っている。この青面金剛は、日月を捧げる万歳型の合掌六手立像で、上方二手は、前に拡げた掌に何も持っていない。
 境内にある木祠の中には、年不明の双体道祖神や陽物の「魂勢宮」が安置されている。初めてここを訪れた昭和三十九年五月二十五日には、盗難にあった初代の魂勢宮(陽物)が木の根元にあり、道祖神も庚申塔も青空のもと草の茂みの中に並んでいたのである。昭和五十三年十一月十二日には木祠の中の双体道祖神を持ち出して、丘陵をバックに写真を撮ったのを覚えている。現状の景観とは異なっているものの、当時の道祖神や青面金剛の記憶は残っている。木祠の中に置かれた
  10 宝永5 光背型 「奉待庚申供養」三猿            50×26は、昭和五十三年のころには一〇と共に前の木祠に入っていた。

 唐木田駅前で解散、犬飼さんと大野さんと共にさらに石仏を巡る。
落合の稲荷前では、安政二年の柱状型「道祖神」(46×19×14・)と
  11 元禄2 光背型 日月「奉供養庚申為二世安楽」三猿      49×28をみる。塔を見ていると熟年の男性が話かけてきた。ここの塞の神(せいのかみ)は、正月十四日の夕方に行われる。現在は「ドンド焼き」とも呼ばれている、という。この方の話では、今でも落合の五カ所で塞の神が行われるが、その中でも稲荷下が一番昔に近い形を続けているそうである。

 落合・山王下集会所の地蔵を見てから、落合・椚田の八坂神社に行く。参道には六地蔵が三組(推定)の他に観音や馬頭がある。それらに混じって安政三年の柱状型「道祖神」(48×22×15・)や
  12 享保5 光背型 日月・青面金剛・二鶏・三猿         59×31がみられる。主尊は、合掌六手の立像である。

 多摩センター駅に出て、京王相模原線・橋本経由で帰途につく。
              〔初出〕『平成三年の石仏巡り』(ともしび会 平成6年刊)所収
新田の石仏

 平成五年一月十七日(日曜日)は、多摩石仏の会正月例会である。恒例によって、午前中は石仏めぐり、午後から総会と新年会を行う。JR中央線国立駅北口で午前九時五一分発のバスに乗るので、私は九時半に駅につく。多田治昭さんと明石延男さんが集まり、すこし遅れて今日の案内役の犬飼康祐さんとたましんの坂田さん、最後は地元国立の関口渉さんとメンバーが六人になる。バスで「西町三丁目」までいき、最初の見学場所の神明社にむかう。

 神明社は、国分寺市西町三丁目にある。入口の右手には、安永六年の弁天の座像がみられる。右側面の年銘に「九月初七日己巳日」とある。左手には
  1 明和4 笠付型 日月・青面金剛・三猿がある。主尊は合掌六手で、上方手に日月を捧げもつ。台石の三猿は、中央の不聞猿が正面をむき、右の不見猿と左の不言猿が向かいあう。石段をのぼり、本殿の南側にある勝軍地蔵をみる。丸彫りの立像で、台石の正面には「奉供養愛宕地蔵権現」とあり、左右の側面には年銘が刻まれている。

 次いで同じ三丁目の観音寺をたずねる。門前の左右には六地蔵がある。左手のものは、丸彫りの立像で昭和四十一年に造立された。右から延命・陀羅尼・持地・法印・宝性・法性である。台石にはそれらの尊名が「延命地蔵菩薩」のように刻まれているが、「菩薩」の部分が一字の異体字で示されている。

 無縁墓地の隣には、昭和五十二年の丸彫り二手の馬頭観音立像がある。無縁墓地にも明治十四年や寛政十年、寛延 年の文字馬頭がみられる。明和七年の「石橋供養塔」の上部には、六手の馬頭観音座像が浮彫りされている。ここには丸彫りの魚籃観音がある。顔が剥落しているのが惜しまれる。なお墓地の入口には、文化八年の二手馬頭観音の立像がみられるが、頬を膨らませた顔に特徴がある。

 光町三丁目の稲荷神社には、本殿の裏側に不動明王・コンガラ・セイタカの三尊像がある。台石には文政二年の年銘が刻まれているが、「念仏講中」の銘文や不動石像の製作年代と違うように思われる。社前の狐が変わっている。

 最後の見学地は、西町二丁目の弁天八幡宮である。この社名が気にかかるが、「弁天」はこの地が弁天新田であることに由来する。境内には
  2 文化11 柱状型 青面金剛・一鬼・一猿がある。主尊の青面金剛は、は剣人六手の立像で鬼の上に立っている。下部には、烏帽子をかぶり、桃をもった猿が浮彫りされている。台石には「平兵衛 中藤 弁天 芋久保」の新田の地銘と文化の年銘が刻まれている。
ここを最後に、総会の会場であるたましん地域文化財団のある多摩中央信用金庫国立支店にむかう。   
〔初出〕『平成五年の石仏巡り』(ともしび会 平成5年刊)所収
町田を歩く

 平成七年二月十九日(日曜日)は、庚申懇話会と多摩石仏の会の二月例会が重なった。というものの、どちらの例会も町田市内の石仏を巡り、午後は町田市立博物館で窪徳忠・東大名誉教授の講演「庚申信仰の話」を聞くことになっていたから、どちらを選んでも午後には博物館で会えることになっている。
 多摩石仏の会は、小田急町田駅西口改札前に午前九時三〇分集合、庚申懇話会は、町田大丸前に午前一〇時集合である。私は、今回庚申懇話会に参加することにした。JR横浜線町田駅に着いたのが午前九時三七分、このころ多摩石仏の会の一行は出発したので、一足違いで朝は会えずじまいであった。庚申懇話会のメンバーは三〇人たらずである。小花波平六さんの案内で、まず原町田の宗保院に向かう。

 宗保院の境内にはいると、山門の手前の左手に大正二年の「開運出世 厄除 二十三夜尊」の柱状型塔がみられる。すこし先の右手にある石仏群の中には、片手で拝み、他の手で合掌した小さな地蔵を捧げる丸彫の地蔵、新しい六地蔵、奪衣婆などがならんでいる。六地蔵の一体は、逆手で柄香炉を持っている。

 次いで宗保院に近い町田天満宮を訪ねる。境内の横浜線に寄った北側で
  1 年不明 柱状型 三猿(三面)をみてから、天保十四年「□牢神」塔、年不明「地神塔」、大正九年「地神」塔の三基をみる。
 原町田から金森にはいり、杉山神社にいく。境内には参道の左側に石仏が並んでいる。
  2 年不明 柱状型 「庚申塔」
  3 元禄13 笠付型 日月・青面金剛・一鬼・三猿
  4 天明5 笠付型 日月・青面金剛・三猿の三基の庚申塔がみられる。青面金剛の中央の合掌手を除いた四手の形をみると、3はX形であり、4はH形である。一般にX形が古く、H形は新しい。また4は日月を捧げる六手像で、この種のものは多摩川の北岸にはきわめて少ない。ここには庚申以外にも、文化七年の「地神塔」、同年の「道祖神」塔がある。ここで見逃せないのが大日如来主尊の貞享四年塔で、「奉修日待供養為現世安穏後生善処也」の銘が刻まれている。

 金森から町田街道を横切り、横浜線の踏切を渡って高ケ坂にはいる。祥雲寺の前を通って地蔵堂にでる。境内には、いろいろな石仏がみられる。文政九年の「妻野神」塔と明和七年の単体道祖神は珍しい。庚申塔は
  5 元禄9 笠付型 青面金剛・一鬼・二鶏・三猿
  6 元禄15 光背型 地蔵「奉納庚申供養」
  7 享保17 光背型 日月・青面金剛・三猿
  8 安永6 板駒型 日月・青面金剛・三猿
  9 年不明 柱状型 「庚申塔」の五基があり、地神塔は文化四年の「堅牢地神」と文政二年の「地神塔」の二基、文政十一年の「二十三夜」塔などと多くの地蔵がみられる。

 道を南に戻して、先刻通り過ぎた祥雲寺に向かう。寺の入口にある
  10 明和8 柱状型 「□立庚申塔」
  11 年不明 光背型 日月・青面金剛をみてから、境内に入る。一石六地蔵、丸彫七福神、佛足石などは、『石仏を歩く』の取材ですでに知っていたが、平成五年九月以降に一代の守り本尊の八体仏(千手観音と阿〓如来の二体が欠けている)が造られていたのには気がつかなかった。変則な八体仏は、小平市小川・小川寺にみられる。

 祥雲寺から途中トポスで弁当を調達してバス・ターミナルに向かい、藤の台団地行きバスで市立博物館に行く。遺跡公園で昼食後、午後2時から博物館講堂で窪徳忠・東大名誉教授の講演「庚申信仰の話」を聞く。

 講演が終わってからは、多摩石仏の会に同行する。本町田の養運寺に行き、境内にある  12 年不明     青面金剛をみてから、稲荷坂にある藤木稲荷を訪ねる。ここにある
  13 文化8 柱状型 「庚申塔」                 62×10×18
  14 年不明 笠付型 日月・青面金剛・三猿            75×28×26の二基を調べる。13の両側面には、「北大山道」「南原町田みち」の道標銘が刻まれている。14は享保の造立らしく、右側面は剥落してわずかに「享」が読みとれる。

 ここで調査は終了し、バス停に向かって帰途につく。
              〔初出〕『平成七年の石仏巡り』(ともしび会 平成7年刊)所収
川崎を歩く

 平成八年五月十九日(日曜日)は、多摩石仏の会五月例会である。午前九時三〇分に小田急線読売ランド前駅に集合、多田治昭さんの案内で川崎市多摩区南部をまわる。集まったのは、鈴木俊夫さん・林国蔵さん・明石延男さん・関口渉さん・犬飼康祐さん・萩原清高さん・遠藤塩子さんの総勢八人である。

 最初の見学は、通りから少し入った大作自治会館(西生田二−一二)に立つ
 1 正徳2 光背型 日月「奉造立庚申供養二世安楽處」三猿    70×31である。日月は線刻、三猿は正面を向いている。ここには、聖徳太子千三百年記念の石祠がみられ、石工銘の「登戸石工 吉沢耕石」が台石に刻まれている。これも台石に彫られているが、施主の生田村太子講員の氏名が「姓名イロハ順」というのは、序列のいざこざを考えてのことだろうか。
 栗谷三丁目九番にある山王権現社には、境内に二基の燈籠が建っている。
  参1元文5 燈 籠 「奉納山王権現御寳前」           59×21×19
  参2延享1 燈 籠 「奉納山王権現御神前」一猿         57×22×27がそれで、参1は庚申年の造立、参2の猿は子猿を抱くようにも思われるが、欠けていてはっきりしない。なお参2には「願主 岸場勾當勢都」の銘がある。

 栗谷町会会館(栗谷二丁目一番)の横には覆屋があって、中には右端に嘉永七年の「堅牢地神」塔(71×29×25・)、左端に文化元年の「南無妙法蓮華経 道祖神」塔(70×25×19・)がみらる。道祖神の正面には主銘の他に「一天四海 皆帰妙法」の偈文、右側面には「溝口村 宗隆寺 日保(花押)」とあり、左側面には「五反田村庚申待搆中」、頂部には「大栗谷□(村か)」の銘文がある。両塔の間にはさまって
  2 元禄3 板駒型 日月・青面金剛・三猿            67×35
  3 宝暦11 板駒型 日月・青面金剛・三猿            73×32の二基の庚申塔がある。
 2は、主尊が合掌六手であるが、通常、下方手に持つ弓と矢が上にあり、下方手に索と蛇をとる。
 3は、2同様に合掌六手立像であるが、これは通常にみられる上方手に宝輪と矛、下方手に弓と矢を持つ。頭上に「南無妙法蓮華経」があり、像の右に「奉造立帝釈天王庚申講中」と、日蓮宗の影響を受けたものである。

 南生田二丁目二八番の坂の中途には、石祠の前に二基の庚申塔が並んでいる。
  4 元禄15 板駒型 日月・青面金剛・三猿            89×36
  5 享保16 板駒型 日月・青面金剛・三猿            61×33共に合掌六手の青面金剛であるが、4は上方の左手に索を持つのが変わっている。

 長沢の諏訪神社で昼食をとる。食後、参道に並んで立っている
  6 元禄5 光背型 日月・青面金剛・三猿            73×32
  7 延享2 笠付型 「庚申供養塚」               62×23×15をみる。6の年銘は、「干時元禄五壬申天無神月廾一日」と「神無月」を逆にしている。祈念銘も「奉造立庚申庚申尊像伸供養儀者也現安穏後生善処」と長い。
 通りに出て右の路傍に小祠(長沢四丁目一一番)があって、中に
  8 元禄16 板駒型 日月・青面金剛・三猿            73×34が安置されている。合掌六手であるが、上方手に索と矛(蛇かも)を持つ。

 長沢一丁目二九番の盛源寺の入口には、川崎市の郷土重要資料の標識が立ち
  9 寛文10 光背型 「奉彫刻山王大権現為供養也」三猿      80×39がみられる。地銘は「武州橘郡菅生郷長沢村」とある。標識に記された「長尾村」というのは何を指すのだろう。境内には、佛足石がみられる。

 多摩区から宮前区に入り、菅生二丁目二九番の秋月院の入口には
  10 元禄10 光背型 日月・不聞猿「奉修庚申供養」        51×24がある。先の栗谷・山王権現社の一猿燈籠とは異なり、この時期にはすでに庚申塔に三猿が普及しているせいか、一猿でも不聞の形である

 枡形五丁目一八番の路傍には六地蔵の祠があり、道標銘の刻まれた弘化四年「奉修道六神」駒型塔(45×18×8・)や交通安全地蔵、三面馬頭など共に
  11 元禄5 板駒型 日月・青面金剛・三猿            71×33がみられる。上部に刻まれた種子は「カーン」か。合掌六手立像で「奉造立青面金剛像庚申供養所」とある。同じ青面金剛を主尊としても、11が「青面金剛」としているのに大して、これまで見てきた3が「帝釈天王」、4が「庚申像」、6と8が「庚申尊像」と、表記がさまざまである。

 枡形六丁目の広福寺の入口には
  12 年不明 板駒型 日月・青面金剛・三猿            67×31がある。その先には
 13 年不明(板駒型)日月・青面金剛・二鶏・三猿         57×29がみられる。今日これまで廻ってきた青面金剛には、鬼も鶏もみられなかったが、ようやく二鶏が13に陽刻されている。ここにある文政五年の柱状型「サク 廾三夜塔」(56×29×28・)は、両側面と裏面に「西 大山道」「東 向□道」「南 えのしま かまくら 道」の道標銘が刻まれている。墓地にある弥陀三尊のマンジュウには「五智如来」の銘が刻まれている。近くにある光背型塔に浮彫りされた六地蔵も見るべきものだろう。

 枡形山の山頂にある展望台で四方を見渡してから、日本民家園(枡形七丁目一番)を訪れる。パンフレットには「園路には道祖神・庚申塔・馬頭観音・道標などの石造物を展示」と記されているように、園内の三ヵ所には
  14 万延1 自然石 「庚申塔」               計測なし
  15 元禄15 板駒型 日月・青面金剛・三猿          計測なし
  16 元禄15 板駒型 日月・青面金剛・三猿          計測なし
 17 享和2 柱状型 「庚申塔」               計測なしの四基の庚申塔が見学通路の傍らに立っている。14・15・16の三基には立札がみられ、旧所在地がわかる。14は、長野県南佐久郡八千穂村、15と16の二基は、市内多摩区登戸にあったものである。17には、旧所在地を示す立札がないが、塔面に刻まれた「南神奈川道」や「東江戸道」などの道標銘から判断して川崎市内の塔である。

安立寺(東生田一丁目二七番)の帝釈堂の前には
  18 文化X 駒型  日月・青面金剛・三猿            67×27×18があり、主尊は上方手に日月を持つ合掌六手。右側面には「南無妙法蓮華経」、左側面には「石橋供養」銘がある。青面金剛の下にも三猿があったようで、台石の三猿は後刻と思われる。

