地 神 信 仰 雑 記                        石  川  博  司

               
             目 次 
               
               塔から見た地神信仰・・・・・・・・・・・
               多摩地方の地神塔・・・・・・・・・・・・
               地  天 じてん・・・・・・・・・・・・・・・
               武蔵野の民間信仰と石仏・・・・・・
               地神塔の全国分布・・・・・・・・・・・・
               石仏研究の事例・・・・・・・・・・・・・・
               地神講の掛軸・・・・・・・・・・・・・・・・
               地神の掛軸・・・・・・・・・・・・・・・・・・
               相模の地神信仰講演会・・・・・・・・
                 あ と が き・・・・・・・・・・・・・・
塔から見た地神信仰 ・・町田市を中心として・・

     1 は じ め に
 庚申塔の調査で三多摩を廻っている間に、廿三夜塔や道祖神などと共にメモしたものに地神塔がある。西多摩地方では、地神塔を全くみかけなかったから、初めて八王子市小比企町で地神塔をみた時にも、珍しい塔があるものだ、と思ったに過ぎない。しかし町田市野津田の綾部路傍にある庚申と地蔵と地神とを1基の塔に刻んだ文字塔を調査してからは、地神にも興味を感じて、つとめて地神塔もメモするようになった。その結果、ともかく町田市を中心として、44基の地神塔を記録することができた。

 地神塔の研究は、あまり手掛ける人が少ないようで、三多摩全域にわたる調査は、私のみる限りでは、僅かに八代恒治氏がその著『三多まの庚申塔』でふれられている程度である。ただ、最近になって『町田市の文化財 第四集』『調布市百年史』『八王子市石造遺物総合調査報告書』『八王子の石仏』が発行され、各市内の地神塔の状態が明らかになってきた。そこで今まで調査した44基と、前に述べた資料から得られた調査洩れの13基を加えて、地神塔から見た地神信仰を考えてみたい。この方面の研究を進める方に少しでも参考になれば幸いである、

    2 地 神 と は
 地神は、仏教でいう天部の地天のことで、梵名に従って「比里底眦」といい、地を象徴する神として、十二天中では梵天と対比される。また地神は、「堅牢地神」とも呼ばれ、農村の守護神として、地神信仰は全国各地で行われている。
 地神については、ここで下手にあれこれ説明を加えるよりも、民俗学研究所編の『民俗学辞典』に実例をあげて説明されているから、それを引用しよう。

   地  神  ジガミ
    関東ではチジン、静岡あたりでは地の神、熊野から四国・九州にかけては地主様(ジヌシサ
   マ)という。屋敷神の一種として祀っている地方が多い。屋敷の西北隅に、常設の祠堂や、年
   毎にカリヤを作ったり、更に古風なものでは自然の古木をよりしろとしたところがある。また
   村の辻に、あるいは田畑のほとりに祀っている地神が諸処にある。香川県では田甫のつづきの
   あちこちに三尺ばかりの五角形の石柱が立っていて、これが地神サンである。宮崎県児湯群西
   米良村でも田畑の中に墓石のようなものが、畑を拓いた最初の塚だといっている。元来田畑の
   ほとりにあったものが、次第に屋敷内にとりこまれるようになったものと思われる。静岡県御
   前崎や埼玉県児玉郡ではその家の人が死んで三十三年たつと地の神様になるというし、南の与
   論島でも三十三回忌がすむとジンの神即ち地の神になると云っている。四国では地主様は開拓
   先祖を祀ったものと考えられている。丹沢から丹波にかけてはまま先祖サンは地荒神と考えら
   れている。三宅島でも地主様は祖霊と考えられているし、地神を祖霊とする信仰がかなり広い
   地域にわたっていたとを推測される。九州では盲僧が関与して地神経を誦して祓をおこなって
   いる。

 以上の引用によって、各地の地神信仰の傾向を知ることができよう。それでは、三多摩地方でも、地神に対する信仰がみられるから、その結果が地神塔を建立させたのであろう。逆にいえば、地神塔面から、三多摩地方の地神信仰の1面をとらえられると思われるが、その前に地神講についてふれておく。

    3 地 神 講
 私の地神講調査は、大部分が昭和39年のことであるが、当時、地神講についても、所々で聞き取り調査を行ったけれども、充分な成果をあげることができなかった。そこで、またまた引用で恐縮であるが、『三多まの庚申塔』と『町田市の文化財 第四集』から地神講の調査報告を引用させていただく。
 まず、八代氏の『三多まの庚申塔』は、13頁で地神講にふれて

    町田市(忠生)小山田下根では、春秋二回、日はとくに決めないが彼岸近くに集まる。この
   日には道普請をやり、昼から公会堂で当番が持ってきた肴で酒を飲むという。土地の人の話に
   よると、忠生、鶴川の辺では道路の神と考え、道普請をする習慣になっているそうである。し
   かし町田市(鶴川)上三輪では、農村の守護神、作物の豊作を願う神という主旨にもとづいた
   講が結ばれている。一〇軒から一二軒の講が三つあり、春秋二回彼岸近くに集まるが、宿のつ
   ごうで日はきまっていない。この日は粉を持ちよってうどんをつくり、また必ず無尽をやると
   いう。と述べている。次に、『町田市の文化財 第四集』では、地神講について7頁に
    小川には台、馬の瀬、柳谷戸にそれぞれ1基の地神塔があるが、この講の行事ののこってい
   るのは、やはり庚申講ののこっている中村だけである。
    行事は春秋彼岸の暦の上で社日とある日の昼間行われる。この講にも画面六六センチ、幅三
   二センチの掛軸があって、仏教天部の比里底眦の立像が描かれてある。地神塔には多く「天下
   泰平 国土安穏 風雨順時 五殻豊穰」などと刻まれているように、小川でも、五殻豊穰を祈
   る行事であるといっている。この行事は、当番制で会費一〇〇円持ちよりでおこなれるが、各
   家庭でもボタ餅(お萩)をつくって食べる習慣になっているという。

と記されている。この両書の引用によって、少なくとも、町田市内の地神信仰の一端はうかがえたものと思う。そこで、いよいよ本題に入っていくことにする。

    4 調 査 と 資 料
 前に述べたように、私が三多摩地方で記録した地神塔は、今までに44基を算えるが、この数年に刊行された資料と対照すると、次のように13基の調査洩れがあることがわかる。町田市教育委員会発行の町田市文化財専門委員会編『町田市の文化財 第四集(石仏特集)』によると

   文政13年8月  (文 字)   角 塔   森野2丁目
   天保4年8月   (文 字)   角 塔   真光寺・丁字路
   天保4年11月  (文 字)   角 塔   矢部・八幡社参道
   天保11年2月  (文 字)   角 塔   大蔵・井ノ花旧道土手上
   天保11年8月  (文 字)   角 塔   町谷・馬つなぎ場
   弘化4年6月   (文 字)   角 塔   下小山田・扇橋
   嘉永2年2月   (文 字)   角 塔   成瀬・東光寺
   嘉永2年11月  (文 字)   角 塔   上小山田・六部塚
   嘉永3年3月   (文 字)   角 塔   図師・半沢旧八幡社跡
の9基が、八王子市教育委員会編集発行の『八王子市石造遺物総合調査報告書』によると
   天保10年10月 「地神塔」   錐頭角柱  松木
   天保14年3月  「地神塔」   自然石   南大沢
   不    明   (無銘)    自然石   引切り(堀の内)
の3基が、さらに、八王子石仏研究会編の『八王子の石仏』(図録)によると
   天保10年    「バン地神塔」 隅落角柱  平町の1基

が未調査である。本槁では、これら未調査の13基を含めた57基の資料によって筆を進めていくことにする。ただし、未調査塔については、資料の制約もあって、充分に細部まで検討できない点があることをあらかじめお断りしておく。

    5 塔 の 主 銘
 庚申塔や道祖神などと同様に、地神塔にも刻像塔た文字塔とがある。地神(地天)は、儀軌によると盛花器を捧持した2臂像で、時には花瓶を捧げ、例外として4臂像がある。服部清道氏編の『藤沢市の文化財 第七集』には、藤沢市遊行通4丁目の庚申堂境内にある右臂に三叉槍、左臂に宝珠を持ち地神の刻像塔が報告されている。しかしながら、三多摩地方でみられる地神塔は、今までの調査(報告を含めて)では、文字塔のみで刻像塔は全く発見されていない。

 一口に地神塔といっても、塔面に刻まれた主銘は、いろいろな種類がある。そこで、それぞれの主銘を1件1例ずつ紹介すると、

   「堅 牢 地 神 塔」   文化4年  山角型  町田市木曽町・富士塚
   「堅 牢 地 神」     文化4年  山角型  町田市高ケ坂・地蔵堂境内
   「地  神  塔」     文化7年  山角型  町田市金森・平本商店付近
   「地  神  斉」     文政11年 山角型  町田市野津田・丸山入口
   「堅  牢  神」     天保14年 山角型  町田市原町田・天満宮境内
   「南無妙法蓮華経地神塔」  明治7年  駒 型  八王子市小比企町
   「地     神」     大正9年  隅丸型  町田市原町田・天満宮境内
   「土  公  神」     年不明   自然石  多摩市乞田
の8種類がみられる。
次に、それぞれの主銘を刻んだ塔の造塔年代と塔数を示すと

   「堅 牢 地 神 塔」   文化4年〜大正7年      7基
   「堅 牢 地 神」     文化4年〜慶応3年      7基
   「地  神  塔」     文化7年〜明治28年    26基
   「地  神  斉」     文政11年〜嘉永7年     5基
   「堅  牢  神」     天保14年          1基
   「南無妙法蓮華経地神塔」  明治7年           1基
   「地     神」     大正9年           1基
   「土  公  神」     年不明            1基
で、無銘は1基、不明が7基である。

 なお種子について付言すれば、地神を表す種子は「ヒリ」である。これを刻んだものには、町田市木曽町・富士塚にある文化4年塔があげられる。「ヒリ」を刻んだものは、これ1基だけであるが、その他の塔には種子がみられないけれども、町田市金森の西田路傍にある文化8年塔には、梵字の真言が刻まれているのが珍しい。

    6 塔 の 分 布
 現在まで集まっている塔の分布をみると、次の表1に示すように
   表1 地神塔の分布
   
   ・市町    調査 報告 合計   比率・
   
   ・町田市 ・  39・  9・ 48・  84・2・
   
   ・八王子市・  2・  4・  6・ 10・5・
   
   ・調布市 ・  2・  0・  2・  3・5・
   
   ・多摩町 ・  1・  0・  1・  1・8・
   
   ・合  計・ 44・ 13・ 57・  100・〇・
   
第1に町田市内に集中していること、第2に南多摩地方以外では僅かに調布市に2基の分布がることが知られる。このことは、町田市内を中心として、南多摩地方の調査によって地神塔の大半を把握できることを示している。

 表1でみる限り、西多摩地方には全く分布がみられない。それでは、西多摩地方には全く地神塔や地神信仰がなかったのだろうか、という疑問が残る。そこで文献にあたったところ、『新編武蔵風土記稿』の檜原村小沢・宮ケ谷戸組の地神社の項に「自然石の前面に梵字と蓮華座を刻し、下に地神の二字を鐫れり」とあり、養沢村(現・あきる野市)と棚沢村(奥多摩町)には地神社があって、石を神体としていることが記されている。それらの地神社を調査してはいないけれども、西多摩地方においては、地神社という形で地神を祀ってはいるが、主として南多摩地方にみられるような地神塔の建立はなかったと思われる。

 そのような地神信仰、ひいては地神塔の建立の差異は、1つには地理的条件が考えられる。町田市1、相州に接して位している。このことが相州の影響を受けやすい条件を作っており、相州煤ケ谷村・・現在の神奈川県愛甲郡清川村・・の石工が、天保から文久にかけて、町田市内に4基の地神塔を刻んでいるのも、相州との関連が密接であることを物語っている。八代恒治氏が庚申塔の伝播の点で指摘していることであるが、多摩丘陵が1つの障壁となって、地神塔の建立が丘陵北部に延びず、そのために造塔が少ないと思われる。これは、まだ推測の域を出ないけれども、西多摩地方の山間部では、山林と生活の結びつきが密接であり、山の神を祀る方にウエイトが置かれ、平野部では、地神信仰・・地神講よりも・・稲荷信仰、稲荷講の結びつきがみられる。こうした信仰の面からも、塔の分布において差異が生じているのではなかろうか。

    7 造 塔 年 代
 今まで明らかになっている地神塔の中で最も古い塔は、町田市木曽町・富士塚にある文化4年8月造立の「堅牢地神塔」で、同年9月には、同市高ケ坂の地蔵堂境内の「堅牢地神塔」が建てられている。最も新しいものは、同市原町田の天満宮境内にある「地神」塔である。これまでの資料の中には、造塔年代の不明の塔もみられるけれども、年銘の明らかな塔から推測して、三多摩の地神塔の造塔年代は、文化年間以降、大正年間までの約130年間である、とみてよいだろう。

 文化年間以降の各元号別の造塔数をみると、天保年間の21基を最高とし、嘉永年間の10基がこれに次ぎ、以下、文政年間の8基、文化年間の4基、明治年間の3基、弘化・文久・大正年間の各2基、安政と慶応年間の各1基となる。各元号の年数は、それぞれ異なるので、10年単位にみてみると、最高は1840年代(天保11年〜嘉永2年)の17基、次いで1830年代(天保元年〜同10年)の10基、1850年代(嘉永3年〜安政6年)の8基となる。これを連続してとらえると、1800年代の2基が、次の10年代で4基に増し、さらに20年代で5基、30年代で10基と増加し、40年代に最高の17基の造立をみてから、以後、50年代に8基、60年代には3基、70年代には2基と減じ、さらに続く90年代には一基となり、1900年代は零となり、10年代と00年代に各1基となる。
 次ぎに1年単位で造立の状態をみると、天保14年が6基で最も多く、文政11年の3基が続き、2基の造立の年は、文化4年から嘉永6年までに10回ある。1年間に1基の造立は、文化7年から大正9年までの間に25回を算える。

 三多摩の庚申塔の造塔月の場合は、11月が圧倒的に多く、次いで10月、2月、3月、9月の順であることは、八代氏の調査でも知られるところであるが、地神塔の造塔月を調べてみると、2月が13基で最も多く、次いで8月の12基で、この2ヶ月で半数に近い。続いては9月の4基、3月の3基、1月と6月の2基、4月・7月・10月・12月の各1基となる。なお、この塔数は、明治以降の新暦と江戸期の旧暦とを同列で加算できないので、明治以降の5基と造塔月のわからない4基を加えてない。

 以上みてきたように、江戸期の地神塔が、2月と8月の2ヶ月に半数近く造立されている点は、地神を祀る日、つまり社日(春分と秋分に最も近い戌の日)の月であるからであろう。このことは、年銘に「社日」としたものが4基あることからもうかがわれるし、地神講の日取りが社日であって、その日が造塔の開眼供養の日取りとなることが都合よかったからであろう。

    8 塔 の 施 主
 地神塔の施主には、単に「講中」とか、小字などの地名を付して「吹上山根講中」(町田市成瀬の天保6年塔)としたものが多いけれども、施主の氏名を刻んだ塔もみられる。町田市木曽町の文化4年塔には、三家の信心講中の甚兵衛など11名の名前が刻まれているし、同市金森の文化10年塔には、池田小左衛門など8名の氏名がみえる。また、同市小野路の天保14年塔には、講元(小宮清之助など3名)の他に講員の氏名(小宮助五郎など48名)が刻まれて、三多摩の地神塔の中で最も施主の数が多い塔である。多摩町(現・多摩市)乞田の年不明塔には、台石に有山文平など14名の氏名が刻まれている。

 世話人を記したものには、町田市原町田の天保14年塔(2名)、同市小川町の天保14年塔(1名)、同市大蔵町の同年塔(2名)、同市高ケ坂の嘉永4年塔(2名)、調布市下石原の嘉永5年塔(10名)などがある。この中で大蔵町の塔には、世話人2名の他に講中の中溝忠右衛門など9名の氏名が刻まれている。八王子市大塚の安永4年塔には「世話人 日向三役人」とあって、氏名が刻まれていないのも珍しい。「講元」としたのは、先に述べた町田市小野路の天保14年塔のみである。

 「願主」を刻んだ塔には、町田市相原町の天保3年塔(松田 治右衛門)、同市上小山田の天保9年塔(佐藤氏七兵衛)、同市小野路の慶応3年塔(魚屋)などがあり、「発願主」としたものに、同市野津田の文政11年塔がある。
 「講中」とした塔の中には、「信心講中」(町田市木曽町の文化4年塔)とか「元祖菩提講中」(同市野津田の文政11年塔)もみえれども、単に「講中」とか、小字を前に付して、例えば「綾部講中」(同市野津田の嘉永6年塔)のように刻まれた塔が多い。従って、施主の人数は不明なので、推測するより方法がないが、施主の人数の明らかな塔からみて、全村的な講中の塔を除いて、10名から20名位と思われる。

 町田市大蔵町の文久元年塔には「村中」、同市広袴の天保9年塔には「惣邨中」とある。全村的な規模に近い形で建てられた同市小野路の塔が51名の施主数であるから、「村中」の場合は60名から百名の間の施主によるのだろう。同市図師町の文政11年塔の「当邨馬欠中」や同市木曽町の明治11年塔の「上宿中」も、単に「講中」とした塔や、小字単位の講中と同じく、10名から20名の施主ではないだろうか。

 ところで背後でこうした塔の施主に造塔を推め、地神講を指導した者がいると思われるが、塔面からうかがえない。しかし、少なくとも町田市金森の文化8年塔に「大導師延命院」、同市野津田の文政11年塔に「大導師普光山花蔵院」、同市森野の大正7年塔に「長滝山三十四世開眼主日運欽吉」とあって、僧侶や修験が開眼供養の導師を務めてていたことがわかる。参考までに、延命院は原町田の本山修験、花蔵院は野津田にある真言の寺、長滝山は森野の妙延寺の山号で、日蓮宗の寺である。常時、これらの寺の僧侶が地神講に関係していたかどうか、明らかではないけれども、開眼導師を務めていたところをみれば、全く無関係ではないだろう。