 最後の見学は、宿河原二丁目四四番の龍安寺、入口には寛文九年の念佛供養地蔵を中において、両脇には
  19 寛文9 光背型 「奉立庚申供養之事同行拾人」三猿      94×40
  20 年不明(板駒型)日月・青面金剛・二鶏・三猿         85×39の二基がみられる。頂部の欠けて20は、今日二基目の二鶏付青面金剛である。墓地には、角柱の三面に二体ずつ配した六地蔵の上に子供を抱く文化九年の地蔵座像がみられる。無縁塔の中には、宝永三年銘の馬頭観音と十一面観音があり、共に理鏡妙融信女の菩提に建てられたものである。境内には、恵比須・大黒天の丸彫り像がある。

 龍安寺からJRの登戸駅に向かい、帰途につく。
              〔初出〕『平成八年の石仏巡り』(ともしび会 平成9年刊)所収
バンザイ型青面金剛

 胸前の第一手が合掌し、上方の第二手に日月を捧げ、下方の第三手に弓と矢を持つ合掌六手を「バンザイ型青面金剛」と呼んでいる。この種の青面金剛は、腕の形がH形かそれに近い形をしている。多摩地方では、南多摩地方に多くみられる形式で、多摩川北岸の北多摩地方や西多摩地方では少ない。平成九年五月十八日に行った多摩石仏の会5月例会で廻った八王子市由木地区にみられたバンザイ型青面金剛を挙げると
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  ┃番│年 銘│西  暦│主  尊│塔 形│所   在   地  │備 考┃
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  ┃1│宝永7│一七一〇│青面金剛│笠付型│八王子市大塚 八幡神社│   ┃
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  ┃2│享保3│一七一八│青面金剛│柱状型│八王子市松木 館跡入口│   ┃
  ┠─┼───┼────┼────┼───┼───────────┼───┨
  ┃3│宝暦8│一七五八│青面金剛│笠付型│八王子市殿ケ谷 薬師堂│   ┃
  ┠─┼───┼────┼────┼───┼───────────┼───┨
  ┃4│天明2│一七八二│青面金剛│笠付型│八王子市大塚 八幡神社│   ┃
  ┠─┼───┼────┼────┼───┼───────────┼───┨
  ┃5│昭和61│一九八六│青面金剛│笠付型│八王子市大塚 八幡神社│   ┃
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のように、この日だけで五基をみた。
 1の宝永7年塔は、右側面に「奉建立庚申講之結衆」とある。2の享保3年塔は、三面の下部に猿を配し、右側面に地銘と「奉勧請庚申塔供養」、左側面に年銘が刻まれている。3の宝暦8年塔は、下部に三猿を配し、右側面に「奉納庚申供養塔」の銘文がある。4の天明2年塔は、右側面に「奉造立庚申供養塔」とあり、三猿が台石にある。5の昭和61年塔は、裏面に「昭和六十一年四月吉日 氏子中」とある。       
〔初出〕『多摩庚申塔夜話』(庚申資料刊行会 平成9年刊)所収
世田谷・桜丘を歩く

 平成十年三月十五日(日曜日)は、世田谷区桜丘四丁目一三番四号の久成院(天台宗)で行われる「百万遍」を訪ねるのが目的である。朝晴れたかと思っている内に曇り出し、雨になって雷が鳴るという天気に出足をくじかれたが、雲が切れて晴れ間が多くなってきたので出掛けることにした。
 小田急の千歳船橋の駅についたのが正午。久成院に向かったが、近道と思って選んだ道が間違っていて、東京農大の脇に出てしまう。世田谷通りを西に進み、ようやく倍以上の時間を費やして久成院についた。

 丁度、百万遍にきた方に会ったので、始まる時間を聞くと午後一時からだという。まだ二五分ぐらいの時間があるので、前にある宇山稲荷の境内をみてから寺の境内にある
 1 宝暦4 板駒型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿      62×27
  2 天和2 板駒型 日月・青面金剛・三猿            68×29の二基の庚申塔をみる。以前にも何回か調べた塔である。
 1は、合掌六手の立像(像高〓・)で、正面右側に「奉供養二世安楽所」とある。下部の三猿(像高9・)は、中央が正面向き、両側の猿が内側を向いている。
 2はバンザイ型の合掌六手の立像(像高37・)で、右端に「奉造立庚申供養為現當安全也」の銘、左端に年銘と地銘が刻まれている。下部の三猿(像高9・)は1と異なり、三匹共正面向きである。
 百万遍の開始時刻が近づいてきたので、住職に見学をお願いすると、お寺では会場やお茶の準備をするだけだから、念佛講中の方に紹介の労をとっていただいた。講中の方も快く見学を許可されたので、お念佛の始まるのを待つ。
 本堂の畳の間には、北方の正面に釈迦如涅槃の掛軸をさげ、東方の右手の端に十三佛の掛軸を吊るし、その前に壇を設けて漆塗りの「アーンク 宇山念佛講中各家諸霊位」と白木の新佛の位牌や焼香台などを置く。本堂に入る人は、先にきた方に挨拶し、壇でお焼香を済ませてから席につく。

 ここの念佛講中は、宇奈根山野の方々で構成されている。現在の住居表示でいうと、多くは桜丘四丁目であるが、隣接する砧や上用の方も少ないが参加している。講中は久成院と宇山神社を含む四二軒で、最も多い八軒が一組の他は五軒から六軒が一組となって七組にわかれ、久成院と宇山神社が第八組である。この組は、昭和五十四年三月十五日の百万遍の時以来のものである。
 午後一時から百万遍の念佛が始まる。出席者は、男性四人と女性二五人、遅れてきた女性が二人いたので合計三一人である。先ず第一組への念佛で、鉦を叩いて念佛の音頭をとるフセガネ(伏鉦)が「ナムアミダンブツ」と六字名号を唱えると、続いて講中が「ナムアミダンブツ」と唱える。このように伏鉦と講中が名号を交互に唱えながら、長い数珠を廻していく。数珠には大きな珠(一つは房がついてりる)が二つついていて、その珠が廻ってきた時には差し上げて礼をする。数珠が一周すのが三五秒前後で、五周近くなると鉦が速くなり、伏鉦と講中が一緒に名号を二〇秒ほど唱えて終わる。この間が五分ほどである。念佛が終わると、第一組の代表がお焼香をする。

 第一組の念佛が終わると、第二組、第三組と第七組まで続き、その後で寺と神社の念佛となり、新佛(今年の場合は二名)に対する念佛の順に行われる。それぞれの念佛が終わる都度、代表がお焼香をする。
 数珠繰りの百万遍念佛が終わると、「不動・釈迦・文殊・普賢・弥勒・薬師・地蔵・観音・勢至・阿弥陀・阿〓・大日・虚空蔵 南無阿弥陀佛 回向申す 南無阿弥陀佛 南無阿弥陀佛 南無阿弥陀佛」の十三佛の念佛が十三回繰り返される。この時は、百万遍の時とは違って数珠繰りはしない。十三回の回数を数えるのに銀杏を使った。
 十三佛の念佛が終わると数珠を片付け、お茶やムスビ・お菓子が配られて雑談になる。最年長の中杉さん(女性 明治四十四年生まれ)や小川さん(男性 昭和五年生まれ)、伏鉦の男性(昭和十一年生まれ)などから昔の話をうかがう。
 昔は、百万遍が男性の二月十五日と女性の三月十五日にわかれていた。十七年ほど前から合同して三月十五日にやるように変わった。念佛講中の当番は、組単位に順番に行う。この百万遍の念佛以外に、葬式の日は講中が葬家で念佛をあげる。用賀の観音さまが年一回各家を廻ったが、四十年ほど前に止めてしまった。

 あまり長いとお邪魔になるので、二〇分ほど雑談して本堂を出た。墓地の入口で、台石正面に「踏切轢死者供養地蔵尊」とある昭和九年の丸彫り合掌地蔵をみる。近くに台石に道標銘の地蔵台石があったが、見過ごしてしまった。

 帰り道、道を間違えた時にみた稲荷森稲荷角(桜丘二−二九)の庚申塔を訪れる。地蔵の木祠の前には、右から
  3 延宝7 板駒型 青面金剛・三猿               73×35
  4 安永6 笠付型 青面金剛・三猿               78×32×21
  5 元文4 板駒型 日月・青面金剛・二鶏・三猿         44×27
  6 正徳3 笠付型 日月・青面金剛・三猿            69×30×20の順で四基の庚申塔が一列に並んでいる。いすれも主尊が青面金剛の立像である。
 3は合掌六手像(像高28・)で、長い「如我者所願 今者巳満足 化一切衆生 皆令入佛道 乃至法界会平等利□ 伏惟庚申者青面金剛尊容玄理究 意妙相半夜除睡眠覚生死 長夜多年 □精進保松樹千年 齢因茲等一心誠志 跋顔年講會今結願成就所也 敬白」の銘文が刻まれている。なかなか読みにくい。三猿(像高13・)の下には、「山田長蔵」など一一人の施主銘がみられる。
 4も合掌六手像(像高48・)で、3と同様正面向きの三猿(像高13・)である。右側面に地銘と「荻野傳□」など施主銘七人、左側面に年銘と「新川□左衛門」など施主七人の氏名を刻む。
 5は、他の塔の六手像とは違って合掌八手像(像高35・)を浮き彫りする。持物は、上方が矛と宝珠、中央が矢と弓、下方が宝輪と首である。三猿(像高8・)の下には、「井上□□□」など八人の施主の氏名がみられる。
 6は合掌六手像(像高40・)で、下部には3と4と同じく正面向きの三猿(像高10・)である、右側面に地銘と「小田三左衛門」など四人の施主銘、左側面には造立年銘と「講中 七人」があるように残りの「荻野庄右衛門」など三人の施主銘がある。
 この稲荷森稲荷の庚申塔を最後に帰途につく。

 家に帰ってから資料を調べてみると、桜丘には次の
  A 享保6 青面金剛「奉供養庚申為二世安楽」三猿 板駒型  桜丘四−一四 路傍
  B  延1 地蔵「庚申供養講中」       丸 彫    桜丘四−一三 久成院
  C 安永8 青面金剛「庚申供養」三猿     柱状型    桜丘一−四 路傍
  D 文政9 「庚申塔 念佛講中」       柱状型    桜丘二−二九と稲荷神社の四基(年代順)があった。久成院のは、見逃した道標銘の台石である。稲荷森稲荷のは境内にあった塔である。両所で見落としがあったとは気付かなかった。

 平成二年二月十一日(日曜日)は多摩石仏の会の二月見学会で、鈴木俊夫さんの案内で世田谷区内の庚申塔を中心に歩いた。最初に船橋観音堂(船橋一丁目二〇番一六号)を訪ね、そこからら千歳船橋駅に戻って、次の見学場所(桜丘二丁目二九番三号)の稲荷森稲荷に行き、角にある四基の庚申塔をみてから、境内にある
  D 文政9 柱状型 「庚申塔」                 62×26×19をみている。これは、四面「東 青山道」「南 二子」「西 登戸道」「北 高井戸道」の道標銘が記されている。続いて訪ねたのが久成院で、本堂の東側にある
  B 寛延1 丸彫り 地蔵「庚申供養講中」   (寸法は台石)  64×27×24をみる。正面に「右府中道 左村中通」の道標銘の刻まれた台石と、その上に置かれた地蔵とが同時期のものかどうか、は疑問がある。台石の右側面に年銘と「念仏講中」、左側面に「庚申供養講中」が彫られている。久成院の後で近くの一四番一八号の路傍にある
  A 享保6 板駒型 青面金剛・三猿               61×27をみて、上用賀の三峰社や弦巻五丁目の庚申堂を訪ねた。
            〔初出〕『平成十年の石仏巡り』(多摩野佛研究会 平成10年刊)所収
古谷本郷の八手青面

 平成十二年九月十五日(金曜日)は、川越市古谷本郷・古尾谷八幡神社で行われるほろかけ祭りに行く。西武新宿線の本川越駅前から乗車した西武バスを「聖地霊園入口」のバス停で下車して古谷八幡通りを八幡神社に向かう途中、右手に墓地がみえる。先を急いでいたので、墓地によらずに祭りに直行する。

 祭りが終わってから、何となく気になっていたので、帰り道の途中で墓地による。裏口から入って前に廻ると、古谷本郷上公民館前の西側に石佛が並んでいる。後列の右端に
 1 寛延4 駒 型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿      100×42×23があり、三面の馬頭観音を間に挟んで
 2 天和3 板駒型 三猿                     61×28と、ここには二基の庚申塔がみられる。
 1は、胸前の第一手に剣と人身、上部の第二手に月天と日天を捧げ、横の第三手に矛と宝輪、下部の第四手に矢と弓を持つ剣人八手の青面金剛立像(像高〓・)、足下に鬼、その横に雌雄の鶏、下部に三猿(像高12・)を浮き彫りする。右側面に「寛延四辛未歳十月吉日」の年銘、左側面に「武州入間郡」とあり、その下に村名が刻まれているが、隣の石佛が邪魔していて判読できない。
 2は主銘が刻まれず、下部に三猿(像高14・)が浮き彫りされた塔で、右端に「天和三乙亥年」、左端に「十一月十四日」、下部に一二人の施主銘が彫られている。

 多摩地方には、俗に「万歳型」と呼んでいる合掌六手の青面金剛がある。万歳型の青面金剛は、胸前の二手が合掌し、上部の二手が日天と月天を捧げ、下部の二手が弓と矢を執る。多摩地方の場合には、どちらかといえばこの種の像の分布が南多摩に多く、多摩川以北は稀である。東京区部や神奈川県内にもみられる。

 今回、古谷本郷でみたのは、通常の剣人六手像に日天と月天を捧げた二手を加えた八手像であるといえる。これまでみた剣人像では、六手像を含めて日天と月天を捧げたものを知らない。こうした日天と月天を捧げる八手像、しかも胸前の二手が剣と人身を持つとなると、「万歳型」と呼んでよいものか、迷うところである。ここでは、これまでの「万歳型」と区別する意味で、仮に「万歳型剣人八手」と名付けておこう。

 いずれにしても、こうした新種の八手青面金剛(万歳型剣人八手)が存在するのだから、これからも同種の像が発見される可能性がある。また、他に合掌八手の万歳型があるのかどうか、も気にかかる。特に、古谷本郷の周辺を調査する必要があろう。
           〔初出〕『平成十二年の石佛巡り』(多摩野佛研究会 平成12年刊)所収
厚木西部を歩く

 平成十三年六月十日(日曜日)は、多摩石仏の会六月例会である。小田急線本厚木駅に午前九時三〇分集合、萩原清高さんの案内で厚木市内をまわる。集まったのは、縣敏夫さん・犬飼康祐さん・遠藤塩子さん・加地勝さん・喜井哲夫さん・鈴木俊夫さん・多田治昭さんの総勢九人である。
 案内のハガキをなくしてしまったので、手帳にある本厚木駅につく。ここには、バスセンターに近い東口があるから、そこかと思いながらも中央口から出ると集合四五分前になのに、すでに萩原さんと縣さんの二人が待っている。萩原さんから今回の地図付きの案内レジメをいただき、縣さんの案内で弁当を購入する。

 集合場所に戻り、六月五日付けの朝日新聞多摩版コピーをを縣さんからいただく。それは、見出しに「庚申信仰の碑文研究で日本出版文化賞 八王子の縣敏夫さん」をつけ、縣さんの『図録 庚申塔』が日本グラフィックサービス工業会が主催する日本出版文化賞の奨励賞を受賞したことを伝える記事が載っている。長年の研究が広く世間に認められた証でもある。縣さんにしては、受賞がライフワークの板碑でないのが心残りであろうが、ともかくおめでたい。

 駅近くのバスセンターから上谷戸行きのバスに乗り、バス停「小野宮前」で下車、第一見学地の小野神社に向かう。境内の本殿裏には、1から5までの五基の道祖神が並んでいる。いずれも光背型で1は弘化三年塔(43×32・)に双体像(共に像高33・)を浮彫りする。2は年不明(43×34・)で双体(共に像高27・)、3も年不明(44×32・)で双体(共に像高31・)、4も年不明(38×24・)で単体(像高32・)、5は文化十年(47×30・)で、右の男神(像高32・)と女神(像高34・)の高さが異なる。丸数字は、道祖神の番号を示す。

 神社近くの岩田の路傍には、6の昭和十三年造立の「道祖神」柱状型塔(57×22×18・)がみられる。ここから下車したより先の「小野橋」のバス停に出て、広沢寺温泉行きのバスで終点まで乗る。

 終点の前にある広沢寺に寄ってから、途中の地蔵坐像をみてかた上大沢の愛宕神社を訪ねる。道路に面して7の双体道祖神がみられる。嘉永八年造立の光背型塔(59×41・)で男神(像高44・)と女神(像高45・)の高さが違う。その先の左手の高みには、草に覆われてうっかりする通り過ぎてしまう所に、8文政三年塔(53×30・)の双体道祖神(共に像高32・)がある。年銘に「政」の異体字「〓」を使う。

 文政の双体道祖神から折り返して下ると、横畑の熊野神社跡地には
 1 元文3 笠付型 日月・青面金剛・三猿            71×34×25
  2 年不明 自然石 「庚申塔」                107×66があり、少し離れて明治十四年の板石型の地神塔(計測なし)、庚申塔の先に9の年不明の双体道祖神(59×33・ 共に像高35・)がある。地神塔は、上部にある「地」の部分が欠け、背面に「明治十四年巳九月十一日」とある。
 1は日月を掌の上に載せる合掌六手像(像高45・)で、我々が「万歳型」と呼ぶ立像である。右側面に「元文三戊午十一月吉日」、左側面に「庚申供養 同志/八人」の銘、下部に三猿(像高8・)の浮彫り。
 2は、自然石の表面に「庚申塔」と彫るだけで、他の銘は見当たらない。

 次いで観音谷戸の道祖神群を訪ねる。ここには、10の年不明の男根(4
6×19・)、11の安政五年の単体道祖神(65×37・)、12の寛政七年の単体道祖神(61×34・)、13の年不明の単体道祖神(〓×38・)の三基の単体道祖神がある。加えて14の自然石(86×62・)には、信州風の双体道祖神(男神45・で女神44・の像高)が浮彫りされ、裏面に「平成四年六月吉日/志主/中村重男」の銘を持つ。
 11は合掌した鈿女風のオカメ立像で(像高48・)、右に「安政五戊午正月」の銘を刻む。12は合掌した観音風の立像(像高40・)で、右横に「寛政七年正月吉日」、左下に「惣氏子」の銘がある。13は笏を持つ神官風(像高49・)の立像である。
 午後〇時三〇分を廻ったので、七沢の観音寺境内で昼食にある。食後の話し合いで、暑いので八月見学会を取り止めて縣さんの日本出版文化賞受賞を祝う会に宛てる。石段横の墓石に「〓」がある。この「〓」は、縦書きに八烏臼の合字されたものである。

 午後の見学は、七沢温泉・玉川館裏の旧道にある馬頭観音群から始まる。この石仏群の中に安政六年の観音供養塔があり、台上に彫りのよい十一面観音坐像が安置されている。

 次いでバス路をを下って「七沢温泉入口」の三叉路の門口路傍で、15の宝暦五年に造立された坐像(像高33・)を刻む、頂部が欠けた単体道祖神(35×28・)をみる。萩原さんに武田久吉博士の『路傍の石仏』(第一法規出版 昭和四十六年刊)の載っていると聞いたので家に帰ってからみると、一六〇頁に「宝暦五乙亥天□月吉日 神奈川県愛甲郡玉川村七沢門口 浮彫り坐像」とあり、一六二頁に写真がみられる。

 この本の写真は、現状とほほ近く、頂部が欠けている。これが調査当時に撮ってものか不明であるが、博士は像の右を「痰道六神」、左を「宝暦五乙亥天□月吉日 惣氏子」と読まれている。尊名が「道六神」、年銘が「五乙亥天/□月吉日」は、現在でも読める。問題になるのは「痰」と「宝暦」の部分である。確かに「暦」の字の下部「日」がわかるが、この文字を除いても「五乙亥天」から宝暦五年を特定できる。ただ「痰」の部分は、何としても判読できない。
 参考までに、先にみた11・12・13の三基の単体道祖神の写真は、前記の一六二頁から次頁にかけて載り、現状とは異なって12と13が逆になる順に並んで写っている。11と13の二基は、一六〇頁に年代が判明している単体道祖神の一覧表に「神奈川県愛甲郡玉川村七沢観音谷戸」の表記でみられる。

 三叉路の先の路傍には、正面の主銘を隷書体で書いた
  3 寛政12 柱状型 (隷書体)「庚申塔」(道標銘)       81×40×37がみられる。右側面に「右 ひなた 一のち□」、左側面に「左 大山 いせハら」の道標銘がみられる。年銘は、台石正面に「寛政十二祀/七沢村/十月吉日」の三行がある。多少は上の文字がみえるが、大分部は土で覆われていたので掘り起こして判読する。

 続いて先刻の三叉路に戻り、上谷戸寄りにある門口の旧道入口で
  4 享保8 五月  日月・青面金剛・三猿            88×38×39をみる。これも1と同じ万歳型であるが、日月を掌上に載せる1とは多少異なる合掌六手像(像高65・)である。下部に三猿(像高12・)右側面に「奉造立庚申供養塔」、左側面に「□□□□□弌十弌員/享保八癸卯十一月吉日」とある。
 急遽、道が重複するが七沢神社に寄って、境内にある昭和五十五年の「庚申御縁年記念碑」(184×86・)をみる。板石型で、裏面の末尾に「前坂幸治文/中山□書」とある長文の碑文が刻まれている。他に不動明王や関東大震災にも倒れなかったという文政十三年の大石燈籠がある。

 長野や新潟、栃木で庚申年に庚申塔造立が多いのは、富士山のご縁年で庚申年が注目されたこと、これを利用して伊那の石工が庚申塔の造立を勧めた営業政策があったのではなかろうか。寛政期前後から刻像塔より文字塔が多くなったが、庚申塔の造立は減少傾向にある。伊那の石工の勢力が及びにくい東京では、冨士講が盛んであったても、長野や新潟にみられるような庚申年造立が少ないのも、伊那の石工の関与を暗示している。

 再び三叉路に戻って上谷戸方面に進み、途中で伊勢原津久井線から旧道に外れ、川端で・の双体道祖神(53×35・ 共に像高38・)をみてから新道に戻る。七沢病院入口の台路傍には、次の二基の庚申塔と寛政五年の月参供養塔がみられる。
  5 明治29 板石型 「庚申塔」(文字三猿)           50×25
  6 寛政12 自然石 「庚申塔」                117×60
 5は、板石型塔の中央に「庚申塔」、右に「明治卅九午十月十五日」、左下に「志主/田中万蔵建之」とあり、下部に「ユウマイ/キクマイ/ミマイ」の文字表示の三猿がみられる。珍しい片仮名の表現例である。
 6は、自然石に「庚申塔」と刻む塔で、台石正面には「寛政十二庚申祀/講中/十二月大吉日」の銘を三行に彫る。先にみた隷書体の文字塔より二か月遅れの造立である。

 その先の道を少し入った所には、17の嘉永五年の双体道祖神(64×41・)と18の年不明の双体道祖神(32×31・)がある。17は、双神共に像高38・で、像右に「嘉永五子年」、下に「氏子中」の銘を刻む。18は、頂部が欠けたもので首無しの像高は共に23・、像の右に年銘の一部、左に「志主 □□氏」とある
 上谷戸では、バス停先の路傍で次の二基の庚申塔をみる。
  7 元文5 笠付型 日月・青面金剛・三猿            79×28×24
  8 万延1 自然石 「庚申塔」                 98×53
 7は、主尊(像高40・)が1の元文三年塔と4の享保八年塔と同じ万歳型である。前二者と異なるのは、掌の上の日月が瑞雲を伴うことである。下部に三猿(像高10・)を浮彫りし、右側面に「奉造立庚申供養」、左側面に「元文五庚申天十月吉日」とある。
 8は、自然石に「庚申塔」の文字塔で、側面に「万延元庚申年/十月吉日」の年銘。7と二基とも庚申年の造立である。

 上谷戸では旧道にある文政八年の「蔵王大権現」柱状型塔をみてから、高橋家の墓地入口にある自然石塔(89×47・)に刻まれた双体像(像高は右が26・で左が27・)をみる。双体道祖神かどうか、疑問がある。頂部が欠けてよくわからないが月状になり、その下に日天の丸、その右に星らしい刻像がある。

 その先にある道祖神場には、19の黒御影の柱状型塔がある。正面に「道祖神」とある文字塔(〓×19×19・)で、裏面に「昭和五十八年一月吉日」の銘がある。その左右には、男根が三個みられる。一つは石升に男根が付いたもの(16×16・)、二つ目は尻を伏せた石に男根を置くもの(〓×〓・)三つ目は正面がオカメ面(8×7・)で、裏面が男根形に成形されたものである。

 道祖神場から足ヶ久保の鳥居場に向かう。ここから鐘ヶ嶽浅間神社までの参道には、丁石が建ている。壱丁目の石は、正面に冨士講の講紋と文久四年の年銘を刻む。その先にある「二丁目」の丁石には欠けた刻像が脇に置いてあるが、今回廻った三丁目から六丁目までは丁石の上に坐像の石佛が置かれている。

 三丁目は「御縁日/十三日」とある虚空蔵菩薩、四丁目は「御縁日/二十五日」とある文殊菩薩、五丁目は「御縁日/二十四日」とある普賢菩薩、六丁目は「御縁日/二十三日」とある勢至菩薩である。萩原さんが参考資料として配付した山本力さんの「鐘ヶ嶽の丁石」(『日本の石仏』第八九号所収)ではこの丁石にふれているが、側面に刻まれた施主銘は省略されている。
 御縁日が十三日の虚空蔵菩薩や二十三日の勢至菩薩から察すると、『佛像図彙』にみられる「三十日秘佛」と思われる。ところが二十四日の普賢菩薩は、十四日に配当されいるので「二十四日」の御縁日の出所はどこなのか気にかかる。因みに二十四日は、地蔵菩薩のご縁日である。

 鳥居場からバス停「広沢寺温泉入口」に向かう途中、足ヶ久保の文字馬頭三基をみる。
上谷戸からは、厚木と伊勢原行きの二系統のバスがある。先にきた神奈川中央のバスが伊勢原行きだったので、これに乗車して終点の伊勢原駅北口まで乗る。駅の階段では、途中で帰った思われた鈴木さんに出会う。聞いてみると、駅まで戻ったころに日向薬師行きのバスがきたので、日向薬師まで行って庚申塔を一基みてきたそうである。往路と逆コースで、ここから小田急〜南武線〜青梅線で帰宅する。

 道祖神も多量にみたが、思いがけずに、上方手の日月の位置が異なる三基の万歳型に出会ったのは、今回の大収穫である。先日の浦和見学会で人鈴型の合掌六手をみ、岩槻型や市原型のこともあって余計に万歳型が気になったのである。
万歳型の名称

 六手青面金剛は、中央手の持物によって1合掌六手・2剣人六手(標準六手)・3その他の六手の三種に大別される。合掌六手にしろ剣人六手にしても、この名称から一つの形式の六手像と考える方もあろうし、他の四手の持物が同一と思われるかもしれない。
 前記の三種の分類は、単に中央手の持物を基準にしているから、他の四手の異なる持物が考慮されていない。・と・のいずれの型でも、左右逆の場合を含めて上方手に矛と輪、下方手に矢と弓を執るのが標準形といえる。しかし、六手の青面金剛の持物には、いろいろな種類がある。

 持物の種類といえば、清水長輝さんがその著『庚申塔の研究』一〇九頁で、先ず儀軌にある三股叉・蛇のまいた棒・輪・索の持物を挙げた上で、実際には種々雑多であるとして実例を示している。儀軌を含めて本に思いつくままに例示されたのは、三股叉(矛と戟)・宝輪・弓・矢(一本と二本)・剣・刀・人身・宝棒・独鈷・三鈷・鈴(宝鐸)・鍵・斧鉞・幢幡・日輪・月輪・卍・宝珠・数珠・蛇・蛇のまいた棒・袋状のもの・錫杖などの多種にのぼる。これは広い地域の青面金剛の持物を列記しているから、限られた狭い地域では、これほど多種多様の持物がみられるわけではない。

 合掌六手の場合には、合掌した中央手以外の四手にいろいろな持物を執る。その組み合わせから、岩槻型とか市原型と呼ばれる形式がある。中央手が合掌手し、上方手か下方手のいずれかの一手に人身を持つ組み合わせという点では、市原型も岩槻型も同列である。 しかし、他の手の持物の統一性や鬼の向きと形態、さらに鶏や猿の数や形態などから、両者の区別がなされる。
 比較的早くから注目されながら一般に知られていないのが、表題とした「万歳型」である。これも合掌六手の一種の形式といえる。多摩地方は無論のこと、神奈川や山梨、長野にも万歳型が分布している。近年は、多摩石仏の会の会員の間で「万歳型」が通用するようになったものの、公認された名称とはいえない。この原因の一つには、この型のものが「万歳型」とは異なった表現がなされてきたからでもある。

 「万歳型」の説明として、私の『多摩庚申塔夜話』(庚申資料刊行会 平成9年刊)の中の「バンザイ型青面金剛」を引用すると
    胸前の第一手が合掌し、上方の第二手に日月を捧げ、下方の第三手に弓と矢を持つ合掌六手
   を「バンザイ型青面金剛」と呼んでいる。この種の青面金剛は、腕の形がH形かそれに近い形
   をしている。多摩地方では、南多摩地方に多くみられる形式で、多摩川北岸の北多摩地方や西
   多摩地方では少ない。

である。この型は合掌六手の一種だから、当然、中央手が合掌している。特色は上方手が日月を捧げている点にある。従って標準形の万歳型は、中央手が合掌し、上方手に日月を捧げ、下方手に矢と弓を持つ。私がこれまで漠然と考えていたのは、1掌の上に日月を置くものと2掌の上方に日月があるものの二種の区分である。

たまたま六月十日(日)に行われた多摩石仏の会の厚木西部見学会では、三基の万歳型に接した。この三基の調査から、これまでの漠然たる二種の分類から細分化しなければならない、と考えた。少なくとも、・掌の向きが横に開いて上に向いたものと・掌を前に向けたものの二種がみられる。さらに・日月に瑞雲を伴うものと・無いものとがある。それらの組み合わせを考えて分類する必要があろう。例えば次のような分類である。
   ┏━━━━━┳━━━┳━━━━┳━━┳━━━━━━━━━━━┓
   ┃日月の位置┃瑞 雲┃掌の方向┃型式┃備         考┃
   ┣━━━━━╋━━━╋━━━━╋━━╋━━━━━━━━━━━┫
   ┃掌の上方 ┃あ り┃上向き ┃A型┃日月と掌に間隔がある ┃
   ┃     ┃   ┠────╂──╂───────────┨
   ┃     ┃   ┃前向き ┃B型┃五指が見えるもの   ┃
   ┃     ┣━━━╋━━━━╋━━╋━━━━━━━━━━━┫
   ┃     ┃な し┃上向き ┃C型┃日月と掌に間隔がある ┃
   ┃     ┃   ┠────╂──╂───────────┨
   ┃     ┃   ┃前向き ┃D型┃五指が見えるもの   ┃
   ┣━━━━━╋━━━╋━━━━╋━━╋━━━━━━━━━━━┫
   ┃掌   上┃あ り┃上向き ┃E型┃日月が直接掌の上にある┃
   ┃     ┃   ┠────╂──╂───────────┨
   ┃     ┃   ┃前向き ┃F型┃日月か瑞雲が掌にかかる┃
   ┃     ┣━━━╋━━━━╋━━╋━━━━━━━━━━━┫
   ┃     ┃な し┃上向き ┃G型┃日月が直接掌の上にある┃
   ┃     ┃   ┠────╂──╂───────────┨
   ┃     ┃   ┃前向き ┃H型┃日月が掌にかかる   ┃
   ┗━━━━━┻━━━┻━━━━┻━━┻━━━━━━━━━━━┛
 これはあくまでも試案である。三種の組み合わせの中には、存在しない型があるかもしれない。今後は、各地に分布する万歳型の実例を集めて分析したい、と考えている。

万歳型の存在が早くから意識されていた、と先に述べた。その辺の事情を文献によって追ってみよう。私が知るものとしては、溝口喜久治さんが「庚申塔概観」(『多摩郷土研究』第二六号所収 多摩郷土研究の会 昭和34年刊)が最も古く、次いで同氏の「日野町の庚申塔(その二)」(『庚申』第八号所収 庚申懇話会 昭和34年刊)である。