 八王子市小比企町の明治7年塔には題目が刻まれていて、日蓮宗系の造塔を思わせるが、それを除いては塔面から特定の宗派がうかがえない。また、導師の銘からみても、地神塔は特定の1つの宗派との結びつきは薄く、民間信仰としての拡がりであるといえよう。

    9 塔 の 形 態
 三多摩の地神塔は、造塔年代が文化以降で、分布が町田市に集中している関係か、あるいは、他に理由があるのか、柱状型塔が57基中、53基を占めて圧倒的に多く、僅かに自然石塔が3基(八王子市と多摩町)、駒型塔が1基(八王子市)である。さらに、柱状型塔を分類すると、山角型塔が40基、隅丸型塔が3基、頂平型塔が1基となる。なお、ここには『町田市の文化財 第四集』からの引用9基の角塔は、再分類には加えなかったが、その中の1基、上小山田にある嘉永2年塔は、大村稲三郎氏の報告によると、山角型塔であり、他の8基も、町田市内で調査した地神塔の形態から考えて、山角型塔と思われる。

 参考までに町田市内の文政以降、大正までに造立された15基の庚申塔の形態をみると、柱状型塔13基(内、山角型塔は8基)、笠付型塔1基、自然石塔1基である。ここでも柱状型塔が主流である点は、地神塔と同様であるとしても、その中にしめる山角型塔の割合となると、地神塔には及ばない。このように、地神塔において山角型にある程度、塔の形態が統一された背景は何であろうか。その背景には、前にも述べたように、相州との関係が1つ、造塔年代が1つあるのではないだろうか。さらに、両者を含めて石工も関連してくる。相州煤ケ谷の石工、城所権右衛門が天保15年以後に、町田市内に4基の山角型塔を刻んでいることも、その例証の1つだろう。

 それに分布からみて、地神塔造塔の風習が相州から北上し、町田市内に広まり、多摩丘陵が1つの障壁となりながらも、その1部はさらに北上して、南多摩や北多摩に伝えられた、と解される。そして一般には、山角型塔が地神塔の標準的なモデルとして受け継がれいったのであろう。しかも、それは当時の文字塔に多くみられる形態でもあったので、石工にとっても、施主にとっても受入れやすい状態にあったと思われる。

    10 祈 願 銘
 庚申塔にあっては、「諸願成就」とか「二世安楽」の祈願銘をみかける。ところが、地神塔にあっては、町田市金森の文化7年塔の「天下泰平国土安全 風雨順時五殻豊饒」、同市野津田の文政11年塔の「天下泰平 五殻成就」(他に同市小野路の天保14年塔など3基にみられる)、同市大蔵町の文久元年塔には「天下泰平 五殻豊饒」、同市同町の明治28年塔には「五殻成就」と刻まれており、また「天下泰平 国土安全」とした調布市下石原の天保13年塔、「天下泰平 村内安全」とした町田市三輪町の文久2年塔、「村内安全」の同市南大谷の天保15年塔がある。

 このように、地神塔の祈願銘としては、「天下泰平」「五殻成就(または豊饒)」「村内(または国土)安全」が用いられている。こうした銘文からも、地神に対する信仰がどのようなものであるかをしることができる。

    む  す  び
 今まで見てきたように、三多摩の地神塔は、町田市を中心として、文化から大正までの約120年間に建てられてきた。これらは、造塔月からみて社日と関係が深かったことがうかがえる。施主も10名から20名程度の小字単位で建てた塔が多いようであるが、中には50名以上の全村的規模にわたるものもみられる。特定の宗教の1派が地神塔の造塔を勧めたとは思えないが、少なくとも造塔の開眼供養などに真言宗や日連宗の僧侶や修験が関係した塔がみられる。

 地神塔の造塔の風習は、塔の分布などから考えて、相州の影響を受けたものと思われる。それに関連して、相州煤ケ谷の石工・城所権右衛門が町田市内の地神塔4基を刻んでいるのが注目される。三多摩の地神塔にあっては、塔の形態がほぼ柱状型・・しかもそれが山角型に統一されて、他の形のものが僅かである。これも三多摩の地神塔の特色の1つといえよう。祈願銘も「天下泰平」とか「五殻成就」などが多くて、庚申塔などにみられる「諸願成就」や「二世安楽」がないのも特徴である。種子は、地神を表す「ヒリ」が刻まれたものが1基、大日の種子「バン」があるものが1基みられる。

 以上のように地神塔の面から地神信仰を見てきたわけであるが、まだ調査漏れの可能性もあるから一層の調査が望まれる。それと、地神塔をさらに研究し解明するには、その根底にある地神信仰を追求し、地神講、地神に関する伝承や古文書まで眼を向ける必要がある。こうした意味においても、三多摩の地神塔の研究は、まだ初歩的な段階であるといえる。都市化の波によって地神講などが押し流されようとしている現在、早急に調査・研究が必要であり、そのための1石にこの小論がお役にたてば幸いである。(昭45・7・31記)
三多摩地神塔年表
   
   ・NO・造立年月日・主       銘・塔 形・所     在     地・備考・
   
   ・1・文化48 ・「ヒリ堅牢地神塔」・山角型・町田市木曽町 富士塚   ・  ・
   ・ ・     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・2・  49 ・「堅牢地神」   ・山角型・町田市高ケ坂 地蔵堂境内 ・  ・
   ・ ・     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・3・  78 ・「地神塔」    ・山角型・町田市金森 平林商店付近 ・  ・
   ・ ・     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・4・  89 ・「地神塔」    ・山角型・町田市金森 西田路傍   ・  ・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・5・文政27社・「地神塔」    ・山角型・町田市高ケ坂 地蔵堂境内 ・  ・
   ・       ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・6・  211 ・「堅牢地神塔」  ・山角型・町田市小山町 馬場路傍  ・  ・
   ・ ・     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・7・  42 ・「堅牢地神塔」  ・山角型・町田市成瀬 不動堂境内  ・  ・
   ・ ・     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・8・  82 ・「地神塔」    ・山角型・町田市小川町 福寿院境内 ・  ・
   ・ ・     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・9・  112 ・「地神塔」    ・山角型・町田市図師町 馬駈三叉路 ・  ・
   ・ ・     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・10・  118 ・「地神斉」    ・山角型・町田市野津田 丸山入口  ・  ・
   ・ ・     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・11・  1111 ・「地神塔」    ・山角型・町田市成瀬 薬師跡    ・  ・
   ・ ・     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・12・  138 ・(文 字)    ・角 塔・町田市森野 妙延寺前   ・引用・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・13・天保31216・「堅牢地神塔」  ・山角型・町田市相原町       ・  ・
   ・ ・     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・14・  48 ・(文 字)    ・角 塔・町田市真光寺 丁字路   ・引用・
   ・ ・     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・15・  411 ・(文 字)    ・角 塔・町田市矢部 八幡社参道  ・引用・
   ・ ・     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・16・  52 ・「地神塔」    ・山角型・町田市三輪町 椙山神社境内・  ・
   ・ ・     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・17・  68 ・「地神塔」    ・山角型・町田市成瀬 吹上路傍   ・  ・
   ・ ・     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・18・  9727・「堅牢地神塔」  ・山角型・町田市広袴 妙全院入口  ・  ・
   ・ ・     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・19・  99 ・「地神塔」    ・山角型・町田市上小山田 平台   ・  ・
   ・ ・     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・20・  1010 ・「地神塔」    ・山角型・八王子市松木       ・引用・
   ・ ・     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・21・  10  ・「バン 地神塔」 ・隅丸型・八王子市平町       ・引用・
   ・ ・     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・22・  112 ・(文 字)    ・角 塔・町田市大蔵町 井ノ花   ・引用・
   ・ ・     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・23・  118 ・(文 字)    ・角 塔・町田市町谷 馬つなぎ場  ・引用・
   ・ ・     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・24・  122 ・「地神塔」    ・山角型・町田市成瀬 西窪三叉路  ・  ・
   ・ ・     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・25・  132 ・「地神塔」    ・山角型・町田市図師町 日影橋   ・  ・
   ・ ・     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・26・  138 ・「堅牢地神」   ・山角型・調布市下石原 八幡宮境内 ・  ・
   ・ ・     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・27・  142 ・「堅牢神」    ・山角型・町田市原町田 天満宮境内 ・  ・
   ・ ・     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・28・  142 ・「地神塔」    ・山角型・町田市小川町 台三叉路  ・  ・
   ・ ・     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・29・  143 ・「地神塔」    ・自然石・八王子市南大沢      ・引用・
   ・ ・     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・30・  143 ・「堅牢地神」   ・山角型・町田市大蔵町 墓地付近  ・  ・
   ・ ・     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・31・  148社・「地神塔」    ・山角型・町田市小野路 別所路傍  ・  ・
   ・ ・     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・32・  1411 ・「地神塔」    ・山角型・町田市小野路 小野神社境内・  ・
   ・ ・     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・33・  151 ・「地神塔」    ・山角型・町田市南大谷 天神社境内 ・  ・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・34・弘化32 ・「地神塔」    ・山角型・町田市本町田 今井谷戸  ・  ・
   ・ ・     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・35・  461・「地神斉」    ・山角型・町田市下小山田 扇橋   ・引用・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・36・嘉永19 ・「地神斉」    ・山角型・町田市根岸 淡島社境内  ・  ・
   ・ ・     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・37・  22 ・(文 字)    ・角 塔・町田市成瀬 東光寺    ・引用・
   ・ ・     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・38・  211 ・「地神斉」    ・山角型・町田市上小山田 六部塚  ・引用・
   ・ ・     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・39・  33 ・(文 字)    ・角 塔・町田市図師町 八幡社跡  ・引用・
   ・ ・     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・40・  41 ・「地神塔」    ・山角型・町田市高ケ坂 地蔵堂境内 ・  ・
   ・ ・     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・41・  33 ・「地神塔」    ・山角型・町田市小川町 中村路傍  ・  ・
   ・ ・     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・42・  41 ・「堅牢地神」   ・山角型・調布市上石原 西光寺前  ・  ・
   ・ ・     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・43・  52 ・「地神塔」    ・山角型・町田市本町田 養雲寺境内 ・  ・
   ・ ・     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・44・  52 ・「堅牢地神」   ・山角型・町田市野津田 綾部路傍  ・  ・
   ・ ・     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・45・  711 ・「地神斉」    ・山角型・町田市小山町 中村路傍  ・  ・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・46・安政48 ・「堅牢地神塔」  ・山角型・八王子市大塚 日向路傍  ・  ・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・47・文久18 ・「堅牢地神」   ・山角型・町田市大蔵町 慶性寺門前 ・  ・
   ・ ・     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・48・  311 ・「地神塔」    ・山角型・町田市三輪町 熊野神社境内・  ・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・49・慶応36 ・「堅牢地神」   ・隅丸型・町田市小野路 小野神社境内・  ・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・50・明治79社・「(題目)地神塔」・駒 型・八王子市小比企町2丁目  ・  ・
   ・ ・     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・51・  118 ・「地神塔」    ・山角型・町田市木曽町       ・  ・
   ・ ・     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・52・  289 ・「地神塔」    ・山角型・町田市大蔵町 鶴川農協前 ・  ・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・53・大正72 ・「堅牢地神塔」  ・山角型・町田市森野        ・  ・
   ・ ・     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・54・  96 ・「地 神」    ・隅丸型・町田市原町田 天満宮境内 ・  ・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・55・年 不 明・「地神塔」    ・山角型・町田市原町田 天満宮境内 ・  ・
   ・ ・     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・56・     ・「土公神」    ・山角型・多摩市乞田 バス停付近  ・  ・
   ・ ・     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・57・     ・(無 銘)    ・自然石・八王子市堀の内 引切り  ・引用・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
            〔初出〕『多摩郷土研究』39号(多摩郷土研究の会 昭和45年刊)所収
多摩地方の地神塔

 多摩地方を廻ってみると、実にさまざまな石仏や石塔に出会う。最近も町田市内で、下部に2匹の狐を彫った稲荷の石像を見たし、「三尺大権現」の銘がある飯縄権現の石像も見出した。すでに知られているけれども、青梅市の妙見菩薩、檜原村の山の神、東大和市の水天、東村山市の牛頭天王、稲城市の弁天十五童子など、珍しいものもある。そうした眼につくような派手なものと違って、これからお話しようとする地神塔は、多くは山角型塔に「地神塔」とか「堅牢地神」などと主銘を刻んだ文字塔で、地味な存在である。
 地神塔を私が調べ始めたきっかけは、町田市野津田にある庚申塔に「堅牢地神」と刻まれていたからであった。十数年前のことである。それからは、庚申塔の研究に何か役立つだろうと、地神塔も調査の片手間に記録してきたのである。野津田のように庚申と地神が習合した塔は、ごく最近に多摩市東寺方の塔を調べるまで多摩地方では出会わなかった。 ともあれ、最初はそうしたきっかけで地神塔を調べ始めたが、調査塔数が増してくるといろいろな傾向がわかってきた。外見上ではわからなかった点も見えてきた。その上に、このところ各市町村の石仏調査が進んだ結果、多摩地方にある地神塔の全体がつかみやすくなった。そこで、ここでは多摩地方に散在する地神塔を中心にまとめてみたい。

    地 神 と は
 山には山の神、田には田の神を想定して信仰していたように、大地に対する地神信仰は、太古からあったものと思われる。それは、宗教としては未分化ではあったろうが、民間では広く信仰されていただろう。地神信仰も、初めはごく原始的な素朴なものであったろうが、道教や仏教などの影響を受けて、変質した部分もあるのではなかろうか。
 地神について下手な説明を加えるよりも、大塚民俗学会編の『日本民俗事典』に「地神」の項があるから、それを引用すると

   西日本ではジガミ・ジヌシサマ(地主様)中部日本から関東にかけてはチジン・ジシン(地
   神)・ジノカミ(地の神)と呼ぶ。屋敷神の一種として、宅地内の一隅あるいはこれに隣接し
   た小区画に祀られている例が多い。特定の旧家に限って祀るという形から、部落内の各家で祀
   る形へと分化していった考えられるが、また旧家の地神が部落の神に昇格したという事例も少
   なくない。地神とはいっても、その内容は稲荷であったり、開拓先祖を祀ったものであったり
   する場合がある。埼玉県児玉郡や静岡県の各地では、その家で死んで33年あるいは50年たつと
   地神になるというし、三宅島でも地主様は祖霊と考えられている。地神に神霊的・作神的性格
   のあることは注意すべき点であるが、現在では土地の神、屋敷の守護神とみる信仰の方が支配
   的である。地神を講組織で祀る所が関東・四国の各地などにある。地神講では、地神とか地神
   塔という文字を彫った石碑や石塔を神体のごとく扱っている場合が多い。作神と考えて春秋の
   社日に祀る。(以下略)これによって、地神について知ることができる。

    堅 牢 地 神
 仏教でいうところの地神は、「地天」のことで、「堅牢地神」とも呼ばれる。十二天の1で、梵天と対比される。釈迦が成道の時に、地中より現れて魔を除いた仏法の守護神である。像容は、盛花器を捧持した2臂像、時には花瓶を捧げ、例外として4臂像がある。
    地 神 塔
 民俗事典の引用にもあったように、「地神」とか「地神塔」と彫った石塔は無論であるが、地天の像を刻んだものや、徳島に分布の多い「埴安媛命 倉稲魂命 大己貴命 天照大神 小名彦命」の五神名を5角柱や6角柱に彫ったものも地神塔である。他にも陰陽道の系統を引く「土公神」や、相模で見られる「天社神」や「后土神」も含まれる。

    多 摩 の 分 布
 多摩地方を廻って私が調査した地神塔は、表1に示したように59基である。多摩石仏の会の島田實・縣敏夫・戸延宗一郎の諸氏の報告6基を加えた65基が明らかにされているが、『町田市史 下巻』によると、その外にも真光寺と下小山田の2基が示されている。この2基は、確認できなかったし、主銘など不明な点があるので、ここではふれにことにする。
   (表1) 市町村別塔数
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・市  町・調査数・報告数・塔 数・比   率・備     考・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・町田市 ・ 48・  1・ 49・ 76・0・       ・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・八王子市・  2・  4・  6・  9・0・       ・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・多摩町 ・  3・  0・  3・  4・5・現・多 摩 市・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・調布市 ・  2・  0・  2・  3・0・       ・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・稲城市 ・  1・  0・  1・  1・5・       ・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・狛江市 ・  1・  0・  1・  1・5・       ・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・立川市 ・  0・  1・  1・  1・5・       ・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・秋川市 ・  1・  0・  1・  1・5・現・あきる野市・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・檜原村 ・  1・  0・  1・  1・5・       ・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・合  計・ 59・  6・ 65・100・〇・       ・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 表1を見て気のつく点は、
   第1に、4分の3の塔が町田に分布していることである。
   第2に、北多摩と西多摩にはほとんで分布がない。つまり、多摩地方の地神塔の分布は、非常に偏在した分布だったといえよう。そのことは、各市町村に分布する地蔵や庚申塔と比較するとよくわかるだろう。

 そうした分布の原因は、1に地理的な条件が考えられる。町田市は、相州に接して位置している。相州煤ケ谷村(現・神奈川県愛甲郡清川村煤ケ谷)の石工(城所権右衛門)が、天保から文久にかけて町田市内で4基の地神塔を刻んでいることも、相州との関連が密接であることを裏付けている。八代恒治氏が指摘していることであるが、多摩丘陵が障壁となって、地神塔造立の風習が丘陵北部にまで充分に延びず、そのために造塔が少ないと思われる(『三多まの庚申塔』)。

 これはまだ推測の域を出ていないけれども、西多摩の山間部では山林と生活の結び付きが密接であり、山の神を祀ることによって、地神をことさら祀る必要を感じなかった面もあったのではなかろうか。平野部では、稲荷信仰が盛んで、これまた地神を祀る必要性がなかったのかもしれない。その上に、相州高座郡西俣野村(現・藤沢市西俣野)の当山修験・地神坊(神礼寺)の影響を受けにくく、地神講や塔の造立を推めた修験者の指導が及ばなかったのではなかろうか。

    造 立 年 代
 今まで年銘の明らかな地神塔で最も古いものは、町田市木曽町の文化4年(1807)8月の「堅牢地神塔」で、次いで同年9月造立の同市高ケ坂の「堅牢地神」である。しかし年銘はないけれども塔形からいっても、『新編武蔵風土記稿』の檜原村の項に「自然石の前面に梵字と蓮華座を刻し、下に地神の二字を鐫れり」と記載された、無年銘・駒型塔の方が造塔年代が遡るように思われる。最も新しい塔は、大正9年造立の町田市原町田の「地神塔」である。未確認塔を加えると、『町田市史』にある同市下小山田・南沢の大正15年塔が最新である。

 文化年間以降の各元号別塔数は、表2に示したように、天保年間の22基を最高に、嘉永年間の10基、以下、文政年間の7基、明治年間の6基と続く。
   (表2) 元号別塔数
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・元・文・文・天・弘・嘉・安・文・慶・明・大・不・合・
   ・号・化・政・保・化・永・政・久・応・治・正・明・計・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・塔・ ・ ・2・ ・1・ ・ ・ ・ ・ ・ ・6・
   ・数・4・7・2・3・0・3・3・2・6・2・3・5・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・比・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・1・
   ・ ・ ・1・3・ ・1・ ・ ・ ・ ・ ・ ・0・
   ・ ・6・0・3・4・5・4・4・3・9・3・4・0・
   ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・率・2・8・8・6・4・6・6・1・2・1・4・0・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・各元号の年数が異なるから、20年単位に塔数を示したのが表3である。文政10年から弘化3年までの造立数26基が最も多く、次の弘化4年からの20年間に18基が造立され、この40年間に70%を上回る塔が建てられている。
   (表 3) 造立年代塔数
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・造 立 期 間  ・塔 数・比   率・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・文化4年〜文政9年・  8・ 12・9・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・文政10年〜弘化3年・ 26・ 41・9・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・弘化4年〜慶応2年・ 18・ 29・1・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・慶応3年〜明治19年・  6・  9・7・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・明治20年〜明治39年・  2・  3・2・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・明治40年〜昭和2年・ 2・ 3・2・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 次に1年単位で造立の状態を見ると、天保14年が6基で最も多く、文政11年と天保10年の3基がそれに続く。2基の造立の年は、文政4年から慶応3年までに11回を算え、1年1基の造塔は文化7年から大正9年まで27回ある。

 多摩地方の庚申塔の造立月を調べてみると、11月が圧倒的に多く、次いで10月、2月、3月、9月の順であることは、八代氏の調査(『三多まの庚申塔』)で知られるところである。地神塔の場合は明治6年以降の新暦採用後の7基と造立月不明の4基を除くと、表4の通り、最高は2月の18基、次いで8月の10基、この2ヵ月でで過半数である。この2ヵ月に造塔が集中しているのは、地神を祀る日、つまり社日(春分と秋分に最も近い戌の日)の月であるからであろう。このことは、年銘に「社日」と記したものが4基あることからもうかがわれるし、地神講の日取りが社日であって、その日が造立の開眼供養の日取りとすることが都合がよかったからであろう。
   (表4) 造立月別塔数
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・造・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・1・1・1・合・
   ・立・1・2・3・4・5・6・7・8・9・0・1・2・ ・
   ・月・月・月・月・月・月・月・月・月・月・月・月・月・計・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・塔・ ・1・ ・ ・ ・ ・ ・1・ ・ ・ ・ ・5・
   ・数・2・8・2・1・0・2・3・0・6・1・8・1・4・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・比・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・1・
   ・ ・ ・3・ ・ ・ ・ ・ ・1・1・ ・1・ ・0・
   ・ ・3・3・3・1・0・3・5・8・1・1・4・1・0・
   ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・率・7・3・7・9・0・7・5・5・1・9・8・9・0・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    主    銘
 神奈川県藤沢市藤沢・白幡神社には、天保3年造立の矛と盛花器を持つ地天像、同県横浜市緑区鴨居西谷には、享和3年造立の花瓶を持つ地天像を刻む地神塔が見られる。しかしながら、多摩地方においては、地神塔は全て文字塔であって、刻像塔は見当たらない。ただ日月・瑞雲を伴ったものは、町田市上小山田と下小山田に2基に見られ、下小山田の塔の台石には2匹の狐を刻む。

 一口に文字塔といっても、塔面に刻まれた主銘もはいろいろなものがある。それそれの主銘は表5に示した。「地神塔」が最も多く、「堅牢地神」と「堅牢地神塔」の3種で8割近くを占める。徳島などで見られる五神名塔や相模の「天社神」や「后土神」などは、多摩地方では見当たらない。
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・主   銘・造 立 期 間  ・塔 数・比   率・備考・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・地 神 塔・文化7年〜明治28年・ 32・ 49.2・  ・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・堅牢地神 ・文化9年〜慶応3年・ 12・ 18.5・  ・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・堅牢地神塔・文化4年〜大正7年・  7・ 10.8・  ・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・地 神 斉・文政6年〜嘉永7年・  6・  9.2・  ・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・堅 牢 神・天保14年〜明治22年・  2・  3.1・  ・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・土 公 神・弘化4年〜安政5年・  2・  3.1・  ・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・地   神・大正9年     ・  2・  3.1・  ・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・堅牢地神尊・明治6年     ・  1・  1.5・  ・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・地 神 塔・明治7年     ・  1・  1.5・題目・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 なお、種子についてつけ加えれば、地天を示す「ヒリ」は、町田市木曽町の文化4年塔と立川市富士見町の明治3年塔の2基に刻まれている。その外には、稲城市平尾の天保10年塔に「アーンク」が、八王子市平町の天保10年塔に「バン」が彫ってある。また、町田市金森の文化8年塔には、長文の梵字が刻まれ、檜原村宮ケ谷戸の年不明戸には、地天の真言がみられる。

    地 神 講
 地神塔を造立した母体は、地神講である。塔面には単に「講中」とか、小字を付して「綾部講中」としたものが多い。氏名や講員数かを刻んだものからみて、10名〜20名程の小字単位の講であったろう。
 最近歩いた所で、例えば町田市真光寺や図師町で地神講のことを尋ねたが、今は止めてしまって、詳しい話は聞けなかった。

昭和46年の調査だが、町田市金森・西田の小川ハルさん(明治33年生まれ)からの聞き書きを紹介しておこう。

西田では農家約三十軒で、年2回、春と秋の社日に地神さまの講をやる。昔は、各々の上が順番にヤド(講をやる家)をつとめ、米三合を持ち寄ったが、煩わしいために主婦から苦情が出て、十年ほど前からは順に四軒が当番になり、準備をしてクラブで講をやるようになった。
講には主人が出るが、主婦が出てもかまわない。地神塔にお参りしたり、掛軸をかけたりしない。

 同じ頃に同市つくし野で聞いたところによると、中村では、14軒でヤドを持ち廻りにして、春秋の社日の年2回行う。もっとも近頃では、ヤドの都合によって社日に近い日曜日に行われることもある。講には、掛軸がさげられる。矛と盛花器を持つ地天の画像である。軸の裏に「昭和二十九年五月吉日再調」と記されてある。以前の軸がヤドの火災で焼けたために、そのヤドが軸を新調した。地天を描く掛軸は、町田市成瀬にも残っている。つくし野のは彩色されていたが、成瀬のは白描である。左手の盛花器、右手に矛を持つ地天の立像で、向かって右下に「梅寿謹写」とある。上部には、地天に関する説明が書かれている。

 多摩地方の地神塔は、町田市を中心として文化から大正めでの約120年間に建てられてきた。これらは、造立月から見て社日に関係が深かったことがうかがわれる。塔面からは、特定の宗派が造塔を進めた傾向がみられないけれども、藤沢の地神坊の系統をひく当山修験の指導があったのではないだろうか。塔面に刻まれた祈願銘から見ると、「風雨順時五殻豊穰」とか「天下泰平五殻成就」が多く、地神に対する信仰を表出している。
            〔初出〕『多摩のあゆみ』16号(多摩中央信用金庫 昭和54年刊)所収
地  天 じてん

 梵名をヒルチビといい、種子は「ヒリ」、地を象徴する神である。十二天の1つに数えられてて梵天と対比され、胎蔵界曼荼羅では外金剛部に配される。堅牢地神あるいは堅牢地祇、堅牢地天とも呼ばれる。

 この天の像容は、『金光明最勝王経』の「堅牢地神品」によると、肉色女形で左手に鉢を持ち、その鉢の中に鮮花を盛るとしている。多くはそのように盛花器を奉持する像であるけれども、花瓶を捧げる場合もあり、例外として4手像も見られる。

 地天の石仏造立は、東京都町田市広袴の天保9年(1838)「堅牢地神塔」の「天下泰平五殻成就」が示すように、農民が豊作の祈願を目的としたものが一般的である。中には群馬県館林市堀工・茂林寺墓地にある元禄7年(1694)刻像に「奉造立堅牢地神尊像永々寺内鎮守」と刻まれているように、寺内鎮守を目的に造立されたものもある。

 造立の目的からもわかるように、施主は主として農民である。通常は部落(小字)単位で地神講が作られ、こうした農民の地神講が地天の石仏を建てるが、時としては村(大字)単位でいくつかの地神講が力を合わせて造立することもある。
 地天の石仏としては、現在のところ先にあげた館林の元禄7年塔が最も古く、このころから造立が始まったと思われる。天明から寛政にかけても多少は建てられてはいるが、刻像でも文字塔でも文化以後の造立が多い。幕末期が盛行した時期で、明治・大正のものもわずかであるが認められる。

 刻像の分布は、現在明らかなものが神奈川に7基、分間に1基ときわめて少ない。調査が進めば塔数も増加するであろうが、あまり多くは期待できない。文字塔は刻像に比べて塔数も多く、神奈川、東京、群馬、山梨、岡山などに分布している。
 刻像は、神奈川県横浜市緑区西谷の享和3年(1803)刻像(図95)が花をさした花瓶を両手でかかえる天女形であるのを除くと、他は矛と鉢を持つ武装天部形で、いずれも浮彫りの立像である。館林の刻像は、左手に矛を、右手に鉢を持っているが、神奈川の刻像はその逆の左手に鉢を、右手に矛を持つ。相州高座郡西俣野村にあった神礼寺(地神坊)が発行していた掛軸の地天画像と神奈川の刻像との持物のとり方が同じところをみると、地天の造塔に当たってこの寺の掛軸が影響を与えたものと思われる。
 文字塔の場合には、角柱か自然石に「堅牢地神」あるいは「堅牢地神塔」と彫ったものが多い。神奈川県逗子市桜山の安政6年(1859)塔には「金光明最勝王経 堅牢地神塔」とあって、地天と関係深い仏典を示している。そのほかには「堅牢地神天」「堅牢地神尊」「堅牢大地神」「奉請堅牢地神」「堅牢地神碑」「堅牢地祇」「堅牢神」などが見られ、山梨県大月市駒橋の年不明塔には「春秋社日堅牢地神守護」と刻まれている。

 前期のように、地天の造立は主として民間で盛行した地神信仰に基づくものである。こうしたもので地天に類似するものは、「天社神」「后土神」、陰陽道系の「土公神」、国学系の「埴安媛命 倉稲魂命 大己貴命 天照大神 小名彦命」の五神名を刻むものが見られる。いずれも文字塔だけで、刻像は見当たらない。        〔初出〕『日本石仏事典』(雄山閣出版 昭和50年刊)所収
武蔵野の民間信仰と石仏

 武蔵野には数多く、しかもさまざまな石仏が散在する。それらの大半は、近世以降の庶民によって建てられたものである。そして墓標石仏を除けば、ほとんどが民間信仰を基盤として造立されている。たとえば地蔵菩薩や馬頭観世音菩薩などのように、仏教で説かれたものであっても、その造像は仏教による信仰を全く無視できないとしても、民間信仰を反映している。

 武蔵野における民間信仰と石仏を述べるには、あまりにも紙幅が限られている。そこで今回は、多摩地方を中心に、石仏と連りのある庚申信仰・月待信仰・地神信仰の3種を取り上げ、その概要を記すことにしよう。

    庚 申 信 仰
 60日毎にめぐってくる庚申の日に、1夜を徹して延命長寿を祈る庚申信仰がある。平安時代や鎌倉時代には、庚申の夜に詩歌管弦などで楽しんで眠らずに過ごした守庚申が、宮廷貴族や武家の間で行われた。室町時代もなかばを過ぎる頃から庚申縁起が作られ、礼拝本尊が導入されて、講的な仕組みができてきた。近世には、各地で庚申講が結成され、供養のための造塔も盛んになってくる。
 多摩地方ではすでに中世に庚申信仰があったことは、瑞穂町に残る庚申板碑からもうかがえる。また、青梅市今寺・常磐樹神社旧蔵の棟札に「右奉社頭造立意趣者本願人数奉数年庚申待也」と記されている点からも推測される。その棟札は、文禄4年(1561)銘であるが、それに先行する秋川市牛沼・秋川神社旧蔵の懸仏にも「生面金剛」の銘が刻まれており、庚申信仰との関連をうかがわせ、山王信仰との習合を示している。

 近世以降となると講の記録や道具類も残っており、多摩地方の市町村の各地に庚申塔が造立され、その数が1300基を越える点からも、その盛況がうかがえる。しかし、明治初年の廃仏棄釈や第2次世界大戦、戦後の食料事情の悪化、あるいは宗教的無関心とあいまって、廃絶する講が多くなり、現存する講でも回数を減らすなど簡略化されている。
 昭和45年に檜原村暮沼にお住まいの主婦の大谷さん(生年不詳)から、同地の庚申講について
    暮沼では戦前十軒で庚申講をやっていましたが、戦時中に止めてしまいました。たまたま最
   後のヤドがうちだったので、庚申さまを二十数年うちで預かっていましたが、数年前から四軒
   が新たに加わって庚申講をやるようになりました。現在の講は、年に六回、偶数月にやります
   。ヤドは、クジ引きで一廻りの順を決めます。講の日取りは、ヤドの都合で決まり、必ずしも
   庚申の日ではありません。講の当日は、仕事を終えてからヤドの集まり、庚申さま(猿田彦木
   像)にお灯明をあげますが、後は特別なことはせず、飲んだり食ったりです。というお話をうかがったのである。この例からも知られるように、日取り1つをとってみも、庚申日に限られていない。昭和40年の調査当時でも、五日市町(現・あきる野市)乙津・追分組では年1回、終庚申に庚申講を行う所さえある位である。もっとも、それ以上に多くの所では、庚申講を止めている。

 庚申信仰を背景として、供養塔が造立されている。「庚申塔」と呼ばれるものがそれであるが、現存最古の庚申塔は、埼玉県川口市領家・実相寺の文明3年(1471)板碑である。多摩地方にも庚申板碑が1基現存するが、惜しいことに下半部が欠失しており、造立年銘を欠いている。

 近世に入って多摩地方で庚申塔が造立されたのは、寛文2年(1662)以降になる。それ以前に庚申信仰があったことは、八王子市南浅川町大平・山王社蔵の寛永5年(1628)の庚申懸仏、あるいは瑞穂町殿ケ谷・正福寺旧蔵の万治2年(1669)梵鐘に「庚申待衆九人」の銘や、八王子市散田町・真覚寺蔵の万治3年梵鐘に「家中庚申人数」「庚申待数輩」の銘があることなどからもうかがわれる。

 多摩地方現存最古の庚申塔は、瑞穂町役場(現・瑞穂郷土資料館)に保管された庚申板碑であることは間違いないけれども、これは年銘を欠くために、狛江市岩戸北・慶岸寺墓地にある寛文2年の地蔵菩薩を主尊とした光背型塔が在銘最古となる。正確には、調布市深大寺に明暦2年(1656)の庚申層塔が現存するが、これは他県から移転したものであるから対象外とした。
 狛江の寛文2年塔以降、多摩地方には1300基を越す庚申塔が造立され、各市町村に分布している。これらの塔の造塔傾向を見ると、寛文〜貞享(1661〜87)の主尊混乱時代、元禄〜天明(1688〜1788)の青面金剛時代、寛政以降(1789〜)の文字塔時代の3期に区分できよう。主尊としては圧倒的に多いのが青面金剛で、2手・4手・6手・8手像が見られる。その主流となるのは、合掌6手と剣人6手像で、一般的には前者が古い。合掌6手像は、上方の2手に矛と輪、下方の2手に弓と矢をとるものが多いが、上方2手に日月を捧げるなど、持物のことなるものも含まれている。青面金剛以外の刻像では、地蔵菩薩、六地蔵、定印・来迎印・合掌の阿弥陀如来、大日如来、薬師如来、勢至菩薩、馬頭観音、猿田彦大神、1猿・3猿などが見られる。

 文字塔にあっては、「庚申塔」や「庚申」、あるいは「庚申供養塔」などが多く、他に六仏種子や六字名号、題目を刻むものもあり、「青面金剛」や「猿田彦大神」なども見受けられる。一般には、古塔では長文、例えば「奉建立右意趣者庚申待為供養」とか「奉供養庚申為二世安楽」のような主銘を刻む。
 塔形から見ると、多いのが笠付型で山角型、自然石、光背型、板駒型が続く。変わったものとしては、石幢や宝篋印塔・石祠・燈籠なども僅かながら存在する。

    月 待 信 仰
 特定の月齢の夜を定めて集まり、月の出を待って月を拝む信仰がある。それを「月待信仰」と称するが、その中心は二十三夜待であって、他にも二十二夜待や二十六夜待、あるいは十七夜から二十三夜までの七夜待もある。