 「庚申塔概観」では、昭和三十三年十月現在の「旧七生村現存庚申塔一覧表」を掲げ、現在の日野市に併合された旧七生村の二六基(内一九基が青面金剛の刻像塔)の庚申塔を分析し、文中で
    持物は、年代のふるいものを見ると、第二手の左に金剛輪、右に三股叉、第三手の左に弓、
   右の箭を握っているのが多く、年代の新しいものは持物がなく、五指をひろげて拇指を他の四
   指からはなしたまま、たなごころろを上に向け、目にみえない何物かを捧げている形をとって
   いるが、年代が新しくなるに従って、だんだんとたなごこころを正面にむけ、四本の手が全部
   施無畏印を結んで、「何も持っておりません」という形をしている。(二八頁)

と、合掌六手の持物の変化にふれている。後者の年代が新しいものが万歳型である。

 『庚申』の「日野町の庚申塔(その二)」では、旧七生村の範囲を広げて、日野町(当時)の青面金剛を分析してしている。その文中では
   享保以前のものは、上方両腕は吊り下げて(或いは下げないものもある)関節を曲げ(曲げな
   いものもある)万歳の形をとるものが多く、下方の両腕は関節を曲げることなく、腕を伸ばし
   て「ハ」の字形に開いているから、これをシルエットにすと享保以前のものは、上下の腕がX
   形に近い形になり、享保以後のものは漸次腕の関節を曲げて、上下左右の四本の腕が、それぞ
   れ直角の形をとっているので、Hに近下形となる。然かもこのH形をとるようになってからは
   、上方左右の手に段々と持物がなくなり、五指を開いて拇指だけを独立させ全指を伸ばした形
   になる。この形の最初のものは掌が上向になっていて、なかにはその上に「日・月」をのせて
   いるものがある。(九頁下段〜一〇頁上段)

と記している。文中では全く万歳型とはいっていないが、傍線のように「万歳の形」とか「その上に『日・月』をのせている」のように表現している。さらに一二頁には、二種の「C四臂がH形(上手全指展開上方向)」と「D四臂がH形(上手全指展開前方向)」の万歳型を図解している。前者は宝永十年塔、後者は安永四年塔の模写である。

 翌三十六年に多摩石仏の会の元会長の八代恒治さんが、その著『三多まの庚申塔』(私家版)を刊行している。ここでも「万歳型」の表現がみられないが、書中で万歳型の青面金剛にふれて
   合掌六手の像では、持物第一手右矛、左宝輪(少数反対のものがある)、第三手右矢、左弓と
   いうのがふつうであるが、第一手で日月をささげるものがかなり多く見られる。北多摩郡・西
   多摩郡では各五基であるが、南多摩郡には五二基あり、別に日月を掌に持っているものが四基
   ある。稲城町には一基もなく、多摩村から西へ日野町・八王子市一帯に分布し、多摩丘陵の南
    町田市には九基ある。北多摩郡の五基は、府中市二、昭島市・小金井市・国分寺町各一であ
   り、西多摩郡のものは、五日市町(小宮)三、秋多町・日の出町各一である。これらを総合し
   て考えると、この形式の像塔は、八王子市・日野町を中心としてひろがっており、ここに像塔
   の一形式があったのであろう(五〜六頁)

と、多摩地方を一覧している。

 溝口さんは当時の日野町に限って、八代さんは多摩地方全域を対象にして万歳型の青面金剛にふれている。両氏共に明確に「万歳型」といっていないが、表現がちがっても内容としては万歳型の青面金剛を指している。

 私も青梅市内の調査が終わり、続く西多摩地方の調査であきる野市(当時の秋多町や五日市町)で初めてみた万歳型を意識していた。昭和三十八年に南多摩地方の調査を始めてから一層、万歳型に注意した。しかし文章にしたのは、かなり遅れてである。昭和四十九年発行の『青梅市の石仏』(青梅市郷土博物館)では、私が担当した「市内の庚申塔」の中で「万歳型」と書かなかったが、五七頁に「主として南多摩であるが、西多摩でも秋川筋に数基みられる型に、第一手が合掌し、第二手が日月をささげ、第三手に弓と矢を持つものがある。こうした型が市内ではみられない」と記した。

 私が「万歳型」を文章に使ったのは、多分、平成三年五月十二日(日)に行われた多摩石仏の会五月例で多摩市内を廻った記録「多摩市の石仏」である。これは『平成三年の石佛巡り』(ともしび会
 平成6年刊)に収録されている。一部省略の部分があるが
   唐木田の稲荷神社に出る。稲荷神社の境内には
     9 寛政12 柱状型 日月・青面金剛・三猿
   が建っている。この青面金剛は、日月を捧げる万歳型の合掌六手立像で、上方二手は、前に拡
   げた掌に何も持っていない。と書いたのが最初ではなかろうか。それ以前は、例えば昭和六十一年一月十二日(日)の多摩石仏の会新年例会を記録した「横山行」では、万歳型ではなく「青面金剛は、上二手が日天と月天を捧げ持つ合掌六手像である」と記している。

 それ以後でも、同年の「檜原北谷を歩く」や「五日市の石仏」に「日月を奉侍する合掌六手の立像である」とか、平成五年の「新田の石仏」に「合掌六手で、上方手は日月を捧げもつ」の表現をしている。平成七年の「町田を歩く」では「日月を捧げる六手像で、この種のものは多摩川の北岸にはきわめて少ない」とも書いている。
 平成九年六月二十二日(日)の多摩石仏の会六月例会「横山を歩く」では、原宿会館にある宝暦十一年笠付型塔を「上方手に日月を捧げる、いわゆる万歳型の合掌六手像」と記し、次いでみた原町内会館の明和三年笠付型塔を「先刻みた10(前の塔)と同じ万歳型の合掌六手像である」と書くようになった。これは、一つに先記の同年発行の『多摩庚申塔夜話』の中の「バンザイ型青面金剛」にもつながっている。

 早くから「万歳型」が意識されていたことは、前記のように溝口さんや八代さんの文献からうかがえる。私自身も早くから万歳型の存在を意識していたけれども、文章にはしないものの「万歳型」を口にしていた。万歳型の語を文章で用いたのは、後になってからのことで、先にふれたように平成三年五月の「多摩市の石仏」以降である。
 いずれにしても「万歳型」を認知すべきで、今後はこの形式の合掌六手の分類を考える必要がある。その場合にも、単に多摩地方だけを視野に入れるだけでなく、少なくとも東京区部(新宿など)や神奈川県下(川崎や鎌倉など)、山梨県下(上野原など)の事例を含めての分類とすべきだろう。

 さらに付け加えるならば、平成十二年九月十五日(金)に川越市古谷本郷・古尾谷八幡神社のほろかけ祭の帰り道でみた、寛延四年駒型塔の八手青面金剛が気にかかる。この立像は、胸前の第一手に剣と人身、上部の第二手に月天と日天を捧げ、横の第三手に矛と宝輪、下部の第四手に矢と弓を持つ剣人八手像である。つまり、月天と日天を捧げた剣人六手像という、これまで見たことも聞いたこともない像容なのである。

 このように日天と月天を捧げる八手像、しかも胸前の二手が剣と人身を持つとなると、「万歳型」と呼んでよいものか、迷うところである。ここでは、これまでの「万歳型」と区別する意味で、仮に「万歳型剣人八手」と名付けておくのが適当かもしれない。いずれにしても、こうした新種の八手青面金剛(万歳型剣人八手)が存在するのだから、これからも同種の像が発見される可能性がある。「万歳型」合掌六手と関連して、こうした変種(八手像)を紹介しておく。
(平成13・6・13記)

西多摩の万歳型

 多摩石仏の会・元会長の八代恒治さんは、その著『三多まの庚申塔』(私家版 昭和36年刊)の中で、明確に「万歳型」と表現していないが、書中で万歳型の合掌六手青面金剛にふれている。先ず「合掌六手の像では、持物第一手右矛、左宝輪(少数反対のものがある)、第三手右矢、左弓というのがふつうであるが、第一手で日月をささげるものがかなり多く見られる」の部分である。この日月をささげ六手像が万歳型なのである。

 次いで万歳型の分布について、先ず「南多摩郡には五二基あり、別に日月を掌に持っているものが四基ある。稲城町には一基もなく、多摩村から西へ日野町・八王子市一帯に分布し、多摩丘陵の南町田市には九基ある」と南多摩地方の万歳型にふれている。続けて「北多摩郡の五基は、府中市二、昭島市・小金井市・国分寺町各一であり」と北多摩地方の分布を記している。
 最後に「西多摩郡のものは、五日市町(小宮)三、秋多町・日の出町各一である」とした後で、結論的に「これらを総合して考えると、この形式の像塔は、八王子市・日野町を中心としてひろがっており、ここに像塔の一形式があったのであろう」(五〜六頁)と述べている。
 これまでに、表題を含めて「万歳型」と表記してきた。しかしながら、一口に「万歳型」といっても、細かく観察すると、・日月と掌との位置関係と・瑞雲の有無、・掌の向きの三つの観点から、それを組み合わせて八通りになる。まだ試案段階であるが、分類一覧表による型式を次に示すと
   ┏━━━━━┳━━━┳━━━━┳━━┳━━━━━━━━━━━┓
   ┃日月の位置┃瑞 雲┃掌の方向┃型式┃備         考┃
   ┣━━━━━╋━━━╋━━━━╋━━╋━━━━━━━━━━━┫
   ┃掌の上方 ┃あ り┃上向き ┃A型┃日月と掌に間隔がある ┃
   ┃     ┃   ┠────╂──╂───────────┨
   ┃     ┃   ┃前向き ┃B型┃五指が見えるもの   ┃
   ┃     ┣━━━╋━━━━╋━━╋━━━━━━━━━━━┫
   ┃     ┃な し┃上向き ┃C型┃ 日月と掌に間隔がある┃
   ┃     ┃   ┠────╂──╂───────────┨
   ┃     ┃   ┃前向き ┃D型┃五指が見えるもの   ┃
   ┣━━━━━╋━━━╋━━━━╋━━╋━━━━━━━━━━━┫
   ┃掌   上┃あ り┃上向き ┃E型┃日月が直接掌の上にある┃
   ┃     ┃   ┠────╂──╂───────────┨
   ┃     ┃   ┃前向き ┃F型┃日月か瑞雲が掌にかかる┃
   ┃     ┣━━━╋━━━━╋━━╋━━━━━━━━━━━┫
   ┃     ┃な し┃上向き ┃G型┃日月が直接掌の上にある┃
   ┃     ┃   ┠────╂──╂───────────┨
   ┃     ┃   ┃前向き ┃H型┃日月が掌にかかる   ┃
   ┗━━━━━┻━━━┻━━━━┻━━┻━━━━━━━━━━━┛
となる。八代さんが最後にふれた西多摩地方の場合はどうであるのか、この分類を用いて具体的に実例をみていきたい。

 八代さんが調査されたのは昭和三十年代前半であり、現在は当時の五基より万歳型の塔数が増えている。多摩石仏の会の多田治昭さんは、これまで西多摩地方の庚申塔について写真を掲げ、銘文や所在地などのデータ、年表や参考文献を明らかにしている。西多摩地方ですでに刊行された冊子は、次の通りである。
   『福生市の庚申塔 8』    私家版  平成8年刊
   『あきる野市の庚申塔 9』  私家版  平成10年刊
  『日の出町の庚申塔 10』   私家版  平成9年刊
   『羽村市の庚申塔 12』    私家版  平成9年刊
   『奥多摩町の庚申塔 14』   私家版  平成9年刊

 この四冊をテキストにして、先ず市町村別に万歳型の青面金剛を列記すると
   番 元 号 塔 形 所在地           中央手 型式 下方手頁数
   参 元禄11 光背型 あきる野市乙津・青木平   索・蛇 E型 矛・珠 一
   参 元禄11 光背型 あきる野市養沢 会館    索・蛇 E型 矛・珠 一
   1 宝永5 柱状型 あきる野市乙津 明光院       D型     三
   2 享保6 光背型 あきる野市三内 八幡社       E型 無/無 六
   3 享保19 板駒型 あきる野市乙津 龍珠院       E型     九
   4 享保20 笠付型 あきる野市乙津 大戸里神社     E型    一〇
   5 延享1 笠付型 あきる野市下代継 金松寺      B型    一二
   6 宝暦4 笠付型 あきる野市雨間 路傍        B型    一三
   7 宝暦6 笠付型 あきる野市養沢 路傍        E型    一四
   8 宝暦13 笠付型 あきる野市草花 地蔵堂       G型    一五
   9 宝暦13 笠付型 あきる野市瀬戸岡 珠陽院      F型    一五
   10 明和9 笠付型 あきる野市原小宮・代田       B型    一七
   11 安永2 笠付型 あきる野市切欠           A型    一八
   12 寛政1 笠付型 あきる野市牛沼 会館        F型    二一
   13 年不明 笠付型 あきる野市養沢 会館        E型    三八
   14 宝永3 笠付型 日の出町大久野 慶徳寺跡      G型     二
   15 宝永3 笠付型 日の出町平井 常福寺        E型     二
   16 享保9 笠付型 日の出町平井 祥雲寺        E型     四
   17 宝暦9 柱状型 日の出町大久野・水口        F型     五
   18 天明4 柱状型 日の出町大久野 宝鏡寺       F型    一〇
   19 延享5 光背型 奥多摩町峰谷 宝福寺        G型     五

の通りである。あきる野市二基の上部に「参考」と付したのは、上方手の掌に日月を捧げるが、中央手が合掌ではなくて索と蛇、下方手が矛と珠を執る六手だからである。下方手の項目に記載がないものは、標準形の矢と弓(あるいは逆)を持つことを示す。

 参考までにこの一覧に洩れたのは、青梅市が一基、瑞穂町が〇基、檜原村が七基であるが、それは私の調査カードから補っておくと
   番 元 号 塔 形 所在地           中央手 型式 下方手頁数
   20 年不明 板駒型 青梅市黒沢一丁目 山際       C型
   21 年不明 板駒型 檜原村大沢 大沢橋         B型 蛇・索
   22 享保19 板駒型 檜原村大沢 郷土資料館       B型
   23 宝暦10 笠付型 檜原村千足 御霊檜原神社      E型
   24 年不明 光背型 檜原村上川苔            E型 蛇・索
   25 年不明 光背型 檜原村小岩 中学入口        B型
   26 享保3 板駒型 檜原村湯久保            B型
   27 元禄12 光背型 檜原村八割 吉野宅         H型 蛇・索の八基である。20は、青梅市内には万歳型は分布しないと思っていたところ、三鷹の福井善通さんのご教示で調査した思い出の塔である。

以上の塔を市町村別に基数を集計すると、次の表の通りである。
   ┏━━━━┯━━━━┯━━━━┯━━━━┯━━━┯━━━┯━━━━━━┓
   ┃市町村 │庚申塔数│万歳型数│比  率│最古塔│最新塔│備    考┃
   ┣━━━━┿━━━━┿━━━━┿━━━━┿━━━┿━━━┿━━━━━━┫
   ┃あきる野│  八七│  一三│一四・九│宝永5│寛政1│      ┃
   ┠────┼────┼────┼────┼───┼───┼──────┨
   ┃羽  村│   五│   〇│ 〇・〇│───│───│      ┃
   ┠────┼────┼────┼────┼───┼───┼──────┨
   ┃福  生│  一二│   〇│ 〇・〇│───│───│      ┃
   ┠────┼────┼────┼────┼───┼───┼──────┨
   ┃ 奥多摩│  二二│   一│ 四・五│延享5│延享5│      ┃
   ┠────┼────┼────┼────┼───┼───┼──────┨
   ┃ 日の出│  三四│   五│一四・七│宝永3│天明4│      ┃
   ┣━━━━┿━━━━┿━━━━┿━━━━┿━━━┿━━━┿━━━━━━┫
   ┃小  計│ 一六〇│  一九│一一・九│宝永3│寛政1│      ┃
   ┣━━━━┿━━━━┿━━━━┿━━━━┿━━━┿━━━┿━━━━━━┫
   ┃青  梅│  八九│   一│ 一・一│年不明│年不明│      ┃
   ┠────┼────┼────┼────┼───┼───┼──────┨
   ┃瑞  穂│  二三│   〇│ 〇・〇│───│───│      ┃
   ┠────┼────┼────┼────┼───┼───┼──────┨
   ┃檜  原│  六六│   七│一〇・六│元禄12│宝暦10│      ┃
   ┣━━━━┿━━━━┿━━━━┿━━━━┿━━━┿━━━┿━━━━━━┫
   ┃小  計│ 一七八│   八│ 四・五│元禄12│宝暦10│      ┃
   ┣━━━━┿━━━━┿━━━━┿━━━━┿━━━┿━━━┿━━━━━━┫
   ┃合  計│ 三三八│  二七│ 八・〇│元禄12│寛政1│      ┃
   ┗━━━━┷━━━━┷━━━━┷━━━━┷━━━┷━━━┷━━━━━━┛
 この市町村別塔数から読み取れるのは、多摩川の南岸には多いが、北岸に少ないという分布結果である。それは、北岸の青梅市と奥多摩町に各一基の分布からもうかがえる。