 現存最古の月待板碑は、埼玉県富士見市鶴馬・山口和夫氏蔵の嘉吉元年(1441)銘の青石板碑である。多摩地方では、文安5年(1448)8月23日銘の月待板碑が現存最古で、八王子市加住町・竜源寺と府中市白糸台・鹿島芳郎家とにみられる。それ以降、瑞穂町教育委員会蔵(現・瑞穂郷土資料館)の天文11年(1542)板碑まで、五日市町高尾出土(現・あきる野市)で現在、東京国立博物館所蔵の康正3年(1457)板碑と狛江市和泉・石井千城氏蔵の年不明板碑を加えて23基ある。さらに、文明2年(1470)と同18年(1486)の月待五輪塔2基が五日市町に現存することから考えて、中世に月待信仰が存在していたことは疑いがない。しかも、その造立日が23日であるのが大半であることからも、二十三夜待であったことがわかる。

 近世になっても月待供養の石塔が造立されるけれども、そのほとんどが二十三夜待を示すもので、僅かに奥多摩町留浦に千手観音主尊の十七夜待塔が1基、町田市大蔵町に「廿六夜塔」が1基あるに過ぎない。これから判断しても、多摩地方の月待信仰では、中世から近世にかけて二十三夜待が主流であったと思われる。月待信仰も、庚申信仰などの民間信仰と同じく衰退の一途をたどっている。

 昭和40年に奥多摩町氷川・大氷川の二十三夜講について、同地の小峰明則氏(当時73歳)から次のような聞き取りをした。

    ここの二十三夜講は、地縁の十軒で組織されている。以前は、十二軒が参加していたけれど
   も、その中の二軒が町外に転出したために、現在の軒数になった。講の日取りは、新暦の正月
   二十三日の年一回で、以前には七月二十三日と併せて年二回行っていた。戦前は、年二回が守
   られていたけれども、戦後は、年二回やったのは僅か一年だけで、その後は年一回が続き、現
   在に至っている。ヤドは、正月が私の家(小峰明則氏宅)、七月が小峰正三郎氏宅(現在は行
   わない)と一定していて、講員の家順にヤドをすることはなかった。昔は、講に関係のない人
   たちも参加しており、子供たちも小豆粥を食べ、菓子などをもらったりした。ここには、掛軸
   や講の記録も残っていない。おそらくあったとしても、明治二十七年と二十九年の二度の大火
   の時に焼けてしまっただろう。講の当日(正月二十三日)はノボリを立て、廿三夜塔(嘉永三
   年の文字塔)に小豆粥などの供物をし、灯明をあげて講員がお詣りする。お詣りを済ませてか
   ら、私の家で小豆粥を食べ、集落の年中行事などの話し合いをする。正月の講では、小豆粥を
   作り、七月の講では餅を搗いた。
というのが要旨である。

 青梅市成木3丁目の天ケ指では、昭和48年に師岡モトさん(明治31年生まれ)から同地の産夜講(二十三夜講)について

    ここでは、現在二十六戸で産夜講をやっています。講に出るのは女衆で、一戸一人です。日
   取りは年一回、十月二十三日です。昔は、家の順にヤドをやっておりましたが、今はヤドを天
   ケ指の公会堂に決め、順番に二軒ずつ当番になり、その人たちが準備します。私がここに引っ
   越し来たのは昭和の初めですから、その時はすでに産夜講をやっていましたの、少なくても四
   十年は続いているはずです。昔は、ヤドが各家から米五合を集めて、二本竹(成木三丁目)な
   どで米を挽いてもらい、それで小豆のアンの入ったダンゴをこさえました。五合で大体三十個
   ぐらいはできたでしょう。小豆などの費用は、かかり勘定(割り勘)で払いました。今では、
   ダンゴを作らずに、仕出しをとってやっています
。と、うかがった。

 二十六夜講については、町田市つくし野・中村で話を聞いた。昭和46年のことであった。中村の六夜講は、14軒でヤドを持ち廻りして正月26日と9月26日の年2回やっている。この講には、「六夜さま」と呼ばれる3眼6手の愛染明王座像を描く掛軸があり、講の礼拝本尊とされている。

 月待供養の石塔には、先にもふれたように、中世の月待板碑と月待五輪塔、近世以降造立された、特定の夜を示さない月待供養塔、月待の主流である二十三夜塔、僅か1基ずつの十七夜塔と二十六夜塔が多摩地方に見られる。
 その分布は、奥多摩・青梅・檜原・八王子にかけての西部に多く、北多摩の平野部には少ない。特に北多摩における近世の塔が少ないのが眼につく。刻像を主尊にしたものでは、勢至・地蔵・六地蔵・聖観音・千手観音があり、文字塔では、「廿三夜」が圧倒的に多く、変わったものとしては「念三夜塔」「廿三月天子」「勢至燈」がある。
 塔形では、自然石が半数以上と多く、次いで板碑、柱状型の順である。五輪塔・石幢・燈籠という変わった形態が見られ、石幢・光背型・丸彫りは刻像、燈籠と自然石は文字塔と関連が強い。

    地 神 信 仰
 春分と秋分にもっとも近い前後の戌の日を「社日」と呼んでいる。この春秋の社日に地神を祀る地神信仰がある。現在でも地神講が残っており、地神に対する信仰が見られるけれども、かなり簡略化されており、廃絶したした所が多い。
 昭和46年に町田市金森を調査した時、西田の小川ハルさん(明治33年生まれ)から同地の地神講について次のようなお話をうかがった。それは

    西田では、約三十軒の農家が年二回、春と秋の社日に地神さまの講をやります。昔は、各々
   の家が順番にヤド(講をやる家)をつとめ、講員は米三合を持ち寄りました。しかし、それが
   煩わしいために主婦から苦情が出て、十年ほど前からは順に四軒が当番になり、クラブ(集会
   所)で講をやるように変わりました。
というのである。

 同じ頃に、同市つくし野で聞いた話では、中村では、14軒でヤドを持ち廻りにして、年2回、春秋の社日に地神講を行っていた。この講には、矛と盛花器を持つ地天を描く彩色の掛軸があり、講の時の本尊として礼拝される。
 地天を描く掛軸は、町田市成瀬にも残っている。ここのは、先のつくし野のものとは異なって、左手の盛花器、右手に矛を持つ地天の立像の白描である。、地天像の上に、地天に関する説明が記されている点も、つくし野のものとは違っている。

 一昨54年に町田市内を廻った際に地神信仰について尋ねたけれども、真光寺や図師町などでは、すでに地神講を止めてしまった。しかし、市内の各地には地神講が造立した地神塔が建っており、過去の信仰の名残を見ることができる。
 多摩地方の地神塔を見ると町田市内に集中的に分布しており、北多摩や西多摩にはほとんど分布がない。掛軸には地天を描くものがありながら、「地神塔」とか「堅牢地神(塔)」「地神斉」と彫った文字塔ばかりで、藤沢市や横浜市などに見られる刻像塔は見当たらない。また秩父地方や神奈川県内に散在するような「埴安媛命 倉稲魂命 大己貴命 天照大神 小名彦命」の五神名を刻むもの、あるいは、秦野市などにある「天社神」や「后土神」もない。

 檜原村小沢にある地天梵字真言を刻む板駒型塔は『新編武蔵風土記稿』に記されていることから見ても、多摩地方現存最古の塔と思われるが、年銘の明らかなもので最も古いものは、町田市木曽町の文化4年(1807)8月の「堅牢地神塔」で、同年9月造立の同市高ケ坂の「堅牢地神」が次ぐ。最も新しいものは、大正9年銘の町田市原町田にある「地神塔」であるが、未確認の同市下小山田・南沢の大正15年塔が『町田市史』に報告されている。
 造塔月を調べてみると、2月が最も多く、次いで8月となっている。この両月で半数を越すということは、社日が造塔月に選ばれたと思われる。


 ここで取り上げた庚申信仰については、「数字からみた庚申塔」(『庚申』第42号)と「西多摩地方の庚申講」(『多摩郷土研究』第42号)および「都内庚申塔の種々相」(『武蔵野』第298号)、月待信仰については、「西多摩地方の月待塔」(『青梅市の石仏』所収)、地神信仰については、「多摩地方の地神塔」(『多摩のあゆみ』第16号)を参照していただければ、さらに深い追求がなされている。
 今回はふれなかった道祖神信仰については、犬飼康祐氏の「多摩地方の道祖神と行事」(『多摩のあゆみ』第13号)に詳しい。さらに、多摩石仏の会発行の『野仏』第10集の「道祖神特集」を併せてご覧いただければ、多摩地方ばかりでなく、埼玉県や神奈川県にもふれられている。
              〔初出〕『武蔵野』59巻2号(武蔵野文化協会 昭和55年刊)所収
地神塔の全国分布

 地神塔は、庚申塔に比べて分布する地域も限られているし、刻像塔が少なく、変化に乏しい。他にも理由があろうが、庚申塔ほど多くの人たちに注目されていない。昭和48年12月、鎌倉市教育委員会から木村彦三郎氏が執筆された『道ばたの信仰・・鎌倉の庚申塔』が発刊された。これは、ほんの1例に過ぎないが、庚申塔については1冊の本になって各地で発行されている。この『道ばたの信仰』の中には、わずかではあるが地神塔にふれられている。この1冊の本は、庚申塔と地神塔との関係をいみじくも象徴している。
 松村雄介氏は本誌(『日本の石仏』)の「地神信仰と相模の地神塔」の中で、

「各地の地神塔や地神信仰についての調査結果が集積されるならばローカルな多様性にラップする、地神信仰の広域的な特異性は、十分解明されるであろうし、終始経済の基盤を農業生産に求めてきた近世社会が、後期になって、あらためて地神というあらたな農業神を求めなくてはならなかった時代の必然性が、より鮮明に把握できるにちがいない」

と述べ、全国調査の必要性を主張されている。

かつて土井卓治氏が、その著『石塔の民俗』(岩崎美術社 昭和47年刊)で、「屋敷神信仰の対象である地神と、作神としての地神は、どこかで関連があって別物になったかもしれないが、社日にまつられる作神で村落の神となった石造物が、どのように分布しているのか十分に調査されていない」と記した当時に比べると各地で石仏調査が進み、加えて、第一法規の『日本の民俗』各県シリーズや明玄書房の『民間信仰』地方別シリーズが発行され、各地の地神塔の分布状態は、明らかになってきた。

 地神塔と私の出会いは、東京都八王子市小比企町の地神塔で、それを見た時に珍しい塔もあるものだ、と思ったに過ぎない。それ以前にも、調布市内で2基の地神塔を見ていたはずだが、その記憶がないところをみても、地神塔への関心がまったくなかったのである。しかし、東京都町田市野津田・綾辺の路傍にある、3面に「地蔵薩〓」「堅牢地神」「青面金剛」の主銘を刻んだ嘉永6年塔を調査してからは、つとめて地神塔をメモするようになった。その当時は、庚申塔の研究に役立つからと考えてだったが、手元に調査資料が集まってくると興味が増すもので、昭和42年に私家版の『三多摩の地神塔』をまとめるまでに発展した。そして実地で調査するだけでなく、石仏調査報告書などにも注意を払い、地神塔に関する文献資料を集めて現在に至っている。『日本石仏事典』の「地天」を担当したのも、多少の資料の蓄積があったからである。

 現在、私の手元にある資料といっても、けっして体系的なものではない。むしろ、断片的な情報が多いのである。そして現在わかっている事柄を集め、相互に比較し、対照して分析するならば、ある程度の傾向がつかめるのではなかろうか。それを土台に調査・研究を進めると、今よりは効率がよくなると思われる。また、叩き台ができれば、方針もたてやすい。そこで手元にある資料をまとめてみようと考えた。

 神奈川県藤沢市、あるいは徳島県三好郡三好町や麻植郡山川町のように、地神塔調査の進んだ市町村がある反面、県によっては、分布がないせいか、まったく情報の得られない所がある。そうした不明な場合でも、周囲の傾向がわかるならば、予測もたてやすい。私が個人的に集めた資料だから限界があって、すでに発表された調査報告や研究の中には貴重なものがあり、それを見落としていると思う。それらは補っていただくとし、私が捉えられる範囲で地神塔の全国分布を明らかにするならば、これからの調査・研究に役立つと考えられる。そこで、可能な限り断片的な情報も組み入れて述べたい。

    1 北海道の分布
 北海道に地神塔の分布があるのは、あまり知られていないだろう。私がそれを知ったのは、石仏事典の資料収集のために各地の庚申懇話会々員に協力を依頼したが、その中の1人、江別市に住む矢島睿氏のご報告によってである。昭和49年11月2日付けのお手紙には「北海道の地神信仰については、まだほとんど調査がなされておらず、詳しいことはわかっておりません。現在、私が知ってることのみ羅列いたしました」と、地神塔の分布・形態・造立年代が記されてあった。

 まず、矢島氏の報告から紹介したい。道内の地神塔の分布については、「ほぼ、全道的に分布すると考えられるが、とくに上川、空知地方の農村に多く分布すると考えられる」と記し、形態と主銘については、「最も多くみられるのは五角柱の石柱に小名彦命、大己貴命、天照皇大神(正面)、豊受比売命、埴安媛命の神名を刻んだものであるが、自然石に地神宮、社日などと刻んだものも見受けられる」と書いてある。造立年代については、「北海道の開拓が明治以降に本格化されたこともあり、そう古いものは見当たらず、明治中期〜昭和10年頃のものが大部分である」とし、地神講にふれて「地神を信仰しているものは、勿論、農民に多く、部落ごとに地神講を組織し、社日に地神のまつりを行っていた例がかなり確認されている。現在、地神のまつりはほとんど行われていないが、古老からの聞き取りは可能である」と報告された。

 小寺平吉氏は、その著『北海道の民間信仰』(明玄書房 昭和48年刊)で「地神信仰は、十勝支庁管内帯広市の近く幕別、上川支庁管内の富良野に多くみられるというが、わたしの採取したのは、千歳から西北約五キロ、根志越の根志越神社の境内にあったものである」と分布にふれ、明治33年造立の五神名(天照大御神・倉稲魂命・埴安媛命・小名彦命・大己貴命)地神塔の写真を載せている。また「もともと地神は四国出身の移民や、中国地方の岡山など両県人移民が、それぞれの郷土の習俗信仰を移したものであるとこが原所である」と指摘している。

 高倉新一郎氏は「地神宮は主として香川県や徳島県などの移民によって移されたと思われるもので碑面に単に地神宮と記し、もしくは五角柱に天照皇大神その他豊作に関係のある神の名が記されている。毎年春、秋の社日に祭りを行ない、豊作を祈り、豊作を感謝し、後に宴を張っている」と『日本の民俗 北海道』(第一法規 昭和49年刊)で述べている。自然石に単に「天照皇大神」と刻んだ塔を地神塔として写真を載せているが、伊勢信仰とからみ、問題があるのではないか。

 会田金吾氏の『北海道庚申塚縁起話』(函館文化会 昭和51年刊)は、庚申塔が中心ではあるけれども、書中の何か所かで地神塔にふれている。所在を明らかにしているのは
   五神名地神塔  余市郡余市町黒川
   五神名地神塔  蛇田郡真狩村緑岡の2ヵ所で、他に「滝川市別乙町に行き庚申塔を大分さがしたのであるが、『地神』の塔ばかりであった」と記している。また「よく道央の農村部にみられる『地神』(土地の神・・農地を守る神)の碑も、(中略)明治の開拓期の置き土産となる。S50・9・14の道新に“士別のジャンボ地神碑お目見え”(造り直し)とでていたが、これである」とも書いている。なお、文中の「道新」とは、北海道新聞を指す。

   2 東北地方の分布
 東北地方で地神塔が分布しているのは、福島のみのようで、青森・岩手・宮城・秋田・山形の各県では、これまでのところ、地神塔が分布しているという情報に接していない。おそらく分布の可能性は薄いと思われる。なお、地神塔とはいえないけれども、宮城県白石市大平・威風寺前には、安永3年の「地主霊神」塔があるという報告が、中橋彰吾氏の『道ばたの碑』(白石市教育委員会 昭和49年刊)に見られる。〔 福 島 〕
 田中正能氏の『ふくしまの野仏』(FCT企業 昭和50年刊)には、いわき市三和町大下三坂地内にある「社日塔」の主銘を刻む自然石の写真が載っている。この塔以外に、こうした石塔がどの範囲に、何基ぐらい分布しているのか、まったくふれられていないので細かなことはわからないけども、県内には地神塔が分布している可能性がある。

    3 関東地方の分布
 関東地方では、今のところ茨城と栃木の手掛かりがつかめていない。両県を除いて順に分布を見ていこう。
〔 群 馬 〕
 群馬では、石仏事典で紹介した館林市堀工・茂林寺墓地にある元禄7年の地天刻像塔が県内で最も古く、現在のところ全国的に見ても現存最古の地神塔である。銘文の「奉造立堅牢地神尊像永々寺内鎮守」からわかるように、寺内鎮守を目的として隣にある三宝荒神と共に造立されている。

 直田昇氏によると、「地神さんはハタケの神、お百姓の神としていただく。しかし姿がないと落ちつかぬまま、東村春場見などのように、ころ合いの自然石を立てて地神さんの象徴とするのが一般である」(『関東の民間信仰』明玄書房 昭和48年刊)そうだが、同書には、渋川市八幡・八幡宮の「堅牢地神」塔の写真を載せている。私もこの塔を見ている。

 山田宗睦氏の報告では、吾妻郡中之条町折田の「折田神社に、二メートル余の堅牢地神碑があり」と、角柱の「堅牢地神尊」塔の写真を載せている(『道の神』淡交社 昭和47年刊)。

 県内に五神名地神塔が分布しているのは、大護八郎氏の『私の石仏津図手帳 4』(木耳社 昭和49年刊)の「神流川流域の石仏」から知られる。多野郡鬼石町下三波川の「姥大明神の道路を越えた筋向かいに文字の六面の地神塔がある」とし、スケッチによって「小名彦命・埴安媛命・倉稲魂命・天照皇大神・大己貴命」の神名がわかる。