 次に、これらの塔を年代順に配列すると、次のようになる。
   順 番 元 号 塔 形 所在地           中央手 型式 下方手頁数
   参 考 元禄11 光背型 あきる野市乙津・青木平   索・蛇 E型 矛・珠 一
   参 考 元禄11 光背型 あきる野市養沢 会館    索・蛇 E型 矛・珠 一
   1 27 元禄12 光背型 檜原村八割 吉野宅         H型 蛇・索
   2 14 宝永3 笠付型 日の出町大久野 慶徳寺跡      G型     二
   3 15 宝永3 笠付型 日の出町平井 常福寺        E型     二
   4 1 宝永5 柱状型 あきる野市乙津 明光院       D型     三
   5 26 享保3 板駒型 檜原村湯久保            B型
   6 2 享保6 光背型 あきる野市三内 八幡社       E型 無/無 六
   7 16 享保9 笠付型 日の出町平井 祥雲寺        E型     四
   8 3 享保19 板駒型 あきる野市乙津 龍珠院       E型     九
   9 22 享保19 板駒型 檜原村大沢 郷土資料館       B型
   10 4 享保20 笠付型 あきる野市乙津 大戸里神社     E型    一〇
   11 5 延享1 笠付型 あきる野市下代継 金松寺      B型    一二
   12 19 延享5 光背型 奥多摩町峰谷 宝福寺        G型     五
   13 6 宝暦4 笠付型 あきる野市雨間 路傍        B型    一三
   14 7 宝暦6 笠付型 あきる野市養沢 路傍        E型    一四
   15 17 宝暦9 柱状型 日の出町大久野・水口        F型     五
   16 23 宝暦10 笠付型 檜原村千足 御霊檜原神社      E型
   17 8 宝暦13 笠付型 あきる野市草花 地蔵堂       G型    一五
   18 9 宝暦13 笠付型 あきる野市瀬戸岡 珠陽院      F型    一五
   19 10 明和9 笠付型 あきる野市原小宮・代田       B型    一七
   20 11 安永2 笠付型 あきる野市切欠           A型    一八
   21 18 天明4 柱状型 日の出町大久野 宝鏡寺       F型    一〇
   22 12 寛政1 笠付型 あきる野市牛沼 会館        F型    二一
   23 13 年不明 笠付型 あきる野市養沢 会館        E型    三八
   24 20 年不明 板駒型 青梅市黒沢一丁目 山際       C型
   25 21 年不明 板駒型 檜原村大沢 大沢橋         B型 蛇・索
   26 24 年不明 光背型 檜原村上川苔            E型 蛇・索
   27 25 年不明 光背型 檜原村小岩 中学入口        B型

これを元号別に基数を示すと、次の表の通りとなる。
   ┏━┳━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┳━┓
   ┃数┃1│3│0│6│0│0│2│0│6│1│1│1│1│5┃7┃
   ┃基┃・│ │ │ │ │ │ │ │ │ │ │ │ │ ┃2┃
   ┠─╂─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─╂─┨
   ┃号┃禄│永│徳│保│文│保│享│延│暦│和│永│明│政│明┃計┃
   ┃元┃元│宝│正│享│元│寛│延│寛│宝│明│安│天│寛│不┃合┃
   ┗━┻━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┻━┛
 表からわかることは、元禄期に万歳型もどきの像が出現し、宝永期から寛政期の間に造立がみられる。大きな山は、宝永期・享保期・宝暦期の三期にみられる。

 さらに型式別にみると、次のようになる。
   番 順 元 号 塔 形 所在地           中央手 型式 下方手 頁数
   1 11 安永2 笠付型 あきる野市切欠           A型     一八
   2 26 享保3 板駒型 檜原村湯久保            B型
   3 22 享保19 板駒型 檜原村大沢 郷土資料館       B型
   4 5 延享1 笠付型 あきる野市下代継 金松寺      B型     一二
   5 6 宝暦4 笠付型 あきる野市雨間 路傍        B型     一三
   6 10 明和9 笠付型 あきる野市原小宮・代田       B型     一七
   7 21 年不明 板駒型 檜原村大沢 大沢橋         B型 蛇・索
   8 25 年不明 光背型 檜原村小岩 中学入口        B型
   9 20 年不明 板駒型 青梅市黒沢一丁目 山際       C型
   10 1 宝永5 柱状型 あきる野市乙津 明光院       D型      三
   参 考 元禄11 光背型 あきる野市乙津・青木平   索・蛇 E型 矛・珠  一
   参 考 元禄11 光背型 あきる野市養沢 会館    索・蛇 E型 矛・珠  一
   11 2 享保6 光背型 あきる野市三内 八幡社       E型 無/無  六
   12 7 享保6 笠付型 あきる野市養沢 路傍        E型     一四
   13 16 享保9 笠付型 日の出町平井 祥雲寺        E型      四
   14 3 享保19 板駒型 あきる野市乙津 龍珠院       E型      九
   15 4 享保20 笠付型 あきる野市乙津 大戸里神社     E型     一〇
   16 23 宝暦10 笠付型 檜原村千足 御霊檜原神社      E型
   17 15 安永3 笠付型 日の出町平井 常福寺        E型      二
   18 13 年不明 笠付型 あきる野市養沢 会館        E型     三八
   19 24 年不明 光背型 檜原村上川苔            E型 蛇・索
   20 17 宝暦9 柱状型 日の出町大久野・水口        F型      五
   21 9 宝暦13 笠付型 あきる野市瀬戸岡 珠陽院      F型     一五
   22 18 天明4 柱状型 日の出町大久野 宝鏡寺       F型     一〇
   23 12 寛政1 笠付型 あきる野市牛沼 会館        F型     二一
   24 14 宝永3 笠付型 日の出町大久野 慶徳寺跡      G型      二
   25 19 延享5 光背型 奥多摩町峰谷 宝福寺        G型      五
   26 8 宝暦13 笠付型 あきる野市草花 地蔵堂       G型     一五
   27 27 元禄12 光背型 檜原村八割 吉野宅         H型 蛇・索

以上を型式別による基数を示すと、次の通りになる。
   ┏━┳━┯━┯━┯━┳━┯━┯━┯━┯━┳━┓
   ┃数┃1│7│1│1┃9│4│3│1│0┃7┃
   ┃基┃ │ │ │ ┃・│ │ │ │ ┃2┃
   ┠─╂─┼─┼─┼─╂─┼─┼─┼─┼─╂─┨
   ┃式┃型│型│型│型┃型│型│型│型│明┃計┃
   ┃型┃A│B│C│D┃E│F│G│H│不┃合┃
   ┗━┻━┷━┷━┷━┻━┷━┷━┷━┷━┻━┛
 最も基数の多い型式はE型が九基(参考を含めると一一基)で、次いでB型が七基、F型が四基、G型が各三基、A型・C型・D型・H型が各一基の順となる。総ての型式の分布がみらる。

 全基数の八%を多いとみるか、少ないとみるかは、それぞれの立場によって異なるだろう。しかし合掌六手の標準形(上方手に矛と輪、下方手に矢と弓を執る)から考えると、別の流れであることは間違いない。恐らく未だ分析していない北多摩地方よりはパーセンテージが高く、南多摩地方に比べると低いだろう。神奈川との関連も気になるところである。
(平成13・6・19記)
北多摩の万歳型

 多摩石仏の会・元会長の八代恒治さんは、昭和三十六年に私家版の『三多まの庚申塔』を発行された。その著書の中では、明確に「万歳型」と表現されていないが、万歳型の合掌六手青面金剛像にふれている。この型の北多摩地方における分布について、書中で「北多摩郡の五基は、府中市二、昭島市・小金井市・国分寺町各一」と述べている。

 多摩地方における庚申塔調査は、八代さんの著作当時(北多摩地方の万歳型が五基)に比べて進展している。多摩石仏の会の多田治昭さんは、多摩地方の市町村別に庚申塔の記録をまとめて刊行されている。それには、市町村単位にそれぞれの庚申塔の写真を一基ずつ掲げ、銘文や所在地などのデータ、年表や参考文献を記述している。北多摩地方ですでに刊行された冊子は、次の通りである。
   『清瀬市の庚申塔 1』    私家版  平成7年刊)
   『東村山市の庚申塔 2』   私家版  平成7年刊)
   『東久留米市の庚申塔 3』  私家版  平成7年刊)
   『田無市の庚申塔 4』    私家版  平成8年刊) 現在の西東京市
   『国分寺市の庚申塔 5』   私家版  平成8年刊)
   『国立市の庚申塔 6』    私家版  平成8年刊)
   『昭島市の庚申塔 7』    私家版  平成10年刊)
   『武蔵村山市の庚申塔 11』  私家版  平成9年刊)
   『東大和市の庚申塔 13』   私家版  平成9年刊)
   『小平市の庚申塔 14』    私家版  平成10年刊)
   『小金井市の庚申塔 16』   私家版  平成10年刊)

 この一一冊をテキストにして、先ず市町村別に万歳型の青面金剛を列記すると
   番 元 号 塔 形 所在地                型式 下方手 頁数
   1 貞享5 笠付型 東村山市久米川 梅岩寺    中央手 H型      三
   2 明和4 笠付型 国分寺市西町 神明社         E型      四
   3 寛政5 笠付型 国立市谷保 下谷保防災C       E型      三
   4 享保20 笠付型 昭島市上川原町 龍田寺        B型      四
   5 天明1 柱状型 昭島市田中町 庚申塚         E型      五
   6 安永2 笠付型 小金井市前腹 前原墓地        B型      七
の六基である。「中央手」が空白のものは「合掌手」、「下方手」が空白のものは「弓・矢」を執る像を表す。以下、同様である。

 前記の多田さんの冊子にない狛江市・立川市・調布市・府中市・保谷市(現・西東京市)・三鷹市・武蔵野市の七市分は、手元にある私の調査カードから万歳型の青面金剛を抽出すると
   番 元 号 塔 形 所在地            中央手 型式
   7 寛政6 柱状型 狛江市元和泉2 路傍         B型
   8 安永3 柱状型 立川市錦町6 路傍          B型
   9 享保15 笠付型 立川市柴崎町4 普済寺墓地      B型?
   10 明和1 笠付型 立川市砂川町4 阿豆佐味神社     B型?
   11 安永6 板駒型 調布市金子    厳島神社      B型
   12 天明2 柱状型 府中市西府町2 熊野神社       B型
   13 年不明 光背型 府中市西府町2 熊野神社       B型
の七基がみられる。北多摩地方では、中央手が合掌手以外の変種がなく、下方手の持物も弓と矢を執る標準形の万歳型であることがわかる。
以上の塔を各市別に基数を集計すると、次の表の通りである。
   ┏━━━━┯━━━━┯━━━━┯━━━━┯━━━┯━━━┯━━━━━━┓
   ┃市町村 │庚申塔数│万歳型数│比  率│最古塔│最新塔│備    考┃
   ┣━━━━┿━━━━┿━━━━┿━━━━┿━━━┿━━━┿━━━━━━┫
   ┃昭  島│  一六│   二│一二・五│享保20│天明1│      ┃
   ┠────┼────┼────┼────┼───┼───┼──────┨
   ┃清  瀬│   八│   〇│ 〇・〇│───│───│      ┃
   ┠────┼────┼────┼────┼───┼───┼──────┨
   ┃国  立│   五│   一│二〇・〇│寛政5│寛政5│      ┃
   ┠────┼────┼────┼────┼───┼───┼──────┨
   ┃小金井 │  二二│   一│ 四・五│安永2│安永2│      ┃
   ┠────┼────┼────┼────┼───┼───┼──────┨
   ┃国分寺 │   八│   一│一二・五│明和4│明和4│      ┃
   ┠────┼────┼────┼────┼───┼───┼──────┨
   ┃小  平│  一三│   〇│ 〇・〇│───│───│      ┃
   ┠────┼────┼────┼────┼───┼───┼──────┨
   ┃東久留米│  二〇│   〇│ 〇・〇│───│───│      ┃
   ┠────┼────┼────┼────┼───┼───┼──────┨
   ┃東村山 │  二一│   一│ 四・八│貞享5│貞享5│      ┃
   ┠────┼────┼────┼────┼───┼───┼──────┨
   ┃東大和 │  一三│   〇│ 〇・〇│───│───│      ┃
   ┠────┼────┼────┼────┼───┼───┼──────┨
   ┃武蔵村山│  二一│   〇│ 〇・〇│───│───│      ┃
   ┣━━━━┿━━━━┿━━━━┿━━━━┿━━━┿━━━┿━━━━━━┫
   ┃小  計│ 一四七│   六│ 四・一│貞享5│寛政5│      ┃
   ┣━━━━┿━━━━┿━━━━┿━━━━┿━━━┿━━━┿━━━━━━┫
   ┃狛  江│  二六│   一│ 三・八│寛政6│寛政6│      ┃
   ┠────┼────┼────┼────┼───┼───┼──────┨
   ┃立  川│  一六│   三│一八・八│享保15│安永3│      ┃
   ┠────┼────┼────┼────┼───┼───┼──────┨
   ┃調  布│  六七│   一│ 一・五│安永6│安永6│      ┃
   ┠────┼────┼────┼────┼───┼───┼──────┨
   ┃西東京 │  二六│   〇│ 〇・〇│───│───│      ┃
   ┠────┼────┼────┼────┼───┼───┼──────┨
   ┃府  中│  六三│   二│ 三・二│天明2│天明2│      ┃
   ┠────┼────┼────┼────┼───┼───┼──────┨
   ┃三  鷹│  三三│   〇│ 〇・〇│───│───│      ┃
   ┠────┼────┼────┼────┼───┼───┼──────┨
   ┃武蔵野 │  一九│   〇│ 〇・〇│───│───│   ┃
   ┣━━━━┿━━━━┿━━━━┿━━━━┿━━━┿━━━┿━━━━━━┫
   ┃小  計│ 二二四│   七│ 三・一│享保15│寛政6│      ┃
   ┣━━━━┿━━━━┿━━━━┿━━━━┿━━━┿━━━┿━━━━━━┫
   ┃合  計│ 三七一│  一三│ 三・五│貞享5│寛政6│      ┃
   ┗━━━━┷━━━━┷━━━━┷━━━━┷━━━┷━━━┷━━━━━━┛
 この一覧表から北多摩地方では、庚申塔三七一基中一三基が万歳型で、その割合が三・五%であるがわかる。一方、西多摩地方の場合は、三三八基中二七基で万歳型が八・〇%にのぼり、北多摩地方に比べると比率が高い。八王子市内の場合は、縣敏夫さんの『資料 八王子市の庚申塔』(私家版平成12年刊)からデータを抽出してみると、全庚申塔二四九基中に万歳型が六五基で、高率の二六・一%を占める。市内庚申塔の四基に一基の割合で万歳型に接する割合である。