〔 埼 玉 〕
 埼玉で私が見た地神塔は、秩父郡長瀞町長瀞・竃三柱神社境内にある「小名彦命・埴安媛命・倉稲魂命・天照皇大神・大己貴命」の五神名を刻む年不明の五角柱塔ただ1基である。しかし、多摩石仏の会の多田治昭氏の調査によると、この種の塔は、秩父市下寺尾に明治31年塔、秩父郡皆野町金沢に安政4年塔、児玉郡児玉町大駄に弘化2年塔、同町杉山峠に文久2年塔の4基があるという。

 五神名地神塔の報告は、武田久吉博士の『農村の年中行事』(龍星閣 昭和18年刊)に載っている。それは、児玉郡児玉町稲沢にある「正面に天照皇大神、左に大己貴命・小名彦命、右に埴安媛命・倉稲魂命と刻む」塔である。また大護八郎氏の『石神信仰』(木耳社 昭和52年刊)にも見られ、児玉郡美里村古郷・北向神社の塔と秩父郡皆野町出牛の塔の写真が掲げてある。通常、五神名地神塔は、五角柱ないし六角柱の各面に1神宛て刻まれるが、皆野町の塔では、正面に五神名が並ぶのは珍しい。

 庚申懇話会の中山正義氏の報告によると、北葛飾郡杉戸町本郷倉付の香取神社には、正面中央に「ヒリ 奉造立堅牢地神五殻成就祈所」の主銘を持つ享保6年角柱塔がある。今のところ、この塔が県内最古であろう。

〔 千 葉 〕
 小童谷五郎氏の『利根川の石仏』(崙書房 昭和53年刊)には、海上郡海上町幾世の田ノ神が紹介されている。「田ノ神は農業の神様で、石塔の五つ面には、天照大神、倉稲魂命、埴安媛命、小名彦命、大己貴命の五神の名が刻んである」から、地元では「田ノ神」と呼ばれていても、五神名地神塔である。服部重蔵氏の「東総の作神祭」(『日本の石仏』18号)でも、この塔にふれており、同形の石柱が同町大間と見広に現存するという。

〔 東 京 〕
 多摩地方(市郡部)に散在する地神塔を調査して、私が『三多摩の地神塔』をまとめたことは前にもふれたが、昭和45年に調査洩れ塔を加えて「塔から見た地神信仰」を書き、『多摩郷土研究』39号(昭和45年刊)に発表した。さらに、調査洩れの塔を調べて『多摩のあゆみ』16号(昭和54年刊)に「多摩地方の地神塔」を載せている。ここでは、概要だけふれておくので、詳しくはそれらを参照していただきたい。多摩地方の地神塔は、65基で、すべて文字塔である。五神名や「后土神」「天社神」の主銘はない。年銘の明らかな塔から見ると、文化から大正までの約120年間に町田市を中心として造立されている。

 区部では、まだ1基も発見していないが、多摩石仏の会の福井善通氏の報告によると、世田谷区船橋・宝性寺に明治27年の「地神塔」があるという。東京都教育委員会発行の『東京都民俗地図』(昭和55年刊)によれば、大田区田園調布と世田谷区上北沢に地神講が存在していたことが確認されているので、両区内には分布の可能性がある。ただ多摩地方の場合から推測すると、多摩川北岸には4基、それも川に近い所だから、そう多い塔数が存在するとは考えられない。なお、島部については、資料がなくて不明である。

〔 神奈川 〕
 県内の塔については、早くから武田久吉博士が注目し『農村の年中行事』で紹介している。昭和48年に出た『路傍の石仏』(第一法規)でも、簡単に地神塔にふれている。
 庚申懇話会の清水長明氏は、その著『相模道神図誌』(波多野書店 昭和40年刊)で地神塔の分布について次のように記している。天社神は「秦野から松田へかけてとその周辺地帯に多い。相模川以東にはないようである」とし、后土神は「秦野近傍以外では見かけない」と述べている。さらに「堅牢地神は津久井郡を除く相模全域と、武蔵のうち相模に隣接する地域にみられる」と書いている。この清水氏の見解と併せて松村雄介氏の論考(『日本の石仏』18号)を参照されると、県内の相模の傾向はつかめるであろう。従って、ここでは、武蔵に属する横浜(1部は相模)と川崎の両市を主体とし、相模の欠けた所を補足する。

 横浜市内の塔については、磯貝長吉氏が執筆された『保土ヶ谷区金石誌』(横浜市教育委員会 昭和44年刊)に保土ヶ谷区と旭区の塔が記され、渋谷力松氏編の『野辺の庚申塔を尋ねて』(横浜西部新報 昭和52年刊)には、保土ヶ谷・戸塚・旭・瀬谷の4区の塔がふれられている。市内南区に住む伊東重信氏は、長年にわたって地神塔の調査を進めている。同氏からいただいた資料が手元にあるが伊東英明氏の報告28基を含めて108基が記載されてある。いずれ詳細が発表されると思うので期待したい。

 なお伊東氏の資料によると、横浜の刻像塔は、保土ヶ谷区仏向町・杉山神社の文化9年塔と緑区鴨居・西谷の享和3年塔である。前者は、神礼寺(藤沢市俣野)の発行した掛軸の系統を引く男神立像で、写真は『日本の石仏』18号に載っている。後者は、鏡智院(相州大住郡石田村)の掛軸の系統の女神立像で、石仏事典に伊東氏の写真を掲げた。

 川崎市の塔については、多摩石仏の会の戸延宗一郎氏(故人)の15基の調査資料が私の手元にあるけれども、『川崎市石造物調査報告書』(川崎市教育委員会 昭和54年刊)に43基載っているから、参考になろう。

 なお相模分を補足しておくと、鎌倉市の場合、地神と庚申とが併刻された塔があるために、木村彦三郎氏の『道ばたの信仰』(鎌倉市教育委員会 昭和48年刊)に8基記載されている。水沢清之と大貫昭彦両氏の『鎌倉の石仏』(真珠書院 昭和56年刊)や庚申懇話会の藤井慶治氏の報告と『道ばたの信仰』を対照すると、記載洩れが見られる。なお、藤井氏から受け取った資料では、逗子市に3基の文字塔が存在する。

 秦野市の場合は、清水氏の『相模道神図誌』に多摩石仏の会の犬飼康祐氏の資料を加えると、天社神と后土神を含めて、少なくとも17基が現存する。『南足柄市文化財調査報告書』第8集〜第10集(南足柄市教育委員会 昭和53〜同55年刊)の3冊によると、同市内に埴安姫大神碑1基を含めて13基の塔が報告されている。愛甲郡愛川町では、3基分布すると『愛川町の野立文化財』三冊(愛川町教育委員会 昭和39〜同41年刊)に載っている。

    4 中部地方の分布
 中部地方では山梨県内に分布がある他は、各県ともあっても数基程度のようであるし、地神と呼ばれていても、神奈川県等で見られるような地神塔とは異質なものが存在する。新潟から順に述べる。〔 新 潟 〕
 横山旭三郎氏は、県内の地神について「県内の到るところで地神様という小さい石祠や場所を示されるが、これに対して別に詳細を話してくれる人はなかった」(『北中部の民間信仰』明玄書房 昭和48年刊)と述べているだけで、地神塔の分布にふれていない。僅かな手掛かりは、本誌(『日本の石仏』)18号の松村氏の論考に載った佐渡郡相川町下寺町にある「土地神」塔の写真である。

〔 富 山 〕
 伊藤曙覧氏は、下新川郡朝日町境・笹川の地神像(後述)を載せて、「新潟県に隣接した笹川の山村では、村を開いた七人の草分けがあって、今その系統が残っており、祖先の墓地を地神と呼んでいる。いまも五輪石や石像がみられる」(『北中部の民間信仰』)と述べている。太田栄太郎氏は、笹川の例を「小林、堀内、深松、折谷、宇津家のジジンサンは、ゴリンサン(五輪塔)で、竹内のものはそれを板碑に陰刻し、長井家のものは右手に鎌、左手に物種のようなものを持って、天から厳石山に降臨したような、やや珍しいものである」と細かに記し、やはりその地神像の写真を掲げている。

〔 石 川 〕
 県内の地神については、小倉学氏が『日本の民俗 石川』(昭和49年刊)で「能登地方の地神様のうち、やや異なるのは羽咋郡志賀町大島地方のものである。ここは日蓮宗徒が多く、病気災難にかかった時、ハッキヨキ(八卦置き・占い者)から、地の神を祀れとか、地の神を粗末にした祟りだとかいわれて庭に奉斎したものが多い」と記し、同地の地の神様の写真を載せている。

〔 福 井 〕
 藤本良致氏は、大将軍の項で「地の神といっているところも、若狭地方には数多くある」と述べ、三方郡三方町や遠敷郡名田庄村、大飯郡大飯町の例にふれている。そして「若狭地方の地の神は、祖霊信仰というよりも守護神的な性格が強い。これは陰陽道の地神信仰(延命神として祀られている)と同じだと思われる」とし、陰陽道の安倍家の影響をあげている(『北中部の民間信仰』)。

〔 山 梨 〕
 県内で私が調査した地神塔は、北都留郡上野原町荻野にある文化10年造立の「堅牢神」と刻んだ自然石文字塔1基である。この塔には、横に「請 雨宮 風宮」と彫る。同町大倉の集荷所には「奉請地神祭」銘の文化13年自然石塔があると、多摩石仏の会の大村稲三郎氏(日本石仏協会々員)から報告を受けている。また、植松森一氏(多摩石仏の会)からは、大月市駒橋にある「春秋社日堅牢地神守護」の年不明塔を聞いている。

 大森義憲氏は、南巨摩郡増穂町青柳には「町に四ヵ所、地神を古くから祀っており、現在は一丁目の地神のみが残っている」(『北中部の民間信仰』明玄書房 昭和48年刊)と記し、土橋里木氏との共著『日本の民俗 山梨』(昭和49年刊)には、同町で「各部落ごとに『地神』と刻した碑が道祖神と並べて祀ってある」と述べている。同郡富沢町福士では、「同族集団をイットウ(一統)という。イットウではジガミ(地神)を祀り、現在でも2〜3の例が残っている」そうである。
 井上青龍氏が撮影した『道の神』(淡交社 昭和47年刊)のグラビアには、西八代郡市川大門町・浅間神社の写真が見られ、自然石に「地神」の主銘を刻む塔が写っている。他にも、同町に地神塔が分布することは、大護八郎氏の『私の石仏津図手帳 5』(木耳社 昭和49年刊)に載るスケッチから下鳥居の2基が知られる。
 和田正州氏によると、「地神の日には、道志村小椿の神主が大室山を越えて山北辺まで行ったといい」(『関東の民間信仰』)とあるから、南都留郡道志村にも地神塔の分布が見られるかもしれない。また、その神主の関係者が大月や上野原の塔に係わりがあったのだろうか。

〔 長 野 〕
 県内で唯一の情報は、大護八郎氏が報告された南佐久郡川上村川端下の金峰神社にある塔である。それは、「社殿に向かって左手前に、大己貴命・小名彦命・天照大神・埴安媛命・倉稲魂命の五柱の神名を刻した五角柱の地神塔」なのだ(『私の石仏地図手帳 8』木耳社 昭和53年刊)。

〔 岐 阜 〕
 河上一雄氏によれば、「大野郡丹生川村白井などでは畑に石や岩をおいて、畑の神として社日を祀る例もあるが、多くは春秋の社日が神の祭り日となっている傾向がある」とし、一般的には屋敷神として地神を祀る例が多いようである(『南中部の民間信仰』)。

〔 静 岡 〕
 御殿場市二枚橋では社日の地神を祀り、北遠を除く遠江一帯では、屋敷の隅に小さなわら屋根の地の神を祀る家が多い(竹折直吉『日本の民俗 静岡』昭和47年刊)そうであるが、県内にはどの程度の地神塔が分布するのか不明である。戸塚孝一郎氏の『野山の仏』(金剛社 昭和38年刊)によれば静岡市奈良間に年不明の「地神三」と刻む自然石塔が見られる。〔 愛 知 〕
 県内の地神塔については、今のところまったく手掛かりがない。昭和27年の夏目一平氏の調査報告によると、北設楽郡津具村下津具地区の屋敷神の中に三戸が地神を祀っている。それらがどのような形態か不明であるが、石宮・石像・自然石のいずれかであるらしい(加藤参郎『南中部の民間信仰』)。

    5 近畿地方の分布
 近畿地方では、兵庫を除いて地神塔の手掛かりはない。地神信仰がまったくないのではなく、例えば和歌山では、社日は地神・農神を祀る日で、この日に土を掘り返すと凶事があるといい、近在の神社を巡って7つの石鳥居をくぐるといわれる(野田三郎『日本の民俗 和歌山』(昭和49年刊)。あるいは、倉田正邦氏が三重の民間信仰にふれて、地神と社日講の1項を設けていることからもうかがえる。しかし、地神塔にはふれられていないから、ここでは兵庫のみを取り上げる。

〔 兵 庫 〕
 淡路島に五神名地神塔が分布している点は、平野栄次氏が『日本石仏事典』(雄山閣 昭和50年刊)の中でふれているが、西谷勝也氏の『季節の神々』(慶友社 昭和45年刊)が詳しいので、これから引用しよう。島内については、西谷氏は「淡路島の全域にわたって、シャニッツアンという五角面の石塔が祭られているのが分布する。三原郡においては、各部落にそれらをみることができるが、津名郡の北部においては、その分布は希薄になっている。これは石塔の五面の各面に、大己貴命、小名彦命、天照大神、倉稲魂命、埴安媛命の五神をそれぞれ陰刻したもので、これが小石を累積した台座上にすえて祭られている」と述べ、津名郡五色町鮎原の塔の写真を載せている。この文章からは、五神名地神塔のみが分布するように受け取れるが、グラビアの写真の中に津名郡北淡町大坪にある「地神」銘の自然石塔があって、必ずしも五神名地神塔だけではないようだ。

 島の外の分布にもふれて、西谷氏は「淡路島付近のこの石塔の分布を見るに、島の北の対岸の摂津・播磨にはその姿を見ることはできない」としている。従って、兵庫では淡路島だけに分布するようで、和田邦平氏もそうした事情を知り、『日本の民俗 兵庫』(昭和50年刊)では、「基壇の上に立てた石塔に天照大神を正面に倉稲魂命などの神名を刻んであって、シャニッツアンと呼ばれ、淡路の民間信仰で農業の神として、広く祀られている」と記している。

    6 中国地方の分布
 中国地方では、島根・岡山・広島の3県に地神塔の分布が見られる。鳥取で屋敷の裏隅に祀られている「じねしさん」は、樹木・丸石・五輪などを神体とし、小祠を設ける地方もある(四宮守正『中国の民間信仰』昭和48年刊)という。山口では、荒神を地主神という所(宇部市や下関市)や地主塚を作ったところ(熊毛郡上関町)もある(宮本常一・財前司一『日本の民俗 山口』昭和49年刊)そうだ。ここで分布がはっきりしている前記3県について記しておく。

〔 島 根 〕
 石塚尊俊氏によると、県内に「昔は社日講があったらしく、今でも立石に天照大神ほか五柱の神名を刻んだ石柱を残しているところが多い」(『日本の民俗 島根』)とし、島田成矩氏は、安来市山根町と松江市法吉町の五神名地神塔の写真を掲げて、「安来市山根町の社日さんの石祠には、天照大神・倉稲魂命・埴安媛命・小名彦命・大己貴命の五神を祀り灯明をあげ拝む」と述べている。
 庚申懇話会の林孝夫氏の報告によると、松江市講式・熊野神社境内、同市浜乃木・野代神社境内、安来市能義・能義神社参道に五角柱の五神名地神塔がある。いずれも造立年代が不明であるが、講式の塔は笠付であるのが珍しい。

〔 岡 山 〕
 土井卓治・佐藤米司両氏の『日本の民俗 岡山』(昭和47年刊)は、地神塔にふれて「岡山県ではほとんどの地方に『地神』があり、部落の者が社日に集まって祀る。紀年銘の一番古いのは江戸中期享保ごろであり、明治30年代まで続いている」と述べている。西谷氏の『季節の神々』に「岡山県には南海岸の牛窓の田の畔に立っている」と指摘された五神名地神塔を含めて、土井氏は、さらに詳しく『石塔の民俗』で記している。すなわち、「地神様の塔は、岡山県南部では五角形の柱状の者が多く各面に、埴安媛命、倉稲魂命、大己貴命、天照大神、小名彦命を刻んでいる。県北部には自然石に筆太の文字で地神とだけ刻んだものが多い。道祖神や庚申のような図柄のものはない。これらの石野地神が作製されたのは幕末から明治のもので、それほど古いものはない」とし、さらに「地神塔の中には、倉敷市黒石の荒神のところにあるように『堅牢地神』とほったものが時にみかけられる」と書かれている。
 県内の地神塔にふれた著書として三浦秀宥氏の『岡山の民間信仰』(日本文教出版 昭和52年刊)を見逃せない。「石を立て地神をまつる例は岡山の全域で見られるが、県北地方では自然石に地神と刻んだ形がほとんどで、建立銘によっておよそ天保以後から明治末年までの流行であったらしい」に続け、五神名地神塔にふれて「岡山市から備前平野付近に天照大神、大己貴命、小名彦命、埴安媛命、倉稲魂命と各面に刻んだものが多く、だいたい江戸末期の造立と思われる」と述べている。さらに「備中西南部の山村、小田郡美星町から矢掛町、井原市にかけてはこれらの諸様式が混在し、刻銘も変化があって一様ではなく、造立年代もこの地区に最も古いものがあるようである」と記し、矢掛町にある横谷・南山田・高末・山の神池・大日池の塔の変化を紹介する。また137〜9頁の6葉の写真も参考になる。

〔 広 島 〕
 県内の地神塔にふれた藤井昭氏は、「備後各地の道路のへりなどに『地神』と刻字した自然石をみることができる。あるいは、石垣や屋敷をつくるときに勧請することもあった」と述べ、福山市草戸町にある「地神」と刻む自然石塔の写真を載せている。本誌(『日本の石仏』)16号では、黒田正氏が「中国山地奥備後の庚申塔」の中で、「地神塔は西城町・庄原市には1基もなく、隣の東城町にのみ非常に多く存在して毎年春秋の社日には地神祭が行われている」と記された点も参考になる。

   7 四国地方の分布
 四国地方では、地神信仰が見られるものの、地神塔の手掛かりにない高知を除いて、徳島・香川・愛媛の3県にふれるとしよう。

〔 徳 島 〕
 金沢治氏は、地神塔の県内の分布について「地神さんは、県内いずれの地方にも存在する。まさに隈なくある」と述べ、続けて塔について「石材の五角形の柱状である。五面には『天照大神』『埴安姫命』『倉稲魂神』『小名彦神』『大己貴神』の五神名が刻まれているが、『天照大神』が『天照皇大神』となったり、『大土御祖神』と刻まれたものもある」と記している。さらに塔の形状にふれて「地神さんの石柱は、約七十センチ立方の石づみの上に、もう一つ五角形石柱と同質の石材で、高さ十五センチ、幅三十センチくらいの台が重ねて乗せられて、この台の上に地神さんが祀られている。地神さんを立てる台の形は、円形のものもあれば、四方形のもの、五角形のものもある。正方形を下に、五角形を上に、二重の台のものもある。地神さんの五角形の石柱は、高さ四五センチ、五角形の一面は幅十二センチくらいである」と細かい。さらに、五神名塔がほぼ同形であるのは「寛政の初年に藩は、地神さんの信仰と地神さんを建立することを奨励したのである。そのために、県内の隅々にまで、同じ様な形で点在しているのである」と、起源にふれている(『四国の民間信仰』明玄書房昭和48年刊)。

 金沢氏は、五神名塔の起源について『日本の民俗 徳島』(昭和49年刊)で「地神さんは徳島特有の農神で、藩政時代中期の寛政一年(一七八七)に、当時勢力のあった徳島城下富田八幡宮の祠官早雲古宝が藩主治昭に唱いて各村に地神祠を奉斎せしめ、庄屋に祀らせたものという」と前書より詳しい。

 県内の調査では、宇山清人氏編の『地神塚と光明真言百萬遍碑』(山川町連合婦人会 昭和51年刊)があり、麻植郡山川町に分布する27基を報告している。その中の西の峰にある一基は無銘の自然石塔ではあるが、他はすべて五神名塔である。それらの五神名塔は、岩谷・天神社境内の塔が自然石であるのを除いて、五角柱型である。最も古いのが皆瀬・御崎神社の寛政八年塔で、最も新しいのが井上の路傍にある昭和21年塔である。
 同書によると、五神名塔の起源は「寛政三年(一七九一)国端彦神社の神主さんの進言によって藩主は祭の式をきめ、その日一日農作業を休むしきたりを定め、各村々に命じて地神塚を建てさせたので、全県下の統一ができたものと考えられます」と、先の金沢氏と多少の違いが見られるのである。

 那賀郡羽浦町の森本嘉訓氏は、三好郡三好町を調査して「三好町における地神塚と地神信仰」をまとめ、阿波郷土会の『ふるさと阿波』に第96号から第103号までの6号にわたって発表している。三好町には17基が分布しており、すべて5角柱の同一形式である。造立は、寛政6年から始まり、明治36年で終わっている。
 以上の他には、松村氏の参考文献(『日本の石仏』18号)を見ると、阿南市婦人ボランティア活動文化財愛護コース『地神さんの調査(その1)』(昭和55年刊)があるけれども、まだ未見なのでふれない。

〔 香 川 〕
 「香川県でも」と土井氏が指摘(『石塔の民俗』)した五角柱の地神塔は、武田明氏の『日本の民俗 香川』(昭和46年刊)に載っている。「ヂジンサン(地神さん)の塔も路傍に多くみられるが、これも東讃岐地方に多く、西讃岐ではほとんどみられないのがその特色である。ヂジンサンは田の畦や路傍にまつってある。高さ八〇センチメートルばかりの五角の石柱で、天照大神・大己貴命・小名彦命・倉稲魂命・埴安媛命の五柱の名を彫りつけてあるものが多い。中には地神とだけ彫ったものもある」と記されたのがそれである。
 市原輝士氏は、『四国の民間信仰』の中で「地神と社日講」の節を設けて、五神名塔の説明を行っている。節の終わりで造立年代と分布にふれて、「地神の中で古いのは元禄ごろからであるが、阿波の吉野川の北方地域から、東讃岐地方にかけて多く分布している」と述べている。

〔 愛 媛 〕
 『四国の民間信仰』では、松本麟一氏が「社日講」の節で、北宇和郡津島町岩淵にある「社日神」主銘の自然石塔の写真を載せて、「津島町岩淵には、部落の氏神の境内に『社日社』という石碑があり、地主大神とも呼んでいる」と述べ、「東予地方にも社日信仰は盛んである。宇摩郡土居町には部落の各組々に『社日社』があり、道路や田の傍に『社日社』と刻んだ自然石をよく見かける」といっている。なお野口光敏氏の『日本の民俗 愛媛』(昭和48年刊)には、越智郡伯方郡北浦にある「地神」の自然石塔の写真が掲げてある。

     8 九州地方の分布
 地神塔について手掛かりのないのは、熊本と宮崎で、両県を除いた福岡・佐賀・長崎・大分・鹿児島の順に記す。

〔 福 岡 〕
 『九州の民間信仰』(明玄書房 昭和48年刊)では、佐々哲哉氏が「部落に社日様(自然石が多い)を祀っているところでは、社日様の前の土を取って来て田に撒くと虫がつかず作柄もいいなどといっている」と述べているが、手元にはその程度しか県内の資料がない。しかし、大護八郎氏の「石神・石仏にみる作神総論」によると、筑後地方には「社日」「社日神」などの文字塔が見られ、筑後市玄ケ野と三瀦郡三瀦町原田・弓頭神社に社日様の石像があるという。出典の猿田彦研究会編の『猿田彦大神』(昭和55年刊)が手元にないので、それ以上の詳しい点は不明である。

〔 佐 賀 〕
 この県の地神塔は特異で、平野榮次氏が石仏事典に書かれた「中央尊供養塔」である。この塔については、市場直次郎氏の『日本の民俗 佐賀』(昭和47年刊)に詳しい。それには、「佐賀平野の村々に多く分布する地神信仰はチュウオウサン(中央神)で、屋敷神と混同されることもあるが、南九州の屋敷神とは性格が違ってこれは大地の神で、出典をもとめるならば『金光明経』に説かれた堅牢地神に当たるものであろうか」とし、「中央神は古い家々の庭先の、多くはいぬい(乾・北西)か、うしとら(艮・北東)のすみに祀られ、小さな石か石塔が立っている」と述べている。文字塔の主銘は、「中央」「中央尊」「中央社」などで、まれに近世後期の年号もあるという。その分布は、「大体において旧佐賀市内を中心とした佐賀・小城・神崎郡に多い」とある。この塔の形は、「上方のとがった自然石や駒型、角柱塔」と平野氏が石仏事典に記している。
 さらに市場氏は、東松浦郡の1部でみられる矢房神にふれて「矢房という字を刻んだ小石塔が屋敷内に建っているし、神社の境内に移されたものであって、地神と思われるがその性格は明らかでない」としている。地神塔に係わりがあるのか、中央神と共に気になる塔である。

〔 長 崎 〕
 本田三郎氏によれば「諫早の八坂神社や本明川べり、あるいは各地の農山部落の屋敷や墓地などに、地神宮、地神、土地などと刻まれた石碑があり、地主様、御先祖様と呼ばれている石祠がある」とし、「地神は一般に部落の中心か高所、あるいは村の辻、あるいは田畑のほとりに、石祠や石碑の形で祀られているが、中には自然の古木などに注連縄を張って祀ってあるものもある」と『九州の民間信仰』に報告している。

〔 大 分 〕
 国東の石仏の研究者である渡辺信幸氏から昭和49年9月に受け取ったお手紙には、「お社日さまと呼ばれる社日信仰は、国東半島全域で行われていたようですが、今では西部で点々と、東部ではよく、東南部では特によく行われています。50〜60cmの五角・六角柱は、東部から東南にかけて多く、殆どが神社境内、小社小祠と並んでいます。西部では石祠となっていると思いますが、石祠の1/5〜1/10位しか正面に祭神を表していませんので、今となってはどれが社日なのか判りません。とき折『社日神』と刻んだ石祠を見ることがありますが多くはありません。『地神』と記した石塔は、全くと言ってよいほど国東にはありません」と報告されてあった。
 さらに昭和55年7月の来信には、「国東半島ではレリーフとして西国東郡香々地町東夷・焼尾、丸彫像として東国東郡国見町大熊毛・竜潜寺の2像を発見してから社日像であることがわかり、これから社日の絵図(掛軸)の調査をしてみると、社日像と稲荷像が全く同じであることが判明」と記されていた。同年9月に受け取った加藤孝雄氏の来信には、「昨年の協会石仏行で国東半島をまわった際、香々地町東夷・上坊中(内田庄一氏蔵)の石祠内の一体、ごらんの通り稲束を天秤にかついでおりますが、左手には宝珠を持たず、当地では社日像と言っておりました」と書かれ、その写真が同封してあった。国東の社日像というのは、稲荷像というのが実体である。

〔 鹿児島 〕
 村田煕氏の『日本の民俗 鹿児島』(昭和50年刊)によると「ジガンの場合は、文字の上では地神・地眼などと書かれる。場所は屋敷の北西隅が多く、一応屋敷の神と考えられる。神体は石が多く、自然石の場合もあれば、地神・地眼などと刻したもの、石祠に入ったものなどがある」とし、一方では「堅牢地神はそれを鎮める神であり、それが盲僧行の起りであるといわれるが、彼らの伝承によると、堅牢地神はジガンとちがい、男女2体の神で、荒神・水神などをその眷属類とする大地の神と考えられているようである」から、ジガンと堅牢地神とは区別されていることになる。

 以上、極めてざっとであるが、手持ちの資料の列記によって各県の地神塔を見てきた。この範囲で地神塔の分布の特徴を見ると、地神圏に入るのが神奈川・東京・岡山県北、五神名塔圏が徳島を中心に瀬戸内に面した岡山・広島・香川で、千葉・埼玉・群馬・神奈川・長野・島根などにも点在する。それと、もう1つ社日圏があって愛媛・大分・福岡に及び、数少ないと思うが、北海道や福島にも見られる。北海道は、五神名塔に地神塔が入り混じる。その他に、神奈川では天社神や后土神があり、佐賀の中央神は特異な存在といったところである。

 おおざっぱであっても、このように全国分布(巻末の分布図参照)が以前よりも明らかになると、調査の狙いもつけやすくなる。各地の石仏調査が進めば、さらに不明な府県の分布状態もわかり、現状より研究が発展する。これが1つの土台になって、地神塔に対する議論が起きることを期待する。(昭56・8・22記)      〔初出〕『日本の石仏』21号(日本石仏協会 昭和57年刊)所収

石仏研究の事例  (抜粋)

    3 地神塔の全国分布

    多摩地方の調査
 地神塔と筆者との初めての出会いは、東京都八王子市小比企町にある明治7年の「南無妙法蓮華経 地神塔」と刻まれた文字塔であった。この時は、単に珍しい塔があるものだ、と思ったに過ぎない。調査記録から推すと、それ以前にも調布市内で2基の地神塔を見ていたはずであるけれども、その記憶が残っていないのは、地神塔に無関心だったからといってよい。しかし町田市野津田町綾瀬の路傍にある、3面に「地蔵薩〓」「堅牢地神」「青面金剛」の主銘を刻んだ嘉永6年(1853)塔を調査してからは、つとめて地神塔も調査の対象に加えて記録するようになった。その当時は、いずれは庚申塔の研究に役立つだろうという、ごく軽い気持ちで始めたのである。
しかし手許に調査記録が増してくると、変化に乏しい文字塔だけでも興味が湧き、昭和40年に私家版小冊子『三多摩の地神塔』をまとめるまでに発展した。その後、42年に加筆訂正し、「多摩の石塔」の1章に挿入して『ともしび』6号に発表、45年には調査洩れ塔を加えて「塔から見た地神信仰」(『多摩郷土研究』39号)を書き、さらに調査洩れの塔を調べて「多摩地方の地神塔」(『多摩のあゆみ』16号、昭和54年刊)をまとめた。

 前記のように、東京都の多摩地方に散在する地神塔を調査した結果、分布状態や造塔年代、塔形などが明らかになった。以下に概要を記しておこう。これまでの調査数は59基、多摩石仏の会の会員諸氏からの報告が6基あって、合計65基が確認できた。この他にも『町田市史 下巻』(同市、昭和51年刊)に2基の所在が示されているが、未調査である。
 多摩地方の地神塔分布で大きな特徴は、塔数の4分の3を越す49基が町田市に集中しており、北多摩や西多摩にはほとんで分布がない。つまり地神塔の分布は、各市町村の地蔵や庚申塔の分布に比較して、非常に偏在しているといえよう。その原因は、地神塔が各地で造られた相州に町田市が接していた、という地理的な条件が考えられる。

 造塔年代は、年銘の明らかな塔では、町田市木曽町三家の文化4年「堅牢地神塔」が最古である。しかし年銘はないけれども、塔形からみても、『新編武蔵風土記稿』(文化7年〜文政11年)の檜原村の項に「自然石の前面に梵字と蓮華座を刻し、下に地神の二字を鐫れり」と記載された同村野沢の文字塔(図71)が古いことは間違いない。最新の塔は、大正9年の町田市原町田の「地神塔」であるが、未確認塔を加えると、同市下小山田町南沢の大正15年「地神塔」となる。元号別の造塔数では、天保の22基が最も多く、次いで嘉永の10基、文政7基、明治6基の順である。単年では、天保14年の6基が最高で、文政11年と天保10年の各3基と続く。明治5年まで旧暦による塔を対象にした造塔月では、2月の18基、次に8月の10基と、この2ヵ月で不明月の塔を除いた過半数を占めている。こうした造塔月の集中がみられのは、地神を祀る日、つまり社日(春分と秋分に最も近い戌の日)のある月だからで、年銘に「社日」と刻んだ塔があることからもうかがわれる。

 多摩地方では、神奈川県横浜市や藤沢市などにみられるような地天を主尊とする刻像塔は、造立されていない。ただ日月と瑞雲を伴った塔が町田市に2基あり、その中の1基の台石には向かい合わせの狐を浮彫りしている。主銘では、「地神塔」が32基と最も多く、次いで「堅牢地神」が12基、「堅牢地神塔」が7基あって、上位3種で約8割を占める。「地神斉」6基や「土公神」2基は、分布が狭い地域に限られており、造塔年代からみても同一の指導者の影響と考えられる。

    地神講と掛軸
 前項でみたように多摩地方の地神塔では、神奈川県に分布するような地天像を刻んだものはない。それでは一体、多摩地方の人たちは、地天の像を知らなかったのであろうか。少なくとも石仏を通してみる限り、地天像は1体も発見できないから、知らないと解釈されても仕方がない。しかし実際には多摩地方の人たちは、地天の刻像塔こそ造らなかったけれども、地天の存在や像容を知っていた。それが何故わかるかといえば、町田市内の地神講が持っている掛軸から断言できる。図72は、町田市成瀬の地神講が所蔵している年代不明の掛軸である。同市つくし野の掛軸は、以前もっていたものが焼失したので、昭和29年に再調した。さらに、同市野津田町田中の地天像を描く掛軸の裏には「文政十四己二月日 講中拾壱人」と記されている(『町田の石仏』同市立博物館 昭和57年刊)から、当時の人たちが地天像を知っていた証である。

 掛軸の例からもわかるように、石仏だけでは知ることができない事柄が、地神講で使われている道具類からうかがえるのである。多摩地方では、庚申塔が建てられる以前に庚申信仰が拡まっていたのが、棟札や掛仏、あるいは梵鐘の銘から明らかになっている。石仏を分析しても、そこから導かれる結論に限界があることは、こうした事例でわかるだろう。

 単に地神塔だけを追っていたのでは、地天の刻像塔を造立しなかったのは、指導者や施主が、あるいは石工が地天の像容を知らなかったためである、などの誤った判断を下しかねないのである。そうした誤りを防ぐ意味もあるけれども、地神塔をより深く研究するには、地神塔の調査を中心に据えながらも、塔の造立の主体となった地神講の調査にも眼をむけなければならない。

 多摩地方でも塔の調査の合間に地神講の聞取り調査を行ったが、現在では止めてしまった講が多く充分に調査できない状態である。たまたま、昭和46年に町田市金森・西田の小川ハルさん(明治33年生れ)から、西田の地神講についてうかがった。ハルさんの話をまとめると、西田では年2回春と秋の社日に地神さまの講をやる。昔はそれぞれの家が順番にヤド(講をやる家)をつとめた。米3合をヤドに持ち寄って講を始めるが、ヤドで仕度が大変で、主婦から苦情が出て、10年ほど前からは、順々に4軒ずつが当番となり、準備してクラブで講をやるように変わった。講には主人が出席するが、主婦が代わって出てもかまわない。地神塔にお詣りしたり、掛軸をかけたりしないという。

 同じ頃に、同市つくし野・中村でも地神講の話を聞いている。中村でも西田の講と同じように年2回、春秋の社日に講を行っている。ヤドの都合によっては、社日に近い日曜日に行われる例も出てきた。参加しているのは14軒で、ヤドは持廻りである。講には、昭和29年に再調した地天像を描く掛軸を掛ける。以前の掛軸は、ヤドの火災で焼失したということである。

 地神講について聞取りできなかったが、講で使った掛軸を同市成瀬で拝見できた。つくし野の掛軸は彩色されてあったのに対して、成瀬のは白描(図72)である。上部には、つくし野の軸にみられない金光明最勝王経の1部が引用されている。多摩地方では出会わなかったけれども、一昨年神奈川県秦野市瀬部沢・峠でみた地神講の掛軸には女神が描かれていた(図73)。こうした掛軸の類にも地神信仰の一端をのぞかせているから、講の聞取り調査とと併行して掛軸や講帳、講で使っている道具類などにも気配りをして調べる必要がある。そうしな中に、思いがけない発見があり、新たな問題提起がなされる。石仏本体だけに眼を向かないで、講など石仏とかかわりのある周辺部まで注意しなければ、表面的な理解にとどまってしまう。