 参考までに、手元の調査カードから日野市と町田市の万歳型を抽出すると、日野市が一〇六基中に万歳型が一六基で、一五・一%を占め、町田市が一三〇基中に万歳型が一四基で、一〇・八%である。八王子に次ぐのが日野市で、続いて町田市となる。
 確かに市別にみれば、国立市が二〇・〇%、立川市が一八・八%、昭島市と国分寺市が一二・五%の数字ではある。立川市と昭島市が多くて全基数が一六基で、しかも万歳型が立川市の三基が最高では、一〇〇基を越す日野市や町田市とは比較にならない。
 こうして算出したデータを基に推測すると、多摩川の南岸には多く、北岸に少ないという分布結果と、八王子市を中心としてその周辺へ広がる傾向が読み取れる。かつて八代さんが、結論的に「この形式(注 万歳型)の像塔は、八王子市・日野町を中心としてひろがっており、ここに像塔の一形式があったのであろう」と『三多まの庚申塔』で述べた箇所に一致する。

 続いて、前記の市別に列記した塔を造塔の年代順に配列すると、次のようになる。
   順 番 元 号 塔 形 所在地            中央手 型式 下方手 頁数
   1 1 貞享5 笠付型 東村山市久米川 梅岩寺        H型      三
   2 9 享保15 笠付型 立川市柴崎町4 普済寺墓地      B型
   3 4 享保20 笠付型 昭島市上川原町 龍田寺        B型      四
   4 10 明和1 笠付型 立川市砂川町4 阿豆佐味神社     B型
   5 2 明和4 笠付型 国分寺市西町 神明社         E型      四
   6 6 安永2 笠付型 小金井市前腹 前原墓地        B型      七
   7 8 安永3 柱状型 立川市錦町6 路傍          B型
   8 11 安永6 板駒型 調布市金子    厳島神社      B型
   9 5 天明1 柱状型 昭島市田中町 庚申塚         E型      五
   10 12 天明2 柱状型 府中市西府町2 熊野神社       B型
   11 3 寛政5 笠付型 国立市谷保 下谷保防災C       E型      三
   12 7 寛政6 柱状型 狛江市元和泉2 路傍         B型
   13 13 年不明 光背型 府中市西府町2 熊野神社       B型

このよう造立年代順に並び換えると、塔形の変化などもうかがえる。東村山市久米川・梅岩寺にある貞享五年塔が最も古く、最新の塔は狛江市元和泉二丁目の路傍にる寛政六年塔である。この間に万歳型が一三基造立されている。
 万歳型を元号別に基数を示すと、次の表の通りとなる。参考までに、西多摩地方の状況と対比できるように、元号別の基数を加えておく。
   ┏━┳━┳━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┳━┓
   ┃摩┃数┃0│1│3│0│6│0│0│2│0│6│1│1│1│1│5┃7┃
   ┃多┃ ┃ │ │ │ │ │ │ │ │ │ │ │ │ │ │ ┃2┃
   ┃西┃基┃ │・│ │ │ │ │ │ │ │ │ │ │ │ │ ┃・┃
   ┣━╋━╋━┿━┿━┿━┿━┿━┿━┿━┿━┿━┿━┿━┿━┿━┿━╋━┫
   ┃摩┃数┃1│0│0│0│2│0│0│0│0│0│2│3│2│2│1┃3┃
   ┃多┃ ┃ │ │ │ │ │ │ │ │ │ │ │ │ │ │ ┃1┃
   ┃北┃基┃ │ │ │ │ │ │ │ │ │ │ │ │ │ │ ┃ ┃
   ┣━┻━╋━┿━┿━┿━┿━┿━┿━┿━┿━┿━┿━┿━┿━┿━┿━╋━┫
   ┃ 号 ┃享│禄│永│徳│保│文│保│享│延│暦│和│永│明│政│明┃計┃
   ┃ 元 ┃貞│元│宝│正│享│元│寛│延│寛│宝│明│安│天│寛│不┃合┃
   ┗━━━┻━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┻━┛
 なお、表中にある西多摩の「・」は、あきる野市乙津と養沢にある元禄十一年塔で、中央手が合掌ではなくて索と蛇を執り、下方手に矛と珠を持つ六手像である。

 この表からわかることは、北多摩地方では貞享期に万歳型像が出現し、間をおいて享保期に二基、再び間隔があって明和期から寛政期の間に連続して造立がみられる。最も基数多い元号は、安永期の三基で、以下、享保期・明和期・天明期・寛政期の各二基、貞享期の一基の順である。その他に造立年代が不明の塔が一基みられる。

 西多摩地方では享保期と宝暦期に六基という大きなピークがみられるが、北多摩地方ではピークというよりは明和期から寛政期の期間に造塔が連続している。また、西多摩地方では宝暦期のピークを過ぎて明和期から寛政期に各一基の造立という減少した時期に、北多摩地方では二基か三基の造立がみられるように年代がずれている。この傾向は、伝播の経路や時期に関係があるのだろうか。
 因みに西多摩地方の場合は、下方手に蛇と索を執る像では檜原村八割・吉野宅の元禄十二年塔が最も古く、下方手に矢と弓を執る標準形では日の出町大久野・慶徳寺跡の宝永三年塔が最古である。最新は、あきる野市牛沼・牛沼会館の寛政元年塔である。

 参考までに八王子市の場合は、左入町中丸路傍にある延宝七年塔が初発で、次が裏高尾町荒井の宝永三年塔である。西寺方町・庚申塚の安政七年塔に続く最新は、大塚・八幡神社の昭和六十一年塔である。町田市では享保二年から天明五年まで、日野市では享保十二年から寛政十二年の間に万歳型の造立がみられる。従って万歳型は、東村山市久米川・梅岩寺の貞享五年塔が延宝七年塔に次ぎ、檜原村八割・吉野宅の元禄十二年塔と続くわけである。

 これまでに、表題を含めて「万歳型」と表記してきた。この万歳型はというのは、青面金剛の合掌六手像で上方手で日月を捧げるものをいう。その標準形は、下方手が矢と弓を執る。しかしながら、一口に「万歳型」といっても、細かく観察すると・日月と掌との位置関係、・瑞雲の有無、・掌の向きの三つの観点から、それらを組み合わせた八通りの変化相がある。その八種の型式を示すと
   ┏━━━━━┳━━━┳━━━━┳━━┳━━━━━━━━━━━┓
   ┃日月の位置┃瑞 雲┃掌の方向┃型式┃備         考┃
   ┣━━━━━╋━━━╋━━━━╋━━╋━━━━━━━━━━━┫
   ┃掌の上方 ┃あ り┃上向き ┃A型┃日月と掌に間隔がある ┃
   ┃     ┃   ┠────╂──╂───────────┨
   ┃     ┃   ┃前向き ┃B型┃五指が見えるもの   ┃
   ┃     ┣━━━╋━━━━╋━━╋━━━━━━━━━━━┫
   ┃     ┃な し┃上向き ┃C型┃日月と掌に間隔がある ┃
   ┃     ┃   ┠────╂──╂───────────┨
   ┃     ┃   ┃前向き ┃D型┃五指が見えるもの   ┃
   ┣━━━━━╋━━━╋━━━━╋━━╋━━━━━━━━━━━┫
   ┃掌   上┃あ り┃上向き ┃E型┃日月が直接掌の上にある┃
   ┃     ┃   ┠────╂──╂───────────┨
   ┃     ┃   ┃前向き ┃F型┃日月か瑞雲が掌にかかる┃
   ┃     ┣━━━╋━━━━╋━━╋━━━━━━━━━━━┫
   ┃     ┃な し┃上向き ┃G型┃日月が直接掌の上にある┃
   ┃     ┃   ┠────╂──╂───────────┨
   ┃     ┃   ┃前向き ┃H型┃日月が掌にかかる   ┃
   ┗━━━━━┻━━━┻━━━━┻━━┻━━━━━━━━━━━┛
のような分類一覧表となる。この分類を用いて具体的に実例をみていきたい。
さらに型式別にみると、次のようになる。
   順 番 元 号 塔 形 所在地            中央手 型式 下方手 頁数
   1 9 享保15 笠付型 立川市柴崎町4 普済寺墓地      B型
   2 4 享保20 笠付型 昭島市上川原町 龍田寺        B型      四
   3 10 明和1 笠付型 立川市砂川町4 阿豆佐味神社     B型
   4 6 安永2 笠付型 小金井市前腹 前原墓地        B型      七
   5 8 安永3 柱状型 立川市錦町6 路傍          B型
   6 11 安永6 板駒型 調布市金子    厳島神社      B型
   7 12 天明2 柱状型 府中市西府町2 熊野神社       B型
   8 7 寛政6 柱状型 狛江市元和泉2 路傍         B型
   9 13 年不明 光背型 府中市西府町2 熊野神社       B型
   10 2 明和4 笠付型 国分寺市西町 神明社         E型      四
   11 5 天明1 柱状型 昭島市田中町 庚申塚         E型      五
   12 3 寛政5 笠付型 国立市谷保 下谷保防災C       E型      三
   13 1 貞享5 笠付型 東村山市久米川 梅岩寺        H型      三

以上を型式別による基数を示すと、次の通りになる。参考までに西多摩地方の場合と比較できるように、一覧表の中に加えておく。
   ┏━┳━┳━┯━┯━┯━┳━┯━┯━┯━┯━┳━┓
   ┃摩┃数┃1│7│1│1┃9│4│3│1│0┃7┃
   ┃多┃ ┃ │ │ │ ┃ │ │ │ │ ┃2┃
   ┃西┃基┃ │ │ │ ┃・│ │ │ │ ┃・┃
   ┣━╋━╋━┿━┿━┿━╋━┿━┿━┿━┿━╋━┫
   ┃摩┃数┃0│9│0│0┃3│0│0│1│0┃3┃
   ┃多┃ ┃ │ │ │ ┃ │ │ │ │ ┃1┃
   ┃北┃基┃ │ │ │ ┃ │ │ │ │ ┃ ┃
   ┣━┻━╋━┿━┿━┿━╋━┿━┿━┿━┿━╋━┫
   ┃ 式 ┃型│型│型│型┃型│型│型│型│明┃計┃
   ┃ 型 ┃A│B│C│D┃E│F│G│H│不┃合┃
   ┗━━━┻━┷━┷━┷━┻━┷━┷━┷━┷━┻━┛
 表からもわかるように、最も基数の多い型式はB型が九基で、次いでE型が三基、H型が一基となり。A型・C型・D型・F型・G型の五型の分布はみられない。北多摩地方では、三型、特にB型が多く(六九・二%)、E型を加えた二型で九二・三%を占める。基数のばらつきがあっても全型が分布している西多摩地方とは大きく異なる。

 北多摩地方の場合は、庚申塔の全基数の三・五%が万歳型で、西多摩地方の八%に比べて低率である。八王子・日野・町田に比べると、万歳型が庚申塔に占める割合がさらに低くなる。上方手に矛と宝輪を持つ合掌六手の標準形から考えると、万歳型がローカル的な別の流れであることは間違いない。このことは、八王子・日野・町田などの南多摩地方に多く分布がみられることと関連して、この型式が八王子・日野を中心としたものか、あるいは相模から伝播したものか気になるところである。
(平成13・6・20記)

   〔付記〕
六月二十二日に多田治昭さんから送られた自作の『狛江市の庚申塔 17』(私家版 平成13年刊)を受け取った。その冊子をみても、狛江市の場合は、私の調査カードから抽出して7番に挙げた元和泉二丁目路傍にある寛政六年塔(B型)のみである。
八王子市内の万歳型

 多摩石仏の会の元会長の八代恒治さんは、その著『三多まの庚申塔』(私家版 昭和36年刊)の中で、明確に「万歳型」と表現していないが、書中で万歳型の合掌六手青面金剛にふれている。それは、五頁の終わりから次頁にかけて「合掌六手の像では、持物第一手右矛、左宝輪(少数反対のものがある)、第三手右矢、左弓というのがふつうであるが、第一手で日月をささげるものがかなり多く見られる」の部分である。

 表題に使った「万歳型」というのは、青面金剛の合掌六手像で、上方手で日月をささげるものをいう。八代さんのいう「第一手(注 上方手のこと)で日月をささげるもの」、つまり中央手(第二手)が合掌し、上方手に日月を捧持し、下方手(第三手)が矢と弓を執るのが標準形で、下方手に他の持物を持つ変形が多少ある。

 その万歳型の分布については、八代さんは、六頁で「南多摩郡には五二基あり、別に日月を掌に持っているものが四基ある。稲城町には一基もなく、多摩村から西へ日野町・八王子市一帯に分布し、多摩丘陵の南 町田市には九基ある」と述べている。
 一口に「万歳型」といっても、個々の塔を詳細にみると違いがみられる。そこで、三つの観点からその組み合わせの八種類に分類した。それが次に掲げる分類一覧表である。以下、この分類による型式を使用する。
   ┏━━━━━┳━━━┳━━━━┳━━┳━━━━━━━━━━━┓
   ┃日月の位置┃瑞 雲┃掌の方向┃型式┃備         考┃
   ┣━━━━━╋━━━╋━━━━╋━━╋━━━━━━━━━━━┫
   ┃掌の上方 ┃あ り┃上向き ┃A型┃日月と掌に間隔がある ┃
   ┃     ┃   ┠────╂──╂───────────┨
   ┃     ┃   ┃前向き ┃B型┃五指が見えるもの   ┃
   ┃     ┣━━━╋━━━━╋━━╋━━━━━━━━━━━┫
   ┃     ┃な し┃上向き ┃C型┃日月と掌に間隔がある ┃
   ┃     ┃   ┠────╂──╂───────────┨
   ┃     ┃   ┃前向き ┃D型┃五指が見えるもの   ┃
   ┣━━━━━╋━━━╋━━━━╋━━╋━━━━━━━━━━━┫
   ┃掌   上┃あ り┃上向き ┃E型┃日月が直接掌の上にある┃
   ┃     ┃   ┠────╂──╂───────────┨
   ┃     ┃   ┃前向き ┃F型┃日月か瑞雲が掌にかかる┃
   ┃     ┣━━━╋━━━━╋━━╋━━━━━━━━━━━┫
   ┃     ┃な し┃上向き ┃G型┃日月が直接掌の上にある┃
   ┃     ┃   ┠────╂──╂───────────┨
   ┃     ┃   ┃前向き ┃H型┃日月が掌にかかる   ┃
   ┗━━━━━┻━━━┻━━━━┻━━┻━━━━━━━━━━━┛
 前記の『三多まの庚申塔』に中心的な分布が「日野町・八王子市一帯」(六頁)と記されているから、そこで八王子市の場合はどうであるのか、具体的に実例をみていきたい。八代さんは、書中で南多摩地方には五二基+四基の万歳型の分布を調査されている。しかし現状では、当時(昭和三十年代)に比べてると調査が一段と進んでいる。八王子市内の庚申塔については、現在のところ縣敏夫さんの『資料 八王子市の庚申塔』(私家版 平成12年刊)が最も調査数が多く、信頼度も高い。

 縣さんの資料には、庚申塔と庚申信仰関係資料が二六八件(その他確認できなかった塔が三〇基)のデータが載っている。その中には、懸佛・梵鐘の他に三猿台石や燈籠、あるいは練馬区から移入された庚申塔がみられる。こうした金石物一九件を除くと、今回対象とする二四九基の庚申塔である。
 先ず市内を旧市・小宮・柚木・由井・加住・川口・恩方・元八・横山・浅川の一〇地区に分け、地区別に万歳型の基数を集計すると、次の表の通りである。
   ┏━┳━┯━┯━┯━┯━━━┯━┯━┯━┯━┳━┓
   ┃数┃2│4│7│7│5│1│2│8│3│6┃5┃
   ┃基┃ │ │ │ │ │1│1│ │ │ ┃6┃
   ┠─╂─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─╂─┨
   ┃区┃市│宮│木│井│住│口│方│八│山│川┃計┃
   ┃地┃旧│小│柚│由│加│川│恩│元│横│浅┃合┃
   ┗━┻━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┻━┛
 この表からみると、旧市の二基を中心にして、それに接する小宮が四基や横山が三基と塔数が少ない。加住は五基とやや多いが、川口が一一基・恩方が一二基・元八が八基と西北部と、それに続く南西部が浅川の六基、東南部の柚木と由井が各七基と多い。つまり旧市・小宮・横山を取り巻く地帯は、万歳型の基数が多い特徴がうかがわれる。これによって、市内の概略の傾向がわかる。
 このような単純な地区別の基数だけではなく、もう一歩踏み込んで万歳型を分析してみよう。地区毎の庚申塔の全基数、その中で青面金剛の刻像塔の基数と占める割合、さらに青面金剛像の中の合掌六手像の基数と青面金剛との占有率、万歳型の基数と合掌六手像との比率を一覧表にまとめると、次のようになる。
   ┏━━┯━━━┯━━━┯━━━━┳━━━┯━━━━━┳━━━┯━━━━┓
   ┃地区│庚申塔│青面像│比  率┃合掌六│比 歳 率┃万歳型│比  率┃
   ┣━━┿━━━┿━━━┿━━━━╋━━━┿━━━━━╋━━━┿━━━━┫
   ┃旧市│ 二〇│ 一〇│五〇・〇┃ 一〇│一〇〇・〇┃  二│二〇・〇┃
   ┠──┼───┼───┼────╂───┼─────╂───┼────┨
   ┃小宮│ 一九│ 一七│八九・五┃ 一七│一〇〇・〇┃  四│二三・五┃
   ┠──┼───┼───┼────╂───┼─────╂───┼────┨
   ┃柚木│ 二七│ 一八│七〇・四┃ 一三│ 七二・二┃  七│五三・八┃
   ┠──┼───┼───┼────╂───┼─────╂───┼────┨
   ┃由井│ 一六│  九│五六・三┃  九│一〇〇・0┃  七│七七・八┃
   ┠──┼───┼───┼────╂───┼─────╂───┼────┨
   ┃加住│ 一四│ 一三│九二・九┃ 一二│ 九二・三┃  五│四一・七┃
   ┠──┼───┼───┼────╂───┼─────╂───┼────┨
   ┃川口│ 三六│ 二五│七二・二┃ 二二│ 八八・〇┃ 一一│五〇・〇┃
   ┠──┼───┼───┼────╂───┼─────╂───┼────┨
   ┃恩方│ 四一│ 二四│五八・五┃ 二三│ 九二・〇┃ 一二│五二・二┃
   ┠──┼───┼───┼────╂───┼─────╂───┼────┨
   ┃元八│ 二六│ 一四│五三・八┃ 一三│ 九二・九┃  八│六一・五┃
   ┠──┼───┼───┼────╂───┼─────╂───┼────┨
   ┃横山│ 二九│  九│三一・〇┃  八│ 八八・九┃  三│三七・五┃
   ┠──┼───┼───┼────╂───┼─────╂───┼────┨
   ┃浅川│ 二一│ 一四│六六・七┃ 一三│ 九二・九┃  六│四六・二┃
   ┣━━┿━━━┿━━━┿━━━━╋━━━┿━━━━━╋━━━┿━━━━┫
   ┃合計│二四九│一五三│六一・四┃一四〇│ 九一・五┃ 六五│四六・四┃
   ┗━━┷━━━┷━━━┷━━━━┻━━━┷━━━━━┻━━━┷━━━━┛
 八王子市内に散在する庚申塔の二四九基中に青面金剛の刻像塔が一五三基で六一・四%となり、全青面金剛の九一・五%の一四〇基が合掌六手像(他に合掌手のみや剥離して確認できないものが三基ある)で、合掌六手像の中で万歳型が占める割合は六五基で四六・四%である。

 以上に挙げた数字だけでは、多いのか少ないのか見当がつかない。例えば、手元の調査カードから算出した全庚申塔と万歳型の割合をみると、日野市が一五・一%、町田市が一〇・八%であるから、八王子市の場合が二六・一基で一段と高率であることがわかる。すでに明らかにした西多摩地方の八・〇%や北多摩地方の三・五%と比較しても抜群に高い。

 八王子市内の万歳型の塔を『資料 八王子市の庚申塔』かた抽出して、年代順に配列すると、次のようになる。
   順 番 元号  塔形  所在地            型式 下方手 頁数
   1 21 延宝7 板駒型 加住 左入町中丸 路傍    G型 欠・欠 五四
   2 63 宝永3 笠付型 浅川 裏高尾町荒井      F型    一三五
   3 45 宝永4 光背型 恩方 小津町 路傍      G型     九二
   4 7 宝永7 笠付型 柚木 大塚 八幡神社     E型     三二
   5 23 正徳4 光背型 加住 谷野町 観音堂     G型     五四
   6 55 正徳5 笠付型 元八 弐分方町 日吉神社   G型    一〇六
   7 11 享保3 笠付型 柚木 松木 館跡入口     G型     三三
   8 31 享保13 笠付型 川口 川口町滝ノ沢      E型     七一
   9 51 享保15 笠付型 元八 大楽寺町 長円寺    G型    一〇四
   10 52 享保16 笠付型 元八 四谷町 会館      B型    一〇四
   11 48 享保19 笠付型 恩方 上恩方町川井野     D型     九三
   12 22 享保19 笠付型 加住 左入町 多摩病院裏   G型     五四
   13 13 享保19 板駒型 柚木 上柚木 西光寺     E型     三四
   14 4 享保19 笠付型 小宮 大谷町 古墳入口    B型     二一
   15 33 享保20 笠付型 川口 上川町畳ヶ原      E型     七二
   16 37 元文4 駒 型 恩方 西寺方町 寺跡     G型     八八
   17 26 元文4 笠付型 川口 楢原町 五叉路     B型     六九
   18 54 元文4 駒 型 元八 上壱分方町 会館東   G型    一〇五
   19 50 寛保1 笠付型 元八 大楽寺町        H型    一〇四
   20 58 寛保1 笠付型 横山 大船町 路傍      B型    一二一
   21 24 延享2 笠付型 加住 高月町 路傍      B型     五五
   22 5 宝暦3 笠付型 小宮 大和田町 墓地     A型     二一
   23 65 宝暦6 笠付型 浅川 裏高尾町小仏      B型    一三六
   24 64 宝暦7 笠付型 浅川 裏高尾町 宝珠寺    B型    一三
   25 12 宝暦8 笠付型 柚木 下柚木 薬師堂     B型     三四
   26 49 宝暦9 笠付型 元八 横川町 広場付近    F型    一〇四
   27 41 宝暦10 柱状型 恩方 下恩方町川原宿     E型     九一
   28 1 宝暦11 笠付型 旧市 元横山町2 大義寺   B型      七
   29 60 宝暦11 笠付型 浅川 東浅川町 会館     B型    一三三
   30 20 宝暦12 笠付型 由井 小比企町 峠山観音   F型     四六
   31 53 明和1 笠付型 元八 諏訪町 会館      B型    一〇五
   32 18 明和2 笠付型 由井 宇津貫町(現資料館)  B型     四五
   33 61 明和3 笠付型 浅川 東浅川町原宿      B型    一三
   34 14 明和4 笠付型 由井 長沼町 路傍      E型     四四
   35 10 明和5 笠付型 柚木 別所1 鈴木宅西    B型     三三
   36 56 明和5 笠付型 元八 川町 路傍       H型    一〇六
   37 43 明和6 笠付型 恩方 小津町 会館      B型     九二
   38 44 明和7 笠付型 恩方 小津町 路傍      B型     九二
   39 25 明和9 笠付型 加住 戸吹町 観音堂     A型     五六
   40 29 明和9 笠付型 川口 川口町 日吉神社    A型     七〇
   41 34 明和9 笠付型 川口 美山町 地蔵堂     B型     七三
   42 17 安永1 柱状型 由井 片倉町 旧道      B型     四四
   43 47 安永2 笠付型 恩方 上恩方町振宿      F型     九三
   44 57 安永2 笠付型 横山 長房町中郷 路傍    B型    一一九
   45 46 安永3 笠付型 恩方 上恩方町 庵跡     G型     九三
   46 28 安永3 柱状型 川口 犬目町 旧道      G型     六九
   47 2 安永7 笠付型 旧市 台町2 丁字路角    B型     一〇
   48 62 安永8 笠付型 浅川 南浅川町 春泉寺    B型    一三
   49 30 安永9 笠付型 川口 川口町滝ノ沢      G型     七一
   50 36 安永9 笠付型 川口 美山町 橋付近     G型     七三
   51 8 天明2 笠付型 柚木 大塚 八幡神社     B型     三二
   52 32 天明2 笠付型 川口 上川町         A型     七一
   53 39 天明3 笠付型 恩方 下恩方町 金山社    H型     八九
   54 40 寛政2 笠付型 恩方 下恩方町川原宿     D型     九一
   55 15 寛政2 笠付型 由井 長沼町 路傍      E型     四四
   56 16 寛政2 笠付型 由井 長沼町 六社宮     B型     四四
   57 59 寛政2 笠付型 横山 椚田町 十二社     B型    一二一
   58 42 寛政4 笠付型 恩方 小津町 路傍      F型     九二
   59 3 寛政6 板駒型 小宮 久保山町1 墓地    B型     二〇
   60 38 安政7 笠付型 恩方 西寺方町 庚申塚    G型     八八
   61 9 昭和61 笠付型 柚木 大塚 八幡神社     E型 両徒手 三二
   62 19 年不明 笠付型 由井 緑町 万福寺      E型     四五
   63 35 年不明 笠付型 川口 美山町 旧道      F型     七三
   64 6 年不明 笠付型 小宮 中野山王2 子安社   G型     二一
   65 27 年不明 笠付型 川口 楢原町 日吉神社    G型     六九

造立年代順の配列からわかるように、左入町中丸路傍の延宝七年板駒型塔が最も古く、八王子市大塚・八幡神社の昭和六十一年笠付型塔が最も新しい。とはいうものの、延宝七年塔は下方手の持物が欠けて不明であるし、昭和六十一年塔も下方手に持物がないから、万歳型の標準形というのをはばかる。

 以上の塔を元号別に基数集計すると、次の表の通りである。
   ┏━┳━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┳━┓
   ┃数┃1│3│2│9│3│2│1│9│1│9│3│6│1│1│4┃5┃
   ┃基┃ │ │ │ │ │ │ │ │1│ │ │ │ │ │ ┃6┃
   ┠─╂─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─╂─┨
   ┃号┃宝│永│徳│保│文│保│享│暦│和│永│明│政│政│和│明┃計┃
   ┃元┃延│宝│正│享│元│寛│延│宝│明│安│天│寛│安│昭│不┃合┃
   ┗━┻━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┻━┛
 表から明らかなように明和年間の一一基を最高にして、次いで享保年間・宝暦年間・安永年間の各九基が続く。寛政年間の六基をピークに安政年間以降は、文字塔の時代で造塔数が少ないのは止むをえない。恐らく、造塔年代の傾向から考えて年不明塔は、享保年間から寛政年間の間、遅くとも安政年間までに建てられた、と思われる。

 煩雑になるので年不明塔を除いて最古と最新の二基だけを挙げ、A型からH型までそれぞれの型式別にみると、次のようになる。
   型式 番 元号  塔形  所在地              下方手 頁数
   A型 5 宝暦3 笠付型 小宮 大和田町 墓地           二一
   A型 32 天明2 笠付型 川口 上川町               七一
   B型 52 享保16 笠付型 元八 四谷町 会館           一〇四
  B型 3 寛政6 板駒型 小宮 久保山町1 墓地          二〇
   D型 48 享保19 笠付型 恩方 上恩方町川井野           九三
   D型 40 寛政2 笠付型 恩方 下恩方町川原宿           九一
   E型 7 宝永7 笠付型 柚木 大塚 八幡神社           三二
   E型 15 寛政2 笠付型 由井 長沼町 路傍            四四
   E型 9 昭和61 笠付型 柚木 大塚 八幡神社       徒手  三二
   F型 63 宝永3 笠付型 浅川 裏高尾町荒井           一三五
   F型 42 寛政4 笠付型 恩方 小津町 路傍            九二
   G型 21 延宝7 板駒型 加住 左入町中丸 路傍      欠欠  五四
   G型 38 安政7 笠付型 恩方 西寺方町 庚申塚          八八
   H型 50 寛保1 笠付型 元八 大楽寺町             一〇四
   H型 39 天明3 笠付型 恩方 下恩方町 金山社          八九

以上を型式別による基数を示すと、次の通りになる。
  ┏━━━━━┯━━━━┯━━━━┯━━━━┯━━━━┳━━━━┯━━━━┓
  ┃型式│基数│最古年銘│所在地 │最新年銘│所在地 ┃現  代│所在地 ┃
  ┣━━┿━━┿━━━━┿━━━━┿━━━━┿━━━━╋━━━━┿━━━━┫
  ┃A型│ 四│宝暦3年│大和田町│天明2年│上川町 ┃────│────┃
  ┠──┼──┼────┼────┼────┼────╂────┼────┨
  ┃B型│二五│享保16年│四谷町 │天明2年│久保山町┃────│────┃
  ┠──┼──┼────┼────┼────┼────╂────┼────┨
  ┃C型│ 〇│────│────│────│────┃────│────┃
  ┠──┼──┼────┼────┼────┼────╂────┼────┨
  ┃D型│ 二│享保19年│上恩方町│寛政2年│下恩方町┃────│────┃
  ┠──┼──┼────┼────┼────┼────╂────┼────┨
  ┃E型│ 九│宝永7年│大  塚│寛政2年│長沼町 ┃昭和61年│大  塚┃
  ┠──┼──┼────┼────┼────┼────╂────┼────┨
  ┃F型│ 六│宝永3年│裏高尾町│寛政4年│小津町 ┃────│────┃
  ┠──┼──┼────┼────┼────┼────╂────┼────┨
  ┃G型│一六│延宝7年│左入町 │安政7年│西寺方町┃────│────┃
  ┠──┼──┼────┼────┼────┼────╂────┼────┨
  ┃H型│ 三│寛保1年│大楽寺町│天明3年│下恩方町┃────│────┃
  ┣━━┿━━┿━━━━┿━━━━┿━━━━┿━━━━╋━━━━┿━━━━┫
  ┃合計│六五│延宝7年│左入町 │安政7年│西寺方町┃昭和61年│大  塚┃
  ┗━━┷━━┷━━━━┷━━━━┷━━━━┷━━━━┻━━━━┷━━━━┛
 最も基数の多い型式はB型の二五基で、次いでG型の一六基、以下、E型の九基、F型の六基の順となる。今のところ、C型の分布はみられない。

 先にふれたように日野市が一五・一%、町田市が一〇・八%であり、西多摩地方では八・〇%、北多摩地方の三・五%である。さらに東京区部では、万歳型の比率が極めて低く、全庚申塔に対して〇・三%、青面金剛像に対して〇・五%に過ず、合掌六手像に対しても〇・七%でしかない。

 こうした各地の数字と比べると、八王子市の万歳型の占める割合がいかに高いかがわかる。八王子市の場合は、万歳型が庚申塔の全基数二四九基に対して二六・一%、青面金剛の刻像塔一五三基中では四二・五%、合掌六手像に限定すれば実に四六・四%を占めている。こうなると、上方手に矛と輪、下方手に矢と弓を執る合掌六手の標準形と肩を並べる勢いである。多摩地方は無論、東京都の中でも際立った万歳型の密分布地帯といえる。

 先日行われた多摩石仏の会の厚木東部見学会で三基の万歳型をみたように、神奈川県内にも万歳型が分布している。他にも川崎市や鎌倉市などで見ている。これらの地域の分布状況はどのようであるか、多摩地方や八王子との関連がどのようなものか、今後、追求していく必要がある。あるいは、山梨県や長野県でも万歳型がみられる。他の各県の万歳方とは、八王子の造立年代や型式と比較してどのような違いがみられるものか、を知りたいところである。
(平成13・6・28記)
 
東京区部の万歳型

 多摩地方では、八王子市を中心に、その周辺一帯に万歳型の合掌六手青面金剛が分布している。分布状況をみると、多摩川の北岸には極めて密度が低い。具体的にいうと、多摩川北岸の北多摩地方の場合には、全庚申塔に対して万歳型が三・五%を占めている。
 多摩川を挟む西多摩地方の場合は、北岸の青梅市が一基、奥多摩町が一基の合計二基である。これに対して南岸では、あきる野市が一三基、日の出町が五基、檜原村が七基と二五基で圧倒的に多い。全庚申塔に対する比率は、西多摩全体で八・〇%である。
 南多摩地方では、八王子市が二六・一%、日野市が一五・一%、町田市が一〇・八%と一段と比率が高い。つまり、八王子を離れるほど基数や比率が低い傾向が読み取れる。これを基に推測すると、東京区部の場合は基数が少なく、比率が低いと予想される。果して東京区部の場合はどのような状態なのか、を知りたくて区部の庚申塔分析を試みた。