    調査情報を集める
 公開されている情報を集めて分析すると、かなり極秘と思われる事柄も明らかになる。新聞に載った小さな記事でも逃さずに収集し、記事と記事とを組合せて変化を見出し、その動向を分析すれば、国家的な秘密にせまることも可能であるらしい。国家や社会の情報と違って、石仏に関する情報は極秘にしなければならい事情もないから、スパイ行為をしなくても、問題意識を持って丹念に集めればよい。次いで、収集したデータを組合せて分析し、推論していく。

 岡山民俗学会を主宰した土井卓治氏は、その著作『石塔の民俗』(岩崎美術社、昭和47年刊)で、「屋敷神信仰の対象である地神と、作神としての地神は、どこかで関連があって別物になったかもしれないが、社日にまつられる作神で村落の神となった石造物が、どのように分布しているのか十分に調査されていない」と述べている。当時に比べて、現在では全国各地で石仏調査が進み、加えて第1法規の『日本の民俗』各県シリーズや明玄書房の『民間信仰』地方別シリーズが発行され、各地の地神塔の分布状態が明らかになった。

 第一法規の各県シリーズから地神塔に関する調査情報を抜き出してみると、北海道を担当された高倉新一郎氏は、「地神宮は主として香川県や徳島県などの移民によって移されたと思われるもので、碑面に単に地神宮と記し、もしくは五角柱に天照皇大神その他豊作に関係のある神の名が記されている。毎年春、秋の社日に祭りを行ない、豊作を祈り、豊作に感謝し、後に宴を張っている」と記している(『日本の民俗・北海道』昭和49年刊)。

 北海道以外でも石川(小倉学氏)、山梨(大森義憲、土橋里木両氏)、静岡(竹折直吉氏)、和歌山(野田三郎氏)、兵庫(和田邦平氏)、山口(宮本常一、財前司一両氏)、島根(石塚尊俊氏)、岡山(土井卓治、佐藤米司両氏)、広島(藤井昭氏)、徳島(金沢治氏)、香川(武田明氏)、愛媛(野口光敏氏)、佐賀(市場直次郎氏)、鹿児島(村田煕氏)などで地神にふれている。
 明玄書房の地方別シリーズは、北海道(小寺平吉氏)、群馬(直田昇氏)、新潟(横山旭三郎氏)富山(伊藤曙覧氏)、福井(藤本良致氏)、山梨(大森義憲氏)、岐阜(河上一雄氏)、愛知(加藤参郎氏)、三重(倉田正邦氏)、島根(島田成矩氏)、徳島(金沢治氏)、香川(市原輝士氏)、愛媛(松本麟一氏)、福岡(佐々哲哉氏)、長崎(本田三郎氏)の状況が報告されている。

 この両シリーズの他にも北海道を例にとれば、会田金吾氏の『北海道庚申塚縁起話』(函館文化会昭和51年刊)や庚申懇話会の矢島睿氏の私信による報告を加味すると、道内の地神塔分布状態も明らかになってくる。両シリーズでふれられなかった埼玉の場合は、武田久吉博士の『農村の年中行事』(龍星閣、昭和18年刊)や大護八郎氏の『石神信仰』(木耳社、昭和52年刊)、あるいは多摩石仏の会の中山正義氏や多田治昭氏の報告によって、県内の状況を知った。

 神奈川の場合は、相模分については松村雄介氏が「地神信仰と相模の地神塔」(『日本の石仏』18号、昭和56年刊)をまとめられている。それに先行して武田久吉博士の『農村の年中行事』や『路傍の石仏』(第一法規、昭和48年刊)、清水長明氏の『相模道神図誌』などがある。また市町村教育委員会から発行された石仏や講の調査報告書、たとえば『川崎市石造物調査報告書』(昭和54年刊)や『南足柄市文化財調査報告書』8集〜10集(昭和53〜55年刊)などに地神塔が記載されている。

 ここでは北海道、埼玉、神奈川の事例をあげたけれども、他の県の調査情報も多い。各地にまたる情報を組合せて分析すれば、全国的な傾向もつかめてくるのである。

    全国分布図
 前項でふれたように、全国各地の地神塔に関する調査情報を収集し、組合わせて分析してみた。その結果、地神塔の分布の特徴がつかめるようになった。すなわち神奈川・東京・岡山県北は、地神塔圏、徳島を中心に瀬戸内海に面した岡山・広島・香川が五神名塔圏で、この種の塔は千葉・埼玉・群馬・神奈川・長野・島根などにも点在する。それともう1つ社日塔圏があって、愛媛・大分・福岡に及び、数は少ないが北海道や福島にもみられる。北海道は五神名塔に地神塔が入り混じる。その他に神奈川には天社神塔や后土神塔があり、佐賀の中央神塔は、特異な存在である。以上を図解したのが図75(90頁参照)である。この分布図の背景となったデータは、「地神塔の全国分布」(『日本の石仏』21号、昭和57年刊)に述べてあるから、詳しくはそれを参照していただきたい。

 こうした地神塔の全国分布図は、各地の調査が進めば、より一層精密になる。この分布図を作成した時点では、千葉県の場合、小童谷五郎氏の『利根川の石仏』(崙書房、昭和53年刊)と服部重蔵氏の「東総の作神祭」(『日本の石仏』18号、昭和56年刊)から海上郡海上町の五神名塔しか把握していなかった。『千葉県石造文化財調査報告』には、所在地や塔の詳細はわからないけれども、地神3基、地荒神1基の記載があり、五神名塔以外の塔の存在をしめしてあったが、見逃していたのである。
 最近になって、平岩毅氏(庚申懇話会)の『千葉県下の五神名地神塔』(私家版、昭和59年刊)により、千葉市に10基、四街道市に5基、酒々井町に1基の計16基が明らかになった。その外にも四街道市和良比・大六天神社にある明治11年の「社日宮」塔1基が報告されている。なお未確認ながら、佐倉市にも五神名塔が数基あるもようと記されている。こうした千葉の傾向をみると、飛び地の五神名塔圏といえるかもしれない。

 埼玉県の場合、前項でふれたように、武田博士や大護氏の著作、あるいは多田氏の報告によって秩父、児玉地方に五神名地神塔が分布している傾向はつかんでいた。『日本の石仏』21号に発表した拙稿を読まれた深谷市の田島宮吉氏から、同市人見にある弘化3年の五神名地神塔の報告が入った。県内の五神名塔の分布の拡がりを感じさせる情報だ。

 広島の場合は、藤井昭氏の『日本の民俗・広島』と黒田正氏の『日本の石仏』16号の論考によったが、その後、黒田氏が「備後東辺の地神塔」(『文化財だより』25号、昭和56年刊)や「中国山地奥備後農民の神観念」(『日本の石仏』21号)を入手した。さらに石母田一成氏の「備後の地神塔」(『日本の石仏・山陰山陽篇』国書刊行会、昭和59年刊)によって、県内の事情がより明らかになってきた。徳島については、地元の森本嘉訓氏から多くの資料を送っていただき、県下の状況がつかめてきたのである。

 地神塔の場合は、全国的にみても万遍なく分布しているように思われないし、特に興味を持って調査情報を集めていたから、曲がりなりにも全国分布図が作れた。庚申塔のように、北は北海道から南は鹿児島にいたるまで、広範囲に分布し、たとえば群馬のように1万基を越すと推定されるような塔数の多さでは、全国分布図の作成は難しいかもしれない。しかし図77に示したように、1都県単位にまとめて、地域を拡げていけばよいかもしれない。双体道祖神については、すでに各地の資料が多いから、データを丹念に収集すれば実行できるであろう。

 収集したデータ量に応じて、1度だけに限らずに、何度でも分析を重ねると、より精度が高まる。そしてその結果を分布図なり、数表にまとめあげると、説明に際しても一層の理解が得られやすい。

    4、各地の事例に学ぶ

    横浜の地神塔
 1市内といっても、市域が広大な場合や塔数が非常に多い時には、特定の石仏に的を絞ったとしても、悉皆調査はきわめて困難である。神奈川県横浜市南区に住む伊東重信氏は、庚申懇話会と日本石仏協会の会員であるが、市内に分布する地神塔を永年にわたって調査され、170基のデータに基づいて「横浜市域の地神塔」(『日本の石仏』17号、昭和58年刊)にまとめあげられた。

 伊東氏の論考から学ぶべき点は多々あるけれども、ここでは特に3点に絞ってふれてみたい。その第1点は、地神塔の研究において、すでに先行した庚申塔の調査・研究を活かしていることである。同氏は、3年余にわたる市内の庚申塔調査によって、造塔年不明の38基を加えた629基のデータを収集され、昭和42年にその結果をまとめて『横浜市庚申塔年表』(私家版)を刊行した。さらに相模民俗学会誌『民俗』89号(昭和50年刊)に「形態的にみた横浜市の庚申塔」を発表された。その後も庚申塔調査を続行し、現在までに800基余を確認されている。伊東氏の調査は、単に市内だけにとどまらず、神奈川県内の各地に及び、『日本の石仏』3号(昭和52年刊)に発表された「神奈川県にみられる山王系の庚申塔」に結実している。

 こうした庚申塔調査と併行して地神塔を調べておられるから、両者の差異が常に問題提起となっている。先にあげた地神塔の論考においても、しばしば庚申塔との対比がなされ、形状、分布、造塔者指導者などにわたっている。さらに同面積における庚申塔と地神塔との造塔数の違いを、造立期間、再建、造塔の風習、講組織の規模に求めている。単に地神塔だけを調査していたのでは気付かない点も、庚申塔との対比を通じて問題が意識され、その原因の追求に向かっている。それは、逆に庚申塔の研究にもよい結果をもたらすであろう。

 学ぶべき第2点としてあげられるのは、地神塔の調査に加えて、造塔の背後にある地神信仰に及ぶ調査がなされていることである。特に指導者にふれた箇所で顕著で、修験の関与にふれ、御影の影響を地天の刻像塔と結びつけて論じている。
 伊東氏は、県下の地神講で用いている掛軸を調査され、山村民俗の会誌『あしなか』179輯(昭和57年刊)に「掛軸から見た地神法印」を発表された。その論考では、各地の掛軸を藤沢・神礼寺、綾瀬・等覚寺、茅ヶ崎・宝沢寺、伊勢原・鏡智院、その他の地神法印と紅翠斉の系統に分類して論じている。こうした下地があるから、氏の研究が単に塔面上の追求だけに終わらないのである。また県内の調査を通じて、横浜にみられる「斉上」地神塔に注目し、相模『民俗』105号(昭和56年刊)に「『地神斉』のこと」を発表している。こうした広い視点があるから、論考に幅と深みが出てくるのである。

 第3点は、プレゼンテーションに優れ、写真と図表を効果的に使っていることである。市内の代表的な地神塔を写真で示し、記号を上手に用いて主銘別と年代別の分布図を作成している。また造立年代別の塔数の一覧表と年表を添えて、本文を充分に補っている。発表誌の制約もあって、充分に図解や写真などを載せられない場合もあるけれども、研究結果を図表にまとめて掲げると、一見して理解が得られる。こうした面でも、常に配慮がいきとどいている。先にふれた『あしなか』の論考においても、写真9葉を用いて手際よく掛軸の系統を明らかにしている点、写真利用の上での参考になる。
        『石仏研究ハンドブック』(雄山閣出版 昭和60年刊)収録より関係部分を抜粋

地神講の掛軸
 平成8年5月30日(木曜日)、横浜市都筑区中川中央にある横浜市歴史博物館に行った。企画展の「港北ニュータウン地域の暮らし」が4月27日(土曜日)から6月23日(日曜日)まで開催されているからである。

 4月22日に行った国立市谷保のくにたち郷土文化館で、5種類の地神講掛軸を配した、横浜市歴史博物館の企画展のポスターをみた。鍬と小槌を持つ地神の画軸に興味があったので、博物館の所在地と電話をメモしておいた。雑用にまぎれて企画展のことを忘れていたら、5月25日に多摩石仏の会の林国蔵さんから企画展のパンフレットを送っていただいた。さらに翌26日の巣鴨で行われた庚申懇話会例会で、藤井慶治さんからもパンフをいただいたので出掛けたわけである。

 企画展のポスターもパンフレットも、地神講の掛軸5幅を載せている。「地神」と「開運 堅牢地神尊」の字軸や戟と盛花器をとる地天像を描く画軸は、これまでにも類似のものを見ているからそれほど感じなかったが、都筑区の北山田稲荷谷講中旧蔵と大棚上講中蔵の掛軸は、左手に鍬、右手に小槌を持つ神像を描いたもので、藤沢市西俣野の神礼寺系統の地天像とは系統が異なっている。鍬・小槌型の掛軸が存在することは、すでに港北ニュータウン郷土誌編纂委員会編の『都筑の民俗』(平成5年刊)に載っていた写真を通して知っていた。しかし、この種の掛軸を今日まで実際に見る機会がなかったので、この企画展が絶好の実見の場で見逃せなかった。

 今回の横浜市歴史博物館の企画展に展示された地神講の掛軸は、次の通りである。
   1 文政12年  鍬・小槌像      都筑区大棚上講中
   2 年不明   鍬・小槌像      都筑区北山田稲荷谷講中
   3 年不明   鍬・小槌像      都筑区北山田神無講中
   4 昭和23年  鍬・小槌像      都筑区勝田狭間根講中
   5 年不明   鍬・小槌像      都筑区茅ヶ崎三組地神講講中
   6 年不明   鍬・小槌像      都筑区折本氷川講中
   7 文政12年  戟・盛花器      都筑区中川下講中
   8 年不明   盛花器・戟      都筑区牛久保下講中
   9 年不明   戟・盛花器      都筑区中川宿之入講中
   10 年不明   「開運 堅牢地神尊」 都筑区茅ヶ崎四組地神講中
   11 明治29年  「社日地神尊」    都筑区中川中村講中
   12 年不明   「地神」       都筑区星谷下庭講中
   13 明治22年  「開運 堅牢地神尊」 都筑区茅ヶ崎下向根講中
   14 年不明   二十八神像      都筑区大熊谷戸講中

 伊東重信さんは、『あしなか』第179輯(昭和58年刊)に「掛軸から見た地神法印」を発表している。それによると、掛軸の系統を 1 西俣野村・神礼寺(御嶽神社)、 2早川村・等覚院、 3芹沢村・腰掛神社(宝沢寺)、 4石田村・鏡智院、 5紅翆斎北尾繁昌、 6その他(早川武朝版元など)の6種にわけている。
  1は、西俣野村(現・藤沢市西俣野)の神礼寺から発行されたものである。上部に金光明最勝王経堅牢地神品(地神経)の1部を記し、中央には盛花器(左手)と戟(右手)を持つ武装天部形の地天像を描き、下部に「相州高座郡西俣野村神禮寺堅牢地神」とある。この系統は、上部に「大地主神」と記し、地天像の下に「相州西俣埜」とある掛軸もみられる。
  2は、早川村(現・綾瀬市早川)の等覚院から発行されたもので、 1に似ている。上部に地神経の1部を引用し、中央には左手で盛花器、右手で戟を持つ地天像を描き、下部に「相州高座郡早川邑峯光山等覺寺院施」と記す。
  3は、芹沢村(現・茅ヶ崎市芹沢)の腰掛神社(宝沢寺)から発行されたものである。上部に「埴山毘賣命」とあり、中央に盛花器と戟を持つ地天像、下部に「相州高座郡芹澤村石腰神主」とある。
  4は石田村(現・伊勢原市石田)の鏡智院の発行で、 1から 3が武装天部形であるのに対して、左手に盛花器を捧げる女神像を描いている。下部には、「地神尊御像」と「相州大住郡石田村鏡智院」の2行を記す。
  5は、後で詳しくふれるが、上部に「社日祭悪神除万民守護之尊像」、二十八神像を描き、下部に「紅翠斉北尾繁昌行年七十一歳謹写」とある。多くの神名が列記してあるが、地神とみられるのは、埴安姫命と土徳大明神の2神に過ぎない。
  6は、 1から 5に属さないものをいい、具体的には、和田正州氏が『関東の民間信仰』でふれた綾瀬市早川の早川武朝版元を指している。伊東さんは、 2を発行したと思われる綾瀬市早川の五社明神社を推測している。

 これまで私が多摩地方で見た地神講の掛軸は、武装形系統の地天像を描くもので、彩色と白描とがある。その他に、昭和58年に多摩石仏の会の例会で行った秦野市では、石田村鏡智院系統の女神の掛軸を見ている。伊藤さんの分類に従えば 1と 4で、町田市成瀬で見た白描の掛軸は、伊東さんにいわせると 6か 5系統であるという。
 企画展の掛軸を伊東さんの分類でみると、字軸に全くふれていないから、10から13を除外すると、8と9は 1、14は 5である。なお伊東さんは、1から6までの鍬と小槌を持つ神像にふれてない。

 大熊谷戸講中の二十八神像の掛軸と同じものが、鎌倉市城廻打腰の庚申講で使われていた。その写真が木村彦三郎氏の『道ばたの信仰』(鎌倉市教育委員会 昭和48年刊)の口絵にみられ、掛軸については182頁に

    地神さまのかけ軸は天に横書きで「社日祭悪神除万民守護之尊像」と記し、全幅にいっぱい
   五段に分けて、上段に六神、二段目に五神三段目に五神四段目に五神最下段に六神の像が描か
   れている。
    神像の上に神の名が記してある大、神像の数とは一致していない。
   上段右から、国常立尊、国挟槌尊 豊斟主尊 □土煮尊 沙土煮尊 大戸之道尊 大笘辺尊
   面足尊 惶根尊 伊弉諾尊 伊弉冊尊
   二段目 月読尊 保食姫命 天炭大神 天津彦火瓊々杲尊 加茂大明神 木花開耶姫命
   三段目 天軻遇突智命 埴安姫命 土徳大明神 誉田別尊 八幡大明神 大山咋命 松尾大明
   神 素戔鳴尊 祇園牛頭天皇
   四段目 武甕槌命 軽津主命 天穂日命 大巳貴命 事氏主命
   五段目 思兼命 天津児屋命 天鈿女命 猿田彦命 少名彦命 日本武尊
    (紅翠斉北尾繁昌行年七十一歳の書入がある版画)と述べている。

 伊東さんによると、この種の掛軸(紅翆斎北尾繁昌)は、足柄上郡開成町では延沢上庭・大畑庭・東庭・中庭の4講中、他に厚木市七沢町、それに先にふれた鎌倉市城廻打腰でみられる。

 『都筑の民俗』や今回の展示から見られるように、鍬・小槌型の掛軸は、いずれも都筑区内の地神講で使われたものである。伊東さんの分類は「現在残されている木版刷り御影による掛軸を通して、多摩川以西で活躍したと思われる地神法印のいくつかを紹介してみたい」の考えに基づくから、企画展に展示された鍬と小槌を持つ地神像を手書き彩色した掛軸を対象としていない。
 都築区を始め神奈川県の各地では、 2や 3を含めて西俣野村・神礼寺( 1)系統の武装天部形の像を描く掛軸が多い。また伊東さんの「像を伴う地神塔」(『日本の石仏』第23号 昭和57年刊)には、20基の刻像地神塔が載っている。その内訳は、神礼寺型地天像12基、正覚寺型地天像2基、女神像3基、神像2基、如来像1基であって、鍬・小槌型像はみられない。

 現在のところ鍬・小槌型地神画像は、手書きのみで大量生産を目的とした木版がみられないから、この種の掛軸の分布がかなり狭い範囲に限られるものかもしれない。一体、この鍬・小槌型地神像がどのような経路で都築区内に伝えられたものか、都築区以外に周辺のどの範囲に分布するのか、知りたいものである。
地神の掛軸
 平成10年1月21日(水曜日)は、町田市立博物館で開催されている「民具と生活」展を見学する。13日(火曜日)に小正月行事のことで同館の学芸員・畠山豊さんに電話した際に、20日(火曜日)から地神の掛軸を展示すると聞いていた。初日に行こうと考えていたが、あいにくその日は国立石造物調査団の会議があって、翌日になった。

 地神の掛軸は、小展示室を使って展示されている。その中には、かつてみた町田市小川中村講中の地神掛軸がある。大和市上和田・左馬神社の寛政3年女神刻像塔のレプリカは、小展示室の中央に置かれている。こうした女神像の地神塔は、大和以外にも町田市の隣の横浜市緑区鴨居6丁目21番にみられる。駒型塔(高さ58センチ×幅29センチ)正面の上部に横書きで「地神」、その下に花を挿した花瓶を持つ女神の立像(像高48センチ)、左側面に「享和三年亥八月吉日」、右側面には「大下石工」とある。昭和58年8月の多摩石仏の会例では、秦野市渋沢・峠で地天女神を描く掛軸を拝見した。

 掛軸に混じって藤沢市藤沢・白幡神社の天保3年武神刻像塔のカラー写真がみられる。昨年、庚申懇話会の例会で廻った藤沢や鎌倉には、地天の刻像塔がみられる。多摩石仏の会の例会で歩いた厚木市でも地天の刻像塔をみている。これらは、神礼寺のお姿を模した武神像である。

 今回展示されている地神掛軸で最も古いものは、厚木市戸室講中蔵の文化12年掛軸で石田村鏡智院版の女神像を描いている。男神像の画像では、町田市野津田町田中講中蔵の文化12年銘である。文字の掛軸としては、展示されていないが厚木市下萩野の講中蔵の天保12年銘掛軸が古いという。

 鎌倉市や開成町の調査報告書等から、すでに「社日祭悪神除萬民守護之尊像」の掛軸の存在は知っていたが、掛軸の実物を初めてみたのは、平成8年に催された横浜市歴史博物館の「港北ニュータウン地域の暮らし」展で、そこに展示されていた同市都筑区大熊谷戸講中蔵の掛軸である。展示された大熊谷戸講中蔵の掛軸は、今回で2度目である。
 城山町葉山島下河原講中蔵の「榛名山満業大権現神系図」は、まったく初見である。これには、上部中央に「土祖埴安神」とあって円で囲まれいる。その左右と下には多くの神々の名前が記されている。

 今回、この小展示室に飾られた掛軸は、次の通りである。

   1 文化12年 盛花器を持つ女神像(刷り物)  厚木市戸室講中蔵
   2 文化14年 戟・盛花器を持つ武神像     町田市野津田町田中講中蔵
   3 文政12年 盛花器・戟を持つ武神像     横浜市都筑区中川下講中蔵
   4 文政12年 鋤・小槌像を持つ男神像     横浜市都筑区大棚上講中蔵
   5 嘉永2年 盛花器を持つ女神像       厚木市妻田 北村家蔵
   6 年記載無 戟・盛花器を持つ武神像     町田市小川中村講中蔵
   7 年記載無 戟・盛花器を持つ武神像     町田市立博物館蔵
   8 明治2年 戟・盛花器を持つ武神像     厚木市妻田講中旧蔵
   9 明治初期 題目・戟・盛花器を持つ武神像  厚木市下荻野講中蔵
   10 大正15年 盛花器を持つ武神像       大和市上和田中村講中蔵
   11 昭和5年 盛花器を持つ武神像       町田市野津田町暖沢講中蔵
   12 年記載無 盛花器を持つ女神像(刷り物)  伊勢原市石田 高橋家蔵
   13 年記載無 盛花器を持つ女神像(刷り物)  城山町葉山島下河原講中蔵
   14 江戸時代 戟・盛花器を持つ武神像     町田市小川 佐藤家旧蔵
   15 現  代 戟・盛花器を持つ武神像     茅ヶ崎市芹沢 腰掛神社蔵
   16 江戸時代 戟・盛花器を持つ武神像     町田市小川 佐藤家旧蔵
   17 明治時代 戟・盛花器を持つ武神像     町田市成瀬原会山下講中蔵
   18 明治時代 戟・盛花器を持つ武神像     綾瀬市早川三区下講中蔵
   19 江戸時代 戟・盛花器を持つ武神像     厚木市中荻野公所講中蔵
   20 明治31年 「社日祭悪神除萬民守護之尊像」 開成町延沢中庭講中蔵
   21 大正12年 「社日祭悪神除萬民守護之尊像」 横浜市都筑区大熊谷戸講中蔵
   22 年記載無 「榛名山満業大権現神系図」   城山町葉山島下河原講中蔵
   23 天保12年 題目「堅牢地神守」       厚木市下荻野中金井講中蔵
   24 大正14年 「地神祭」           町田市野津田町川島谷戸講中蔵

 以上の24幅の掛軸の他には、次の
   (1) 江戸時代 盛花器を持つ女神像       伊勢原市石田 森谷家蔵
   (2) 江戸時代 戟・盛花器を持つ武神像     藤沢市西俣野 御嶽神社蔵
   (3) 明治時代 戟・盛花器を持つ武神像     茅ヶ崎市芹沢 腰掛神社蔵の3点の版木が展示されている。

 今回、地神の掛軸と関係するものとして、3の掛軸を包んでいる布が展示されている。これは、紺地に「文政四辛巳 己巳需構中 埜津田村」と記していて、江戸時代に野津田に巳待が行われていたことを示す資料として貴重である。

 横浜市歴史博物館の「港北ニュータウン地域の暮らし」展では14幅、今回は24幅の地神の掛軸を一堂でみることができたのは、まことに幸運である。これらの掛軸を1幅1幅探して訪ねるのは、大変な労力を必要とする。
無論これ以外にも多くの地神掛軸が分布しているが、例えば、厚木市内の場合でも調査報告書に記載されたものでも12幅あるし、私のみた町田市成瀬や横須賀市根岸、あるいは秦野市渋沢・峠の掛軸などがある。今回の展示は、地神の掛軸の認識を新たにする機会である。(平10・1・22記)
相模の地神信仰講演会

 現在、町田市立博物館では「民具と生活」展が開催中である。この企画展の中に小展示室を使って町田と神奈川の地神掛軸が、地神塔のレプリカや版木などと共に展示されている。地神掛軸の中にかつて町田市つくし野でみた地天画像の掛軸や平成8年に横浜市歴史博物館(横浜市都筑区中川中央)で行われた「港北ニュータウン地域の暮らし」展の鍬と木槌を持つ地神画像の掛軸もみられる。

 平成10年2月8日(日曜日)は、この「民具と生活」展の地神掛軸展示に関連して、日本石仏協会顧問・松村雄介さんの「相模の地神信仰」の講演会が催された。電車の接続が悪くて講演の始まる10分間についた。多摩石仏の会の犬飼康祐さんや萩原清高さんの顔がみえ、庚申懇話会の清水長明さんの隣の席が空いていたので座る。その後に小花波平六さんが後ろの席につく。

 松村さんの講演は、午後2時に始まる。まず今回の企画展を担当された学芸員・畠山豊さんから、地神塔について町田市内には52基(内1基は所在不明)が分布しているという説明があってから、著書の『神奈川の石仏』(有隣堂)と『相模の石仏』(木耳社)を含めて講師の紹介が行われる。

 松村さんは、全国的にみられる大地の神格化(地母信仰)から話を進め、近世中期以降に生じた農業守護神としての地神信仰に及んだ。佛教では、地の神格化が地蔵菩薩で、これに対応して大空の神格化が虚空蔵菩薩である。各地では地神を個人が信仰していたが、17世紀の終わり頃に農村社会の変革が起こり、地神が作神信仰として集団(作神講)で信仰されるようにようになったとみている。

 地神が祀られるのは、春秋の社日である。社日とは、彼岸に最も近い戌の日をいう。貞享年間に中国の暦が日本で取り入れられて日本の暦が作られ、社日が表示された。この日は、畑から神が顔を出す日とされ、農休みの日となった。

 次いで各地の地神信仰にふれる。徳島では蜂須賀公が広め、後には農民がこれを受け入れて祀るようになった。群馬の地神は、オールマイティの作神ではなく、田の神にたいする畑の神としての分業的な神格がみらる。静岡西部では、地神が家毎に屋敷神として藁の祠が造られ、毎年の社日に更新される。

 個人の信仰が講集団で信仰されるようになって石造物(地神塔)が出現する。個人の石造物が全くなっかたわけではないが、集団の信仰によって多くの地神塔が造立された。

 地神信仰の概要の説明があった後、地神塔をビジュアル化してO・H・Pによってスクリーンに映写して解説される。以下、映写順に地神塔を紹介すると(空白箇所は不明)

    1 寛政3 女神像          大和市上和田1168 左馬神社
    2     「堅牢地神」
    3 明暦1 「妙法蓮華経 堅牢地神」 静岡県富士市
    4 元禄7 武神像          群馬県館林市堀工 茂林寺
    5 安永8 武神像          寒川町田畑1235 路傍
    6 文政13 武神像          藤沢市柄沢 柄沢神社
    7 天保3 武神像          藤沢市藤沢 白旗神社
    8 元禄4 武神像(牛に乗る)    山口県萩市土原三区
    9 元文5 土公神神像        南足柄市向田361 路傍
   10 昭和52 地天女神像        大分県下毛郡三光村上田口 神護寺
   11 天明6 五神名文字塔(六角柱)  小田原市上曽我900 諏訪神社
   12     五神名文字塔(五角柱)  大分市
   13 安政5 五神名文字塔(一面表示) 綾瀬市上土棚862 蓮光寺
   14     「地神」(自然石)    岡山県
   15     「堅牢地神」
   16     「地神社」
   17 年不明 「社稷神」        二宮町川匂
   18 天明8 「天社神」        中井町田中 路傍
   19 元治2 「天社神王」(自然石)  群馬県下仁田町下仁田 大日塚
   20 安政1 「南無天社神」(自然石) 小田原市小竹1660 八坂神社
   21 天保8 武神像          伊勢原市東富岡355 八坂神社
   22 文化6 「奉地神並庚申供養」   茅ヶ崎市赤羽根3222 西光寺

である。なお 3の塔については、溶岩を積んで造った塚の上に建つ風景を前後2枚の写真で示した。この塔の背後に富士山がみられる。 4の塔については、再度映写された。

 O・H・Pの映写の後で再び地神信仰にふれて、集団信仰の面を強調した。地神塔がないからといって、地神信仰がなったとはいえない点を指摘した。徳島では大江匡弼の影響を受けた蜂須賀公の働きかけで1780年に五神名塔が奨励され、農民側も新しい農業守護神を求めて地神信仰を受け入れた。千葉の佐倉藩では、五神名塔の分布がみられる。神奈川では、神礼寺などの修験の影響が強い。また、地神信仰に関連して妙見や霊符神、稲荷にもふれた。

 今回の講演では、これまで知られていたものより古い富士市の明暦元年塔がわかったのは収穫であった。以前から比べると地神塔や地神信仰の研究が進展しているが、まだまだ研究者の数が少なく、関心を持つ人たちも稀である。こうした地神掛軸展示や講演会が地神信仰に興味を抱かせ、研究が発展する機会になれば幸いである。
 末筆ながら今回の展示並びに講演会を企画された町田市立博物館、相模の地神信仰を講演された松村雄介さんに感謝申し上げたい。(平10・2・9記)
あ と が き
 地神塔と私の出会いは、先の「塔から見た地神信仰」でふれたように、「町田市野津田の綾部路傍にある庚申と地蔵と地神とを1基の塔に刻んだ文字塔を調査してからは、地神にも興味を感じて、つとめて地神塔もメモするようになった」と書いた通りである。庚申塔に関連して地神塔の調査を始めたわけである。もし多摩地方に庚申塔に地神の影響がなかったら、本書も誕生していなかった。
 そうした訳で、平成9年に庚申資料刊行会から刊行した『多摩庚申塔夜話』の1項目に地神信仰を取り上げたのも、これまで地神塔に関わりあったためである。その部分を引用すると

   地神信仰と庚申塔
    多摩地方における地神塔の分布は、町田市を中心にその周辺にみられる。立川市とあきる野
   市、檜原村にある各1基は例外的なものといえよう。地神講と交流があったことを示す庚申塔
   としては、次の2基が挙げられる。
      番・年 銘・西  暦・主  尊・塔 形・所    在    地・備  考・
      
      1・嘉永6・1853・(文字)・柱状型・町田市野津田町綾部  ・堅牢地神・
      
      2・慶応3・1867・(文字)・柱状型・多摩市東寺方 杉田家 ・地神塔 ・

1の嘉永6年塔は、柱状型の3面に「青面金剛」「堅牢地神」「地蔵薩〓」の主銘を刻む。
2の慶応3年塔は、正面に「庚申塔」、側面に「地神塔」とある。この2基の交流は、多摩地方の地神塔の分布と呼応した傾向といえる。である。先日、行われた町田市立博物館の講演でも、講師の松村雄介さんから茅ヶ崎市赤羽根・西光寺にある「奉地神並庚申供養」銘の文化6年塔を紹介されている。

 ここでは、これまで地神塔を中心に地神信仰について書いてきたものをまとめた。初めて地神塔をまとめたのは、昭和40年3月に私家版で発行した『三多摩の地神塔』である。次いで『ともしび』第6号(昭和42年刊)に発表した「三多摩の石塔」の中に、2基を追加して『三多摩の地神塔』を加筆・訂正を加えて収録した。本書では、この2編は収録しなかったが、その後に公表したものに未発表の3編を加えた。
 すでに発表したものついては、末尾に初出誌を示しておいたが、参考のために掲げると
   
   ・題 名            初 出 誌        刊 年
   塔から見た地神信仰  『多摩郷土研究』39号  昭和45年・
   多摩地方の地神塔   『多摩のあゆみ』16号  昭和54年・
   地 天 じてん      『日本石仏事典』     昭和50年・
   武蔵野の民間信仰と石仏・『武蔵野』59巻2号  ・昭和55年・
   地神塔の全国分布   ・『日本の石仏』21号  ・昭和57年・
   石仏研究の事例    ・『石仏研究ハンドブック』・昭和60年・
   地神講の掛軸     ・(未発表) 本書初収録 ・平成10年・
   地神の掛軸      ・(未発表) 本書初収録 ・平成10年・
   相模の地神信仰講演会 ・(未発表) 本書初収録 ・平成10年・
である。

 地神塔の調査は、刻像塔がきわめて少なく、文字塔が圧倒的に多いことと、分布に偏りがみられるので、道祖神や庚申塔に比べると地味で面白味に欠ける。地神講の調査も、現在では講が廃絶しているので、古老からの聞き取り調査もままならない。その上に地神信仰を調査研究されていた伊東重信さんが志半ばで若くして亡くなったので、地神塔・掛軸・版木を総合した充分な研究成果がなされなったのが残念である。そうした地神信仰調査の隘路があるので、少しでも地神に関して知っていただきたいのが本書をまとめた目的である。

 このところ、地神塔とはご無沙汰しているが、「地神塔の全国分布」を「石仏研究の事例」でフォローした後に、いろいろな調査報告書が各地で発行されている。一昨年の横浜市歴史博物館や今年の町田市立博物館で地神の掛軸を取り上げ、企画展が開催された。昨年の埼玉・本庄まつり見学では、思いがけず五神名塔に出会った。埼玉県の児玉地方に五神名塔が存在することは聞いていたから、本庄にあってもべつに不思議ではないけれども、偶然に地神塔をみつけたのも何かの縁があるからだろう。また、今年になって福島県郡山市の小林剛三さんから郡山地方の地神塔の報告を受けている。こうした見聞を活かして、私自身が停滞していた地神塔や地神信仰の調査を活性化しなければならないだろう。

 ともかく、これまで書いてきたものをこのよう形で1本にまとめてみると、私の地神信仰研究史になるし、地神を中心とする1分野の自分史にもなっている。本書が私にとって、これまでの地神信仰の調査・研究の1里塚となり、さらに新しいスタート台となることを願ってやまない。
                               
                               地 神 信 仰 雑 記
                               発行日 平成10年2月15日
                               著 者 石 川 博 司
                               発行者 と も し び 会
                               〒1980045青梅市青梅120
 
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