 先ず表題に使った「万歳型」というのは、一体、何なのかである。これは、青面金剛の合掌六手像の一種で、上方手で日月をささげるものをいう。つまり中央手が合掌し、上方手に日月を捧持する形式をいう。このように中央手と上方手は規定されるが、下方手に矢と弓を執るのが標準形で、他の持物を持つ変形(例えば剣と索)が多少ある。中央手が合掌ではなくて、他の持物のもの(例えば矛と索とか、棒と弓)は、同系列と思われるが、これを区別して「準万歳型」というべきであろう。

 一口に「万歳型」といっても、個々の刻像を詳細にみると違いがみられる。そこで・日月の位置、・瑞雲の有無、・掌の方向の三つの観点から、その組み合わせの八種類に分類する一覧表である。以下、この分類による型式を使用する。
   ┏━━━━━┳━━━┳━━━━┳━━┳━━━━━━━━━━━┓
   ┃日月の位置┃瑞 雲┃掌の方向┃型式┃備         考┃
   ┣━━━━━╋━━━╋━━━━╋━━╋━━━━━━━━━━━┫
   ┃掌の上方 ┃あ り┃上向き ┃A型┃日月と掌に間隔がある ┃
   ┃     ┃   ┠────╂──╂───────────┨
   ┃     ┃   ┃前向き ┃B型┃五指が見えるもの   ┃
   ┃     ┣━━━╋━━━━╋━━╋━━━━━━━━━━━┫
   ┃     ┃な し┃上向き ┃C型┃日月と掌に間隔がある ┃
   ┃     ┃   ┠────╂──╂───────────┨
   ┃     ┃   ┃前向き ┃D型┃五指が見えるもの   ┃
   ┣━━━━━╋━━━╋━━━━╋━━╋━━━━━━━━━━━┫
   ┃掌   上┃あ り┃上向き ┃E型┃日月が直接掌の上にある┃
   ┃     ┃   ┠────╂──╂───────────┨
   ┃     ┃   ┃前向き ┃F型┃日月か瑞雲が掌にかかる┃
   ┃     ┣━━━╋━━━━╋━━╋━━━━━━━━━━━┫
   ┃     ┃な し┃上向き ┃G型┃日月が直接掌の上にある┃
   ┃     ┃   ┠────╂──╂───────────┨
   ┃     ┃   ┃前向き ┃H型┃日月が掌にかかる   ┃
   ┗━━━━━┻━━━┻━━━━┻━━┻━━━━━━━━━━━┛
 これで万歳型の型式規定ができたので、実際に区部の庚申塔を分析するわけであるが、約二〇〇〇基に及ぶ庚申塔では、充分な調査資料がない。そこで、これまでに公表された信頼のおける文献を利用して万歳型をみていきたい。

 区部の中で千代田区・渋谷区・豊島区・江戸川区の四区に関しては、手元にある私の調査カードによったが、それ以外の各区では、次の文献を使用した。
   鈴木俊夫『東京都の庚申塔 千代田区 港区』私家版 平成12年刊
   同  右『東京都の庚申塔 新宿区』私家版 平成12年刊
   同  右『東京都の庚申塔 文京区』私家版 平成12年刊
   同  右『東京都の庚申塔 台東区』私家版 平成12年刊
   同  右『東京都の庚申塔 墨田区』私家版 平成12年刊
  同  右『東京都の庚申塔 江東区』私家版 平成12年刊
   同  右『東京都の庚申塔 品川区』私家版 平成12年刊
   同  右『東京都の庚申塔 目黒区』私家版 平成12年刊
   大田区教育委員会『大田区の民間信仰(庚申信仰編)』同会 昭和44年刊
   世田谷区教育委員会『庚申塔 世田谷区石造遺物調査報告書・』同会 昭和59年刊
   同  右『道標および供養塔 同報告書・』同会 昭和60年刊
   鈴木俊夫『東京都の庚申塔2 中野区』私家版 平成3年刊
   杉並区教育委員会『杉並の石塔と石仏』同会 平成2年刊
   鈴木俊夫『東京都の庚申塔 北区』私家版 平成12年刊
   荒川区教育委員会『あらかわの庚申塔 付日待塔』同会 平成2年刊
   板橋区教育委員会『庚申塔』同会 平成7年刊
   鈴木俊夫『東京都の庚申塔 練馬区』私家版 平成13年刊
   足立区教育委員会『足立区文化財調査報告書 庚申塔編』同会 昭和61年刊
   葛飾区教育委員会『葛飾区文化財総合調査報告書』同会 昭和50年刊

これらの資料と手元のカードによって、明らかになった万歳型は、次の
   番 元号  塔形  所在地            中央手 型式 下方手
   1 延宝4 光背型 文京区本駒込3 天祖神社   合 掌 G型 剣・索
   2 天和2 板駒型 世田谷区桜丘4 久成院    合 掌 G型 矢・弓
   3 貞享3 笠付型 豊島区高田1 南蔵院     合 掌 G型 矢・弓
   4 宝永6 板駒型 文京区根津1 根津神社    合 掌 G型 矢・弓
   5 年不明 光背型 新宿区高田馬場1 土屋地蔵  合 掌 G型 矢・弓
の五基である。文京区に二基、世田谷区・豊島区・新宿区に各一基ずつ分布する。

 先にもふれたように、これらの塔に準ずるもの(準万歳型)がある。あきる野市乙津と養沢には、上方手で日月を捧げながら、中央手が索と蛇、下方手が矛と珠を執る準万歳型がみられる。こうした準万歳型が区部では
   元号  塔形  所在地              中央手 型式 下方手
   1 寛文12 板碑型 目黒区下目黒3 目黒不動   矛・索 G型 矢・弓
   2 寛文12 光背型 荒川区荒川4 子育地蔵    棒・弓 F型 矢・索
   3 延宝1 板駒型 品川区西五反田5 徳蔵寺   矛・索 G型 矢・弓
   4 天和1 笠付型 杉並区永福1 永福寺     剣・人 G型 矢・弓
の四基がみられ、目黒区・荒川区・品川区・杉並区の四区に各一基ずつ分布する。一基を除いて区部の万歳型より早く造立されているのが眼につく。この四基は、中央手が合掌でなくて、示したようなそれぞれの持物を執り、下方手が一基を除いて矢と弓である。

 こうした万歳型と準万歳型は、その程度の割合であるのか、各区の全庚申塔数・全青面金剛刻像塔数・全合掌六手青面金剛数・万歳型と準万歳型(カッコ内に表示)の基数を示し、青面金剛刻像塔が全庚申塔に対する割合、合掌六手像が青面金剛像の全体に占める比率、万歳型が合掌六手像に対してみられるかのパーセンテージを掲げた。各区別の基数と比率は次の通りである。
   ┏━━━┯━━━━┯━━━━┯━━━━━┳━━━┯━━━━┳━━━┯━━━━┓
   ┃区 名│庚申塔 │青面刻像│比   率┃合掌六│比  率┃万歳型│比  率┃
   ┣━━━┿━━━━┿━━━━┿━━━━━╋━━━┿━━━━╋━━━┿━━━━┫
   ┃千代田│   二│   二│一〇〇・〇┃  一│五〇・〇┃  〇│ 〇・〇┃
   ┠───┼────┼────┼─────╂───┼────╂───┼────┨
   ┃中 央│   〇│   〇│  〇・〇┃  〇│ 〇・〇┃  〇│ 〇・〇┃
   ┠───┼────┼────┼─────╂───┼────╂───┼────┨
   ┃港  │  一九│  一一│ 五七・九┃  六│五四・五┃  〇│ 〇・〇┃
   ┠───┼────┼────┼─────╂───┼────╂───┼────┨
   ┃新 宿│  四八│  二三│ 四七・九┃  六│二六・一┃  一│一六・七┃
   ┠───┼────┼────┼─────╂───┼────╂───┼────┨
   ┃文 京│  六三│  二二│ 三四・九┃  九│四〇・九┃  二│二二・二┃
   ┠───┼────┼────┼─────╂───┼────╂───┼────┨
   ┃台 東│  六三│  二五│ 三九・七┃ 一六│六四・〇┃  〇│ 〇・〇┃
   ┠───┼────┼────┼─────╂───┼────╂───┼────┨
   ┃墨 田│  四一│  一八│ 四三・九┃ 一五│八三・三┃  〇│ 〇・〇┃
   ┠───┼────┼────┼─────╂───┼────╂───┼────┨
   ┃江 東│  三〇│  一六│ 五三・三┃  八│五〇・〇┃  〇│ 〇・〇┃
   ┠───┼────┼────┼─────╂───┼────╂───┼────┨
   ┃品 川│  五九│  二七│ 四五・八┃ 一一│二九・七┃・ 〇│ 〇・〇┃
   ┠───┼────┼────┼─────╂───┼────╂───┼────┨
   ┃目 黒│  七五│  四二│ 五六・〇┃三二 │七六・二┃・ 〇│ 〇・〇┃
   ┠───┼────┼────┼─────╂───┼────╂───┼────┨
   ┃大 田│  九八│  六五│ 六五・三┃ 四四│六七・七┃  〇│ 〇・〇┃
   ┠───┼────┼────┼─────╂───┼────╂───┼────┨
   ┃世田谷│ 二一五│一一四五│ 六七・四┃一〇六│四九・三┃  一│ 〇・五┃
   ┠───┼────┼────┼─────╂───┼────╂───┼────┨
   ┃渋 谷│  七五│  四二│ 五六・〇┃ 三二│七六・二┃  〇│ 〇・〇┃
   ┠───┼────┼────┼─────╂───┼────╂───┼────┨
   ┃中 野│  五八│  四一│ 七〇・七┃ 三八│九二・七┃  〇│ 〇・〇┃
   ┠───┼────┼────┼─────╂───┼────╂───┼────┨
   ┃杉 並│  九九│  八一│ 八一・八┃ 六二│七五・五┃・ 〇│ 〇・〇┃
   ┠───┼────┼────┼─────╂───┼────╂───┼────┨
   ┃豊 島│  四六│  一八│ 三九・一┃  九│五〇・〇┃  一│一一・一┃
   ┠───┼────┼────┼─────╂───┼────╂───┼────┨
   ┃北  │ 一三〇│  四〇│ 三〇・八┃ 一八│四五・〇┃  〇│ 〇・〇┃
   ┠───┼────┼────┼─────╂───┼────╂───┼────┨
   ┃荒 川│  五七│  一七│ 二九・八┃  九│五二・九┃・ 〇│ 〇・〇┃
   ┠───┼────┼────┼─────╂───┼────╂───┼────┨
   ┃板 橋│ 二〇七│ 一一七│ 五六・五┃ 七五│六四・一┃  〇│ 〇・〇┃
   ┠───┼────┼────┼─────╂───┼────╂───┼────┨
   ┃練 馬│ 一三二│  九一│ 六八・九┃ 七〇│七六・九┃  〇│ 〇・〇┃
   ┠───┼────┼────┼─────╂───┼────╂───┼────┨
   ┃足 立│ 二二七│ 一〇六│ 四六・七┃ 六八│六四・二┃  〇│ 〇・〇┃
   ┠───┼────┼────┼─────╂───┼────╂───┼────┨
   ┃葛 飾│  八七│  四九│ 五六・三┃ 二九│五九・二┃  〇│ 〇・〇┃
   ┠───┼────┼────┼─────╂───┼────╂───┼────┨
   ┃江戸川│ 一三二│  八九│ 六七・四┃ 二九│三二・六┃  〇│ 〇・〇┃
   ┣━━━┿━━━━┿━━━━┿━━━━━╋━━━┿━━━━╋━━━┿━━━━┫
   ┃合 計│一九六三│一〇八七│ 五五・四┃六九三│六三・八┃・ 五│ 〇・七┃
   ┗━━━┷━━━━┷━━━━┷━━━━━┻━━━┷━━━━┻━━━┷━━━━┛
 この一覧表からも明らかなように、区部では万歳型の比率が〇・七%と非常に低い。全庚申塔に対して〇・三%、全青面金剛像に対して〇・五%を占めるに過ぎない。この数字を比較するために八王子市の場合を挙げると、庚申塔二四九基中に青面金剛の刻像塔が一五三基で六一・四%となり、全青面金剛像の九一・五%の一四〇基が合掌六手像で、その合掌六手像の中で万歳型が占める割合は六五基で四六・四%である。

 区部では全基数に対して〇・七%であるのに、八王子では万歳型が占める割合は二六・一%と高率である。手元の調査カードから算出した、隣接する日野市一五・一%や町田市一〇・八%と、これまた区部と比較して格段に高いことがわかる。すでに明らかにした西多摩地方の場合は、市町村にによって高低はあるが、地域全体では八・〇%、同様に北多摩地方の場合が三・五%の数字である。これらと比較しても、区部の〇・三%がどれほど低いのかがわかる。

 以上の数字から判断して、文頭で推測したような結果が現れている。すなわち、多摩地方の万歳型は、八王子市を中心にして、その周辺一帯に分布している。しかも、多摩川の北岸には極めて密度が低い。さらに、八王子を離れるほど基数や比率が低い傾向が読み取れる。こうした多摩地方における傾向は、多摩に続く区部にも反映しているといえる。結論的にいえば、万歳型は、八王子を中心とした合掌六手青面金剛のローカル性を発揮した形式である。

 無論、多摩地方でも各市町村の数字をみればバラツキがある。しかし、岩槻型や市原型が岩槻や市原を中心にみられるおうに、多摩地方の場合は、先の数値が八王子市を中心とするローカルな合掌六手像の一形式であり、多摩地方の合掌六手像の一つの特徴を物語っている。

 東京都を全体的にみても、万歳型がローカルな合掌六手像の一形式は間違いないとしても、この型式が神奈川県や山梨県、あるいは長野県に分布しているのも事実である。東京都、というよりも多摩地方の万歳型がこれら各県との関連がどのようであるのか、相互にどのように関与したのか、の追求が今後の課題である。(平成13・6・26記)
 あとがき
    五月十二日(土)には、千葉県立中央博物館で開かれた房総石造文化財研究会総会で青面金
   剛について話した。これをきっかけとして、思いがけず六手青面金剛の分類が気にかかるよう
   にようになった。同月二十七日(日)には日本石仏協会の見学会に参加し、さいたま市の浦和
   東部を歩いた。この見学会では、コースにあった人鈴型の合掌六手像に注意するようになり、
   中山正義さんがいう岩槻型や町田茂さんからいただいた報告書によって市原型というべき新型
   を見つけた。

    これまでも「万歳型」には、注意を払っていた。書中でもふれたように、『青梅市の石仏』
   (青梅市郷土博物館 昭和49年刊)で、明確に「万歳型」と書かなかったが、五七頁で「こう
   した型が市内ではみられない」と記した。その後、三鷹の福井善通さんの教示でこの形式の青
   面金剛が青梅市黒沢に一基発見された思い出がある。

    こうした点から、六手の青面金剛像を・合掌六手・・剣人六手・・その他の六手(側手六手
   など)という大雑把な三分類だけではならいと考え、改めて六手像を考え直す必要性を感じた
   。そこで、八王子市を中心に、その周辺に多くみられる万歳型の青面金剛を取り上げ、書き下
   ろしにこれまで書いた文章を加えて構成したのが本書である。
    テーマは、万歳型と一貫しているものの、それぞれ独立した文章を目指したために、今回書
   き下ろした分については、万歳型の定義や分類に同じ表現や一覧表が重複した部分がみられる
   。そうした煩わしさがあるので、その点はご了解願いたい。

    多摩地方の代表的なタイプが万歳型であるが、全国は広いのでまだまだ各地に、ここで挙げ
   た以外の六手青面金剛の形式の像がみられると思う。別に持物だけでなく、他にも個性を発揮
   する地域的な特徴のある青面金剛像が存在する。本書が、そうした形式や分類の見直しのきっ
   かけになれば幸いである。
                         ・・・・・・・・・・・・・・・・
                         万 歳 型 青 面 を 追 う
                          発行日 平成十三年七月十五日
                          著 者 石  川  博  司
                          発行者 庚申資料刊行会
                          〒1980083 青梅市本町一二〇
                         ・・・・・・・・・・・・・・・・
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